表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/32

06.花の街リリウム ここから

花の神殿を離れてから、しばらくの間は誰もあまり喋らなかった。


白い石の名残が途切れ、足元が土の道に変わっても、空気はまだ重いままだった。

風が吹くたび、花の香りだけが後ろから追いかけてくる。


その途中で、何度かネムリアがずり落ちそうになった。


ユキトは舌打ちまじりに肩を揺らして支える。


「……おい、落ちるな」


「すやぁ……」


「聞いてねえ」


山道を下る途中、ユキトはぶっきらぼうにヴォルカの手を取った。

そのまま反対側のフローラにも手を伸ばす。


「転ぶなよ」


半ば強引に引かれ、結果としてユキトは右手でフローラの手を引き、左手でヴォルカの手を引く形になっていた。

そして背中には、当然のようにネムリアがいる。


「すやぁ……」


寝ている。


完全に寝ている。


首がこてんとユキトの肩に乗っていた。


「重くないんですか……?」


おそるおそる、ヴォルカが聞く。


ユキトは前を向いたまま答えた。


「重い」


「でも今さら降ろしても歩かないだろ、こいつ」


「すやぁ……」


「反論もないしな」


フローラが小さく笑った。


「反論できる状態ではありませんね」


そのまましばらく歩く。


張り詰めていた空気は、少しずつほどけていった。


やがてフローラが、前方を見ながら静かに口を開く。


「この近くに町があります」


ユキトが目だけ向ける。


「町?」


「はい」


フローラは頷いた。


「花の街リリウム」


「神殿の近くにある町です」


「人の街ですが、比較的穏やかで平和な場所です」


ヴォルカが少し緊張したように目を伏せた。


「人間の街……」


フローラは続ける。


「今日は時期的に、ちょうど花祭りの日のはずです」


「花祭り?」


ユキトが聞き返す。


「年に一度、この地方で最も大きな祭りです」


「花で町を飾り、音楽を奏で、屋台を並べ、夜には花火も上がります」


ユキトは少しだけ考えてから、口元を緩めた。


「いいじゃん」


「じゃあそこ行くか」


ネムリアは背中でむにゃむにゃと口を動かした。


「おまつり……」


「甘いのある……?」


「寝ながら食い気出すな」


ユキトは呆れたように言ってから、軽く息を吐いた。


「じゃあ決まりだ」


「花の街リリウム、行ってみよう」


そう言って、少しだけ二人の手を握り直す。


ヴォルカはびくりとし、フローラはわずかに目を細めた。


そのまま道を進み、やがて遠くに町が見えた。


石造りの外壁。

その向こうに並ぶ白い建物。

屋根や窓辺、門や街路樹にまで、色とりどりの花が飾られている。


門の上には大きな花輪。


町の外にまで、楽しげな音楽の音がかすかに流れてきていた。


リリウム。


花の街。


近づくにつれて、人の気配が濃くなる。


ユキトは門の手前で足を止めた。


「よし」


三人を見る。


「ここから先は人間の領域だ」


ヴォルカとフローラが表情を引き締めた。


「角、なるべく隠せ」


「それと、おとなしくして、できるだけ目立たない」


フローラが静かに頷く。


「承知しました」


ヴォルカもこくこくと頷いた。


「が、頑張ります……!」


ネムリアはユキトの背中で、


「すやぁ……」


何一つ聞いていなかった。


ユキトはため息をつく。


「一番やばいのが無反応なんだよな……」


とはいえ、町に入った瞬間。


その目論見は即座に崩れた。


目立たない。


そんなものは無理だった。


ユキトの周囲には、息を呑むような美女が三人。

しかも一人は背負われて眠っている。


祭りの人混みの中でも、視線が嫌でも集まった。


「あれ見ろよ……」


「すごい美女……」


「真ん中の男、何者だ?」


「羨ましいとか通り越して腹立ってきたな……」


「三人!? 三人なのか!?」


ひそひそ声が飛ぶ。


ユキトは遠い目をした。


「……目立たないは無理だったな」


ヴォルカがしゅんとする。


「す、すみません……」


「いや、君が悪いわけじゃない」


ユキトは即答した。


「これはもう、そういうもんだ」


フローラが街を見回す。


道沿いには花飾りの屋台が並び、花冠や花束、香油や焼き菓子まで売られている。

楽団が広場で演奏し、子どもたちが花びらを投げてはしゃぎ回っていた。

夜に向けて、花火台の準備も進んでいる。


フローラは目を細める。


「綺麗ですね」


「神殿とはまた違う使い方です」


ヴォルカもまだ少し緊張した顔のまま屋台を見ていた。

けれど、並んだ花飾りや揺れる花々が目に入った瞬間、思わず小さな声が漏れる。


「……わあ」


ユキトはその反応を横目で見て、少しだけ笑った。


ネムリアは背中で鼻をひくつかせる。


「……いい匂い」


「甘いの……」


「寝言で屋台を察知するな」


ユキトはそのまま通りを見渡し、まず一つ頷いた。


「よし」


「最優先事項その一」


「金をどうにかする」


神殿で拾った金貨を指先で弾く。


きらりと光った。


「ジジイの金だ」


「これがどれくらいの価値あるのか知らんけど、たぶんすごいだろ」


ヴォルカとフローラが同時に金貨を見る。


沈黙。


ユキトは嫌な予感がした。


「……わかるやつ、いる?」


ヴォルカが申し訳なさそうに首を振る。


「私は、人間の通貨は……」


フローラも静かに答えた。


「神殿の外の経済には疎いですね」


ネムリアは


「すやぁ……」


論外だった。


ユキトは少しだけ空を見た。


「……誰もわかんねえのかよ」


そしてすぐに気を取り直す。


「まあいいや」


「換金所か両替商っぽいとこ行けば何とかなるだろ」


そうして四人は、祭りの賑わいの中を歩いていく。


やがて通りの一角に、古びた看板を見つけた。


両替・査定。


これだ。


ユキトは店に入り、カウンターに金貨を置いた。


店主は片眼鏡を上げ、金貨を手に取る。


その瞬間、目の色が変わった。


(お)


(これは当たりか?)


ユキトの胸が高鳴る。


(いくらだ)


(いくらになる)


(豪遊コースあるか?)


だが店主はすぐに無表情に戻り、いかにも興味なさそうに鼻を鳴らした。


「古いな」


「保存状態も微妙だ」


「祭りの日で忙しい。大した値はつかん」


ユキトは内心首を傾げた。


(そういうもんか?)


店主は電卓も何もない世界らしい手慣れた計算をし、金額を告げた。


ユキトは一瞬考え、三人を見る。


「……どう?」


三人は揃って首を傾げた。


誰も相場がわからない。


ユキトは数秒悩んだあと、あっさり頷いた。


「まあいいや」


「交換で」


店主は無表情のまま金を受け取り、通貨を差し出した。


外に出たあと、ユキトは渡された袋の中身を見て軽く笑った。


「思ったより多いのか少ないのかすら分からん」


「でも金は金だ」


実際には。


金貨の本来価値の百分の一で買いたたかれていた。


もしジジイがそれを知っていたら。


たぶんその場で卒倒していた。


「で、次」


ユキトは指を一本立てる。


「人間社会に溶け込む服だ」


ヴォルカが自分の服を見下ろした。


「この服では……だめでしょうか」


「だめではないけど」


ユキトは正直に言う。


「存在感が強い」


フローラも頷いた。


「現地基準に合わせた方が良いでしょうね」


「でも俺には分からん」


ユキトはきっぱり言った。


「なので、そこは任せる」


「現地の店員さんのセンスに全振りだ」


「ひどい丸投げですね」


「専門家を信じるのは大事だぞ」


そうして入った服飾店で、案の定また視線が集まった。


店員が最初に固まったのは仕方ない。


祭りの日に、美女三人を連れた青年が入ってきたのだから。

しかも一人背負っている。


「……本日は、どのようなご用件で?」


「目立たない服、ください」


ユキトは即答した。


数分後。


店員たちは明らかにやる気を出していた。


ヴォルカには、柔らかい色合いで角を隠しやすいフード付きの上品な服。

フローラには、白と薄桃を基調にした落ち着いたドレス風の衣装。

ネムリアには――


「寝やすそうな服ですね」


「その評価でいいのか?」


それでも今までよりは、かなり人の街に馴染んだ格好になった。


ユキトは満足げに頷く。


「よし」


「次」


そこで彼は真顔になった。


「一番重要なことを忘れてた」


ヴォルカとフローラがきょとんとする。


「?」


ユキトは背中のネムリアを親指で示した。


「こいつを安定して運ぶ手段だ」


「……」


「……」


ネムリアは寝ている。


寝たまま時々左右に傾く。


さっきから何度も落ちそうになって、そのたびにユキトが肩を上げて支えていた。


「このままだと落とす」


ユキトは断言した。


「というわけで」


「おんぶ紐を買う」


ヴォルカが目を丸くする。


「お、おんぶ紐……」


フローラは納得したように頷いた。


「合理的ですね」


「だろ?」


ユキトは胸を張る。


ネムリアがうっすら目を開けた。


「……ん」


「え……」


「縛るの……?」


「落とさないようにするだけだよ」


「すやぁ……」


納得したのかしてないのか、そのまままた寝た。


こうしておんぶ紐まで購入し、ようやく一息ついたところで。


ユキトたちは祭りの中心へ足を向けた。


最初に足を止めたのは、花冠の屋台だった。


色とりどりの花を編み込んだ輪が、ずらりと並んでいる。

白、桃、青、黄。

小さな花びらが風に揺れて、甘い香りがふわりと漂った。


ヴォルカはまだ少し緊張した顔のまま、その屋台を見ていた。

けれど並んだ花冠が目に入った瞬間、思わず小さな声が漏れる。


「……わあ」


その反応があまりに素直で、ユキトは少し笑った。


「気になるか?」


「い、いえ、その……」


気になっている顔だった。


フローラが静かに花冠を見つめる。


「綺麗ですね」


「神殿とは違って、ずいぶん華やかに使うのですね」


「なるほど。こっちは完全にオシャレ枠か」


ネムリアは背中で、うとうとしながら呟く。


「たべものじゃない……」


「そこ基準なのかよ」


屋台の女店主が、四人を見てにこやかに笑った。


「お兄さん、彼女さんたちにどうだい?」


「彼女」


その単語に、ヴォルカの肩が跳ねた。


「か、彼女!?」


フローラは小さく目を細める。


「なるほど。人間社会ではそのように見えるのですね」


「見えるっていうか、まあ、そう見えるだろうな……」


ユキトは軽く咳払いして、並んだ花冠を見た。


「じゃあ、似合いそうなの三つ」


「三つ!?」


「祭りなんだから、こういうのは雰囲気だろ」


結局、ヴォルカには赤と黒を基調にした可憐な花冠。

フローラには白百合と薄桃色の花を編み込んだ上品なもの。

ネムリアには青い小花がちりばめられた柔らかな輪が選ばれた。


背中で眠ったままのネムリアの頭に、そっと花冠を乗せる。


「……似合うな」


「すやぁ……」


無反応だった。


ヴォルカはおそるおそる自分の花冠に触れる。


「わ、私なんかに、こんな綺麗なもの……」


「何言ってんだ」


ユキトは即答した。


「花が仕事してんのもあるけど、普通に似合ってるだろ」


ヴォルカの顔が一気に赤くなる。


「~~っ」


フローラはその横で、店主に鏡を借りて自分の姿を見ていた。

少しだけ驚いたように瞬きをして、それから淡く微笑む。


「……本当ですね」


「何が?」


「こういうものは、悪くありません」


その笑みを見た店主が、胸を押さえていた。


次は、甘い匂いに引き寄せられるように菓子屋台へ向かった。


花蜜を練り込んだ焼き菓子。

砂糖をまぶした花びら型の揚げ菓子。

果実水を冷やした飲み物まである。


ネムリアが背中でむくりと起きた。


「……甘いの」


「起きた」


「食べる……」


「食い意地すごいな」


「眠いけど食べる……」


結局、四人で花蜜の焼き菓子を分けることになった。


ヴォルカは一口食べて、目を丸くした。


「お、おいしい……!」


フローラも上品に口に運ぶ。


「優しい味ですね」


ネムリアは半分寝たまま、もぐもぐ食べていた。


「……しあわせ」


「一番満喫してるなこいつ」


その後も、四人は祭りの中を歩いた。


花びらを投げ合う子どもたちのそばを通り、楽師たちの奏でる軽やかな音楽に耳を傾け、屋台の串焼きや果実飴を見て回る。

ユキトは盛り上げ役に徹していた。


「ほらヴォルカ、あれやってみるか」


「え、えっ?」


指さした先には、小さな輪を投げて景品を取る遊び屋台。


「む、無理です……!」


「大丈夫だって。失敗しても死なない」


「基準が怖いです!」


フローラが小さく笑った。


「……随分と、ためらいなく勧めるのですね」


「祭りなんだから勢いが大事なんだよ」


フローラはわずかに首を傾げた。


「人間は、こういう場では多少強引なくらいが普通なのですか?」


「いや、たぶん普通ではない」


結局、ヴォルカはおずおずと輪を投げ、見事に外した。


「あっ……」


「まあ初見だし」


「すみません……」


「なんで謝るんだよ」


そう言ってユキトが代わりに投げると、景品の小さな鈴付きの飾りが一つ落ちた。


「お」


店番の老人が「持ってけ」と顎で示す。


ユキトはそれを拾い上げると、少しだけ見てからヴォルカへ差し出した。


「ほら」


ヴォルカが目を瞬かせる。


「……え、私ですか?」


「お前がやってたやつだろ」


「でも、取ったのはユキトさんで……」


「細けえこと気にすんな」


ぶっきらぼうに言う。


ヴォルカはおそるおそる受け取った。


赤い紐に、小さな銀色の鈴がついている。

揺らすと、ちり、と控えめな音が鳴った。


「……きれい」


小さく呟く。


その声があまりに嬉しそうで、ユキトは少しだけ視線を逸らした。


「すごいです、ユキトさん……!」


「いやまあ、こういうのはセンスあるから」


「たまたまです」


フローラの冷静な一言に、ユキトがうっと詰まる。


ネムリアは背中の上から鈴の音だけ聞いて、うっすら目を開けた。


「……しゃらしゃら」


「お前は寝てろ」


「すやぁ……」


再び寝始めた。


祭りはにぎやかだった。


花に囲まれた広場で、誰かが笑っている。

どこかで笛の音が鳴っている。

遠くでは花火の準備が進められていて、夜が近づくにつれて人の流れは中央広場の方へ集まり始めていた。


その賑わいの中で、ユキトは何度も思った。


ちゃんと生きている、と。


泣いて、笑って、食べて、驚いて、怯えて、また笑う。


この町も。

この人たちも。

そして隣にいる三人も。


ゲームの背景じゃない。

イベントの駒でもない。


生きている。


その事実が、祭りの喧騒の中でやけに胸に残った。


やがて夜になり、広場の明かりが少し落とされた。


誰かが声を上げる。


「始まるぞ!」


人々が空を見上げた。


ユキトたちも足を止める。


次の瞬間。


ドォン――


腹に響く大きな音とともに、夜空に一輪の花が咲いた。


赤。


続いて青。


白。


金。


次々と広がる光が、夜の空を埋め尽くしていく。


ヴォルカは言葉を失っていた。


瞳に花火の光が映る。


大きく開いた赤い目が、子どものようにまっすぐ空を見つめていた。


フローラは胸の前で手を組み、静かに呟く。


「綺麗ですね……」


ネムリアは珍しく寝落ちせず、ぼんやりと空を見上げている。


「……音、大きい」


「そこかよ」


ユキトは笑って、それから空を見上げた。


夜空に咲いては消える光。


ジジイが消えたのも、こんなふうな光だったなと、ふとそんなことを思った。


一瞬だけ胸が痛む。


けれど今は、空を見上げるしかない。


隣に、三人がいるから。


「ユキトさん」


ヴォルカが小さく呼んだ。


「ん?」


「……ありがとうございます」


ユキトは少しだけ目を丸くする。


「急にどうした」


「その……」


ヴォルカは花火から目を離さないまま、言った。


「今日、連れてきてくれて」


フローラも静かに続けた。


「私たちは、人間に救われたのかもしれませんね」


その言葉には、妙な重みがあった。


竜として無意識に抱いていたもの。

人を下に見るような、遠い感覚。

それが少しずつ崩れていく響きだった。


ヴォルカが小さく頷く。


「結果的に……そう、なります」


ネムリアは、


「……きれい」


とだけ呟いた。


それからまた少し眠そうに目を細める。


花火が終わる。


人々の歓声と拍手が広がる。


夜空に残る薄い煙を見上げながら、ユキトはぽつりと言った。


「……よし」


三人が見る。


ユキトははっきりと言った。


「今夜から野宿やめる」


ヴォルカが瞬きをする。


「え?」


「今まではまあ、それが普通だったし、そういうもんだと思ってたけど」


ユキトは頭をかく。


「もうやめる」


「ちゃんと、人として暮らす」


静かな言葉だった。


けれど、どこか決意があった。


フローラがそっと微笑む。


「良いと思います」


ヴォルカも戸惑いながら頷いた。


「で、でも……お金は……」


「ある」


ユキトは言った。


「ほぼ全部使う」


「全部!?」


「こういう日はケチる気分じゃねえ」


「ケジメだよ」


その一言で、ヴォルカは口を閉じた。


祭りの夜で宿はどこも混んでいたが、金を積めば話は別だった。


案内されたのは、町で一番高い宿の、露天風呂付きの大部屋だった。


扉を開けた瞬間、三人の反応が止まった。


広い。


畳のような敷物。

ふかふかの寝台。

大きな窓。

奥には露天風呂へ繋がる戸。


「……」


「……」


「……」


ネムリアは背中から降ろされた瞬間、そのまま寝台に顔から突っ込んだ。


「やわらか……」


「起きろ」


ヴォルカは明らかに落ち着かない。


「ほ、本当にここでいいんですか……?」


「高すぎるのでは……」


フローラも珍しく少しだけ遠慮がちだった。


「正直、私もそう思います」


「だよな」


ユキトは頷いた。


「でもいいんだよ」


荷物を下ろしながら言う。


「こういうのはケジメだ」


「明日から俺は仕事を始める」


その言葉に、二人が顔を上げる。


ユキトは続けた。


「手伝ってほしい」


命令ではなかった。


頼みだった。


だからこそ、重かった。


ヴォルカは真っ先に頭を下げた。


「もちろんです……!」


フローラも静かに頷く。


「喜んで」


ネムリアは寝台に顔を埋めたまま、片手だけ上げた。


「……たぶん」


「信用ならねえ返事だな」


それでも、三人はすぐにはしゃぎ始めた。


ヴォルカは窓際まで行って景色を見ている。


「すごい……町が見えます……!」


フローラは部屋の調度を興味深そうに見て回る。


「人の宿というのは、ここまで整っているのですね」


ネムリアは寝台の上でごろごろ転がっていた。


「ここ住む……」


「一泊だよ」


ユキトはその様子を見て、少しだけ笑った。


「風呂、あるぞ」


その一言で、三人の視線が奥へ向く。


露天風呂。


祭りの夜風が入り込む、開けた湯船。


ヴォルカが戸惑う。


「え……で、でも……」


ユキトはひらひらと手を振った。


「俺は覗いたりしないから、三人で入ってこい」


ヴォルカの顔が赤くなる。


「の、覗かないって、わざわざ言わなくても……!」


「言っとかないと警戒されるだろ」


フローラが小さく笑った。


「そこは配慮なのですね」


「そういうこと」


それからネムリアを見た。


「寝てるやつが溺れないようにだけ注意な」


ネムリアはもう半分寝ていた。


「……おふろで寝る……」


「絶対だめだ」


三人が風呂へ向かったあと、部屋は急に静かになった。


祭りの音が遠くに聞こえる。


笑い声。

音楽。

花火の名残のざわめき。


ユキトは一人、部屋の中央に座った。


そして。


目の前に、見慣れたものが浮かぶ。


半透明のウィンドウ。


淡く光る文字。


『竜帝の裁定イベント クリア報酬を受け取りますか?』


選択肢は一つしかない。


【受け取る】


ユキトは、しばらく黙ってそれを見ていた。


少し前までなら、迷わなかったかもしれない。


報酬。

強化。

イベントクリア。

次のフラグ。


そういうものとして受け取っていた。


でも今は違う。


この世界はゲームじゃない。


そう思ってしまった。


笑ってる奴がいて、泣いてる奴がいて、死んでいく奴がいて、救われる奴がいる。


それを「イベント」でまとめたくなかった。


しかも、こういうものは大抵ろくでもない。


報酬を受け取れば、たぶんまた新しい何かが始まる。

厄介ごとが来る。

面倒なイベントが舞い込む。


ユキトは深く息を吐いた。


「……めんどい」


それが本音だった。


指を伸ばす。


そして――


やめた。


放置する。


ウィンドウの光が弱まる。


「もう触らない」


誰に言うでもなく、そう呟いた。


それから、膝に肘を乗せて考える。


明日から仕事を始める。


生活するために。

四人で生きるために。


だったら、道は一つだ。


冒険者。


それは、この世界に来てからずっと憧れていたものだった。


夢みたいな響きだった。


だが現実は笑えるほど厳しい。


戦闘力1。


この数字で何をする。


今までは、ヴォルカに守ってもらうだけで事が済んだ。

フローラはこれから。

ネムリアは寝ているだけ。


……最後のやつはともかく。


でも、それでいいのか。


あいつらを前に立たせて、自分は後ろから見ているだけ。


それがどうしても気に入らなかった。


竜帝の前で立ったくせに。

今さら後ろにいるのは、違う。


「だったら」


ユキトは小さく呟く。


「覚悟決めるしかないな」


その時だった。


戸の向こうで足音がした。


一人分。


ユキトは顔を上げる。


現れたのはフローラだった。


湯上がりの髪から、まだ少しだけ湯気が立っている。

頬がほんのり赤い。

けれど表情は穏やかだった。


「起きていると思いました」


「まあな」


フローラはユキトの向かいに静かに座る。


「何か、考え事ですか?」


ユキトは少しだけ間を置いた。


それから笑う。


いつもの軽い笑いではない。

少しだけ、真面目な顔だった。


「ああ」


「ちょっと相談したいことがある」


フローラはまっすぐにユキトを見た。


「聞かせてください」


祭りの音が、遠くで鳴っている。


夜は、まだ終わらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ