表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/35

05.竜帝の裁定

その時だった。


ユキトの頭の中に、ひどく久しぶりに聞く機械じみた声が響いた。


『――世界影響存在、三体の封印解除を確認』


『条件達成』


『竜帝の裁定イベントを開始します』


「イベント……?」


ユキトが呟いた瞬間、手にしていた探知の鍵に亀裂が走った。


ぱきん、と乾いた音。


次の瞬間、鍵は細かな破片となって砕け散る。


「え?」


その声が終わるより早く――空が、割れた。


ゴォォォォォォォォ……!!


雲が裂ける。

空間そのものが軋み、世界が震える。


あまりにも巨大な影が、ゆっくりと降りてくる。


竜の翼。

王の威圧。

絶対者の気配。


ただ姿を見せただけで、この場の理そのものが塗り替わったようだった。


竜帝。


老人は空を見上げたまま、顔を引きつらせた。


「な、なんじゃ……空が……」


その姿を視界に捉えた途端、喉の奥から怯えた声が漏れる。


「ひ、ひぃ……!!」


ヴォルカは息を呑んだ。


「……竜帝」


フローラは黙って空を見上げていた。

その表情は強張っている。だが、ヴォルカのように名を呼ぶことはしなかった。


背中のネムリアだけが、何も知らないように寝息を立てていた。


「すやぁ……」


ユキトはそんな圧倒的な存在を前にしてなお、空を見上げたまま呟いた。


「ボスイベントか……?」


少し考えて、顔をしかめる。


「もしかして、この三人より強い?」


フローラが短く答えた。


「……比べる相手ではありません」


その声は静かだった。

だが、普段見せる穏やかさとは違う、硬い緊張が混じっていた。


「竜帝は、竜を裁く側の存在です。同じ竜である私たちでは、傷一つつけられません」


フローラの視線が、ユキトと老人へ流れる。


前にいるのは、見るからに弱そうな男。

その隣には、今にも倒れそうな老人。


ほんの一瞬だけ測る。


そして何も言わずに視線を戻した。


無理だ。


ユキトが横目で見る。


「裁く側?」


「世界の均衡を崩すものを裁く存在です」


そこでようやく、ユキトの顔から少しだけ血の気が引いた。


「……竜三体解放した俺、やばくね?」


返事はなかった。


代わりに、あまりにも重い沈黙が落ちた。


老人が青ざめた顔のまま小さく言う。


「その“やばい”で済む話ではなさそうじゃぞ……」


ユキトはごくりと喉を鳴らした。


その時、上空から声が降った。


「図が高いぞ、人間」


その一声だけで、大地が重く沈んだ。


老人がびくりと肩を跳ねさせる。


「わ、わし!?」


ユキトも反射で一歩下がりかけた。

が、次の瞬間には真顔で老人の肩を掴んでいた。


「ほらジジイ、呼ばれてるぞ」


「なにが“ほら”じゃ!?」


「いやだって、どう見ても年長者から行く流れだろこういうの」


「そんな礼儀作法があってたまるか!」


ユキトは老人をじわじわ前へ押し出そうとする。


「大丈夫大丈夫。こういう偉そうなの、まず老人と話したがるから」


「お前が勝手に決めるな! しかも押すな!」


「いや俺ほら、若手だから。こういう場の代表はベテランが――」


「自分だけ助かろうとするな馬鹿者!!」


竜帝はその一連のやり取りを、ただ静かに見下ろしていた。


やがて、風が止む。


空気が凍りついたような静寂の中で、竜帝はゆっくり口を開いた。


「……なるほど」


その声は低く、静かで、そして底知れず冷たかった。


「くだらん茶番だ」


黄金の瞳が、ユキトを射抜く。


「しかし……三柱の竜を従えた人間か」


ヴォルカが小さく首を振る。


「従ってません……」


フローラは何も言わない。


竜帝の瞳が、ゆっくりとユキトを捉えた。


ただ見られただけだった。

それなのに、何かを見透かされたような錯覚が走る。


ユキトは一瞬だけ動揺した。


(くっ……俺が人間だとバレている……!)


老人は呆れたように言った。


「お前は最初から人間じゃ」


ユキトは慌てて胸を張った。


「い、いや、竜帝様! よく見てください!」


自分のステータスをびしりと指差す。


ユキト

戦闘力:1


「戦闘力が一の人間なんて、いるわけないでしょう!?」


老人が即座に返す。


「子供がそのまま大人になったようなものじゃ。見たことはないが、ありえなくはない」


ユキトは力強く言い切った。


「つまり!」


自分をびしりと指差す。


「私も竜なのです!!」


沈黙。


空気が凍りつく。


ヴォルカが思わず声を上げた。


「ええ!?」


フローラは呆れたように目を細めた。

この男は本当に何を言っているのだろう、という顔だった。


老人は天を仰いだ。


「もう知らん」


ネムリアは変わらず。


「すやぁ……」


竜帝はしばらくユキトを見つめていた。


黄金の瞳が細くなる。


空気がさらに重く沈んだ。


そして、冷え切った声が落ちた。


「そんなつまらん誤魔化しが通用すると思うな」


ユキトの表情が引きつる。


「え」


竜帝の瞳がわずかに光る。


「貴様は人間だ」


「それも――」


一拍。


「愚かで、弱く、無価値な」


「ただの人間だ」


「ちょっと待ってください、言い方!!」


だが竜帝は意に介さない。


その視線がヴォルカたちへ落ちる。


「しかし、三柱の竜がその人間の後ろにいる」


ヴォルカは息を呑んだ。


フローラは静かに視線を返した。


ネムリアだけが何も変わらず、背中で穏やかな寝息を続けている。


「普通なら」


竜帝の声が、世界の法を告げるように響く。


「世界が滅びてもおかしくない災厄だ」


老人が低く答えた。


「……事実じゃな」


竜帝はゆっくりと言った。


「聞こう」


「なぜ竜を解放した」


空気が張り詰める。


ヴォルカは拳を握る。


老人は目を閉じた。

頼むからまともに答えろ、と顔に書いてあった。


竜帝の瞳が鋭く光る。


「答えろ」


威圧。


重力のような圧力がその場に落ちる。

普通の人間なら、その場で膝をついてもおかしくはなかった。


けれどユキトは頭をかいた。


「えーとですね」


嫌な予感しかしない沈黙のあと。


「爆乳ドラゴン娘が封印されてるって聞いて」


ヴォルカが息を止めた。


「ユキトさん……!?」


老人の叫びが響く。


「馬鹿者おおおお!!」


ユキトは止まらなかった。


「ほら、男としてこれは見逃せないというか」


竜帝の瞳から温度が消える。


「……」


「もう一度聞く」


「なぜ竜を解放した」


ユキトは堂々と言い切った。


「だから爆乳」


短い沈黙。


そして竜帝は、感情のない声で言った。


「愚か」


「危険」


「無価値」


それだけだった。


だが、その三語だけで、空気は完全に凍りついた。


黄金の瞳が、ヴォルカ、フローラ、ネムリアを一度に見渡す。


「力ある竜が、人間の後ろに立つか」


静かな声だった。


だが、その静けさこそが冷たかった。


「恥を知れ」


ヴォルカの肩がびくりと震える。

フローラの目も細くなる。


竜帝はわずかに目を細めた。


「……わかりやすく言ってやる」


その一言だけで、空気がさらに重くなる。


「お前たちは、もはや竜ではない」


「この男を飾るアクセサリーでしかない」


ヴォルカが息を呑む。


その言葉は、理屈より深く刺さった。


竜帝の視線が三人をまとめて貫く。


「人間に庇われ、後ろに並び、それで誇りがあるつもりか」


「見苦しい」


最後に、ネムリアへ冷たい視線だけが落ちる。


何も言わない。


それが、余計に冷たかった。


言葉にする価値すらない。

そう告げられたようだった。


ヴォルカは前に出ようとした。


だが、足が震えた。


格が違う。

力が違う。

理そのものが違う。


その震えだけで、身体が言うことをきかなかった。


その瞬間だった。


ユキトが動いた。


一歩、前へ。


ヴォルカたちを庇うように、その前に立つ。


「ユキトさん……?」


振り返らないまま、ユキトは竜帝を見上げた。


そして、静かに言う。


「それなら」


ほんの少しだけ肩をすくめる。


「俺を殺してください」


竜帝の瞳が細くなる。


「……理由は」


ユキトは軽く笑った。


「契約ですよ」


「俺が死ねば、契約は無効になるはずだ」


ヴォルカの瞳が大きく揺れた。


「だから、こいつらは関係ない」


「責任は俺です」


一瞬だけ、沈黙が落ちる。


竜帝が返したのは、あまりにも冷たい言葉だった。


「本来ならば」


「愚かな人間一匹を断てば済んだ」


「だが、遅い」


ユキトの喉が詰まる。


竜帝の声は、どこまでも揺るがない。


「貴様の愚かさに、三柱の竜が連なった」


「それが罪だ」


「もはや一匹の愚行ではない」


「竜の堕落まで招いた愚行だ」


そして、最後の判決が落ちる。


「よって判決を言い渡す」


「人間――貴様は、己の欲望で竜を解き放ち、世界の均衡を乱した」


「竜――貴様らは、誇りを捨てて人間に連なり、自ら断たれる側へ堕ちた」


「全員、死ね」


「人間の愚かさに連なった責として」


「竜の誇りを捨てた責として」


「二度と目にしたくもない」


そこには、情も、再考も、なかった。


ただ、決まった判決だけがあった。


ユキトの顔から、笑いが消えた。


自分のせいで全員死ぬ。


その現実が、ようやく正面から胸に落ちた。


その時だった。


老人の声が響いた。


「いや」


空気がわずかに揺れる。


竜帝の瞳が、怒りを帯びて老人を見た。


「……老いぼれ」


「調子に乗るな」


「ただの人間風情が」


次の瞬間だった。


老人の背筋が、ゆっくりと伸びる。


曲がっていたはずの背が伸び、痩せ衰えた身体に別の気配が宿る。


どくん、と空気が脈打った。


凄まじい魔力が溢れ出す。


竜帝の瞳が、わずかに開いた。


老人が笑う。


「久しぶりじゃの」


「竜帝」


ユキトが目を見開く。


「え?」


ヴォルカも言葉を失った。


フローラの目が、初めて明確に見開かれる。


老人は静かに言う。


「今度こそ、けりをつけるぞ」


竜帝の瞳が、わずかに細くなる。


「……誰だ?」


その一言は、驚くほど淡々としていた。


老人の笑みが、ほんのわずかに苦くなる。


「そうじゃろうな」


「お前にとっては、その程度じゃ」


それでも声は揺れなかった。


「この世界には、均衡を保つために裁く者がおる」


その声は、先ほどまでの軽さを失っていた。


「竜にとって竜帝がそうであるように、人にとっては勇者がそうじゃ」


「どちらも同じ裁定者」


「だが――何を残し、何を断つべきか。その答えは同じではない」


老人はユキトを一瞥する。


「ワシは勇者じゃ」


「……は?」


ユキトの口から間の抜けた声が漏れる。


「勇者???」


「ワシもまた、裁定を下す側じゃ」


ユキトの表情が強張る。


違う。

助けに来たのではない。

この老人もまた、竜帝とは別の側から“見る者”なのだと分かった。


老人――勇者は、竜帝ではなくユキトを見た。


「ワシはこの人間を見てきた」


「いや、ストーカーかよ」


ユキトが反射で突っ込む。


だが勇者は無視した。


「この男は、エルフを二度埋めた」


「事故だ!!」


「罠の確認にワシを突き飛ばした」


「合理的判断だろ!?」


「今回もくだらない茶番を演じた」


「悪かったな!!」


「愚かで」


「馬鹿で」


「欲望に忠実で」


「ろくでもない」


「評価が終始ひどいな」


勇者はそこで言葉を切った。


空気が変わる。


先ほどまでの軽口とは違う、重い沈黙だった。


「だが」


その一言に、全員の意識が向く。


「本当に越えてはならん線だけは、最後に踏み越えん」


ユキトの顔が一瞬だけ引きつった。


「おい、余計なこと言うな」


反射みたいな声だった。


ヴォルカが、ほんのわずかに眉を寄せる。


フローラは一瞬だけ、怪訝そうに目を細めた。


勇者は構わず続けた。


「竜を玩具として見る人間ではない」


「自分が死ねば終わると思えば、迷わず前に出る程度にはな」


勇者は静かに告げた。


「ゆえに、裁定する」


ユキトの喉がごくりと鳴る。


「この男は毒にもなる」


「世界を乱す」


「関わった者を振り回す」


「おい」


「放っておけば、ろくでもない方向へ転がる」


「おい」


「しかし――」


その一言で、空気が変わった。


「それでもなお、この世界を希望に変える可能性がある」


「ゆえに、薬だ」


沈黙。


ユキトは言葉を失った。


褒められているのか貶されているのか、最後までよく分からない裁定だった。

だが、少なくとも切り捨てられはしなかった。


竜帝の瞳が光る。


「……ならば、なおさら危険だ」


その声に、殺意が宿る。


「理を乱す芽は、摘むべきだ」

竜帝は一切揺るがぬ声で、言い切った。

「それにお前の裁定など、私には関係ない」


黄金の瞳が、勇者を射抜く。


「貴様ともども殺してくれる」


勇者は笑った。


だが、その笑いには先ほどまでの飄々とした軽さはなかった。


そこでユキトは、ようやく悟る。


勇者は竜帝と対になる存在ではある。

だが――

勇者自身も凄まじい。

それでも、竜帝はそれ以上だった。

初めから勝負にならない差が、張り詰めた空気だけで嫌というほど分かった。

だからこそ、ユキトには分からなかった。

この勇者が、いったい何をするつもりなのか。


竜帝が低く告げる。


「力の差を思い知れ、人間の裁定者よ」


次の瞬間だった。


竜帝の巨体が、消えたように間合いを潰す。


振り上げられた拳を見た瞬間、ユキトは理解した。


当たれば終わる。


勇者は動かない。


その身体が光に包まれる。


巨大な魔法陣が空に展開する。


「封印じゃ」


振り下ろされるはずだった拳は、空中で止まった。


術式が、竜帝そのものを縫い止めていた。


「貴様……!」


勇者が笑う。


「ワシの最後の仕事じゃ」


ほんの一拍、そこで言葉を切る。


「……いや、ちょうどよいか」


その声は不思議なほど静かだった。


「ワシも、そろそろ限界じゃ」


勇者は竜帝を見た。


「昔、一度だけ、お前の裁定を前に何もできなんだ」


「その時に守れなんだものもある」


「折れたものもある」


勇者の声は淡々としていた。

恨みを吐く声ではない。

ただ、長く抱えてきた事実を置くような声だった。


「じゃが、こちらは忘れておらん」


勇者の声は静かだった。


「昔のけりもある。ここで終わらせるぞ」


光が世界を覆う。


ユキトが叫んだ。


「おい、ジジイ!!」


勇者が振り返る。


その顔は、いつもの軽口を叩く老学者ではなかった。


少しだけ優しい、どこか満足したような顔だった。


「ユキト」


「ワシはお前を信じる」


その言葉が、胸に落ちる。


勇者は続けた。


「次の勇者も、もう育っておる」


「まだ先はある」


その言葉を最後に、光が弾けた。


そして――


勇者と竜帝は、封印された。


残った光はなおも収まらない。


空そのものを焼くような白光が魔法陣の中心から噴き上がり、周囲の空間をきしませる。


老人の姿が、その中心で崩れ始める。


「……っ」


最初に気づいたのはフローラだった。

光の中にあるはずの輪郭が、封じる側のそれまで削っている。


ユキトも息を呑む。


「おい……」


勇者の身体が、足元から少しずつほどけていく。


消えているのではない。

持っていかれている。


封印の楔として、存在そのものを削られているのだと、見ているだけで分かった。


「おい、ジジイ……!」


勇者はもう振り返らない。


ただ、口元だけがわずかに笑っていた。


竜帝が光の中で低く唸る。


「ふざけるな……!」


その巨体すら、巨大な術式に縫い止められていた。


勇者の輪郭がさらに薄くなる。


肩が消える。

腕がほどける。

胸元が光に食われる。


それでも最後まで、倒れない。


まるで、自分が消えることなど最初から織り込み済みだと言わんばかりに。


ユキトの喉が詰まる。


「やめろ、ジジイ!」


止められるはずもない。

そんなことは分かっている。


それでも、叫ばずにはいられなかった。


勇者は答えない。


ただ一度だけ、ほんのわずかに目を細めた。


次の瞬間、光がさらに膨れ上がる。


竜帝の咆哮が世界を震わせた。


だが、それすらも魔法陣の奥へ引きずり込まれていく。


勇者の身体は、ついに胸から上まで消えていた。


それでも最後まで、崩れなかった。


最後に残った顔が、ふっと笑う。


どこか満足したような。

全部押しつけていくくせに、やけに穏やかな顔だった。


そして――


老人は、死んだ。


光の中に、跡形もなく溶けるように。


直後、巨大な魔法陣が収束する。


竜帝の姿も、その中心ごと引きずり込まれ、空の裂け目ごと閉じていった。


轟音が消える。

圧力が消える。

空を覆っていた異様な気配が、嘘みたいに消えていく。


残されたのは、静寂だけだ。


風が吹く。


花弁が揺れる。


白い石で組まれた神殿跡のあちこちに、柔らかな色の花が咲いていた。

ついさっきまで竜帝が降り立ち、世界そのものが軋んでいた場所とは思えないほど、静かだった。


遠くで鳥の鳴く声がした。


場違いなほど普通の音だった。


ユキトは、しばらく動かなかった。


見上げた先には、もう何もいない。


竜帝も。

勇者も。

あの、胡散臭くて、面倒で、勝手で、最後まで人の話を聞かない老人も。


いない。


「……」


喉の奥が、妙に乾いていた。


自分でも、何を言えばいいのかわからない。


笑えばいいのか。

怒ればいいのか。

文句を言えばいいのか。

助かった、と言えばいいのか。


どれも違う気がした。


背後で、ヴォルカが小さく息を吸う音がした。


「……死んだ、んですか」


その声は震えていた。


ユキトは振り返らない。


「たぶんな」


短く答える。


それ以上の言葉は、出てこなかった。


フローラは少し離れた位置で、その光景を静かに見ていた。


表情は穏やかだ。

だが、感情まで穏やかなわけではない。


正直に言えば、まだ整理がついていない。


目の前で起こったことが大きすぎた。


竜帝の降臨。

老人の正体。

封印。

死。

そして、その全部の中心にいたこの人間。


出会ったばかりの男だ。

軽薄で、欲望に忠実で、状況が状況でなければ一発殴っていたかもしれない。

詐欺みたいなものに引っかかった気さえしている。


それでも。


フローラの視線は、ユキトの背中に落ちる。


自分が死ねば契約が切れると考えて、迷わず前に出た。


それは事実だ。


それをどう解釈するかは、まだ決められない。


優しさなのか。

責任感なのか。

ただの無茶なのか。

格好つけなのか。


けれど、あれが偽りでなかったことだけはわかる。


「……変な人ですね」


小さく、誰に聞かせるでもなく呟く。


ユキトには聞こえていなかった。


ネムリアが背中でもぞりと動いた。


「……ん」


薄く目を開ける。


眠たげな緑の瞳が、ぼんやりと空を見て、それから周囲を見回した。


「……あれ」


間の抜けた声。


「おおきいの、いない」


ヴォルカが顔を上げる。


ネムリアはまだ状況を理解しきっていない顔で、ユキトの肩に頬を乗せたまま首を傾げた。


「……おわった?」


誰もすぐには答えなかった。


ネムリアは少しだけ目を瞬かせる。


それから、いつもより少しだけ低い声で言った。


「……しんだ?」


ユキトの肩が、わずかに揺れた。


「ああ」


その一言だけだった。


ネムリアは黙る。


寝起きの鈍い頭でも、それが軽い話ではないことくらいはわかったらしい。


彼女は何も言わず、そっとユキトの背に顔を埋めた。


その沈黙が、かえって重かった。


風が吹く。


また花が揺れる。


いつまでも、誰も動けなかった。


やがて、ユキトがしゃがみ込んだ。


白い石畳と花の隙間へ手を伸ばす。


ヴォルカがはっとして声を上げる。


「ユキトさん……?」


ユキトは答えず、まず金貨を拾い上げた。


陽の光を受けて、鈍く光る。


次に、少し離れた場所に落ちていた小さなペンダントも拾う。


それだけだった。


本人だけがいない。


ひどく現実的で、だからこそ、やけにきつかった。


ヴォルカが不安そうに見つめる。


「それ……」


ユキトは金貨を見て、小さく鼻で笑った。


「……金持ってんじゃねえか、ジジイ」


いつもの軽口みたいに言った。


でも、声は少し掠れていた。


それから、金貨を指先で持ち直して、続ける。


「旅費くらい置いてけよって話だろ」


そう言って懐へ入れようとした、その時だった。


「だ、だめです」


ヴォルカの声が思ったより強く響いた。


ユキトの手が止まる。


ヴォルカは自分でも少し驚いたように目を揺らしたが、それでも続けた。


「それは、その……死んだ人のものを、勝手に――」


「ヴォルカ」


静かな声が、そこで入った。


フローラだった。


ヴォルカがはっとして振り向く。


フローラの表情は穏やかだった。

けれど、目は静かに現実を見ていた。


「今は、やめておきましょう」


短く言ってから、ほんの少しだけ周囲を見た。


ユキトも。

ヴォルカも。

自分も。

ネムリアでさえ、いつも通りではない。


ここにいる全員が、今は少しずつ傷んでいる。


誰か一人だけを正す場ではなかった。


その視線が、再びユキトへ戻る。


金貨を握る手が、わずかに震えていた。


拾ったペンダントを持つ指先も、うまく力が入っていない。


平気な顔をしているだけだ。

少なくとも、平気で持っていこうとしているわけではない。


それくらいは、もう分かる。


ヴォルカもそこでようやく気づいたのか、言葉を失う。


「……あ」


小さな声が漏れる。


ユキトは何も言わない。


ただ、金貨を握ったまま動かなかった。


フローラは静かに言う。


「その人も、今それを責められたら困る顔をしています」


「ですから、今は言わないであげてください」


ヴォルカは唇を引き結ぶ。


自分が間違ったことを言おうとしたとは思わない。

でも、今のユキトを見てしまうと、それ以上は言えなかった。


「……すみません」


小さく呟く。


ユキトは少しだけ間を置いてから、鼻で笑った。


「いや、正しいだろ」


声は掠れていた。


「たぶん普通はそう言う」


それでも、金貨は握ったままだった。


返事はない。


当たり前だ。


その当たり前が、嫌に刺さった。


ユキトは金貨とペンダントを見つめたまま、少しだけ強く握り込む。


「……勝手に死にやがって」


怒っているみたいな言い方だった。


けれど、その怒りが誰に向いているのかは、本人にもよくわかっていなかった。


助けられたことに対してか。

置いていかれたことに対してか。

勝手に信じられたことに対してか。

それとも。

自分が、あの最後を止められなかったことに対してか。


ユキトはしばらくそれを見ていたが、やがて金貨を懐にしまう。


それから、ペンダントも押し込んだ。


ヴォルカが小さく目を瞬かせる。


「持っていくんですか」


「ああ」


「……なんでですか」


ユキトは少しだけ黙って、それからぶっきらぼうに答えた。


「金は旅費」


ヴォルカが少し困ったように眉を下げる。


「そっちは……わかるんですけど」


視線が、懐へ入れたペンダントへ落ちる。


ユキトはそちらにはあまり触れたくなさそうに、短く言った。


「こっちは……なんとなくだ」


その言い方は、あまりにも適当だった。


けれど、それが嘘だと分かるくらいには、懐へ入れた指先に力が入っていた。


ヴォルカは一歩だけ近づいた。


「ユキトさん」


呼びかける。


けれど、その先の言葉が出てこない。


慰める?

謝る?

泣く?


何をしても違う気がした。


結局、ただ名前を呼んだだけで止まる。


ユキトは振り向かない。


「……なんだよ」


「いえ……」


ヴォルカは唇を噛む。


そして、絞り出すように言った。


「私……前に出ようと、しました」


ユキトの指先が止まった。


ヴォルカは俯いたまま続ける。


「守らなきゃって、思ったんです」


「でも……だめでした」


「怖くて、足が震えて……動けませんでした」


声が震える。


「あの時、ユキトさんは前に出たのに」


「私は、何も……」


最後の方は、ほとんど掠れていた。


ユキトはしばらく黙っていた。


それから、立ち上がる。


振り返る。


ヴォルカの顔は、泣く寸前だった。


見上げてくる赤い瞳が、どうしようもなく弱っている。


ユキトは、その顔を見て、少しだけ眉をひそめた。


「勘違いすんな」


ヴォルカが息を止める。


「お前が前に出ようとしたの、見てたぞ」


「……え」


「びびってたくせに、ちゃんと出ようとはしてただろ」


ヴォルカの目が揺れる。


ユキトはぶっきらぼうに続けた。


「それで十分だ」


「でも……」


「十分だっつってんだろ」


少しだけ声が強くなる。


ヴォルカは肩を震わせて、口を閉じた。


ユキトは視線を逸らした。


真っ直ぐ励ますのが苦手なのが、顔に出ている。


「だいたいな」


頭を掻く。


「相手が悪すぎんだよ。ラスボスだぞ、あれ」


「俺だって普通に怖かったわ」


「え」


ヴォルカが目を見開く。


ユキトは鼻で笑った。


「何だと思ってたんだよ。内心ずっとやばいやばいって思ってたわ」


「で、でもユキトさん、全然そんなふうに……」


「見せたら終わりだろ」


あっさり言う。


「怖いからって全員で固まって震えてどうすんだよ」


「だから前出ただけ」


「格好つけですよ、そんなの」


フローラが静かに口を挟んだ。


ユキトとヴォルカがそちらを見る。


フローラは穏やかな顔のままだった。


「怖いのに前へ出るのは、立派というより無茶です」


「下手をすれば、その場の自己満足で全員巻き込みます」


言い方は静かだが、だいぶ辛辣だ。


ヴォルカが「フローラ……」と困ったように呟く。


だがフローラは続けた。


「けれど」


そこでほんの少しだけ間を置く。


「少なくとも、口先だけではありませんでした」


ユキトが眉を上げる。


フローラは彼を真っ直ぐ見た。


「そこは、否定しません」


それだけ言って、視線を外す。


褒めたつもりはない。

理解したつもりもない。

ただ、見た事実だけは曲げない。


その距離感だった。


ユキトは少しだけ目を丸くしたあと、何とも言えない顔で鼻を鳴らした。


「……初日にしては高評価だな」


「違います」


即答だった。


「見たものを、そのまま言っただけです」


ユキトは小さく笑う。


その笑いは短く、すぐに消えた。


また沈黙が落ちる。


重い。


立ち止まったままだと、たぶんこのまま沈む。


それがわかったのだろう。


ユキトは少し空を見た。


青い。


信じられないくらい、何事もなかったみたいな空だった。


それが少し腹立たしくて、少し救いでもあった。


「……どこかで飯でも食って、少し歩くか」


無理やりいつもの調子を引っ張り出したような声だった。


ヴォルカは戸惑ったまま、けれど少しだけユキトを見た。


その横顔は、やっぱり平気そうには見えない。


強がっているのがわかる。

無理やり前へ進もうとしているのもわかる。

それでも、進こうとしている。


ヴォルカはそっと息を吸った。


「……行きます」


小さいけれど、はっきりした声だった。


ユキトがちらりと見る。


ヴォルカは不安そうに笑う。


「たぶん、今止まったら……私、ずっと引きずります」


「だから」


少しだけ、勇気を出すように。


「一緒に行きたいです」


ユキトは数秒だけ黙ったあと、「おう」と短く返した。


フローラはそんな二人を見て、小さく息を吐く。


まだ全部は受け入れていない。

まだ信用もしきっていない。

けれど、この場に留まり続けても、死んだ者は戻らない。


それなら、進むしかないのだろう。


「私も同行します」


静かに告げる。


「監視の意味も込めて」


「素直じゃねえな」


「初日ですので」


ユキトは少しだけ笑った。


ネムリアはユキトの背に頬を押しつける。


「……ごはんたべる」


「切り替え早えな」


「おなかすいた……」


「まあ、それは俺も同意」


そう言って、ユキトは歩き出した。


ヴォルカがその隣へ並ぶ。

フローラは少し後ろからついてくる。

ネムリアは背中で揺られたまま、またうとうとし始めている。


数歩進んだところで、ユキトが一度だけ振り返った。


花が揺れる神殿跡。

光が消えた空。

置いていかれた静けさ。


「……ジジイ」


小さく呟く。


文句はいくらでもある。

聞きたいこともある。

勝手に死ぬなとも思う。


それでも、最後に出てきたのは別の言葉だった。


「……ありがとな」


風が吹く。


返事はない。


当然だ。


でも、不思議とさっきよりは息がしやすかった。


ユキトは前を向く。


「ほら、行くぞ」


ヴォルカが「はい」と答える。

フローラは何も言わず、ただ歩き出す。

ネムリアは背中で、


「すやぁ……」


と寝息を立てた。


四人はそのまま、静かな風の中へ歩いていった。


お読みいただき、ありがとうございます。


これまでとは作風が大きく変わる内容となりましたが、この物語を描くうえで、今回のエピソードは必要なものだと判断しました。


ただ、読んでいて大変不快に感じられた方もいらっしゃると思います。重い内容をお見せしてしまい、申し訳ありません。


なお、「改心せずに屑ムーブを続ける主人公が見たい」という方には、別作品の『彼女ハザード』をおすすめします。


そちらは最後まで、屑成分たっぷりでお届けしております。


よろしければ、そちらもお読みいただけますと幸いです。



彼女ハザード――別名:13股の金曜日

https://ncode.syosetu.com/n5539mf/


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ