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55.誰も住まないのには訳がある

朝は、拍子抜けするほど静かだった。


同じ宿の、同じ階。

昨日までと同じ場所のはずなのに、空気だけが少し違う。


廊下の向こうに人の気配はある。

足音は抑えられ、声も低い。

けれど消えてはいない。


王国がこの宿全体を貸し切りにし、兵を常駐させているのだと、それだけで分かった。


普通なら落ち着かないはずだった。

見張られ、警戒され、必要以上に気を遣われている。

そういう息苦しさは、放っておけば部屋の中にまで染みてくる。


だが、この部屋ではまるで関係がなかった。


「……きもちよかったです」


朝風呂上がりのヴォルカが、まだ少し湿った髪を指で梳きながら、小さく息を吐く。

頬がほんのり赤い。

いつもより少しだけ、機嫌がいいのが分かった。


窓際ではフローラが湯呑に茶を注いでいた。

湯気の立つ香りはやわらかく、朝の光の中でもその所作は乱れない。

最初からこの宿の主だったと言われても納得しそうな落ち着きだった。


ネムリアはというと、もう布団に半分沈んでいた。

起きているのか寝ているのか、よく分からない顔で枕に頬を押しつけている。


「……ねむい」


「起きろ」


ユキトが即座に返す。


「起きてる」


「起きてる奴はそんな顔してねえよ」


「……してる」


「説得力がねえ」


やり取りだけ聞けば、昨日の出来事が何もなかったみたいだった。


廊下の向こうの兵たちから見れば、理解不能な光景かもしれない。

王国がこれだけ警戒していても、この部屋では誰もそれを気にしていなかった。

気にしないのではない。気にする必要がないだけだ。


「やっぱり」


ヴォルカが湯呑を受け取りながら、少しだけはにかんだ。


「朝からお湯に入れるの、いいですね」


「お前、そればっかだな」


「だ、だって本当に気持ちいいんです」

「静かですし……お湯も広いですし……」


「気に入ったのは分かった」


「……ふとんもいい」


ネムリアが布団に埋まりながら言う。


「しずか」

「あったかい」

「ねやすい」


「お前は本当に寝る基準しかねえな」


「だいじ」


フローラが小さく笑った。


「でも、分かりますよ」

「整った場所で暮らせるのは、やはり楽です」

「お湯があって、食事が出て、寝具が清潔で……そういうことの積み重ねは、思っている以上に大きいものですから」


ユキトはそれを聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。


昨日までが濃すぎた。

荒野で勇者を止め、王国と向き合い、責任だの制度だの、重い話をしてきた。

だからこそ、こうして朝からどうでもいい話をしているだけで、妙に楽だった。


窓の外には手入れの行き届いた庭が見える。

朝の湯気が淡く立ち、宿の者たちが遠巻きに行き来している。


この宿も、この静けさも、王国の気遣いなのだろう。

あるいは機嫌を損ねたくないだけかもしれない。


どちらでもよかった。


「こういうのが」


ヴォルカが湯呑を両手で包んだまま、ぽつりと言う。


「ずっと続いたら、いいんですけどね」


その言葉に、誰もすぐには返さなかった。


静かな部屋。

湯の気配。

やわらかい布団。

誰にも邪魔されず、四人でいる朝。


たしかに悪くない。

むしろ、かなりいい。


ユキトは椅子の背に軽くもたれた。


「……そうだよ、その話だろ」


ヴォルカが顔を上げる。

フローラも視線だけを向けた。

ネムリアは布団に沈んだままだが、たぶん聞いている。


「昨日決めたやつだよ」

「報酬」


「そうですね、報酬です」


ヴォルカの顔が少し明るくなる。


「無人島、でしたね」


「そう」

「どうせもらうなら、金やら宝やらより、拠点になるもんの方がいい」

「昨日はその場で勢いもあったけど、朝になって考えても、まあ悪くねえ案だとは思ってる」


フローラが静かに頷いた。


「私も異論はありません」

「四人で立てる場所という意味では、形としては分かりやすいですから」


「……しま」


ネムリアの反応だけがやけに早い。


「島に食いつくなあ、お前」


「おっきい」

「しずか」

「いい」


「語彙がひどい」


「でも」


ヴォルカが少し前のめりになる。


「いいですね、島」


ヴォルカが少し前のめりになる。


「海が見えるんですよね」


「場所によるだろ」


「でも、せっかくなら綺麗な海がいいです」

「水が澄んでいて、波が静かで、浜辺を歩けるような場所」

「白い砂浜とか、あったら嬉しいです」


「いきなり夢見すぎじゃねえか?」


「夢くらい見てもいいじゃないですか」


そう返したヴォルカの声は、少しだけ拗ねていた。

ユキトは小さく笑う。


「まあ、別にいいけど」


フローラが茶を置いて、柔らかく言った。


「海が綺麗で、日当たりがよく、水と土が生きている場所なら理想ですね」

「花畑も作れますし、薬草や果樹も育てられるでしょう」

「それに、水源があって、家だけで終わらない広さが欲しいです」

「庭も畑も作れて、窮屈にならないくらいの」


「お前が言うと急に現実味が出るな」


「現実に使う場所の話ですから」


ネムリアが布団に沈んだまま、ぼそりと言う。


「……きのかげ」

「しずかで」

「ひるねできる」

「おおきいおふろ、ある」


「お前はどこまで行ってもそこなんだな」


「だいじ」


ヴォルカがくすりと笑う。


ユキトは椅子に深く座り直した。


「俺は、誰にも邪魔されねえのが一番だな」

「王国から距離を取れて、でも完全に切れるわけじゃない」

「必要な時だけ行き来できて、少し手を入れればちゃんと住める」

「そういう場所なら十分だ」


「あ……」


ヴォルカが目を輝かせる。


「じゃあ、広くて、海が綺麗で、花も育てられて、静かで、ちゃんと暮らせる島ですね」


「条件盛りすぎだろ」


「夢の話ですから」


その言い方が妙に年相応で、ユキトは少しだけ笑った。


「まあいい」

「これだけ広い国なんだ。一つくらい当たりがあってもおかしくねえだろ」


「はい」


「……ある」


「根拠のない自信だな」


「あるほうがいい」


「それはそう」


フローラも、穏やかな声で言った。


「候補が十分にあるなら、理想に近いものは見つかるかもしれません」

「少なくとも、最初から悲観する話ではないでしょう」


「よし」


ユキトはそこで、話を切った。


「じゃあ王国に出させるか」

「王国領内で、住民のいない島の候補。全部」

「どうせ向こうも、何を要求されるか構えてんだろ」

「だったら分かりやすい方がいい」


「どんな島が来るんでしょうね」


ヴォルカが少しだけ弾んだ声で言う。


「海、綺麗だといいですね」


「花の育つ土地だと助かります」


「……おふろ」


「お前だけ最後までそこなんだよ」


そのまま朝食になり、話はいったん途切れた。


だが途切れただけで、消えたわけではない。


焼いた魚を食べながら、ヴォルカは「船がつけやすい方がいいですよね」と言い、

フローラは「塩害が強すぎる土地は避けたいですね」と返し、

ネムリアは「よる、うるさくないといい」と付け足した。


ユキトも、口では適当に返しながら、頭のどこかではもう海沿いの家を思い描いていた。

大きな風呂。

海の見える高台。

花の咲く庭。

四人で囲む食卓。

誰にも邪魔されない、自分たちだけの線。


食後、ユキトは兵を呼び、王国領内の無人島候補の資料を持ってこさせた。


返事は早かった。

兵は一瞬だけ戸惑った顔をしたが、すぐに頭を下げて下がっていく。

初めから、こちらの要望が通るように話は整えられていたのだろう。


それから昼を挟んで、時間は静かに過ぎた。


ヴォルカはもう一度湯に入り、

ネムリアは結局ずっとごろごろしていて、

フローラは窓辺で茶を飲みながら、ときどき庭の先を眺めていた。


「海が見える家って、どんな感じでしょうね」


ヴォルカが戻ってきてそう言えば、


「潮の匂いは強いでしょうけれど、風通しは良いかもしれませんね」


とフローラが答えた。


「……ひるねする」


とネムリアが言えば、


「お前は島に行ってもやること変わらねえな」


とユキトが返す。


そんな程度の、緩いやり取りばかりだった。


けれど、その緩さの中で、四人ともわりと本気で思っていた。


王国が持っている島の中に、一つくらいは当たりがあるだろうと。


その期待が、半分ほど冗談ではなくなった頃。


扉が叩かれ、王国の兵が両腕に紙束を抱えて入ってきた。


兵はそれを机の上へ置く。


どさり、と音がした。


机の上には、無人島候補の資料が山になっていた。


王国領内にある島々。


その中でも、住民のいない土地だけを抜き出して持ってきた結果が、これだった。


四人はさっそく資料を分け合い、わくわくしながら読み進めていった。


自分たちに都合のいい島が一つくらいあるはずだと、最初の数枚までは本気で思っていた。


だが、現実は違う。


白砂が綺麗だが淡水不足。

外洋に面して海流が荒く接岸困難。

雨季になると島の大半が水没する。

湿地化による熱病の常在。

毒虫の異常繁殖。

過去の開拓団、数度にわたり失敗。


読むたびに、「誰も住んでいない」のではなく、住めないから誰もいないのだと分かる。


ユキトはまた一枚、読み終えた資料を横へ滑らせた。


「……次」


もう声にも期待がない。


向かいではフローラが別の資料を閉じていた。


「これも駄目ね。土地自体は広いけれど、水が足りないわ」

「整える以前の問題よ」


ネムリアは机に頬を乗せたまま、半分閉じた目で紙束を見ている。


「……ろくなのない」


「無人ってのはそういうことなんだろ」


ユキトは短く返した。


「誰も住まねえのには、ちゃんと理由がある」


その言葉通りだった。


どれもこれも、王国が領有しているだけで、積極的に使う気になれない理由がきちんと揃っている。

見栄えは良くても住めない。

使えそうでも維持できない。

何か一つ足りないどころか、根本から終わっている。


ユキトは新しい資料へ手を伸ばす。

少し厚みのある一冊だった。

それだけ調査が入っているということだろう。


だが、中身を見た瞬間に顔が歪んだ。


「群発地震」

「活火山」

「噴気孔複数」

「開拓失敗」

「定住不能」


そこでぱたりと閉じる。


「却下」


即答だった。


その瞬間。


「……え」


小さな声が落ちた。


ユキトが顔を上げる。

フローラも、ネムリアも、そちらを見る。


ヴォルカだった。


珍しく、少しだけ身を乗り出している。

いつもよりはっきりと赤い瞳が動いていた。


「未開拓の火山が、あるんですか?」


ユキトが引きつった顔で返す。


「……そこ食いつくのか?」


返事はない。


ヴォルカはそっと資料を受け取ると、そのまま真剣に読み始めた。

流し見ではない。

一行一行を、確かめるように目で追っている。


その様子を見ながら、ユキトは腕を組んだ。


「いや待て。お前が火山に食いつくのはもう分かった。分かったけどな」


ヴォルカはまだ顔を上げない。


ユキトは資料の表紙を指で叩いた。


「地震が頻繁に起きる土地だぞ。まずそれだけで生活がきつい」


「家は揺れるし、地割れも崩落もある」


「噴気孔の位置次第じゃ、寝てる間にガスで死ぬ」


「火山灰で畑がやられたら食いもんも終わり」


「道も悪いだろうし、港から物資運ぶだけで面倒くさい」


「毎日“噴くかも”って山の近くで、落ち着いて暮らしたいと思えるか?」


そこで一度、言葉を切る。


「結論、住めないだろ」


普通に考えれば、そうだった。

候補から外すには十分すぎる理由が並んでいる。


だがヴォルカはしばらく黙ったまま資料を読み進め、やがて小さく言った。


「……いえ」


その声は静かだったが、妙に確信があった。


「それ、たぶん全部解決できます」


沈黙。


ユキトが眉を上げる。


「……おう?」


ヴォルカは資料から目を離さないまま、ぽつぽつと続ける。


「火道は死んでいません」

「圧の逃げ道が偏っているだけなら、逃がせます」

「噴気帯も外縁寄りです」

「流し方を変えれば、生活圏からは外せます」


そこで一度だけ、指先が資料の断面図の一点で止まる。


「……私の竜形態であれば、十分直せます」


沈黙が落ちた。


ヴォルカはなおも視線を上げない。


「岩盤は硬いでしょうけれど、掘る必要はありません」

「割って、逃がすだけなら間に合います」

「火道そのものを作り直すのではなく、今ある流れを生かして、圧を外へ向ければいいので」


少しだけ声色が変わった。


「それに温泉脈があります」


空気が止まった。


一拍遅れて、ネムリアが顔を上げる。


「……おんせん」


「待て」


ユキトも止まる。


フローラが椅子を少し引き寄せた。


「……本当に直せるの?」


ヴォルカは資料から目を離さないまま、静かに頷いた。


「はい」


それから一度だけ、言葉を選ぶように間を置く。


「私たちの種は、火山地帯を縄張りにする高位竜種です」

「火山そのものが好き、というより……火山の圧や熱、火道、地脈の流れを読んで、調整して、住みやすい形に整えるんです」


ユキトが眉をひそめる。


「整える?」


「はい」

ヴォルカは断面図の一点を指でなぞった。

「火を止めるのではなく、流れを変えるんです」

「暴れるままにさせるのではなく、逃がすべきところへ逃がして、危ないところと住めるところを分けます」


炎魔竜の棲み処は、自然に空いた洞窟にそのまま住みつくようなものではない。

外から見れば危険極まりない活火山でも、内側は竜にとって極めて合理的に整えられている。

半ば要塞、半ば神殿、半ば鉱山都市。

火と圧と岩を読み切れる種だからこそ成立する住処だった。


ヴォルカはなおも資料を追いながら続ける。


「しっかり工事すれば、生活はできます」


沈黙が落ちた。


そして、次の頁をめくったところで、少しだけ声が変わった。


「……それに、湧水もあるみたいです」


ネムリアが顔を上げる。


「みず」


フローラも資料を覗き込む。


「本当だわ……地下水脈がまだ生きている」


ヴォルカは小さく頷いた。


「はい。温泉脈だけじゃありません」

「飲める水も引けます」

「水が生きているなら、生活はかなり楽になります」


資料の断面図に指が落ちる。


「それと、この山……火山の内側に、比較的安定した盆地があります」


「完全に安全ではありませんが、内側に生活圏を作れます」


「風も通りますし、方位的に日当たりも良好そうです」


フローラの目が少しだけ鋭くなった。


「……なるほど」

「火山そのものが駄目なのではなく、今の状態が悪いのね」


「はい」


ヴォルカは即答した。


「まだ誰も開拓していないなら、私のやり方で整えられますから」


ユキトは腕を組んだまま、資料とヴォルカを見比べる。

条件だけ聞けば、さっきまでの却下候補の中で一番マシにすら聞こえる。


温泉がある。

水が生きている。

安定して住める余地がある。


そこまで来て、ようやくユキトは表紙へ目を落とした。


資料の上部に記されていた島名を、小さく読み上げる。


「……シロネコ島」


口に出した瞬間、ただの危険地帯だったはずの一冊に、妙な実感が生まれる。

まだ手に入ったわけでもないのに、名前がついただけで、急に“場所”として輪郭を持った。


ネムリアが、ぼそりと言った。


「……かわいい」


フローラも小さく目を細める。


「ええ。見た目ほど物騒な名前ではありませんね」


ヴォルカは資料を抱えたまま、少しだけ嬉しそうにその名を繰り返した。


「……シロネコ島」


だがそれでも、考えずにはいられない。


「……それでも工事が失敗したら?」


ヴォルカは少しも迷わなかった。


「最悪、山の内側に住まなければいいです」


今度はフローラが目を瞬かせた。


「下に?」


「はい」

「山の下に住めば、少なくとも噴火の直撃を受ける形にはなりません」

「水は引けます。暮らすだけなら、下でもできます」

「でも……温泉を生活の中で使うなら、山側の方がいいです」


そこまで言って、一瞬だけ言葉が止まる。


それから、珍しく少しだけはっきりと、欲の混じった声で付け足した。


「……だから、私は山に住みたいです」


そこで終われば、まだ可愛いわがままだった。


けれどヴォルカは資料を見つめたまま、少しだけ声を落として続ける。


「それと……できれば、山の周辺は簡単に近づけない形に整えたいです」


ユキトの眉が動いた。


「……近づけない形?」


「はい」

「噴気帯や崩れやすい斜面を外側に残して、通れる道を絞れば、かなり守りやすくなります」

「中は安全にして、外だけ危なくするんです」


ユキトは深く息を吐いた。


「いやこれ、ボスの本拠地じゃねえか」


フローラが首を傾げる。


「ぼす?」


「首領、みたいな意味ですか?」


「そんなもんだ」


ユキトは苦いというより、半分引いた顔で資料を見下ろした。


「火山の中に隠された拠点」


「外は天然の罠だらけで、近づくと死ぬ」


「中には3体の封印されていた竜」


「どう考えても、悪の親玉が世界征服のために用意した秘密基地だろ、これ」


ネムリアがぼそっと落とす。


「……実際、私たちだけで世界は崩せる」


「やめろ」


ユキトは即答した。


「その一言で急に笑えなくなる」


フローラが細く息を吐く。


「せめて冗談に聞こえる範囲で言ってちょうだい……」


ヴォルカは少しだけしゅんとしながらも、小さく言う。


「でも、かなり良い山です」


ユキトは顔を上げた。


「だからその評価の時点でもう敵側なんだよ」

ヴォルカは一瞬だけ困ったように視線を落としたが、すぐまた資料へ戻した。


その頃にはもう、彼女の目には別の景色が見えていた。


高い外輪山は、天然の城壁。

その内側に広がるカルデラ盆地は、守られた居住区。

段差のある地形は畑や果樹園に向いている。

高所は見張り台。

噴気帯は防衛線。

温泉脈は生活の中心。


危険な山ではない。

まだ誰の手も入っていない、未完成の城だった。


「内側の平地を先に安定させれば、家は建てられます」

「高い場所には見張り場を置けますし、外から中を覗かれないようにもできます」

「それから、万一攻め込まれても、内側へ入る前に動きを止められる配置に――」


「待て待て待て」


ユキトが即座に止めた。


ヴォルカがきょとんとする。


「え?」


「え?じゃねえよ」

「お前それ、住処じゃなくて天然トラップ満載の迎撃拠点だろ」


だがヴォルカは、まだ少しだけ止まらなかった。


「外側は荒れたままに見せて、内側だけ整えれば、無用な人は近づきません」

「……何か、問題ありますか?」


ネムリアが資料を覗き込みながら、眠そうな声でぽつりと言った。


「……寝ぼけたら死にそう」


場が止まった。


それが一番正確な感想だった。


ユキトが深く頷く。


「そう、それだ」

「敵とか以前に、俺らが普通に事故死する未来しか見えねえ」


フローラも珍しく苦い顔をしていた。


「防衛としては理にかなっている部分もあるけれど……」

「生活圏と罠の境目がまったく優しくないわね」


そこでようやく、ヴォルカははっとしたように黙った。


数秒の沈黙。


それから目に見えて肩が落ちる。


「……だめ、ですか」


「駄目に決まってるだろ」


ユキトの返事は早い。

だが声色には怒りより苦笑が混じっていた。


ヴォルカは資料を抱えたまま、しゅんと俯いた。


「……すみません」

「少し、嬉しくなってしまって」


そのまま、ぽつりと続ける。


「以前の棲家は、先祖が整えきっていたんです」

「立派でしたし、誇りにも思っています」


一度だけ言葉が止まる。


「でも……完成されすぎていて、少し窮屈でもありました」

「私が触れる余地が、ほとんどなかったので」


静かな告白だった。


だが次の言葉で、空気はもう一段変わる。


「前の山には、温泉もありませんでしたし……」

「ユキトさんたちと旅をして、入浴文化を知ってしまってからは、余計に」


ユキトが嫌な予感で眉をひそめる。


ヴォルカは少し迷ったあと、けれど正直に言った。


「……一度くらい、本気で全部壊して、自分で作り直したいと思った時期もあります」


沈黙。


誰もすぐには何も言えなかった。


最初に口を開いたのはユキトだった。


「今すげえ怖いこと言ったぞお前」


フローラも珍しく、言葉を失っている。


「……え?」


ネムリアがぼそっと落とす。


「……こわ」


ヴォルカはそこでようやく、自分がかなり危ない告白をしたことに気づいたらしい。


「い、いえ、その……壊したかったというより」

「私の山を、作ってみたかったんです」

「危ないところを整理して、安全なところを広げて……」

「私の好きな形に、整えてみたくて……」


声が小さくなっていく。


「でも、先祖代々の山でしたから」

「本当にそんなことをするわけにはいきませんでした」


フローラがそこで、ようやく細く息を吐いた。


「……なるほどね」


その視線は資料ではなく、ヴォルカへ向いていた。


「あなた、火山に惹かれたのではなかったのですね」

「ずっと、“自分が作った居場所”が欲しかったのですね」


ヴォルカは少し迷ってから、こくりと頷いた。


「……はい」


ネムリアが机に頬を乗せたまま言う。


「かわいいけど、だいぶ危ない」


「かわいいで済ませていいのかそれ」


ユキトが突っ込みつつ、もう一度資料を見下ろした。


危険なのは間違いない。

普通なら論外だ。

王国が持て余すのも当然だろう。


だが、条件は異様に良い。


温泉脈がある。

飲み水が生きている。

カルデラ内側に住める余地がある。

最悪、山の下での生活も可能。

そして何より、この山を災害ではなく“整えられる土地”として見ている竜がいる。


ヴォルカが、おそるおそる顔を上げた。


「……あの」

「防衛を固めすぎるのは、やめます」

「ちゃんと、皆さんが住みやすい方にします」


その声は、先ほどよりずっと落ち着いていた。


「危険なところは別に逃がして」

「内側は揺れの少ない地盤を選んで」

「ガスも生活圏には流さないようにして」

「温泉は残して」

「水も守って」

「ユキトさんでも普通に歩ける山にして……」


少しだけ言い淀む。


「それで、緑も戻せたら」

「たぶん……すごく良い山になります」


フローラがそこで頷く。


「その形なら、私も整えやすいわ」

「土壌と水脈が残るなら、緑は戻せるもの」


ネムリアも小さく言う。


「……温泉あるなら、わりと好き」


ユキトは長く息を吐いた。


どう考えても普通じゃない。

火山の中に住むなんて、正気ではない。


それでも、資料の上では条件が揃いすぎている。

そして何より、この四人なら本当にできてしまいそうなのが嫌だった。


腕を組み直し、もう一度だけ断面図へ目を落とす。


住めるなら強い。

むしろ、かなり強い。


ユキトは苦笑した。


「……いや、これ直せるなら大当たりじゃねえか」


その言葉に、ヴォルカの顔がぱっと明るくなる。


「では――」


「ただし」


ユキトが即座に釘を刺した。


「天然要塞作るのはなしだ」

「俺が歩くだけで死ぬ山は却下」


ネムリアが小さく付け足す。


「……寝ぼけなくても死にそう」


「余計なこと言うな」


ヴォルカは一瞬だけ本気で残念そうな顔をして、それから小さく頷いた。


「……はい」

「では、快適な方で」


そう答える声は、少ししょんぼりしていて、でも嬉しさも隠しきれていなかった。


机の上にあるのは、王国が持て余した危険島の資料だ。

けれど今、その紙束はもう、四人が帰るための家の設計図に見え始めていた。




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