54.一番大事だろ
夕食は、露骨なくらいに豪華だった。
焼いた肉も、煮込みも、川魚も、湯気の立つ汁物も、普段なら二日分はありそうな量が並んでいる。温泉宿らしく器まで上等で、最後には甘味まで出た。王国側が気を遣ったのか、それとも勇者捕縛の件に対する祝いのつもりか。理由はどうあれ、今日の食卓が明らかにいつもより格上だったのは間違いない。
ユキトは箸を置きながら、ふっと息を吐いた。
「……露骨だな」
向かいでヴォルカが少し困ったように笑う。
「でも、美味しかったです」
「うん」
ネムリアはすでに半分目を閉じていたが、返事だけは妙に早かった。
「……あまいのもあった」
「そこかよ」
フローラは湯呑を静かに置いた。
「少なくとも、こちらを雑に扱う気はない、という意思表示には見えますね」
その言い方は落ち着いていた。昼間のやり取りを引きずっていないように見せる、いつもの声だった。
けれどユキトは、もうそれをそのまま受け取らない。
平気そうに見えるから平気なのではない。
整えているだけだ。
……自分が、その顔を作らせたからこそ、少しだけ分かった。
食後、片付けを終えた宿の者たちが下がり、部屋に四人だけになる。
障子の向こうには夜の気配がある。遠くで湯の音がして、廊下の向こうからは、別室の見張りについた兵の足音がごくたまに聞こえた。
同じ旅館の同じ階に、勇者がいる。
王国預かりではなく、ユキト預かり。
形だけなら、ずいぶん妙なことになっていた。
ユキトは座り直すと、机の上に肘をつかないよう気をつけながら口を開いた。
「で、報酬の話だ」
ヴォルカとネムリアの目が上がる。
フローラは黙ってこちらを見る。
ユキトは、ほんの一瞬だけ言葉を選んだ。
「その前に一個だけ言っとく」
「王国との細かい交渉は、全部俺がやる」
「条件の詰めも、向こうに言うのも、資料持ってこさせるのも、全部だ」
ヴォルカがわずかに目を見開く。
ネムリアは眠そうなままだが、ちゃんと聞いていた。
フローラだけは表情を変えない。
ユキトは視線を逸らさず続けた。
「お前らに意見は聞く」
「でも、前みたいに最初に誰か一人へ通して、そっから空気整えてもらうやり方はしない」
「今日は最初から全員で決める」
そこまで言って、少しだけ間を置く。
「……さっきは悪かったな」
軽い言い方だった。
軽くしか言えなかった。
それでも、言わないよりはましだった。
フローラはすぐには返さなかった。
ほんの少しだけ目を伏せ、それから静かに言う。
「……私も、少し強く言いすぎました」
言葉は柔らかい。
だが、あれがなかったことになったわけではないと分かる温度だった。
ユキトは小さく頷いた。
「じゃあ始める」
「……つっても、いきなり真面目にやってもつまらねえからな」
「まずは小さいもんからだ」
「日常で欲しいもの。布団でも飯でも風呂でも、何でもあり」
「段々でかくしていけ。最初から城とか爵位とかなし」
「城?」
ヴォルカが首を傾げる。
ユキトは手を振った。
「例え話だよ。とにかく、まずは小さいもんから」
「遠慮すんな。今ほしいもん全部言え」
少しだけ間が空いた。
ヴォルカとフローラは、どう出るか迷った顔をした。
ネムリアは迷わなかった。
「……おうさまのべっど」
一瞬、部屋の空気が止まる。
ユキトが眉を上げた。
「小さくねえな」
ネムリアは当然のように続けた。
「ごうかそう」
「ぜったいやわらかい」
「ひろい」
「さいこう」
「理屈が全部寝心地なんだよな、お前」
「ねるの、だいじ」
「まあ、それはそうだが」
そのやり取りで空気が少し緩む。
ヴォルカが咳払いを一つした。
「で、では……私は、その」
「……かわいい食器が、欲しいです」
「お、いいじゃん」
ユキトがすぐ乗る。
ヴォルカは少しだけ安心したように続けた。
「あと、柔らかい寝具と……湯浴みのしやすい場所と……」
「冬でも寒くない部屋がいいです」
「みんなで食べられる、大きめの机も」
「お前ほんと生活の話になると真面目だな」
「だ、大事なことです」
ヴォルカは少し頬を赤くした。
フローラがその横で小さく微笑む。
「では私も」
「日当たりの良い部屋」
「花の植えられる庭」
「上質なお茶」
「清潔で、手入れの行き届いた台所」
「できれば食器も、少し良いものがいいですね」
「すげえ生活整ってんな」
「整っている生活は大事ですよ」
フローラは平然と返す。
その声音は、だいぶいつもの彼女に近かった。
ユキトは腕を組んだ。
「じゃあ俺は、でかい風呂」
「うまい飯」
「朝遅くまで寝ても誰にも文句言われねえ生活」
「あと、しばらく働かなくても済む金」
「最後だけ生々しいですね」
「一番大事だろ」
「だいじ」
ネムリアが即座に頷いた。
そこからは流れができた。
甘いもの。
ふかふかの布団。
静かな昼寝場所。
着替え。
靴。
倉庫。
湯気の立つ露天風呂。
肉。
保存食。
花瓶。
寝椅子。
日向。
ひんやりした枕。
最初は確かに、小さなものばかりだった。
だが話しているうちに、少しずつ、欲しいものの大きさが変わっていく。
「庭は、少し広い方がいいです」
「食材を育てられるなら、なお」
「台所も広い方が助かります」
「保管場所も必要ですね」
「おうさまのべっどは、おへやもおっきくないとはいらない」
「結局そこ基準かよ」
笑いが起こる。
話は自然と、暮らしそのものの大きさへ寄っていった。
「……そういや」
ユキトが湯呑を指先で回しながら言う。
「竜ってやっぱ宝物とか好きなのか?」
三人がそれぞれ少し違う反応をした。
ヴォルカは一拍遅れて、どこか気まずそうに目を逸らす。
「……物語では、よく聞きます」
「強い竜が財宝を溜め込んで、洞窟の奥に寝ているとか……」
「その、少し……憧れは、ありました」
「へえ」
「でも、持ってはいません」
そこはきっぱりだった。
ユキトはちょっと意外そうな顔をする。
フローラが静かに引き取った。
「惹かれる竜は多いでしょうね」
「ただ、実際にそれだけの財を抱えている竜は、そう多くありません」
「長く一か所に留まれる竜ばかりでもありませんし、財は争いも呼びます」
「伝承ほど優雅な話ではないのですよ」
「なるほどな……」
ネムリアが手を挙げた。
「もってない」
「お前もか」
「……かって」
ユキトが吹きそうになる。
「誰に言ってんだ」
「かれし」
「おまえのそういうとこ、たまに容赦ねえな」
ヴォルカが耐えきれず笑いを漏らした。
フローラも口元を隠している。さっきまでの空気を思えば、その笑い方だけでも十分だった。
そこでヴォルカが、少し迷ったあと、ぽつりと言う。
「……黄金がいいです」
ユキトが見る。
ヴォルカは見られたことに気づいて、少しだけ慌てた。
「い、いえ、その……」
「どうせなら、価値のあるものの方が良いと、思いまして」
「例えば?」
ヴォルカはしばらく逡巡し、それから意を決したように言った。
「……物語に出てくるような」
「宝箱に、ぎっしり詰まった金貨が」
言い切った瞬間、自分でも少し恥ずかしくなったのか、視線が泳ぐ。
「いいじゃねえか」
ユキトが即答すると、ヴォルカが少しだけ顔を上げた。
「ほんとですか」
「夢あっていいだろ」
「いかにも童話に憧れている女の子って感じするし」
「……はい」
その返事は、珍しく年相応に弾んでいた。
フローラは小さく息を吐いた。
「金貨の山はともかく……どうせ受け取るなら、質の良いものが良いとは思います」
「中途半端な装飾品より、本当に価値のある宝石や細工物の方が」
ユキトが横目で見る。
「お前も結構そっち側なんだな」
「私は別に、執着しているわけでは」
「いや今の言い方、だいぶ分かってる側だったぞ」
「価値の話をしただけです」
「はいはい」
「でも、きれいなものはきれいですよ」
「やっぱ好きなんじゃねえか」
フローラは返事をしなかった。
その沈黙が答えだった。
ネムリアが机に頬を乗せる。
「きらきら、すき」
「みてると、ねむれる」
「それはもう用途が特殊なんだよ」
「……お前ら、やっぱ最後そこ行くのか」
ユキトが呆れ半分に言うと、今度は三人とも、少しだけ気まずそうな顔をした。
だが、次の瞬間には全員の口元が緩む。
そこから先も、しばらくは好き放題だった。
宝石の色。
金貨の枚数。
風呂の広さ。
布団の厚さ。
王様のベッドは何人寝られるか。
宝箱はいくつ欲しいか。
台所は何口いるか。
最終的にはもう、何を言っているのか分からないところまで行って、そこでようやく話が尽きた。
「……他にあるか?」
ユキトが聞く。
少し考えて、ヴォルカが首を振る。
フローラも、ネムリアも。
沈黙が落ちた。
そして、その沈黙のあとに、四人で笑った。
欲しいものを欲しいと言っただけの、くだらない笑いだった。
でもそれが、今日一日の重さを少しだけほどいてくれた。
笑いが静まる。
部屋の外の夜が、また近づいてくる。
ユキトは湯呑を置いた。
「……よし。じゃあ、ここからは本当に報酬の話をしよう」
さっきまでの軽さを全部消すわけではない。
けれど、声の芯だけは変わった。
ヴォルカもフローラも座り直す。
ネムリアだけは頬杖のままだが、視線はちゃんとこちらにある。
ユキトは指を折るように言った。
「まず、勇者の件だけは残る」
「同じことを繰り返したら、その時は俺たちが責任を取る」
「そこはもう切れない約束だ」
誰も異論は挟まない。
それはさっきまでの笑いとは別の場所にある話だった。
「その上で、報酬は別だ」
「次も金や宝で動くと思われるのは避けたい」
「王国にべったり縛られる形も嫌だ」
「でも、四人で立てる基盤は欲しい」
ヴォルカが頷く。
「安全で、守りやすい土地がいいです」
「うん」
「人が多すぎるのも困ります」
「できれば、こちらの力を隠しやすい方がいい」
「それもそうだな」
ネムリアが言う。
「しずか」
「だれも、あんまりこない」
「ずっとねれる」
「寝る基準はぶれねえな」
「だいじ」
「はいはい」
フローラがゆっくり口を開く。
「一時の勢いではなく、長く維持できること」
「放っておけばすぐに荒れるような場所では困ります」
「水と土が、きちんと生きていること」
「人目は避けたいですが、完全に孤立しすぎるのも不便です」
ユキトはそこで、彼女の言葉をちゃんと自分で拾う。
「長く持つこと」
「暮らしが回ること」
「隠れられること」
「でも外とも完全には切れねえこと、か」
「はい」
フローラはそれ以上整理しない。
ただ一意見として置く。
ユキトも、そのまま受け取る。
「あと」
ユキトは続けた。
「竜として、人の目を気にしすぎずに生きられる場所がいい」
その言葉に、三人とも少しだけ静かになった。
それはさっきまでの宝石や布団の話より、ずっと奥にある願いだった。
ヴォルカが低く頷く。
「……はい」
フローラも、ネムリアも、否定しない。
条件はだいぶ出た。
けれど、まだ形がない。
守りやすい土地。
静か。
広い。
暮らせる。
長く持つ。
人の目を避けられる。
外界と切れすぎない。
竜として息ができる。
全部を満たすものは何か。
誰もすぐには言えなかった。
少しだけ、行き詰まった空気になる。
領土、という言葉も出た。
王国の外れの土地をひとつ預かる形なら、拠点としては悪くないのではないかと。
だが、それはすぐに違うと分かった。
土地を持つということは、そこを治める責任ごと抱えるということだ。
守るだけでは済まない。
人がいれば揉め事も出る。
税も、管理も、王国との繋がりも濃くなる。
今ほしいのは、そういうものではなかった。
秘境の地、という案も出た。
人目を避けるだけなら、それらしい場所はいくらでもあるかもしれない。
だが、それも決め手にならない。
秘境と呼ばれる場所には、秘境のままである理由がある。
既に何かが棲みついている可能性もあるし、何もなくても今度は不便が過ぎる。
隠れられることと、暮らせることは同じではない。
山奥。
古い砦。
人里から離れた森。
いくつか案は出たが、どれもどこかが足りなかった。
ネムリアだけは途中から半分眠そうにしていたが、ヴォルカとフローラ、それにユキトは本気で考えていた。
だからこそ、すぐには答えが出なかった。
そんななか、ネムリアが、ぽつりと言った。
「……しまみたいなおおきいべっどがいい」
ユキトが顔を上げる。
「まだベッド言ってんのか」
「おっきくて」
「ひろくて」
「しずかで」
「だれもこなくて」
「ごろごろできる」
「……島?」
今度はフローラが先に反応した。
ヴォルカも目を瞬かせる。
ネムリアはそこで初めて少しだけ顔を上げる。
「しま、いい」
「おうさまのべっどより、おっきい」
「比べる基準どうなってんだよ」
だがその軽口のあと、ユキトは黙った。
島。
その一言が、今まで出ていた条件の上に、妙に綺麗に乗った。
ヴォルカが慎重に言う。
「……人は、来にくいですね」
「守りやすい、かもしれません」
フローラが考え込む。
「水と土がまともであることが前提ですが……」
「条件次第では、十分あり得ます」
「人目を避けやすく、暮らしを切り分けやすい」
ユキトの頭の中でも、形が出来始める。
王国から距離を取れる。
自分たちだけの線が引ける。
竜がいても、いちいち人目にさらされにくい。
必要なら人の社会とも繋がれる。
だが、そこで一つ引っかかった。
「……いや」
ユキトが低く言う。
「ただの島じゃ駄目か」
ヴォルカが瞬く。
「え?」
「人が住んでる島なら、結局そいつらを抱えることになる」
「港があれば出入りもあるし、見張りも増える」
「王国側だって、そこに人がいるなら管理の話を乗せてくる」
「それじゃ領土の話と大して変わらねえ」
フローラが静かに頷いた。
「……確かに」
「島そのものは良くても、人がいる時点で切り分けは難しいですね」
「しずかじゃない」
ネムリアがぼそりと言う。
「だれもこない、じゃない」
「そういうことだ」
ユキトは腕を組んだまま、そこでようやく言葉にする。
「欲しいのは島だ」
「でも、人の暮らしごと抱える島じゃない」
ヴォルカの目が少しずつ大きくなる。
「それなら……」
フローラがその先を継いだ。
「人の住んでいない島、ですか」
一瞬、部屋が静まる。
ユキトはそこで、はっきりと言った。
「……無人島か」
口に出した瞬間、それまで曖昧だったものが一気に現実味を持った。
ネムリアがこくりと頷く。
「むじんとう、いい」
「寝るためだけに言ったろお前」
「でも、いい」
「それはそうかもしれねえけど」
ユキトは小さく息を吐く。
ヴォルカが少しずつ目を輝かせていくのが分かる。
フローラも、もう否定はしていない。
「よし」
ユキトが決める。
「報酬は無人島でいく」
「細かい条件は王国に候補を出させる」
「で、資料見ながらまた全員で決める」
「はい」
ヴォルカがすぐに返事をする。
「それがいいと思います」
「私も異論はありません」
フローラの声は落ち着いていた。
ネムリアは満足そうに机へ頬を戻す。
「しま……」
「それと、おっきいべっど……」
「お前の中でそこまだ繋がってんのかよ」
けれど、誰ももう笑わなかった。
その代わり、少しだけ安堵に似た空気が部屋に落ちた。
形のない未来が、ほんの少しだけ形になったからだ。
無人島。
今の四人には、たしかに魅力的に思えた。
ただ、無人島に誰も住み着かないのには、だいたいちゃんと理由がある。
そのことを、この時の彼らはまだ知らなかった。
夜は深かった。
同じ旅館の、別の一室。
灯りは落としきられておらず、机の上に置かれた紙束だけが、半端な明るさの中に残されている。
勇者は一人で座っていた。
剣はない。
鎧も外されている。
傷は浅くないはずなのに、痛みの形がうまく掴めない。
机の上の紙束には、まだ手が伸びきらない。
読んだ。
逃げずに読んだ。
それでも、読み終えたから終わるような話ではなかった。
静かな部屋の中で、頭の奥に何度も同じ声が蘇る。
――悪いのは、それを理由に切り続けてきたお前の弱さだろ。
指先がわずかに動く。
紙に触れかけて、止まる。
違う。
そう返したいのに、うまく言葉にならない。
アルフィーは現実だった。
あの日の匂いも、声も、喉を潰すほど叫んだ痛みも、今も消えていない。
あれが自分を壊したのは事実だ。
あれがあったから、もう迷わないと決めたのも事実だ。
なら何が悪い。
何が、弱さだ。
そう思うのに、もう前みたいに言い切れない。
背負ってきたのだと思っていた。
あの街を。
あの日死んだ者たちを。
最後に自分の手で終わらせた命を。
だが、頭の奥で別の言葉が離れない。
背負っていたのではなく。
縋っていたのではないか。
あれを理由にすれば、もう見なくていいと思ったのではないか。
あれを盾にしていれば、迷わず切れると思ったのではないか。
「……違う」
掠れた声が、誰もいない部屋へ落ちた。
違う。
違うはずだ。
あれを捨てたら、自分は何になる。
あれを理由にできないなら、今まで切ってきたものは何だった。
あの時立てなくなった自分を、何で支えればいい。
答えは出ない。
紙束はそこにある。
読めば何か変わるわけでもない。
読まなければ戻れるわけでもない。
勇者は目を閉じた。
だが浮かぶのは、もうアルフィーの景色だけではなかった。
乾いた荒野。
落とされた紙。
そして、自分を見下ろしていたあの男の声。
静かな部屋の中で、勇者はただ座っていた。
まだ、何一つ終わっていなかった。




