53.最悪の形
フローラの背中に追いついた時、ユキトはまだ何も言えなかった。
言えば薄くなる。
謝っても、礼を言っても、たぶん今はどちらも違う。
だから黙って歩いた。
結界の外へ戻ると、音が一斉に近くなった。
兵たちの鎧がわずかに鳴る音。
誰かが息を呑む気配。
紙束を握る勇者の浅い呼吸。
ヴォルカとネムリアが、まだ一歩も警戒を崩していないこと。
全部が、さっきと同じ場所に残っていた。
違っているのは、ユキトの中だけだった。
フローラに頷かせた。
また傷つけて、それでも切られなかった。
その事実が、胸の奥に重く沈んでいる。
だが、今ここでそれに浸る時間はない。
勇者を生かすと決めた。
王国に飲ませると決めた。
なら、次に動くのは自分だった。
ユキトは表情を戻した。
情けない顔のまま立っていられる相手は、もう隣にいない。
包囲の外へ視線を向ける。
「……近衛長を呼んでくれ」
一番近くの兵が一瞬だけためらい、それでもすぐに走る。
少しして、近衛長が単身こちらへ歩いてきた。
足は慎重だったが、止まらない。
勇者と竜三体のいる中心へ、自分から入ってくる。
近づくほど、この場の異様さがはっきり見えただろう。
紙束を落としたまま動かない勇者。
警戒をまるで解いていない竜たち。
そして、その中に平然と立つユキト。
近衛長は数歩手前で止まった。
「お呼びですか」
「ああ」
ユキトは短く返した。
「確認したい」
「何でしょう」
「今から早馬を出したとして」
「王都でこの件の責任者どもを叩き起こして、話を通して、ここまで連れてくる」
そこで一度、言葉を切る。
「最速でどれくらいかかる」
近衛長はすぐには答えなかった。
だが迷っているというより、計算している沈黙だった。
やがて、低く言う。
「早馬なら昼前には王都へ着きます」
「伝達が滞りなく通り、責任者たちがすぐに集まれば、昼には結論を出せるでしょう」
「そこから折り返しても、午後三、四時にはこの荒野へ着けます」
「遅れを見ても?」
「多少の準備、護衛の編成、移動の誤差を含めても」
「日没前には間に合います」
ユキトは少しだけ目を細めた。
「……そうか」
短く息を吐く。
「なら頼む」
「この件を決めた責任者、全員呼んでくれ」
「誰か一人の代理じゃなくていい」
「この件に口を出した側は、できるだけそのまま来てほしい」
近衛長の眉が、ほんの少しだけ動く。
「ここへ、ですか」
「ああ」
ユキトは頷いた。
「依頼したのは王国だ」
「だったら最後は、王国自身の目で見て決めろ」
「俺はそう思ってる」
近衛長は黙った。
その沈黙だけで分かる。
本来の依頼は、あくまで勇者の殺害だ。
捕縛は手段であって、終着点ではない。
生きている時点で、予定とは違う。
ユキトは視線を逸らさなかった。
「無茶言ってるのは分かってる」
「でも、俺は、こいつを生かしたい」
近衛長の目が、わずかに勇者へ向く。
紙束を持つ指先は、まだかすかに震えていた。
「――本来の依頼は、勇者を殺すことです」
「ああ」
「生きているのは、違う」
「それも分かってる」
「王国の上層も、同じ判断をするでしょう」
「だろうな」
それでもユキトは引かなかった。
「だから呼ぶんだよ」
「来て、自分の目で見て、それでも殺すって言うなら、そこで初めて話になる」
「顔も出さずに決めるのは、違うだろ」
乾いた風が、砂を流した。
近衛長は長く息を吐く。
「……分かりました」
ユキトの目がわずかに動く。
「ただし、来る保証はできません」
「それでいい」
「来たとしても、あなたの望む答えになるとは限らない」
「分かってる」
「それでも、伝えます」
そこで初めて、ユキトの肩から少しだけ力が抜けた。
「……頼む」
近衛長は頷いた。
「私は王国の人間です」
「ですから本心では、依頼通り終わるべきだと思っています」
ユキトは黙って聞く。
「ですが」
「実際に刃を交えたあなたが、なお生かしたいと言うなら」
「それを軽く扱うのも違う」
それだけ言って、近衛長は踵を返した。
すぐに部下へ命を飛ばす。
王都への最速の馬が用意される。
一騎、また一騎、蹄の音が荒野を裂き、王都へ向かって走り去っていった。
その背を見送りながら、ユキトは小さく息を吐く。
「ヴォルカ、ネムリア」
二人がすぐに反応する。
「しばらくこのままだ」
「こいつから目を離すな」
「兵も、まだ近づけるな」
「はい」
ヴォルカは短く答えた。
ネムリアもこくりと頷く。
「……みとくよ」
フローラは何も言わず、ただユキトを見た。
彼女にだけは、これからの重さがもう分かっている顔だった。
荒野に、長い待機の時間が落ちた。
昼までは、まだよかった。
時間はかかる。
責任者を集めるならなおさらだ。
王都で一度会議になるのも自然だろう。
午後三、四時には着く。
近衛長はそう言った。
なら、それまでは待てる。
勇者は動かなかった。
紙束を読み終えたあとも、顔を上げず、膝をついたままだった。
ヴォルカたちも警戒を解かない。
兵たちも包囲を維持したまま。
空気だけが、少しずつ疲れていく。
昼を過ぎる。
西日が傾き始める。
乾いた荒野の色が、白っぽい土色から少しずつ赤錆びた色へ変わっていく。
それでも、まだ誰も来ない。
ユキトは何度か空を見た。
何度か遠くを見た。
それでも、自分からは何も言わない。
三時を回る。
まだ来ない。
四時に近づく。
それでも砂煙は見えなかった。
ユキトは苛立っていたわけではない。
怒っていたわけでもない。
ただ、少しずつ内心の線を引き直していた。
来ないかもしれない。
まあ、怖いだろうしな。
そういうもんかもしれねえ。
それだけのことだ。
そう思い始めた時点で、半分はもう諦めに近かった。
来ないなら来ないで、その時はその時だ。
あとはこっちで決めるしかない。
日がさらに傾く。
荒野を渡る風が冷えていく。
兵たちの疲労も、さすがに顔に出始めていた。
それでも、誰も緩められない。
その時だった。
外周の方でざわめきが起きた。
誰かが声を上げたわけではない。
だが空気が動く。
包囲の向こう、遠くに細い砂煙が立っていた。
ユキトの視線がそちらへ向く。
来た。
まず、そう思った。
それだけでよかった。
隊列は近づくにつれて大きさを増した。
思っていたより多い。
護衛も厚い。
荒野で包囲を維持している近衛とは別の兵だ。王都守備隊だろう。
本気の予備兵力を、そのまま引き抜いてきたような重さがある。
さらに近づく。
先頭近くに、宰相。
その後ろに、外務卿。
騎士団長。
老臣。
そして、その中心に、国王。
ユキトはそこで何も言わなかった。
ただ、胸の奥で小さく息を吐く。
宰相クラスだけかと思ってた。
でも、そこまで来たなら十分だ。
最後は来てくれてよかった。
例え望んだ形に届かなくても、王国が自分の目で見て決めるなら納得はできた。
近衛長が前へ出て、短く頭を下げた。
「お呼びした方々を、お連れしました」
「……ありがと」
ユキトはそれだけ返した。
到着した一団の中央で、国王が馬を降りる。
疲労は濃い。
長く馬を飛ばしてきたのが一目で分かる。
それでも、その目は逸れなかった。
「来た」
低い声だった。
「話があるのだろう」
「あります」
ユキトが頷く。
その横で、フローラが一歩前へ出た。
「失礼します」
花色の光が、静かに広がる。
柔らかな色なのに、空気は少しも和らがない。
結界は、王、宰相、勇者、ユキトたちを包み込み、外の音を遠ざけた。
包囲を続ける兵たちの気配だけが、結界の向こうにぼんやり残る。
国王が言う。
「構わぬ。続けよ」
ユキトはすぐには口を開かなかった。
先に勇者を見る。
それから王へ視線を戻す。
「……先に言います」
短く息を吐く。
「俺は、この人を生かしたい」
結界の内側の空気が、目に見えないまま張った。
宰相の目がわずかに細くなる。
騎士団長の顔も硬い。
王だけは黙ったまま、続きを待っていた。
ユキトは続ける。
「別に、かわいそうだからそれで終わりにしろって言ってるわけじゃないです」
「そんな段階じゃないのも分かっています」
そこで一度だけ言葉を切る。
「あなた方が本気で悩んでたのも分かってる」
「だから聞きたい」
「この人を生かす形、考えていませんか?」
「制度の見直しでも何でもいい。あるなら、ここで出してほしい」
沈黙が落ちる。
短くはない。
だが逃げる沈黙でもなかった。
やがて国王が口を開く。
「……あった」
その一言で、勇者の肩がほんのわずかに揺れた。
国王はそのまま続ける。
「お前を野放しにはできぬ」
「それは変わらぬ」
勇者は顔を上げない。
王は構わず言葉を継ぐ。
「だが同時に、このまま切るだけで終えてよいとも思っていなかった」
「ゆえに、案はあった」
宰相も口を挟まない。
結界の内側は、王の声だけが静かに響いていた。
「今後、勇者が危険と見た対象が現れた場合」
「まず王国へ報告させる」
「王国は独自に調べる」
「勇者自身にも、もう一度見させる」
そこで一拍置く。
「その上で、勇者が“切るべき”と判断した場合でも、即座の執行は認めぬ」
「王国の承認を要する」
「一人で殺すことを決めさせぬためだ」
そこまでは、誰も何も言わなかった。
国王はさらに続ける。
「また、勇者が“見逃すべき”と判断した場合でも」
「王国が調査の上で、なお危険と見れば」
「王国の手で処分する」
「それが、我らの考えていた見直しだ」
その言葉が落ちた直後だった。
「……そこだけは駄目だ」
ユキトの声は低かった。
だが、迷いはなかった。
王も、宰相も、勇者も見る。
ユキトは声を荒げないまま続ける。
「そこを残したら、何も変わらない」
宰相が眉を寄せる。
「何がだ」
「この人が見た上で、“切らない”って決めた相手を、王国が後から処分するんだろ」
ユキトは王から目を逸らさない。
「だったら、この人には生かす裁定が残らない」
宰相の目がわずかに険しくなる。
「国家としては、危険を見逃すわけにはいかぬ」
「勇者が誤ればどうする」
「分かっています」
ユキトは頷く。
「だから報告も再調査も入れるんでしょ」
「監視も続けるんでしょ」
「切る方にブレーキをかけるのも分かる」
そこで少しだけ声が落ちる。
「でも、生かすって判断まで王国が奪ったら」
「それは見直しじゃない」
誰も動かない。
ユキトは今度は勇者の方を見た。
「この人が見た上で、“切らない”って決めた相手は、生かしてやってほしい」
「そこは残さないと駄目だ」
短く息を吐く。
「それじゃただの機械だ」
沈黙。
乾いた荒野の空気が、結界越しに重く感じられた。
やがて国王が問う。
「では、勇者が見逃しと判断し」
「その後に災厄が起きた場合はどうする」
ユキトは間を置かなかった。
「その時は、この人一人の責任じゃない」
王の目がわずかに細くなる。
宰相も黙っている。
ユキトは続けた。
「王国も調べるんでしょ」
「制度として受けるんでしょ」
「だったら、見逃した結果までこの人一人に押しつけるのは違う」
「そのための見直しだろ」
そこで一度、ユキトは息を切る。
「……ただし、次があれば別だ」
結界の内側の空気が、また少し変わる。
「この制度を飲んだ上で、なおこの人がまた同じことをやったら」
「その時は、俺たちが責任を取る」
誰も口を挟まない。
ユキトは視線を逸らさなかった。
「必要なら、俺たちの手で終わらせる」
フローラは何も言わなかった。
けれどその沈黙の重さだけで、その言葉がどれほど軽くないか分かった。
勇者の喉が、小さく動く。
誰もすぐには何も言わない。
宰相も。王も。ユキトも。
勇者は俯いたまま、しばらく声を出せなかった。
呼吸だけが、かすかに乱れる。
やがて、ひどく掠れた声が落ちた。
「……俺は」
そこで一度、言葉が止まる。
「切った人間はもちろん」
「……支えようとしてくれた人たちすら、見ていなかった」
誰も動かない。
勇者は目を伏せたまま、さらに小さく続ける。
「……すみませんでした」
その短い言葉だけが、結界の内側に残った。
王はすぐには口を開かなかった。
宰相も、返す言葉を持たないまま黙っている。
長い沈黙のあと、国王が低く言った。
「……分かった」
その声は、疲れていた。
だが逃げていなかった。
「見逃しの裁定も残す」
「ただし、王国の調査と監視は入れる」
「そして、次があればお前たちが責任を取ることでいいな?」
「それでいい」
ユキトは頷いた。
王はさらに続ける。
「だが、今この場で勇者を自由にはできぬ」
「王都へ戻すのも危うい」
宰相が静かに引き継ぐ。
「幸い、お前たちの滞在先はすでに王国が確保している」
「王都から離れたあの旅館だ」
ユキトは黙って聞く。
「宿は実質貸し切りとする」
「必要な補償は王国が負う」
「外周には王都守備隊を置く」
国王が言う。
「一週間」
「その間、この男をお前たちの監督下に置かせてほしい」
「その後、改めて王国で最終の形を詰める」
ユキトは少しだけ考え、それから答えた。
「預かるのはいい」
短く息を吐く。
「でも、面倒を見るのとは違う」
「暴れたら止める」
「止めきれないなら、その時は言った通りだ」
「構わぬ」
国王は頷いた。
それで、結界の中の話は終わった。
フローラが光を解く。
外の風と音が少しずつ戻ってくる。
王は重く疲れた体を押すようにして踵を返した。
外務卿、老臣、騎士団長も続く。
王都守備隊が周囲を固め、責任者たちは一団となって荒野を去っていく。
だが、全員が去ったわけではなかった。
残ったのは、宰相と近衛長、それに近衛兵が少数。
空気が少しだけ変わる。
もう会議の顔ではない。
それでも、軽い場でもなかった。
宰相がユキトたちへ向き直る。
「……改めて、礼を言いたい」
その声には、さっきまでの公の硬さが少しだけ抜けていた。
「王国の立場だけを見れば」
「勇者は殺す方が安全だった」
誰も口を挟まない。
「それが、最も無難な結論でもあった」
「……だが、内心まで同じだったわけではない」
宰相は一度、目を伏せる。
「正直に言えば、生かせる道があるとは思えなかった」
「見えなかった」
「だからこそ、殺す方へ傾いた」
そして、もう一度顔を上げる。
「だが、お前たちはそれをこじ開けた」
視線が、ユキトだけでなく、ヴォルカ、フローラ、ネムリアへも向く。
「あなた方全員のおかげで、王国は最悪の形を避けられた」
その言葉は、静かだった。
だが、だからこそ重かった。
ヴォルカがほんのわずかに目を伏せる。
フローラは何も言わない。
ネムリアは眠たげな顔のまま、じっと宰相を見ていた。
近衛長も一歩出る。
「現場にいた者としても、礼を言います」
短く、それだけ言ってから続ける。
「正直、あそこから生かす話になるとは思っていませんでした」
「ですが……見届けられてよかった」
それは飾らない言葉だった。
だからこそ、軽くなかった。
宰相は最後に、はっきりと言った。
「約した報酬は変わりません」
「王国にできる範囲で、あなた方が望むものを与える」
「それは必ず履行します」
その一言で、この件がただの口約束では終わらないと分かった。
王国は、この結末を借り物にしない。
ちゃんと代価を払う。
ちゃんと恩を認める。
それが、宰相なりのけじめだった。
「……そりゃどうも」
ユキトは短く返した。
それ以上、うまい言葉は出なかった。
宰相はそれで十分だとでもいうように、小さく頷く。
近衛長も一礼し、兵たちを引き連れて去っていった。
荒野に残るのは、乾いた風と、長く張りつめていた後の疲労だけだった。
日没の色が、土を赤く染めている。
勇者はまだ静かに立っていた。
ヴォルカたちもすぐには緊張を解かない。
けれど、それでももう、さっきまでとは違った。
最悪の形だけは避けられた。
その事実だけが、沈みかけた光の中で、かろうじて温度を持って残っていた。




