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52/96

52.少し来てくれ

剣が地面に落ちてから、しばらく誰も声を出さなかった。


勇者は膝をついたまま、目の前に落とされた紙束へ手を伸ばしていた。


指先は震えている。


それでも、拾った。


逃げるように払いのけることも、怒りに任せて破り捨てることもしない。

勇者は紙束を膝の上に置き、乱れた呼吸のまま、一枚目を開いた。


頁をめくる音がする。


小さな音だった。


だが、剣戟も怒号も消えたあとの荒野では、その音だけが妙にはっきり響いた。


王国兵たちは、まだ外周で包囲を崩していない。

誰も近づこうとはしなかった。


近づけば、壊れる。


そう分かっているからだ。


勇者は読んでいる。


自分が切ってきたもの。

自分を支えようとしていたもの。

そして、自分が見ないまま踏み越えてきたもの。


その全部を、今さらのように読んでいる。


ユキトは、その様子を横目で一度だけ確認した。


紙束を持つ指が震えている。

読み進めるたびに、呼吸が浅くなっていく。

だが、目は逸らしていない。


逃げてはいない。


なら、今はそれでいい。


あとは、あいつ自身が見る番だ。


ユキトは視線を切った。


勇者の前で言うべきことは言った。

けれど、この場でやるべきことはまだ残っている。


王国兵は遠巻きに待っている。

近衛長も、こちらの空気を壊さない距離にいる。

ヴォルカ、フローラ、ネムリアの三人は、まだ完全には警戒を解いていない。


戦いは終わった。


だが、後始末は始まったばかりだった。


ユキトは振り返る。


「ヴォルカ、ネムリア」


呼ばれた二人が、すぐに視線を向けた。


ヴォルカはなお勇者の背後に位置を取り、いつでも動けるよう重心を残している。

ネムリアは眠たげな顔のまま、しかし視線だけは勇者から外していなかった。


「少し頼む」


ヴォルカが短く頷く。


「……はい」


「こいつから目を離すな」

「読んでる最中でも、変な動きしたら遠慮なく止めろ」

「王国兵も、まだ近づかせるな」


ヴォルカの表情がわずかに引き締まった。


「わかりました」


ネムリアも、こくりと小さく頷く。


「……みる」

「へんなことしたら、ねかす」


「頼む」


短いやり取りだった。


だが、それで十分だった。


ユキトは最後にもう一度だけ勇者を見た。

紙束に落ちた視線は、まだ動いている。

震えながらも、次の頁へ進んでいる。


それを確認してから、ユキトは別の名前を呼んだ。


「フローラ」


花聖竜姫が、静かにこちらを向く。


「少し来てくれ」


その言い方だけで、何の話かを察したのだろう。

フローラは何も聞かなかった。


ただ一瞬だけ勇者を見て、それからユキトへ目を戻す。


「……分かりました」


二人はその場から少しだけ離れた。

包囲の外までは行かない。

だが、勇者の声も兵たちの気配も、直接は届きにくい距離だった。


そこでフローラが手を上げる。


淡い光が空気に溶け、二人の周囲を静かに包んだ。

音を遮る結界。

視線までは断たない、最低限の遮断だった。


張り終えたあと、フローラは手を下ろした。


「これで外には聞こえません」


その声は穏やかだった。

穏やかすぎて、逆に冷える。


ユキトは、ようやく小さく息を吐いた。


兵の前では崩せなかった。

勇者の前でも、崩せなかった。

だが、今はもう無理だった。


肩から力が落ちる。

戦いの最中より、むしろ今の方が疲れが骨の奥から浮いてくる。


フローラはそれを見ていた。

見ていたが、気遣うような顔はしない。


ただ静かに、待っていた。


ユキトは少しだけ目を逸らしかけて、やめた。

ここで逸らしたら、一番駄目だと分かっていた。


「……また頼みがある」


フローラの睫毛が、わずかに動く。


「そうですか」


短い返事だった。

責めてもいない。受けてもいない。

ただ、先を言わせるためだけの返答だった。


ユキトは喉の奥に引っかかるものを押し込むみたいに、低く言った。


「先に言っとく。悪い」

「前にあれだけ言われた後で、またお前に来るのも」

「今日のうちに、もう一回こういう話を持ってくるのも」

「……自分でも、ひどいと思ってる」


そこまで言っても、フローラは何も返さなかった。

ただ、その沈黙が、続きを促していた。


ユキトは続ける。


「でも、これを他の奴に先に言う気にはなれなかった」

「お前に一番先に通したかった」


そこで初めて、フローラの目が少しだけ細くなった。


「通したかった、ですか」


「……ああ」


「随分と都合のいい言い方をしますね」


声は静かだった。

だが棘は隠していなかった。


ユキトは否定しなかった。


「……先に言う」

「俺は、勇者をまだ生かしたい」


フローラの表情は変わらない。

ただ、その視線だけがまっすぐユキトを捉えていた。


「それは、先ほど勇者に言っていた内容と同じですか」


「同じだ」


「人間かどうか、まだ見たいから」


「それもある」


ユキトはそこで少しだけ間を置いた。


「でも、それだけじゃ済まねえ」

「このまま王国に渡すことはできない」


フローラの眉が、わずかに動く。


「王国の手では勇者を殺せないと理解しているからですか」


ユキトは短く頷いた。


「ああ」

「今は拘束できても、ずっと抱えるのは無理だ」

「危険だと判断した瞬間、“最後だけはお前たちがやれ”になる」

「だから、王国に先に食い込む必要がある」


フローラはごく小さく息を吐いた。


「ええ。それは、あり得るでしょうね」


「正面から“信じろ”は無理だ」

「今のあいつが人間っぽかったから、生かして様子を見たいです、で通る相手じゃない」

「なら別の形で飲ませるしかねえ」


フローラの目が、少しだけ細くなる。


「それで、条件を出すんですね」


ユキトは視線を外さないまま言った。


「勇者が今後もう一度同じことをやったら、その時は俺たちが責任を取って処理する」

「そういう条件で、王国を納得させたい」


結界の中が、しんと静まる。


風の音も、兵の気配も、急に遠くなった気がした。


フローラはしばらく何も言わなかった。

その沈黙の長さだけで、どれだけ重い話か分かる。


やがて、彼女は低く言った。


「……それで」


ユキトは答えない。


「それで、あなたはまた私のところへ来たんですね」


そこには怒鳴り声はなかった。

けれど、もう誤魔化しはなかった。


「王国へ食い込む」

「責任を引き受ける」

「その時、もし次が来たら今度は自分たちが処理する」

「……そう言うには、あなた一人の口約束では足りない」


一つずつ、確かめるような声だった。


「だから私を通して、あとでヴォルカとネムリアにも話を通す」

「最初からそのつもりで、ここへ来た」


ユキトは短く息を吐いた。


「……ああ」


「また私なんですね」


ユキトの喉が、わずかに動く。


「数日前、私は何を言いましたか」


返せなかった。


フローラは続ける。


「……私は都合のいい女ではないと、そう言ったはずです」

「なのに、舌の根も乾かないうちに、今度は責任の根回しですか」


ユキトは何も言わなかった。

言い訳を返した瞬間、全部が安くなると思った。


フローラは悲し気な顔で微笑んだ。


「少し安心したんです」

「ちゃんと恋人として見られているのだと、思ったんです」

「……なのに、結局こうして最初に来るのは私なんですね」


ユキトの指先が、わずかに強張る。


「お前だから来た」


「ええ、そうでしょうね」


間髪入れずに返された。


「信頼しているのでしょう」

「私なら最後まで聞いてくれると、知っているのでしょう」


フローラの目は逸れない。


「でも、それだけではないですよね」


ユキトは黙る。


フローラの声が、さらに静かになる。


「私に頷かせれば、それで少し楽になりますか」


その一言で、ユキトの喉がはっきり詰まった。


視線が揺れる。

否定がすぐに出てこない。


フローラはそこを見逃さなかった。


「一人では決めきれない」

「一人では背負いきれない」

「そういう綺麗な言い方ではなくて」


一歩だけ近づく。


「結局、あなた一人ではできないんでしょう」


ユキトの指先がぴくりと動く。


「……ああ」


「だから、私に頷かせる」

「私をここへ引き込む」

「そうすれば、自分一人の判断ではなくなる」


フローラの目は、真っ直ぐだった。


「少し楽になりますか」


ユキトはすぐに答えられなかった。


違うと言いたかった。

だが、違わない部分がある。


フローラはさらに続けた。


「私なら最後まで見る」

「私なら簡単にはあなたを捨てない」

「私なら、たぶん最後に責任を引き受ける」


その声に、怒鳴るような強さはない。

だからこそ逃げ場がなかった。


「そう思って、ここへ来たのでしょう」


ユキトは、ようやく低く答えた。


「……ある」


フローラの睫毛が揺れる。


「全部じゃねえ」

「でも、そういうのが混じってないかって言われたら、ある」


「そうですか」


短い返事だった。

その短さの中に、痛みだけが残っていた。


フローラは少しだけ目を伏せ、それからまた顔を上げる。


「……私はまた、あなたの後始末をするために選ばれたように感じる」


ユキトの喉がひりつく。


図星だった。

全部ではない。

だが、確かに含まれている。


フローラは少しだけ息を吸った。


「……痛いです」


声は小さかった。

怒りを押し殺した後に残った、本音そのものみたいな小ささだった。


「信じかけたものが、元の形に戻ったみたいで」


ユキトはそこでようやく口を開いた。


「薄れてねえよ」


フローラの睫毛が揺れる。


「じゃあ、何なんですか」


責める声ではなかった。

本当に知りたい者の声だった。


「私は、どう受け取ればいいんですか」

「恋人として見られているんですか」

「それとも、やっぱり最後は私が処理する側なんですか」


ユキトはすぐに答えられなかった。


うまい言葉なんてない。

綺麗な理屈にしたくもなかった。


だから、低く、見苦しいまま言った。


「両方だ」


フローラの目が見開かれる。


「お前は恋人だ」

「それは本気だ」

「でも今、俺が一番に来た理由に、お前なら最後まで聞くって思ったのが混じってないかって言われたら」

「……それは否定しない」


フローラの唇が、わずかに震えた。


「……ひどいですね」


「ああ」


ユキトは一歩も引かなかった。

謝るなら引ける場面だった。

頭を下げるなら、もっと楽だったかもしれない。


だが下げなかった。


フローラはそれを見ていた。

じっと、見ていた。


「謝るのに、頭は下げないんですね」


その言葉が落ちた瞬間、結界の中の空気が少し変わった。


ユキトは視線を逸らさなかった。


「……悪いとは思ってる」

「今のが、誠実じゃねえのも分かってる」

「でも――」


ユキトは口を開きかけたが、何も言えなかった。

その先にある言葉を、自分の口からは言いたくなかった。


フローラが静かに言った。


「勇者を助けたい」

「生かしたい」

「それは本当なのでしょう」


フローラの声は静かだった。


「でも、助けるためなら何でも差し出せるわけではない」

「あなたは、そこまでは行かない」


ユキトの喉がわずかに動く。


「他人を生かすために、自分の最後の芯まで明け渡すのは違う」

「そう思っているから、頭は下げない」


少しだけ目を伏せてから、また見上げる。


「……あなたは、そういう人なんですね」


ユキトは何も言えなかった。


そこまで言葉にした覚えはない。

だが、違うとも言えなかった。


勇者は生かしたい。

それは本当だ。

それでも、そのために自分の最後の芯まで差し出して這いつくばるところまでは行けない。


他人の命を助けるためでも、そこだけは折れたくない。


あまりにも救いのない形で、自分の輪郭を言い当てられていた。


やがて、絞るように声が出る。


「……ああ」


フローラは少しだけ目を伏せた。


「ずるいです」


その言葉には怒りもあった。

悲しさもあった。

けれどそれだけではなかった。


「私を傷つけると分かっていて、またここへ来て」

「口では謝って」

「それでも、自分の芯だけは折らない」


小さく、息を吐く。


「本当に、ずるい人です」


ユキトは歯を食いしばるように息を止めた。

そこまで言われても、何も言い返せない。


フローラの言う通りだった。


しばらくして、彼女はゆっくりと目を閉じた。


そのまましばらく、何も言わなかった。

結界の内側だけ、時間の流れが止まったみたいに静かだった。


ユキトは待つしかない。

待つ資格もないくせに、待つしかなかった。


やがてフローラが、ゆっくりと目を開ける。


「……悲しいです」


その声は怒りより、ずっと深く刺さった。


「あなたが私を信じていることは分かります」

「それは本当にそうなのでしょう」


彼女はユキトを見た。


「でも、その信頼が私を苦しめることもある」

「それを、どうか忘れないでください」


ユキトは小さく頷いた。


「……ああ」


「私は、あなたの後始末をするためだけに隣にいるわけではありません」


「分かってる」


「本当は、分かっていません」


その返しに、ユキトは口を閉ざした。


フローラは淡々と続ける。


「分かっていたら、こんなに早く同じことはしないでしょう」

「だから今は、“分かったつもり”でいてください」

「その方がまだ誠実です」


痛かった。

痛かったが、否定できなかった。


フローラは長く息を吐いた。


「……ヴォルカとネムリアにも、後で私から話します」


ユキトの目がわずかに動く。


「ただし」

「これは、あなたのやり方が正しいからではありません」


「……ああ」


「私が、まだあなたを捨てきれないからです」


その言葉だけで、胸の奥が重く沈んだ。


フローラは表情を崩さないまま続ける。


「受け入れたのは、納得したからではありません」

「むしろ逆です」


一歩だけ、彼女が近づく。


「苦しかったです」

「あなたの言葉が、どこまで本当だったのか分からなくなって、悲しかった」


ユキトは逃げなかった。

逃げられなかった。


フローラはそのまま、静かに言う。


「……それでも、切れないんです」


その一言だけ、少し掠れていた。


「あなたは、本当に酷い人です」


その言葉が、静かに落ちた。


「でも、私も同じくらい酷いのかもしれません」

「こんなに痛いのに、まだあなたを見捨てる方が苦しい」


そこで初めて、彼女は少しだけ笑った。

綺麗な微笑みではない。

ひどく弱くて、ひどく女らしい、諦めと愛情が混ざった笑みだった。


「ですから、今回も飲みます」


ユキトの喉が、目に見えて詰まる。


フローラは続けた。


「“今回だけ”とは、もう言いません」

「今日だけで二度目ですから」

「これ以上その言葉を安くしたくありません」


その言い方に、かえって重みがあった。


「ただ、覚えていてください」

「私は平気だから受け入れるのではありません」

「痛くて、苦しくて、それでもあなたを捨てる方がもっと嫌だから引き受けるだけです」


ユキトは何か言おうとして、言葉を失った。


謝ることはできる。

礼を言うこともできる。

だが、どれも今ここでは薄い気がした。


それでも、何も言わないのはもっと駄目だった。


「……すまない」


掠れた声だった。


フローラは小さく首を振る。


「ええ」

「本当に」


そこにもう責め立てる力はなかった。

ただ、事実として置かれた返事だった。


結界の外では、荒野の風がまだ乾いていた。

勇者はきっと、今も紙束を読んでいる。

ヴォルカとネムリアが、その背後を崩さず見張っている。


やるべきことはまだ山ほどある。

王国との交渉も、その先の処理も残っている。


けれど今だけは、二人ともすぐには動かなかった。


フローラは目を閉じ、ほんの少しだけ息を整える。

ユキトはそんな彼女を見て、自分がどれだけ汚い形でこの女を頼っているかを、改めて思い知っていた。


それでも切られなかった。


切られなかったことが、ありがたいとは思う。

だが同時に、それに甘える自分の醜さも、嫌になるほど分かっていた。


しばらくして、フローラが目を開ける。


「行きましょう」


声はもう整っていた。

いつもの穏やかさに近い。

だが、完全には戻っていない。


「ヴォルカたちに話を通します」

「その前に、王国側へどう切り出すかだけは、あなたの中で筋を決めておいてください」

「今のままでは、私が支えきれません」


ユキトは短く頷いた。


「……ああ」


フローラは結界へ手を伸ばした。

淡い光がほどけ、外の風と音が少しずつ戻ってくる。


その直前、彼女は振り返らないまま、静かに言った。


「さっきの言葉が嘘だったとは思っていません」


ユキトの目がわずかに動く。


「でも、信じたままでいるには、少し痛すぎました」


それだけ残して、フローラは前へ歩き出した。


ユキトはその背中を見たまま、数拍だけ動けなかった。


勇者の前では立てた。

兵の前でも崩れなかった。

それでも今、自分が一番情けない顔をしていることだけは、嫌でも分かっていた。


そして、その顔を見せる相手にまたフローラを選んだことが、たぶん今日いちばんひどい。


それでも行くしかなかった。


ユキトは遅れて一歩を踏み出し、フローラの背中を追った。

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