51.全員が黙って知っていた。
荒野を渡る風が、乾いた土の匂いを巻き上げた。
誰もすぐには動かなかった。
王国兵は外周で息を詰めたまま固まり、近衛長は遠くからその場を睨みつけている。
駆け寄りたい兵はいくらでもいるはずだった。だが近づけば邪魔になる。近づいた瞬間に何かが起きれば、その場にいる誰より先に斬られるのが自分たちだと、分かっていた。
だから誰も入れない。
荒野の中心には、膝をついた勇者と、それを押さえる三人だけがいた。
ヴォルカが間合いを崩したまま背後を取っている。
フローラの結界が四肢へ絡みつき、少しでも不自然な動きをすればさらに収束する構えを崩さない。
ネムリアの視線は眠たげなまま、だが一瞬たりとも外れていない。
三人とも、まだ戦闘を終わらせていなかった。
勇者は荒い呼吸を整えようとしながら、なお剣を手放していない。
指先に力は残っている。
体勢も完全に死んではいない。
本気で暴れれば、まだ一手二手は出せる。
それが分かるからこそ、誰も気を抜かない。
その緊張の中で、ユキトだけが少し遅れて一歩、また一歩と近づいていった。
腕はまだ痺れている。
先ほど盾で受けた一撃の重さが、骨の奥に鈍く残っていた。
膝も少し笑いそうだった。
だが止まらない。
今ここで止まれば、この場にいる意味がない。
ユキトは勇者から数歩の位置で足を止めた。
勇者は顔を上げた。
乱れた呼吸の合間に、それでも視線だけは鋭い。
薄い青の瞳はまだ死んでいなかった。
だがその奥にあるものは、戦意だけではない。
王国が自分を殺すつもりでいること自体は、戦う前から分かっていた。
包囲された時点で察していた。
罠の気配も読めていた。
逃がすための布陣ではないことなど、最初から明らかだった。
だが、実際にその中心へ追い込まれ、周囲へ張り巡らされた手の数と深さを見せつけられた今、改めて理解する。
本気だった。
想像していたより、ずっと深く、ずっと具体的に。
逃がさないためだけの囲いではない。
確実に終わらせるための備えだった。
しかも相手は竜が三体。
王国は、自分をそこまでして終わらせようとした。
自分はもう人を守るための刃ではなく、終わらせるべき危険物として扱われていた。
そこまで追い詰められて、最後に自分は封印術を起こした。
過去の勇者たちがそうしてきたように、ここで終わらせるつもりだった。
ここで終わればいいと、そう本気で思ったはずだった。
だが、できなかった。
最後の最後で、怖かった。
本当に死ぬのだと理解した瞬間、喉が詰まった。
手が止まった。
術がぶれた。
その事実が、まだ胸の奥に生々しく残っている。
勇者は自分の呼吸音を聞いていた。
浅い。乱れている。情けないほどに体は正直だった。
裁定のために振るってきた剣も、最後の最後で死を前にすれば止まる。
喉の奥に残る息苦しさが、それを嫌でも思い出させる。
何かが、決定的に噛み合わなかった。
その違和感が、膝をついた身体より先に心の芯を揺らしていた。
しばらくの沈黙のあと、勇者が掠れた声で言った。
「……殺すなら殺せ」
声はひどく乾いていた。
「そうでなければ、何のためにここまでした」
ヴォルカの眉がわずかに寄る。
フローラは黙ったまま勇者を見ていた。
ネムリアは変わらず静かだ。
ユキトも、すぐには口を開かなかった。
風が吹く。
砂が、勇者の膝元とユキトの靴先を薄く撫でて流れていく。
やがてユキトが、低く言った。
「……分からねえな」
勇者の眉がわずかに動く。
「何だと」
「アルフィーのことだよ」
ユキトは視線を逸らさなかった。
「何があって、お前がどう壊れたか。そこは調べてわかった」
「かわいそうだとは思う」
「でも、それで分かった気にはならねえ」
勇者の目が細くなる。
ユキトの声には、慰める響きがなかった。
寄り添おうとする温度もない。
ただ、事実として線を引く声音だった。
「だから戦ってる間は何も言わなかった」
「勝手に理解した顔して何か言う気もなかった」
「まずお前を見たかったからだ」
乾いた風が吹く。
外周の兵たちでさえ、このやり取りを壊さないように息を潜めているのが分かる。
ユキトはさらに一歩だけ近づいた。
「先代勇者は、俺を切らなかった」
空気がわずかに変わる。
勇者の瞳が細くなる。
ヴォルカたちも黙ったまま、ユキトの言葉を待つ。
「……なんでだ」
掠れた声は、ほとんど無意識に落ちた。
ユキトはその問いにはまだ答えない。
「前に、ジジイの前で竜の封印を解いたことがある」
勇者の眉がわずかに動く。
「……ジジイ?」
「ああ。先代勇者だよ」
その瞬間、勇者の目がはっきり揺れた。
喉が小さく鳴る。
初めて聞かされた事実だった。
ユキトは構わず続ける。
「一体ずつ、目の前で三体だ」
「お前なら、その場で切ってたはずだ」
勇者はすぐには言葉を返せなかった。
視線だけが、わずかにユキトへ吸い寄せられる。
「……それで」
掠れた声が、かろうじて落ちる。
「裁定されなかったのか」
「されなかった」
ユキトの返答は短かった。
「でも、あの人は切らなかった」
「生かした」
少しだけ間を置いてから、ユキトは言う。
「なあ。なんでだと思う」
勇者は答えない。
いや、答えられなかった。
「……分からない」
その声は低く、掠れていた。
知らない。
分かるはずがない。
そう切って捨てるには、今聞かされた事実があまりにも重かった。
先代は知っていた。
三体の封印解除を、目の前で見ていた。
それでも切らなかった。
なら、自分の裁定は何を基準にしていたのか。
先代は何を見て、自分は何を見ていなかったのか。
その問いだけが、答えの出ないまま胸に残った。
ユキトは、その沈黙ごと押し切るように続けた。
「俺も、お前と同じことをやりかけた」
勇者の眉がわずかに動く。
「ナナって奴がいる」
ユキトの声音には、変な飾りがなかった。
「封印が完全に崩れれば、大陸規模の災害になりかねない危険物だ」
「最初は俺も、壊すつもりで戦った」
「危ねえから終わらせる。それでいいと思ってた」
勇者の視線が、少しずつユキトへ吸い寄せられていく。
「でも、やめた」
「……なぜだ」
その問いは、勇者自身の口から漏れた。
責める響きではない。
理解しきれないものに、どうしても手を伸ばしてしまうような声だった。
ユキトはすぐには答えなかった。
答えを飾る気がなかったからだ。
「見てなかったからだ」
その一言は、驚くほど平坦だった。
勇者の瞳がわずかに見開かれる。
「俺はあいつを災厄としてしか見てなかった」
「危険だってことしか知らなかった」
「何を恐れてるのか、何に苦しんでるのか、どうしたいのか」
「何一つ、見てなかった」
ユキトの声は、だんだん低く沈んでいく。
「戦った後に知った」
「ナナは、自分が災厄のままでいることを良しとしてなかった」
「外を壊さないように、力を絞るために、ずっと必死でやってた」
「一人じゃ無理でも、壊れないように努力してた」
「今は、ちゃんと制御できてる」
勇者の喉が、目に見えて強く鳴った。
ユキトはもう止まらなかった。
「あそこで止まれなかったら、俺はただの人殺しだった」
その一言は重く落ちた。
荒野の空気が、わずかに沈む。
勇者の肩が、目に見えないほどわずかに揺れた。
呼吸が一瞬だけ乱れる。
喉の奥が引きつる。
視線が微かに揺らぎ、それをすぐ押さえ込もうとして失敗する。
ほんの一瞬だった。
だがユキトは見逃さなかった。
今の反応は、他人事を聞いた顔じゃない。
ただのたとえ話を流した顔でもない。
その言葉が、自分に届いた時の揺れだった。
ユキトは低く言った。
「……ああ、よかった」
勇者の目が、わずかに上がる。
「その反応が見られただけでも十分だ」
「少なくとも、お前が機械じゃないって分かった」
声に優しさはない。
だが冷たくもなかった。
「一瞬でも、死ぬのが怖かったんだろ」
「俺たちが封印されなかったってのも、もちろんある」
「でもそれだけじゃない」
ユキトは勇者を真正面から見た。
「お前は裁定するための機械なんかじゃなかった」
「ちゃんと血の通った人間だった」
勇者の喉が鳴る。
その言葉は救いではなかった。
むしろ逆だった。
機械ではない。
なら、これまでの裁定はすべて人間の選択だったことになる。
迷いも恐怖も捨てた装置の処理ではなく、血の通った人間が選んだ切断だったことになる。
逃げ道がひとつ消える。
その直後、ユキトは懐から紙束を取り出した。
それは雑に折ったものではなかった。
何度も読まれ、何度も手を渡り、角が擦れて柔らかくなった紙だった。
綺麗に保管された記録ではない。
使われた記録。
調べられた痕跡のある紙束だった。
勇者の視線が、その紙へ吸い寄せられる。
「王国側が調べてたもんだ」
ユキトの声は低い。
「お前の裁定が本当に正しかったのか」
「切った相手が何だったのか」
「他の道はなかったのか」
「……そういうのを、ずっと調べてた」
勇者の顔が強張る。
ユキトは続けた。
「ただの記録じゃねえ」
「最初の方は、本気でお前を支えようとしてる」
「勇者の裁定には意味があるって前提で、何とか拾おうとしてる」
「アルフィーの後もな」
紙束を持つ勇者の指が、わずかに強張る。
「でも、途中から苦しくなっていく」
「読めば分かる」
「支えようとしてるのに、支えきれなくなっていく」
勇者の視線が、手元の紙を追う。
最初は、まだ支えようとしていた。
だが、頁を追うごとにそれが苦しくなっていく。
露骨ではない。
けれど読む者には分かる。
自分は最初から切り捨てられていたわけじゃない。
それでも、支えきれなくなっていった。
その中心にいるのが自分だと、嫌でも分かってしまう。
ユキトは低く言った。
「目を逸らすな」
勇者の肩がびくりと揺れた。
「お前が切った全員から目を逸らすな」
一度、短く息を置く。
「それだけじゃねえ」
声は低いままだった。
「お前を支えようとしてた側からも目を逸らすな」
「読めば分かる」
「お前は最初から、一人で切り捨てられてたわけじゃない」
勇者の喉の奥で、息が詰まる音がした。
紙束の中には、もうただの報告以上のものがあった。
そこにあるのは、切られた人間の記録だった。
数字でも輪郭でもない。
人間だった。
そして同時に、支えようとしていた痕跡もある。
見ていた者はいた。
意味を与えようとした者もいた。
だが、それを保てなくした。
ユキトは止まらない。
「お前だって死ぬのは怖かったんだろ」
勇者の肩がびくりと揺れた。
「……黙れ」
「黙らねえよ」
即答だった。
「何のために死ぬか分かってても怖かった」
「終わらせるつもりで術を起こしても、最後の最後で手が止まった」
「当たり前だ。誰だって怖い」
そこで一歩だけ近づく。
「だったら、お前に切られた相手はどうだった」
勇者の呼吸が浅くなる。
「何を見られたのかも分からない」
「何を言えば助かったのかも分からない」
「言い訳すらさせてもらえなかった」
「何で自分が死ぬのかも、はっきり知らないまま、お前に殺された」
勇者の喉の奥から、ひどく苦しげな音が漏れた。
「やめろ……」
「やめねえ」
ユキトの目は逸れない。
「お前、自分の死は怖がったくせに」
「その相手の方がもっと怖かったこと、見ようともしなかったんだろ」
その一言で、胸の奥に押し込めていたものが嫌でも動く。
死ぬのは怖かった。
それはもう否定できない。
なら、斬られた側はどうだった。
自分はまだよかった。
少なくとも、自分は何のために死ぬのかを知っていた。
何を止めようとしているのかを分かっていた。
覚悟を決めたつもりで術を起こした。
それでも怖かった。
だが、あの者たちは違う。
何を見られたのかも分からない。
何を言えば助かったのかも分からない。
何を間違えたのかすら、はっきり理解できないまま。
ただ、勇者に裁定されたというだけで死んでいった。
その恐怖を、自分は見たか。
見ていない。
見ようともしなかった。
それだけではない。
自分を支えようとしてくれた人達すら、見ていなかった。
勇者の指先から、少しずつ力が抜けていく。
ユキトは続けた。
「お前がアルフィーで壊れたことは、調べてわかった」
「何があったかも知った」
「でも違う」
その声には、今度こそはっきりした硬さがあった。
「あれは理由にはなる」
「けど、お前が重ねた罪まで帳消しにしてくれるわけじゃない」
風が吹く。
砂が流れる。
誰も動かない。
「お前、アルフィーを理由に逃げ続けてきただけだろ」
勇者の顔が強ばる。
「違う……」
「違わねえよ」
ユキトは一切躊躇しなかった。
「お前ひとりの責任じゃない」
「……それは俺も分かる」
そこで一度、言葉を切る。
「だけど違うだろ」
その一言で、空気がさらに重くなる。
「アルフィーで死んでいった奴らは悪くない」
「何も分からないまま切られた中には、悪くない奴もいた」
「お前を支えようとしてた側だけが悪いわけでもねえ」
一歩、近づく。
「悪いのは、それを理由に切り続けてきたお前の弱さだろ」
弱さ。
その言葉は、残酷だとか狂っているだとか言われるより、よほど深く刺さった。
自分は正義だった。
必要だった。
そう信じることでしか立っていられなかった。
だが今突きつけられたのは、そうではない可能性だった。
アルフィーを背負っていたのではなく、
アルフィーに縋っていたのではないか。
裁定者だったのではなく、
弱さを理由に剣を振るっていただけではないか。
しかもその剣は、
被裁定者だけでなく、
それを支えようとしていた側の論理まで壊していた。
勇者の呼吸が、さらに崩れる。
ユキトは、最後の釘を打つように言った。
「まだ自分は正しかった、必要だったって胸を張って」
一歩、近づく。
「お前が殺した奴らに言えるのかよ」
その問いは、理屈じゃなかった。
制度でもない。
権能でもない。
記録でもない。
相手の顔を見てなお、
恐怖を知ってなお、
言い訳すら奪ったことを知ってなお、
それでも必要だったと言い切れるのか。
そして、支えようとしていた側が苦しくなっていった記録を読んだ上で、
なおそれを言えるのか。
勇者は答えられなかった。
喉が潰れているせいじゃない。
言葉そのものが出てこない。
紙束の上に落ちた視線が、動かない。
そこには、自分が切った人間の人生が断片的に残っていた。
そこには、自分を支えようとした側の迷いが滲んでいた。
どちらからも、もう目を逸らせなかった。
剣を握っていた手から、とうとう力が抜けた。
乾いた音を立てて剣が地面へ落ちる。
泣きはしない。
だが、呼吸は完全に乱れていた。
言葉は出ない。
視線だけが揺れ、何もかもを一度に見せつけられている。
自分が死ぬのは怖かった。
なのに、相手の恐怖は見なかった。
アルフィーを理由に、そこから逃げた。
その上で、自分を支えようとしていたものまで壊していた。
ひどく静かなのに、胸の内側だけが深く沈んでいく。
ユキトは最後に、短く言った。
「読め」
紙束を勇者の前へ落とす。
「見ろ」
そのまま、勇者自身を指すように顎を引く。
「逸らすな」
それだけ言って、ユキトは口を閉じた。
もう余計な言葉はいらなかった。
荒野の空は高く、乾いていた。
何もないその場所で、ようやく戦いが終わったのだと、誰もが遅れて理解し始めていた。
だが終わったわけではない。
終わらせてはいけないものが、今ようやく勇者の前に並べられたのだと、
その場にいる全員が黙って知っていた。




