50.独断です
戦場に選ばれたのは、王都の西に広がる荒野だった。
昼間に見れば、ただ何もない土地にしか見えない。
木立も、岩場も、身を隠せる起伏もない。見渡す限り乾いた大地が広がり、低い草がまばらに生え、吹き抜ける風が砂をさらっていく。
人が戦う場所としてはあまりに味気なく、逃げる場所としてはあまりにも不向きな地形だった。
王国がこの地を選んだ理由は、ただ一つ。
勇者を、逃がさないためだ。
その準備が始まったのは、一日前の夜だった。
日が沈みきった荒野には、無数の灯が点っていた。
松明の火。魔法灯の白い光。術者が上空へ浮かべた光球が、夜の闇を昼のようには照らしきれないまでも、作業を進めるには十分な明るさを荒野へばらまいている。
兵たちが動く。
工兵が土を掘り、騎士が杭を運び、近衛が指示を飛ばし、術者たちが広範囲照明の維持に追われる。
一つや二つの罠ではない。浅い掘り込み、踏み込みを狂わせる埋設、視界を切るための低い杭、誘導のための偽装、安全地帯に見せかけた何もない空白、何重にも重ねられた細工が、荒野のあちこちに作られていく。
夜の荒野は静かではなかった。
土を掘る音。杭を打つ音。怒鳴り声。短い報告。金属の擦れる音。土の匂い。汗の匂い。冷えた夜気の中で、王国が総力を挙げてひとつの戦場を作り上げていく気配だけが、そこに満ちていた。
その中心近くで、近衛長が部下へ次々と指示を飛ばしていた。
「第三列、埋設を急げ。間隔を詰めすぎるな、踏み込みの軌道を乱せれば十分だ」
「西側、杭の角度を揃えろ。視線を流させるだけでいい、壁にするな」
「深さは要らん。転倒ではなく、一瞬の重心崩しが目的だ」
「重ねろ。全部重ねろ。ゼロか百で考えるな。一瞬を増やせ」
その傍らで、ユキトは腕を組みながら露骨に顔をしかめていた。
「つまり、あんたらの見立てじゃ、これ全部まともには効かねえんだな」
近衛長は、感情を挟まずに答えた。
言い訳でも慰めでもなく、ただ現場の責任者として事実を差し出す声音だった。
「正直に申し上げます。決定打にはならないでしょう」
「でしょう、か」
「はい」
「断言しねえのは?」
「絶対を言える相手ではないからです」
ぶれない返答だった。
「勇者は、自身の動きを著しく封じる未来に限って察知し、避けることがある。人の理の側で組む拘束は、機能しても最後まで噛み合わない場合が多い。ですが」
隊長は夜の荒野に目を向けた。
光の下で、兵たちが土にまみれながら手を動かしている。
「それでも“何も置かない”よりはましです」
「重心が一瞬ずれる」
「足運びが半歩狂う」
「視線がわずかに切れる」
「その程度なら、積み重ね次第では生まれるかもしれない」
ユキトは苛立たしげに舌打ちした。
「“かもしれない”ばっかだな」
「相手が相手です」
それは言い訳ではなく、ただの事実だった。
ユキトは地面を見た。
浅く埋められていく罠。視界を切る杭。踏み込みを乱すための崩し。全部、自分が要求したものだ。
真正面から止めるしかない。
封印は通らない。
拘束は抜けられる。
人間側の定石は通じない。
王国からは何度もそう説明されていた。理屈では分かる。
だが、信じきれない。
本当に全部効かないのか。
本当に例外はないのか。
もし一つでも見立てが甘ければ、その代償を払うのは自分ではない。
「……俺は、“たぶん効かない”でこいつを相手にしたくねえ」
隊長は短く頷いた。
「当然でしょう」
「本当に効かねえなら効かねえでいい。けどゼロだと決めつけてやらねえのはもっと嫌だ」
「分かっています」
「だったら重ねろ。もっとだ。見た目で分かるのは削れ。踏んで気づくやつと、踏んで初めて狂うやつを混ぜろ。読まれる前提で組め。読んだ先で、わずかでも嫌な方へ寄るようにしろ」
「承知しています」
「足りねえ。勇者は人間のつもりで読むな」
隊長はユキトを見た。
侮りも反発もない、ただ現実を共有する者の目だった。
「あなたも、同じ結論に至っていますか」
「……最悪を見とく癖があるだけだ」
吐き捨てるように答えた、その直後だった。
隊長はわずかに周囲を見回した。
近くにいた兵を別の場所へ向かわせ、作業音に紛れる程度まで人を遠ざける。
それから、ごく低い声で言った。
「いざとなれば、私ごとここ一面を吹き飛ばしてくださって構いません」
ユキトの目が動いた。
「……は?」
「兵には話しておりません。独断です」
隊長の声音は静かだった。
「勇者を外へ出せば、王国は終わります。ここで私が死のうと、兵が何人倒れようと、外へ抜けられるよりはましです」
「王家を守るとは、そういうことです」
ユキトはしばらく何も言えなかった。
目の前の男は気負っていなかった。
覚悟を見せつけようとしているわけでもない。
ただ、自分がそこまで含めて織り込み済みだと事実を置いただけだった。
自分はまだ甘かったのかもしれない、とユキトはそこで初めて思った。
勝つための形。止めるための理屈。そういうものばかりを頭の中で並べていた。
けれどこの男は、もうその先まで飲んでいる。吹き飛ばす側にも、吹き飛ばされる側にも自分を置いた上で、それでもやると決めている。
王国もまた、本気でここへ命を積んできているのだ。
「……そこまで覚悟してんのかよ」
「国を守るのが役目です」
隊長は淡々と言った。
「あなた方にだけ、背負わせるつもりはありません」
夜風が荒野を渡った。
灯の火が揺れる。
ユキトは視線を外した。
返す言葉がすぐには出なかった。
そのまま、遠くの作業風景へ目を向ける。
光の中で兵たちが動いている。その一人ひとりにも家があり、守るものがあるのだろう。無理やり立たされている者もいるはずだ。それでも今、ここで手を止めない。
そこで、不意に別の光景が胸の奥に蘇った。
先代勇者。
老人のような姿で、最後に見せたあの封印。
竜帝ですら、その場で動きを止められた理の技。
忘れていたわけではない。
見ている。覚えている。最悪の札として、ずっと頭の隅にはあった。
だが、常用前提では読んでいない。
あれは便利な手札には見えなかった。
命を燃やす最後の技だった。先代ですら、最後の最後で使ったものだ。
今代勇者が同じものを、いつでも切れる前提で盤面を組むのは現実的ではない。そう判断している。
それでも、警戒はしていた。
もし、あの魔法陣が出るなら。
あれに似たものが立ち上がるなら。
その瞬間だけは、生け捕りを捨てる。
最初からそう決めておくしかない。
「……あとは、俺が言うこと言ってくる」
そう言ってユキトは踵を返した。
隊長は止めなかった。
夜は深く、だが作業は止まらなかった。
そして、朝が来た。
東の空がわずかに白み、黒と青のあわいが薄く裂けていく。
低い草には朝露が残り、冷えた風が荒野を渡っていた。
一晩中続いた工事の跡が、夜の灯ではなく自然の朝日によってゆっくりと姿を現していく。
埋められた浅い仕掛け、何もないようでいて微妙に削られた足場、視線を散らす杭、包囲の輪。
準備は終わっていた。
このあと、本当に戦うのだと分かる朝だった。
外周では兵たちが持ち場につき、一睡もしていない者もいる顔で武器を握っている。
疲労はある。緊張もある。
けれど逃げる者はいない。
その荒野の中心近くで、ヴォルカ、フローラ、ネムリアが待っていた。
ユキトは三人のもとへ歩いた。
いつものだらけた足取りではない。軽口を叩く時の緩さもない。
重い。一歩ごとに、自分で自分を押して前へ出しているような歩き方だった。
最初に気づいたのはヴォルカだった。
「ユキトさん……?」
黒髪の竜姫が不安そうに目を瞬かせる。
フローラは静かにユキトを見ていた。
ネムリアは眠たげな顔のままだったが、その視線だけは珍しくはっきりしていた。
ユキトは三人の前まで来ると、一度視線を落とした。
それだけで空気が変わる。
普段なら、こんな空気にしない。
適当な冗談を入れる。面倒くさそうに肩をすくめる。そうやって誤魔化す。
今日はしなかった。
「……今回」
そこで言葉が切れた。
ただそれだけで、三人とも黙った。
「今回、俺は本当に無力だ」
はっきり言った。
ヴォルカの瞳が揺れる。
フローラは瞬き一つせず受け止め、ネムリアだけが静かに首を傾けた。
「正面からやっても足手まといになる。前に出るのは、お前たちだ」
自嘲もごまかしもない。
ただ、嫌な事実として認めた声だった。
「その上で、更に枷をかける」
ユキトは三人を見た。
「竜形態は駄目だ」
ヴォルカがわずかに目を見開く。
フローラは黙って聞いていた。
「理由は……甘いのかもしれねえけど、他の人間を巻き込みたくない。外周の兵も、近衛長も、ここに立たされてる連中までまとめて吹き飛ばす形にはしたくねえ」
「今回は、人間の戦場でやる」
風が吹き、朝の冷気が服の隙間を抜けた。
「それと、方針は前に決めた通りだ。王国には伏せたまま、生け捕り優先でいく」
この言葉には、三人とも驚かなかった。
もう共有済みのことだからだ。
アルフィーの件。
先代勇者への恩。
勇者をただここで終わらせたくないという思いは、ユキト一人の我儘ではない。
三人も同じ方向を見ていた。
「……ただし例外がある」
ユキトの声が少し低くなる。
「先代勇者が最後に使った封印術に似た魔法陣が出たら、その瞬間に方針を切り替える」
「あれだけは駄目だ」
「見えたら殺せ。迷うな」
ヴォルカの表情が強張る。
フローラの目が、わずかに細くなる。
ネムリアも眠そうな顔のまま、しかしはっきりとこちらを見ていた。
「俺はあれを見てる。忘れてねえ。詳しい仕組みまでは分からないけど、危険なのだけは確かだ。もし使わせたら、こっちが終わるかもしれねえ」
そこで一度息を吐いてから、続ける。
「だから、生け捕りはそこまでだ。あの魔法陣が出た瞬間だけは、情も恩も切る」
「それでも基本は生け捕りでいく。けど無理そうなら、危険なら殺していい」
ヴォルカの喉が小さく動いた。
「……はい」
ユキトはそこで、一瞬だけ黙った。
ここから先が、本題だった。
「それと、もう一つある」
空気がわずかに変わる。
フローラが静かに目を向ける。
ヴォルカも、ネムリアも次の言葉を待っていた。
ユキトは短く息を吐いた。
「俺は下がらない」
ヴォルカの目が見開かれる。
「……え」
「前に決めた避難の話を覆す、という意味ですか」
フローラの声は静かだった。
静かすぎて、逆に温度がない。
ユキトは頷いた。
「ああ。安全圏には行かねえ」
「囮として残る」
空気が止まった。
ヴォルカが一歩踏み出す。
「ちょ、ちょっと待ってください……! それは、最初に私たちで決めた話ですよね!?」
「そうだな」
「そうだな、じゃありません!」
ヴォルカの声が強くなる。
「だからこそ、私たちも受けると決めたんです! ユキトさんを安全圏へ下げる、それが前提だったから……!」
フローラはヴォルカより先に口を開かなかった。
ただ、じっとユキトを見ていた。
その目を正面から受けたまま、ユキトは言う。
「分かってる」
「……分かっていて、最初からこの話をするつもりだったのですか」
フローラの声は穏やかなままだった。
だがその穏やかさが、逆に冷たかった。
「……ああ、そうだ」
「なぜ、もっと早く言わなかったのですか」
ユキトはそこで少しだけ黙った。
誤魔化せない。
ここを濁したら、一番怒らせる。
「今言わないと、お前ら納得しねえと思った」
空気が凍った。
ヴォルカが言葉を失う。
ネムリアがゆっくり瞬きをする。
フローラだけが、ほんのわずかに目を細めた。
「……つまり」
声は静かだった。
「最初から反対されると分かっていた。だから先に作戦全体を受けさせた上で、ここで囮の話を通そうとしたと」
ユキトは視線を逸らさなかった。
「そうだ」
ヴォルカが息を呑む。
「ユキトさん、それは……」
「汚えやり方なのは分かってる」
即答だった。
「でも譲れねえ」
そこで初めて、フローラの声音に感情が乗った。
「あなたは」
短い一言だった。
だが、それだけで空気が張る。
「本当に、そういうところだけは一貫していますね」
怒鳴らない。
責め立てもしない。
それなのに、はっきり怒っていると分かる声だった。
「自分が汚れると分かっているやり方を、必要だと思えば平然と選ぶ」
「しかも今回は、最初からそのつもりで話を運んだ」
「正直に言えば許されるとは思っていない。だから黙って押し通そうとする」
ユキトは黙って聞いていた。
フローラは続ける。
「私たちが怒ることも、傷つくことも分かっていたのでしょう」
「……ああ」
「それでも、ここで言う方が通ると思った」
「そうだ」
そこまで聞いて、フローラは小さく息を吐いた。
「最低です」
声音は静かだった。
「ですが」
そこで言葉を切り、ユキトをまっすぐ見た。
「そこまで自覚しているなら、これ以上自分を正しく見せようとしないでください」
ユキトの喉がわずかに動く。
ヴォルカはまだ納得しきれない顔のまま、けれどユキトを見ていた。
「……本当に、下がらないんですね」
「下がらない」
「囮になるのも、やめない」
「ああ」
ヴォルカは苦い顔のまま俯き、少ししてから言った。
「ずるいです」
「分かってる」
「私たちが嫌だって言っても、たぶん引かないんですよね」
「引かない」
「……ほんとに、ずるいです」
その言葉には怒りも、不安も、諦めも混ざっていた。
ネムリアが小さく言う。
「……いま、いうの、きたない」
「ああ」
ユキトはそれも否定しなかった。
それから一つ息を吸って、三人を見た。
「それでも言う。お前たちだけを前に出して、自分だけ離れた安全圏にいるのは無理だ」
そこで、ユキトは頭を下げた。
ヴォルカが息を詰める。
フローラの目がわずかに見開かれる。
ネムリアさえも眠気を忘れたように見えた。
「囮になる。これは譲れねえ」
「お前たちだけ危険な場所に置いて、俺だけ後ろで待ってるのはできない」
「汚え通し方したのも分かってる」
「その上で、頼む」
沈黙が落ちた。
さっきまでとは違う、少し痛い沈黙だった。
やがて、フローラが長く息を吐いた。
「……本当に、腹が立ちます」
その言葉にはもう、隠す気のない怒りがあった。
けれど同時に、拒絶ではない響きもあった。
「ですが、そこまで言われておいて、今さらあなたを切り捨てる気にもなれません」
ヴォルカも唇を引き結んだまま頷く。
「……私、納得したわけじゃないですからね」
「分かってる」
「あとでちゃんと怒ります」
「分かってる」
ネムリアも、こくりと頷いた。
「……あとで、やる」
「こわ」
思わず漏れたユキトの一言に、ヴォルカがじろりと睨む。
「怖がるくらいなら最初からやらないでください」
「それはそう」
フローラが最後に言った。
「今回だけです」
ユキトが顔を上げる。
「今回だけ、あなたのその我儘を通します」
「ですが次はありません。こういう通し方をもう一度するなら、その時は本気で怒ります」
穏やかな声だった。
だが冗談には聞こえなかった。
ユキトは少しだけ口元を歪めた。
「……了解」
ネムリアも、こくりと一つ頷いた。
四人の会話は、そこで終わった。
そして、今。
夜明けの荒野の向こうに、一人の人影が現れた。
純白の髪。
薄い青の瞳。
細身の身体。
健康には見えない輪郭。だが、その立ち姿には目を逸らせない緊張がある。
勇者。
彼が歩みを進めるたびに、外周の兵たちの呼吸が浅くなっていく。
誰も声を出さない。誰も下手に動かない。
この場にいる全員が知っているのだ。相手は人間にしか見えない。だがその実、最も人間の理で対処しにくい存在だと。
勇者は一定の距離まで来ると足を止めた。
まず見たのはヴォルカ、フローラ、ネムリア。
三体の竜。
強い。
明らかに危険だ。
正面から一体ずつ削るような戦いでは間に合わない。
そこまで見た上で、その視線が最後にユキトへ向いた瞬間だった。
空気の質が変わった。
ユキトは皮膚の表面が粟立つのを感じた。
ただ見られたのではない。測られた。覗かれた。断定された。
勇者の瞳が、初めて明確な険を帯びる。
竜三体は災厄だ。
それは確かだ。
だが、その隣に立つ男だけは質が違う。
見たことがない。
規模が違う。
輪郭がぼやけているのに、背後の未来だけが不気味なほど沈んで見える。
視界の奥が歪むような、最悪の量。
竜はここで倒しきれないかもしれない。
だが、先に落とすべきはあの男だ。
自分が死んでも。
勇者の中で、その結論だけが澄んでいた。
剣が抜かれる。
乾いた金属音が、朝の荒野に鋭く響いた。
ユキトは一歩も前に出ない。
それを見て、勇者の目が細くなった。
「……そうか」
掠れた声が風に乗る。
「お前は前に出ないのか」
ユキトは答えなかった。
勇者の視線が竜たちへ流れ、再びユキトへ戻る。
「女を前に立たせて、自分は後ろか」
その一言に、ユキトの喉の奥が熱くなる。
勇者はさらに踏み込んだ。
「災厄の中心が、ずいぶんとみっともない」
深く刺さった。
「女の影にしかいられない卑怯者」
最悪の言葉だった。
ただの悪口ではない。自分で自分に一番向けたくない言葉だ。
戦えない。前に立てない。守ると言いながら、結局は彼女らを前へ出すしかない。
折れたプライドの、一番醜い場所をそのまま抉られた。
「出てこい」
脚が、前へ出そうになる。
「お前を断てば終わる」
だが止めた。
動くな。
ここで飛び出せば、相手の思うつぼだ。
今回は自分の意地を通すための戦いじゃない。
役割を捨てるな。耐えろ。
その沈黙の中で、三人の脳裏には先ほどの会話が蘇っていた。
無力を認めたこと。
竜形態を縛ったこと。
生け捕り方針を改めて確認したこと。
あの魔法陣が出た瞬間だけは殺すへ切り替えると決めたこと。
危険なら殺していいとまで言ったこと。
断る自由まで渡したこと。
それでも囮になることを引かなかったこと。
分かっている。
この男は、みっともなく後ろにいるんじゃない。
嫌でたまらない役を、全部飲んだ上でそこに立っている。
それを知らずに踏みにじられた。
空気が、変わった。
それは炎ではなかった。
光でもなかった。
何かが目に見えて噴き上がったわけでもない。
ただ、戦場そのものの密度が変わった。
胸の上に見えない岩でも乗せられたように、圧が一気に落ちてくる。
眩暈がする。耳鳴りに似た不快な静けさが広がり、距離が離れている兵たちのうち何人かが思わず息を止めた。
鍛えた兵でさえ本能で後ずさる。常人なら、その場で膝が折れてもおかしくない圧迫感だった。
ヴォルカ。
フローラ。
ネムリア。
三人が同時に、本気で怒っていた。
ヴォルカの怒りは熱ではなく、破壊衝動を押し込めた重さだった。
フローラの怒りは裁きのように静かで、逃げ場がない。
ネムリアの怒りは、夢と現の境目が曖昧になるような不気味さでじわじわと這い上がってくる。
勇者だけが、その中心でわずかに目を細める。
「あなたに何が分かるんですか」
ヴォルカの声は震えていなかった。
怒鳴り声でもない。だがその低さが、逆に空気を削った。
「この人が、どれだけ嫌な思いで私たちに頼ったと思ってるんですか」
フローラが一歩前へ出る。
「あなたは、表に見える形しか見ていない」
声は静かだった。だが静かだからこそ、逃げ場がなかった。
「この人がどんな気持ちで自分の無力を認めたのか」
「どんな気持ちで、前に出るのは私たちだと言ったのか」
「何も知らないまま、その言葉を使った」
ネムリアも、いつもの眠そうな顔のまま少し前へずれた。
「……やだ」
短い。
それだけなのに、圧がさらに沈む。
勇者は三人を見た。
挑発は刺さった。
ユキトにも届いている。
だが出てこない。
代わりに、竜たちの怒りだけを引き出した。
それでもいい。
感情が乗れば乱れが出る。
一瞬でも崩れれば、その隙に届く。
勇者の足元が爆ぜた。
「っ!」
ヴォルカが反応した時には、もう剣閃が走っていた。
狙いはユキト――ではない。
まず前衛を崩す。
その意図を最初に読んだのはフローラだった。
ほとんど反射で結界が展開され、勇者の斬撃を受け止める。硬い音が荒野に響く。
だが勇者は止まらない。
着地と同時に軌道を変える。
結界の縁を踏み台のように使い、横へ滑る。人間離れした身のこなしだった。
ヴォルカが即座に進路へ割り込む。
熱を解かない。焼かない。殺さない。
それでも止めるための掌底を打ち込む。
勇者は剣の腹でそれを流し、半歩だけ身を引く。
その半歩の先、地面がほんのわずかに沈んだ。
浅い罠が噛んだのだ。
「……!」
だが転倒はしない。
勇者は沈んだ足を即座に抜き、その崩れた重心すら利用して滑り込むように前へ出る。
その瞬間、視界の中の地面がわずかに傾いた。
ネムリアだった。
本人は大きく動かない。
ただ、眠そうな目で戦場を見ているだけに見える。
それでも勇者の見ている足場だけが、ほんのわずかに狂う。
平地が低く見える。抜け道があるように見える。結界の切れ目があるように見える。
王国が仕込んだ罠の上に、さらに幻影が重なる。
夢の中の地面みたいに、距離と角度と確かさが半拍ずれる。
勇者はそれを一瞬で見抜いたわけではない。
だが、感覚で把握した。
殺さない。
深くは振れない。
しかも幻で足を奪いに来る。
なら、倒す必要はない。
抜ければいい。
勇者の動きが変わった。
排除ではなく突破。
竜三体を削るのではなく、その間を通してユキトへ届くためだけの剣になる。
ヴォルカが全力を出しきれないこと。
フローラが守り寄りになること。
ネムリアの幻影が厄介でも決定打にはならないこと。
それを一太刀ごと、踏み込みごとに体感で掴み取っていく。
「くっ……!」
ヴォルカが進路を塞ぐ。
勇者は低い姿勢でその脇を抜こうとする。
抜けた、ように見えた。
だが次の足場が、実際よりわずかに近く見えていた。
踏み込んだ位置が半歩ずれる。
その半拍に、フローラの結界が横から滑り込んだ。
勇者は即座に剣で裂く。
ネムリアの幻は厄介だが、読めないわけではない。
足場の違和感ごと切り捨て、一直線にユキトへ向かう。
「ユキトォォォ!」
叫び声と同時に、ユキトは後ろへ跳ぶ。
速い。
人間としては十分に。
だが勇者から見れば足りない。
一撃目が喉元へ迫る、その寸前。
鈍い金属音が響いた。
ユキトの腕の小型盾――ガントレット盾が、ぎりぎりで斬撃を受け止める。
衝撃が骨まで貫いた。
腕が痺れる。肩まで揺れる。
痛みが遅れて一気に押し寄せた。
「っ、ぐ……!」
受けた。
だが次は持たない。
勇者の目が細まる。
二撃目が来る。
ユキトが体勢を立て直す前に、刃がもう一度振られた。
その瞬間、黒い影が割り込んだ。
ヴォルカだった。
間に合う形ではない。
正面から受ければ切られる。
それでも、右腕を捻り、裏拳の軌道で剣の腹を打つ。
鈍い衝撃が返る。
刃筋がほんのわずかに逸れた。
それで十分だった。
本来ユキトの首へ入るはずだった斬撃が肩先の横を裂いて空を切る。
そのままヴォルカが身体ごとユキトとの間へ入り、踏み込みを潰した。
「させません!」
フローラの結界が挟み込む。
ネムリアの幻影が、今度はユキトまでの距離を一歩遠く見せる。
勇者はなお狙いを変えない。
竜を倒しきる必要はない。あの男だけは死んでも殺す。
その執念だけで軌道を組み立てる。
何度も、何度も、勇者はユキトだけを狙った。
斬撃は最短。踏み込みは無駄がない。
三人を排除するためではなく、突破するためにだけ剣が振るわれる。
ユキトにも、それが分かる。
分かるからこそ、余計に口が開けない。
自分が飛び出せば終わる。
自分が役割を投げれば、この形自体が崩れる。
それでも、三人が自分のために削られていくのを見るのは最悪だった。
ヴォルカの髪が剣先で浅く切られた。
フローラの結界が何枚も砕ける。
ネムリアの幻影は勇者に読まれ始め、それでも少しずつ地面の信用だけを削っていく。
少しずつ。
少しずつ、狭めていく。
勇者も理解していた。
このままでは取り押さえられる。
罠は決定打ではない。だがゼロではない。
幻影は完璧ではない。だが足場を信じきれなくなる。
竜たちは殺意を抑えてなお強い。
しかも怒っているのに崩れない。
挑発してもユキトは出てこない。
ならば。
勇者は呼吸を整え、剣を構え直した。
その動きの意味を、ユキトは見逃さなかった。
立ち方が違う。
空気が沈む。
理の底へ触れるような冷たさが、剣と地面と身体のあいだで一つに繋がっていく。
――来る。
先代勇者の最後を見た時と、同じ質だった。
想定外ではない。
警戒していた。
そのために最初から線を引いていた。
けれど同時に、ユキトの背筋を別の寒さが走る。
本当に、この状況で切るのか。
「殺せ!!」
ユキトが叫んだ。
躊躇なく、生け捕りを捨てる号令だった。
ヴォルカが踏み込む。
フローラが結界を重ねる。
ネムリアの幻影が一気に濃くなる。
だが。
地面に、淡い魔法陣が走った。
その瞬間だった。
ユキトの身体が止まる。
息が詰まる。
脚が動かない。
腕が上がらない。
ヴォルカも、フローラも、ネムリアも同じだった。
ほんの一瞬。だが致命的な一瞬。
理そのものに押さえつけられたみたいに、身体が縫い止められる。
見えてからでは遅い。
その事実を、ユキトはそこで初めて知った。
先代勇者の術を見ていた。
危険さも知っていた。
だが、発動した瞬間に拘束が走るところまでは分かっていなかった。
勇者の目が見開かれる。
勝った。
その確信が、一瞬だけ胸の中を澄み切ったものにした。
止まった。
届く。
終わる。
だが、その次に見えた。
未来だ。
そこにあるのは勝利の先ではなかった。
死。
あまりにも明確だった。
自分がここで終わる未来。術を完遂する前に、あるいは完遂と引き換えに、確実に落ちる未来。
それが、急に身体の芯まで落ちた。
怖い。
ほんの一瞬。
誰にも見抜けないほどの揺らぎ。
だが致命的だった。
魔法陣の光がぶれる。
「今です!」
最初にその揺らぎを捉えたのはフローラだった。
多重結界が一気に収束し、勇者の四肢へ絡みつく。
ヴォルカが拘束の残滓を力で押し破るように踏み込み、間合いを潰して体勢を崩す。
ネムリアの幻影が最後に足場の輪郭を狂わせる。
踏んだはずの地面が、ほんのわずかに違って見える。
その先で、浅い罠が一つ噛んだ。
十分だった。
勇者はなお抵抗する。
剣を振るい、結界を裂き、半歩でも前へ出ようとする。
狙いは最後までユキトから外れない。
だが、もう遅い。
三方向から重なった力に押し込まれ、ついに膝が乾いた土を打った。
鈍い音が荒野に響く。
剣先が地面を削る。
魔法陣の光は乱れ、消えた。
勇者は息を乱しながら、それでも顔を上げる。
その視線の先には、まだユキトがいた。
生きている。
届かなかった。
荒野を渡る風が、静かに吹く。
外周の兵たちは誰一人声を上げられない。
勝った、とはまだ言えない。
安堵するには早すぎる。
だが少なくとも一つだけは確かだった。
勇者は、取り押さえられた。
そしてユキトは、最後まで前へ出なかった。
その意味の重さだけが、朝の荒野に残っていた。




