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49.この場に付き合い切る義理まではない

夜明け前だった。


王城はまだ半分眠っているような静けさに包まれていたが、その静けさは安らぎのものではなかった。

灯の落ちた回廊。冷えた石床。高い窓の向こうに、白み始めた空だけがある。


勇者は一人で廊下を歩いていた。


石床を打つ足音だけが、規則正しく返ってくる。

朝の光はまだ薄く、回廊の高窓から斜めに差し込む青灰色の明かりの中で、細かな埃が静かに浮いていた。


王都へ戻ってから、しばらく経っていた。


即位一周年の節目そのものには間に合わなかった。

だが勇者の帰還に合わせて、王都では凱旋の列が改めて実施された。

報告を受けた時も、勇者はただ一度うなずいただけだった。


祝われることにも、待たれていたことにも、今さら何の感慨もない。


王都へ戻った時には休むよう勧められる。

それは古くからの決まりというほど堅いものではなく、王国側が勇者に向けて示す労いの風習のようなものだった。

だが勇者にとって、王都は休まる場所ではない。壁に囲まれた都にいるより、どこかの街道を歩いている方がまだ息ができた。


早くまた外へ出たかった。

次を見たかった。

次の火種を、次の歪みを、次の災厄を。


呼び出しは、その朝に来た。


急なものだった。

だが、不自然とは思わなかった。


自分が旅の再開を望んでいたことを、王国が汲んだのだろう。

あるいは王の予定がそこしか空かなかったのかもしれない。

その程度のことだった。


勇者は歩きながら、無意識に喉元へ指をやった。

冷えた朝の空気に触れると、今でも少しだけ喉が軋む。古傷というほど目に見えるものではない。ただ、長く叫び続けて自分で壊した喉は、こういう時間帯になると決まって鈍く痛んだ。


指を離し、歩き続ける。


通されたのは大広間ではなく、小さめの謁見室だった。


扉が開く。

王が立っていた。重臣たちも揃っている。


全員が静かだった。

以前に会った時より少し静かだ、と勇者は思った。だがそれだけだった。国家の重要事を話す場なら、このくらいの張り詰め方は珍しくもない。


王は座っていなかった。

その顔色は優れているとは言えないが、政務に追われる者の顔として見れば不思議でもない。


王の左右には重臣が控えていた。

宰相、軍務の長、神官長。

誰も無駄に口を開かない。誰も余計な身じろぎをしない。


王が口を開いた。


「勇者よ」


短い呼びかけだった。


「朝早くにすまない」


勇者はひざまずかない。

それもまたいつものことだった。

勇者は王の臣下ではあっても、ただの臣下ではない。裁定者としての立場は王権にぶら下がるものではなく、王もそれを理解している。


「旅程が整った」


王はそう言った。


「お前の王都滞在は、ここまででよい」


勇者は短く王を見た。

それだけで内心の焦れが少しだけ薄れる。ようやく、という感覚に近い。


王は続ける。


「向かう先に火種となりうる動きがある」


「ただし確定した被害はまだない」


「詳細は現地で見て判断してほしい」


勇者は頷いた。


「行き先は」


王が地名を告げる。

荒野へ抜ける道筋の先にある一帯だった。旅路として不自然ではない。街道と街道の間を繋ぐ、いくつかある候補のひとつに過ぎない。


「分かった」


それだけを返す。


王は一瞬だけ何かを言いかけたように見えたが、結局口にはしなかった。

代わりに宰相が一歩進み出る。


「詳細は道中で最低限を伝えます」

「現地で判断いただく形になります」


勇者はその声を聞き流しながら、すでに意識の半分を外へ向けていた。

王都を出る。歩き出す。見るべきものを見る。ただそれだけでよかった。


謁見室を辞した時、空はさらに白んでいた。


城門を抜ける頃には、薄い朝日が石畳の先にかかり始めていた。

春を迎えたばかりのような乾いた冷気が、馬の鼻先から白く漏れる。


同行兵は数名。

帰還時に王都まで共に戻った兵たちとは違う顔ぶれだったが、そこに違和感はない。警護は固定ではなく、持ち回りのことも多い。勇者は特に気に留めなかった。


馬を進める。

王都の石畳が途切れ、やがて土道へ変わる。朝露の残る草が淡く光り、遠くの木立に鳥の声が散っていた。


王都を離れられることに、少しだけ気が軽くなる。


後ろに城壁が遠ざかる。

前に街道が伸びる。

それだけで、胸の内に張っていた見えない膜がいくらか薄くなるようだった。


道中、兵たちはよく訓練されていた。

必要以上に話さず、不要な気遣いも見せず、ただ定められた役目を淡々と果たしている。


案内は滑らかだった。

進路の確認も少ない。迷いもない。道の選び方にも無駄がない。


勇者は一度だけ、先導する兵に問うた。


「進路はもう固まっているのか」


「はい」


短い返答。

それ以上の説明はない。


だが、それで十分だった。

自分が早く外へ出たいと望んだ以上、王国側もそれなりに急いで旅程を整えたのだろう。手際がいいこと自体は不思議ではない。


馬を進める。


朝の空気は次第に薄れ、陽が高くなるにつれて、乾いた風が地表を撫でるようになった。

王都近郊の整えられた道を離れ、しばらくすると周囲の景色が変わっていく。木々の密度が減り、草地が低くなり、遠くまで見通せる土地が増え始める。


荒野へ抜ける手前だった。


そのあたりで、ようやく小さな引っかかりが生まれた。


この道筋そのものは不自然ではない。

だが、妙に開けすぎている。

見通しがよく、横へ逃げるには向かない。散る余地が薄い。通るには悪くないが、閉じるには都合がよすぎる地形に思えた。


勇者は馬上から前を見たまま、左右の兵の位置を拾う。


前を見る護衛の置き方というより、外側を締める置き方に近い。

まだ断定するほどではない。訓練された兵ならこう動くこともある。だが、わずかに引っかかった。


馬を下りる。


荒野へ入る手前で、先導の兵が足を止めた。


「この先です」


勇者は何も返さず、数歩前へ出る。


視界が開けた。


そこでまず目に入ったのは、荒野の先に置かれた兵だった。


遠い。

だが見間違えようがない。

偶発的に散った人数ではない。待ち構えるように、地形に沿って置かれている。高低差のある場所、岩陰、横へ抜ける導線、退路になりそうな箇所。そのすべてに、少ないながらも無駄のない配置がある。


勇者の目が細くなる。


通るための場所ではない。

通すための配置でもない。


最初から、ここで何かを終わらせるための場だ。


胸の奥に、冷たいものがひとつ落ちる。

それでもまだ、感情は動かない。ただ盤面だけを見ていた。


その時、視界の端で兵が二人、荒野の縁にいた民を取り押さえるのが見えた。


旅人か、薪拾いか、そのあたりの者だろう。

抵抗らしい抵抗もできず、何かを訴えている。だが兵たちの手つきは保護のものではなかった。避難させるための動きではない。外へ出さないための動きだった。


そこでようやく、すべてが一本に繋がった。


そうか。


王国は、この場を閉じるつもりだ。


いや、違う。


目的は、


――俺か。


勇者はゆっくりと息を吐いた。


王国が俺の死を望んでいようが、関係ない。

そんなことは今さらだ。


問題は別にある。


人間に、俺を討つことはできない。


その一点だけは揺るがない。

ならば何を置いた。

何をぶつけるつもりだ。

何がこの先に待っている。


何があろうと、罠ごと砕く。

ここで止まる気はない。


ふと、別のことが頭をよぎる。


そういえば、自分はまだ王国の上層部を裁定していなかった。


王も、宰相も、他の重臣たちも。

もしこの場で王国の底が見えるなら、ちょうどいい機会かもしれない。


報復ではない。

必要なら切る。ただそれだけだ。


風が吹いた。


乾いた荒野の匂いが、古い記憶を薄く揺らす。

朝の冷たい光。潰れた喉。切った感触。消えない顔。


ここで死ねば、顔向けできない。


あの時、自分は切った。

救えず、見逃せず、最後にそうするしかなかった。

ならばその後の自分には、生きて切り続ける以外の道はない。


人を切れば、その先の世間が平和になれる。

そう思い込まなければ、自分はもう立っていられない。


だからこそ死ねない。

こんなところで終われない。


なら、ここでやることは決まっている。

相手の切り札だけ見る。

何を隠し、どこで盤面を返すつもりか、それだけを見極める。


それが分かれば十分だ。

勝ち切る必要はない。

この場に付き合い切る必要もない。


正体を確認した瞬間、退く。

深追いはしない。

相手の底だけ覗いて、生きたまま持ち帰る。


そう決めた時にはもう、意識は戦うためではなく、逃がさない包囲の薄い場所を探し始めていた。

まずは情報を持ち帰る。

見たものを、王国の底ごと。


その上で切るなら、あとからでもいい。

その程度の余地は、まだ残っていた。

勇者は目を上げた。


その瞬間、権能が触れた。


荒野の向こう。

まだ姿をはっきり捉えるより先に、重い圧が来る。強い。普通の敵ではない。だが、それだけではない。


もっと奥に、沈んでいる。


異常な規模の歪み。


勇者の瞳が細くなる。


――こいつか。


背後の空間が一段深く沈んだように感じる。

音が少し遠のき、空気の密度そのものが変わる。


あり得ない大きさだった。


ただの危険存在ではない。

この場の中心は別にある。


喉の奥が、ひどく軋んだ。


アルフィーの朝。

市場。

焼きたてのパンの匂い。

駆ける子供の足音。


脳裏を掠めた記憶を、勇者は力ずくで押し込める。


違う。

目の前を見ろ。


木立が揺れた。


最初に出たのは、黒髪と赤い瞳の女だった。

黒い竜角。正面を割るように立つ。圧で押す立ち方だが、ただ威嚇しているのではない。通さないための位置だ。


少し遅れて左右に二つの気配。


淡い髪と静かな目をした女。

眠たげな顔で、それでも空気そのものを鈍らせる女。


三人。


その姿を見た瞬間、勇者はようやく宰相の言葉を思い出す。


竜がいる、とあいつは言っていた。


嘘ではなかった。


だが、それだけではなかった。


木立の陰、三人のさらに後ろに、男がいた。


勇者はその姿を見た瞬間、目を離せなかった。


後ろにいる。


守られている。


三竜が壁になり、その向こうに災厄そのものが置かれている。


それを理解した瞬間、勇者の胸に、焦りに近いものが初めて生じた。


見てしまった。


ここにいる。

後ろに置かれ、守られ、それでも盤面の中心にいる。


ならもう駄目だ。

見てしまった以上、切るしかない。

その時点で、さっきまで残っていた逃走の余地は消えた。


届くか。


竜を抜けるか。

あの三枚を越えて、あの男まで届くか。


しかもあの男自信は、ただ隠れている顔ではなかった。

視線が動いている。

盤面を見ている。

何かある。

後ろにいるのに、戦場の外にいる顔ではない。



ここで断たなければならない。


だが、それでも後ろだ。


勇者の価値観の中では、それだけで十分に悪質だった。

最悪の災厄が、守られる側に置かれている。

この形のままではいけない。

絶対に前へ引きずり出さなければならない。


そして同時に、勇者は理解する。


布陣の乱れはない。

待っても崩れない。

どこか一点を、自分でこじ開けるしかない。


勇者は一歩前へ出た。


ヴォルカがわずかに身を低くする。

フローラの指先が静かに揃う。

ネムリアの眠そうな目だけが、薄く細くなった。


その直後、後方にいた兵たちが一斉に下がる。


勇者の背後から引き、退路を塞ぐ位置へ回る。

誰一人として目を合わせない。

申し訳なさを抱えているように見える。

だが、それでも持ち場には立つ。


そこで盤面は完全に閉じた。


王国は俺をここで閉じた。

こいつらも、そのためにいた。


男は動かない。

それが余計に勇者を刺した。


――出てこないのか。


焦りを押し殺し、勇者は低く呼ぶ。


「お前が、ユキトか」


ユキトがわずかに目を細めた。


「ああ、そうだ」


短い返答だった。

怯えてはいない。

軽くもない。


勇者の目は、ユキトから逸れない。


「逃げないのか」


「逃げてほしかった奴らはいたみたいだけどな」


その返しで、勇者は一瞬だけ理解する。


この布陣は、誰か一人の都合だけで置かれた形ではない。

本当はもっと後ろへ隠したかった者もいたのだろう。

だが、そうはなっていない。


後ろに置かれている。

それでも、隠されてはいない。

この配置は、誰かの意思で成立している。


なら少なくとも、ユキトは守られるだけの置物ではない。

自分の意志ごと、そこに立っている。


そこまで見えても、裁定は揺れない。

むしろ悪い。


災厄が自分の足で前へ出ないなら、引きずり出すしかない。


勇者は喉の痛みを無視して、あえて低く、刃のように言った。


「……そうか」


一瞬だけ、空気が張る。


ヴォルカの眼が揺れた。

フローラの表情が凍る。

ネムリアは眠そうなまま、ほんの少しだけ首を傾けた。


勇者の目は、ユキトから逸れない。


「お前は前に出ないのか」


ユキトは答えない。

だが、その沈黙だけで十分だった。


勇者は続けた。


「女を前に立たせて、自分は後ろにいる」


一番刺さったのは、後ろの男だった。


ユキトの顔から熱が引くのが見えた。

わずかに、ほんのわずかに、肩が強張る。


勇者はさらに、冷たく言い切る。


「災厄の中心が、ずいぶんとみっともない」


その言葉は普段の勇者なら使わない種類のものだった。

分かっていた。

低い言葉だ。安い挑発だ。裁定者の口から出るには醜い。


だが、それでも使うしかなかった。


三体の竜を前に置き、その後ろに最大の災厄がいる。

この形は最悪だ。

待っても崩れない。

届かないまま見逃す方が、もっと悪い。


醜くてもいい。

裁定者の品位を失ってもいい。

この盤面を崩せないまま終わるよりは、ずっとましだ。


だから勇者は、その醜さごと呑み込んで、言葉を刃にした。


「女の影にしかいられない卑怯者」


勇者の目はユキトだけを射抜いていた。


「出てこい」

「お前を断てば終わる」


荒野に大声が響き渡った。

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