48.そこが一番恐ろしい
会議が終わると、ひとり、またひとりと席を立っていった。
記録官は震える手で最後の一文を書き終え、それを慎重に乾かしてから封蝋の準備に入る。
近衛長はその横で無言のまま待機し、封じられた記録を自らの手で受け取るつもりで立っていた。
外務卿は顔色を悪くしたまま一礼し、何も言わずに退室した。王国がこれから失うものの大きさを、おそらくこの場の誰より数字で理解している男だった。
騎士団長もまた短く礼をして去ったが、その背中には武人としての苦い覚悟が滲んでいた。これから先、自分が兵をどこへ向け、誰を守れず、誰を囮にする可能性があるのか、もう頭の中で数え始めている顔だった。
最後まで席を立たなかったのは老臣だった。
彼は何か言いたげに国王を見ていた。
非難ではない。
抗議でもない。
ただ、長い歳月を王家に仕え、先代勇者を知り、今代勇者の就任も見届けてきた者として、どうしても飲み込みきれないものがある、そんな顔だった。
やがて老臣は深く頭を下げた。
「陛下」
国王が顔を上げる。
「私は今でも、これが正しいとは思っておりませぬ」
「分かっている」
「ですが」
老臣の喉が、わずかに詰まる。
「……それでも、陛下が今日この場で逃げなかったことだけは、覚えておきます」
国王は何も答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
老臣はそれ以上何も言わず、重い足取りで扉の向こうへ消えた。
二重扉が閉まる。
厚い木と鉄が重なる音が、静かな会議室にやけに大きく響いた。
残ったのは国王と宰相だけだった。
燭台の火が小さく鳴る。
二人きりになった瞬間、会議中ずっと張り詰めていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。
安堵ではない。
ただ、人前では崩せなかったものが、少しだけ表へ出る余地ができたというだけだった。
国王はようやく椅子に腰を下ろした。
玉座ではない。
ただの木椅子だ。
その簡素な椅子に座った王の姿は、さっきまで円卓の向こうに立っていた“王国そのもの”とは少し違って見えた。
深くもたれかかることもなく、肘を卓に置き、片手で目元を押さえる。
「……終わったな」
「始まったの間違いでしょう」
宰相が答える。
国王は小さく笑った。
笑いというには乾きすぎた声だった。
「そうだったな」
しばらく沈黙が落ちる。
宰相は立ったままだった。
姿勢は崩さない。だが顔色は悪い。
会議中は一切揺れを見せなかった男も、さすがに疲弊していた。
「お疲れですか」
「疲れておる」
国王はあっさり認めた。
「今さら隠す気もない。半年だぞ、宰相。まだ半年だ。たった半年で、先代殿の遺した勇者を、この手で切る会議にまで来てしまった」
目元を押さえた手が、そのまま拳になる。
「こんなはずではなかった」
宰相はすぐには返さなかった。
その言葉は問いではなく、ほとんど独白だったからだ。
国王はしばらく俯いたまま、ぽつりと続けた。
「先代殿が消えた時、本当に怖かった」
その一言は、会議中には出なかった。
「王国から柱が抜けたようでな。あの方がいるからこそ、我らは王国でいられたのではないかと、そう思うことすらあった。周辺諸国も、諸侯も、民も、誰もそれを口にはせぬ。だが皆どこかで、あの方が最後に立っておられると知っていた」
宰相は黙って聞いている。
「それでも今代が立った。若かったが、まだ人を見る目があった。迷いもあった。危うかったが、いずれ育つと……本気でそう思ったのだ。先代殿が遺した者ならば、と」
その声音には、王ではなく一人の男としての後悔が滲んでいた。
「アルフィーのあとも、まだどこかで思っていた。時間が要るだけだと。壊れたのではなく、深く傷ついただけだと。先代殿の選んだ者なのだから、きっと戻れると」
宰相が静かに言う。
「陛下だけではありません。私もそうでした」
国王が顔を上げる。
宰相の表情は変わらない。
だが声の底は少しだけ低かった。
「私も、戻れると思いたかった。王国にとっても、その方がどれほど都合がよかったか。何より……先代殿の遺したものを、我々の代で壊したくなかった」
国王は目を伏せる。
「そうだな」
また沈黙。
会議中には常に誰かの呼吸や紙の擦れる音があった。
だが今は二人だけだ。
火の揺れる音と、たまに聞こえる衣擦れだけが、閉ざされた石室に残っていた。
やがて宰相が、会議中には決して見せなかった疲れを少しだけ滲ませた。
「ですが、本音を申せば」
「言え」
「ユキトという男に賭けるのも、十分に恐ろしい」
国王は小さく息を吐いた。
「……ああ」
それは完全な同意だった。
宰相は続ける。
「三竜。戦闘力1。武闘大会優勝。契約破棄。自ら三竜へ告白し、三人全員に受け入れられる。王国領フィオラで賞金を使って豪遊。誰もが羨むような生活を送り、しかも一人増えている。意味が分かりません」
国王は苦く笑う。
「分からぬな」
「ええ」
「しかも危険だ」
「危険です」
「だが、温泉地で豪遊している」
「はい」
「……なんなんだあれは」
「私にも分かりません」
宰相は珍しく即答した。
そのあまりにも率直な返答に、国王はもう一度、乾いた笑いを漏らした。
「会議で笑わずにいるのに苦労したぞ」
「私もです」
「賞金で豪遊とは何だ」
「報告の通りです」
「国家級戦力候補が何をしている」
「冬を越しているようです」
「女が増えているのだろう」
「リュシアという娘が確認されています。竜かどうかは不明です」
国王は目を閉じた。
「頭が痛い」
「同感です」
短い沈黙。
それでも次に口を開いた国王の声は、会議中より少しだけ素だった。
「……だが、それでも今代勇者よりはまだましに見えてしまう」
「ええ」
宰相は答える。
「そこが一番恐ろしい」
国王は額に手を当てたまま、ぽつりと言う。
「勇者は壊れた正義で国を切る。ユキトは温泉で遊んでおる」
「身も蓋もありませんが、その通りです」
「ならば後者の方がまだ読める」
「欲望の向きが私的ですから」
「最低の安心材料だな」
「ですが、安心材料にはなります」
宰相の返答は冷静だった。
だが、その冷静さの奥に、国全体の舵取りを現実だけでやってきた男の苦みがあった。
国王は疲れたように息を吐く。
「余はな、宰相。半年前の二つの事件を思うと、ぞっとする」
宰相は黙って聞く。
「片やアルフィー。片や雷竜騒動。ほとんど同じ時期だ。あちらでは街が壊れ、勇者が壊れた。こちらでは王子の威厳だけが壊れ、兵は一人も死ななかった」
国王は指先で机を軽く叩いた。
「同じ時期に現れた二つの分岐のようでな」
「私もそう思いました」
宰相が静かに頷く。
「勇者はあの時、人を見て壊れた。ユキトは人を見ているのかすら怪しいのに、結果だけ見れば血を抑えている」
「皮肉です」
「皮肉だ」
国王は疲れたように笑った。
「余は王として、そんなものを好んでよいはずがない。だが今は、その皮肉に賭けるしかない」
そこで、宰相は少しだけ言葉を選んだ。
「陛下」
「何だ」
「今日、外務卿が言った通りです。勇者制度は、我が国の優位でした。同時に檻でもあった」
国王は黙って聞いている。
「我々は唯一の勇者を制度へ組み込むことで、人類圏最大の優位を得ました。だがその代わりに、勇者に見限られぬよう自らも振る舞わねばならなかった。王国が周辺へ侵攻しなかったのは、ただ善良だったからではありません。勇者に災厄と見なされることを恐れていたからです」
「分かっている」
国王は小さく言った。
「だからこそ、余はこの国を完全には誇れぬ。正しいことをした。だが、その正しさで得もした」
「ええ」
「そして今、その唯一を自ら壊す」
「はい」
「……我らは本当に、王国の一時代を終わらせるのだな」
その言葉には、会議中には出なかった重さがあった。
勇者を持つ国。
勇者を独占した国。
人類圏最大の特権を制度として抱えていた国。
それが王国だった。
その立場を、自分たちの判断で切り落とす。
その意味を、国王はようやく二人きりになってから口にした。
宰相は静かに言った。
「はい。ですが、終わらせぬままでは、この国ごと呑まれていました」
国王はしばらく黙っていた。
燭台の火が、小さく揺れる。
その揺れだけが、閉ざされた石室の時間をかろうじて進めていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「娘婿の件がなければ、まだ迷えたかもしれぬ」
宰相は何も言わない。
言葉を返せば、そこだけは軽くなると分かっていたからだ。
国王は机の一点を見たまま、続けなかった。
まるで、その先を口にした瞬間、自分の中で何かが決定的に変わってしまうのを知っているようだった。
長い沈黙が落ちる。
それからようやく、低く言う。
「余はあれを、本気で気に入っていた」
その声音には、王としての響きがほとんど残っていなかった。
「王としてだけではない。父としても、だ」
指先が、卓上でわずかに強く組まれる。
「調べさせた。家も、素行も、人となりも」
「余自身の目でも見た」
「非の打ち所がなかった」
また、そこで言葉が切れる。
燭台の火が、わずかに鳴った。
「清廉だった」
「聡かった」
「軽々しく媚びず、だが礼を失わず」
「娘を任せるに足ると、本気で思った」
その“本気で”という一言だけが、妙に重く残る。
国王は一度だけ目を閉じた。
「王としても期待していた」
「父としても、安心していた」
静かな声だった。
だが静かすぎて、かえって傷口をそのまま撫でているようだった。
「……それを、斬られた」
短い一言だった。
それだけで十分だった。
宰相は何も言わない。
国王は自嘲のように、ほんのわずかに口元を歪める。
「私怨だと思うか」
宰相は即答しなかった。
その問いは、国王が自分自身に向けているものでもあると分かったからだ。
「……思いません」
国王は小さく息を吐く。
「だろうな。余も、そうであってほしい」
そこでようやく顔を上げる。
その目には怒りより、深い疲労があった。
「だが、あの時に悟ったのだ」
「余が王として積み上げてきた判断も」
「父として見てきた人間も」
「何一つ、あれには通じないのだと」
言葉は静かに落ちる。
だが、一つ一つが重い。
「善悪ではない」
「忠誠でもない」
「功績でもない」
「清廉さでもない」
国王の指先が、卓を一度だけ叩いた。
「余が“託してよい”と信じたもの、そのものが通じなかった」
そこまで言って、ようやく声が少しだけ掠れた。
「なら、いずれこの国も通じなくなる」
沈黙。
その沈黙は、さっきまでのものとは少し違っていた。
決断の沈黙ではなく、傷をもう一度見たあとの沈黙だった。
しばらくして、宰相が静かに言う。
「陛下のその感覚は、正しかったと思います」
国王はすぐには答えない。
「慰めか」
「現実です」
宰相は低く返した。
「私は陛下ほど情を抱いておりませんでした。ですが、あの裁定を見た時、同じことを思いました」
「功績も忠誠も清廉さも関係がないなら、次に切られるのは人ではなく制度かもしれない、と」
国王は目を伏せる。
「……恐ろしいな」
「ええ」
「勇者とは本来、国を守る楔であったはずだ」
「はい」
「それが今は、国を内側から崩す刃だ」
「はい」
宰相は一歩だけ近づき、静かに言った。
「陛下」
「何だ」
「今日の決断を、正しいとは私も言えません」
国王は目を開ける。
「言えぬか」
「言えません。ですが、必要だったとは言えます」
その言葉は慰めではなかった。
同じ泥の中に立つ者の声だった。
国王はしばらく宰相を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「そうか」
「はい」
「なら、それでよい」
また沈黙。
燭台の火が短く揺れ、壁の影がわずかに形を変えた。
国王は最後に、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「先代殿が戻られたら、何と言われるだろうな」
宰相は少し考えた。
「怒られるかもしれません」
国王は乾いた笑いを漏らした。
「だろうな」
「ですが」
宰相は続けた。
「それでも陛下は、見て見ぬふりをしなかった。先代殿が怒るとしても、その点だけは理解されると思います」
国王は返事をしなかった。
ただ、目を閉じたまま長く息を吐いた。
その顔は、もはや王ではなく、一人の疲れ切った男のものに近かった。
だが次の瞬間には、またゆっくりと目を開く。
「明日から忙しくなるな」
「はい」
「ユキトへの接触、作戦の骨組み、情報封鎖、王家非常時の手配」
「全て進めます」
「……宰相」
「はい」
「余は王として決めた。だが人としては、まだどこかで間違いであってほしいと思っている」
宰相は一瞬だけ黙った。
そして静かに答える。
「私もです」
それが、この夜二人の間で交わされた、最も本音に近い言葉だった。
王国は決めた。
もう戻らない。
それでもなお、決めた者たち自身が、心のどこかでこの結論が誤りであってほしいと願っている。
その矛盾ごと抱えたまま、夜は更けていった。
厚い石壁の外では、何も知らぬ城が静かに眠っている。
民も、兵も、諸侯も、明日も王国がいつも通り続くと思って眠っている。
だがその夜。
王国の中枢では確かに、一つの時代が終わっていた。
勇者を守る国であることを、やめる夜。
そして代わりに、
英雄を討つ責を背負う国になる夜が、静かに始まっていた。
もっとも、その決断が形を持つ頃には、ユキトはすでに白湯郷フィオラにはいなかった。
王国はまず、温泉郷周辺の街道と宿場へ、顔を伏せた形の手配を流した。
露骨な大規模捜索ではなく、不自然に見えない範囲での確認だった。
だが、見つからなかった。
痕跡は薄く、足取りは綺麗に切れていた。
王国が動き出した時にはもう、あの一行は次の地点へ抜けた後だった。
その報告を受けた時、宰相は驚かなかった。
むしろ、ああいう男ならそうするだろうと、どこかで納得していた。
だから王国は、次の手を打つしかなかった。




