47.答えは、もう出ていた。
朝の空気は、妙に静かだった。
昨夜のことが何もなかったみたいに流れてくれるほど、宿は都合よくできていない。
窓の外にはいつも通りの朝の光が差していて、廊下には宿の者たちの足音もある。食事の匂いだってする。
なのに、卓を囲んだ四人の間にだけ、どこかぎこちない静けさが残っていた。
ヴォルカは妙に背筋が伸びていた。
落ち着かないのを隠そうとして、逆に不自然になっている。
目が合いそうになるたびに、ほんの少しだけ視線が逃げる。
フローラはいつも通りを装おうとしていた。
装おうとはしていたが、いつものようにはいっていなかった。
湯気の立つ椀を取り上げかけて、何でもないところでわずかに手を止める。
普段なら自然に回るはずの気遣いが、今日はどこか止まっていた。
自分の中を整えるので精一杯なのが、見ているだけで分かった。
ユキトもユキトで、何事もなかった顔を貫けるほど器用ではない。
昨夜ヴォルカを抱きしめ、フローラを抱きしめ、そのまま朝になったのだ。
平然としていられる方がおかしい。
妙な沈黙の中で、最初に口を開いたのはユキトだった。
「……なんだこの空気」
ネムリアが湯気の向こうで、眠そうに言う。
「朝だから」
「そういう意味じゃねえよ」
それだけのやり取りなのに、少しだけ空気が揺れた。
けれど次の瞬間、フローラが椀を置いて立ち上がる。
「……私、先に済ませますね」
声は平静だった。
だが、平静すぎた。
ヴォルカもすぐに立ち上がる。
「わ、私も……その」
言いながら、ユキトの方をまともに見ない。
そのまま食器を持って立ち去ろうとして、椅子の脚を軽く鳴らした。
自分で驚いて、さらに耳まで赤くなる。
普段ならフローラが一言添えて空気を整えるはずだった。
けれど今日はそこまで頭が回っていない。
自分の中を整えるので精一杯で、朝だという気の緩みもあったのか、そのままヴォルカを連れて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
残されたのは、ユキトとネムリアだけだった。
ユキトは小さく息を吐いた。
ようやく少しだけ肩の力が抜ける。
そんな空気の変化すら、ネムリアは最初から見えていたみたいに、湯気の向こうでこちらを見ていた。
「……安心した?」
ユキトの肩がぴくりと揺れる。
「いや」
「別に」
「した」
「してねえ」
ネムリアはふわ、とあくびをした。
それから椅子から立ち上がって、ユキトの方へ歩いてくる。
足取りはいつも通りゆっくりしているのに、ためらいがなかった。
ユキトは椅子に座ったまま、少し身構えた。
「ネムリア」
「ん」
ネムリアはユキトの前まで来ると、そのまま膝の上に片手を置いた。
眠そうな目のまま、まっすぐ見上げてくる。
「べつに、わたしはいいよ」
「何がだよ」
「いっしょに寝てくれるだけで」
ユキトは一瞬だけ言葉に詰まった。
それはあまりにもネムリアらしい言い方だった。
重くもない。
責めてもいない。
まるで、本当にそれだけで十分みたいに聞こえた。
「……そりゃ、別にそれくらいなら」
「ん」
ネムリアは小さくうなずいた。
それで話は終わり、みたいな顔をする。
ユキトもそこで少しだけ気を抜いた。
やっぱりネムリアはネムリアだ。
昨夜のことを見ていても、ここで大騒ぎするようなやつじゃない。
そう思った次の瞬間だった。
「寝るついでに、またキスさせて」
あまりにも自然に言うものだから、ユキトは一瞬遅れて固まった。
「……は?」
ネムリアは眠そうな顔のまま、少しだけ首を傾けた。
「またキスさせて」
「聞こえてるわ」
「昨日の見てたら、ちょっとほしくなった」
その言い方は淡々としていた。
欲しがっているくせに、欲しがっているように聞こえない声だ。
けれど、目だけは逸らさない。
ユキトは頭を掻いた。
「お前な……」
「だめ?」
「だめっていうか……」
ネムリアは少し考えるように瞬きをした。
それから、眠そうにしながらも、逃がさない一言を足す。
「わたしも、ちゃんと欲しいもの言う」
昨日までなら、たぶんそこでごまかせた。
けれど昨夜ヴォルカとフローラに向き合ったばかりだ。
ここでネムリアだけ軽く流したら、それこそ後で自分の首が締まるのは分かっていた。
ユキトは深く息を吐いた。
「……分かったよ」
「ん」
ネムリアは満足したようにうなずいた。
その反応が静かすぎて、本当に分かっているのか怪しいくらいだった。
そのまま屈んで、ユキトの唇に軽く触れた。
ふれるだけの短いものだった。
なのに、やたらと不意打ちだった。
「……これは前払い」
そう言って、ネムリアは何事もなかったように元の席へ戻った。
そこでまた茶を飲み始める。
ユキトだけが無言のまま固まっていた。
しばらくして、ようやく喉の奥から声を絞り出す。
「なんなんだよ、お前ら……」
ネムリアは眠そうなまま答える。
「恋人」
その返しだけ妙に正しくて、ユキトはもう何も言えなかった。
昼になる頃には、朝の妙な熱もいったん奥へ押し込められていた。
完全に消えたわけではない。
ヴォルカはまだ少し落ち着かず、フローラもいつものように涼しい顔を作り切れてはいなかった。ネムリアだけが相変わらずで、そのことが逆に朝の出来事を思い出させた。
けれど、依頼の話を前にすると、四人とも自然に私情を脇へ寄せた。
受けるかどうかの話し合いは短くは済まなかったが、長く引きずるものでもなかった。
重さは全員が分かっていた。
勇者を殺す依頼だ。軽い気持ちで引き受けられるものではないし、誰か一人の判断で決めていい話でもない。
だから全員の顔を見た。
ヴォルカは迷いごと飲み込んだ目で頷いた。
フローラは危険も、意味も、その先の後味まで分かった上で、静かに受け入れた。
ネムリアは大きなことは言わず、ただ行くなら一緒に行くとだけ言った。
そうして最後に、ユキトが結論を口にした。
受ける。
その一言で、部屋の空気が完全に切り替わった。
昼過ぎ、宰相は予定通り宿を訪れた。
通された共有スペースの一室は、昨夜までの私的な空気とは違う、会談のための静けさに整えられていた。
壁は厚く、外の気配は遠い。
卓の上には湯気の立つ茶だけがあり、部屋の中心には最初から重たい話を置く余白があった。
宰相は部屋に入るなり、まず四人を見た。
誰か一人ではなく、全員の顔と空気を順番に確かめるような目だった。
「お待たせしました」
穏やかな声だった。
だが、穏やかであることに少し力が入っているのは分かった。
ユキトは遠回しにせず答えた。
「依頼は受ける」
宰相はすぐには言葉を返さなかった。
表情を崩したわけではない。だが、ほんのわずかに肩から力が抜けた。
助かったのだ。
その安堵だけは隠しきれなかった。
「……そうですか」
声は静かだった。
安堵と同時に、どこか苦さも混じっている。
「ありがとうございます」
礼は深かった。
だがそれは、単に話が前へ進んだことへの礼ではなかった。
本当はこういう形で誰かに頼みたい話ではないと、本人がよく分かっている声だった。
フローラが静かに確認する。
「条件に変更はありませんね」
「ええ。そこはお約束します」
ヴォルカは黙っていたが、視線は逸らさなかった。
ネムリアは眠そうな顔のまま座っているくせに、妙に宰相の指先まで見ていそうな目をしていた。
宰相はあらためて頭を下げた。
「重ねて申し上げます。ありがとうございます」
今度の礼は、先ほどよりもさらに苦かった。
必要な依頼だった。
だが、誇れる依頼ではない。
その二つを両方抱えたまま、宰相は最後まで礼儀を崩さなかった。
話が終わり、宰相は宿を出た。
依頼は受けられた。
本来なら、それで少しは肩の荷が下りてもよかったはずだった。
実際、安堵はあった。
あの四人が断れば、王国は次の手をほとんど失っていた。
受けてもらえたこと自体は、間違いなく救いだった。
それでも、胸の内は軽くならない。
これで後戻りはできない。
その思いだけが、帰路の間ずっと喉の奥に引っかかっていた。
王都へ近づくにつれて、宰相の脳裏には二か月前の光景が何度も浮かび直した。
誰も軽々しく口を開けなかった、あの密室。
勇者の名を、国家の危機として卓上に載せた日のことを。
王城の最奥、二重扉のさらに奥にある石造りの小会議室は、もともと王家の私的な評議のためだけに作られた部屋だった。
広くはない。
豪奢でもない。
窓はなく、壁は分厚く、外の音を完全に切り離すように造られている。卓上の燭台だけが、円卓に積み上げられた文書の束を鈍く照らしていた。
必要なのは華やかさではなく、密閉性だった。
この部屋で交わされる言葉は、外へ漏れてはならない。
今夜ここに集められたのは七人。
国王。
宰相。
外務卿。
騎士団長。
老臣。
王家直属近衛長。
そして記録官。
王国中枢の面々だった。
同時に、誰一人として、好んでここへ来ている者はいなかった。
卓上の文書は、一夜のためだけに用意されたものではない。
半年のあいだ、何度も開かれ、読み返され、加筆され、封蝋され、また持ち出されてきた記録の束だった。
今代勇者に関する極秘評議。
それが、この半年にわたって繰り返されてきた会議の名だった。
何度も開かれた。
何度も議論した。
何度も見送った。
何度も結論を先送りにした。
そして最後に残る結論だけが、毎回同じ場所へ戻っていく。
――今代勇者は危険である。
――だが、人の理では殺せない。
ゆえに保留。
それが王国の限界だった。
危険性は、もはや疑いようがない。
アルフィーの悲劇以後、今代勇者の裁定が明確に変質したことを、この部屋の誰も見誤ってはいない。
だが現実にどうする。
勇者は人の理では殺せず、封じきれず、止めきれない。
国家存亡の危機であると理解しても、終わらせる手段がない以上、会議は毎度同じ地点で止まるしかなかった。
本来なら今夜も、そのはずだった。
沈黙を破ったのは宰相だった。
「始めます」
低い声だった。
感情を押し込めた、事務的な響きだった。
「今代勇者に関する極秘評議。議題は従来通り一つ」
彼は中央の書面を整え、全員を見回した。
「今代勇者を、国家存亡に関わる危険存在として、このまま存続させるべきか否か」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気はさらに重く沈んだ。
最初に口を開いたのは老臣だった。
「確認しておきたい」
皺の深い顔が、円卓の向こうの国王へ向けられる。
「この場は、勇者を憎んで開かれているのではない。その認識に変わりはないな」
「無論です」
宰相が即答する。
老臣は頷き、そのまま続けた。
「アルフィーの悲劇を思えば、あれが壊れた理由が分からぬわけではない。先代殿の教えに従い、人を見ようとした。その結果、街一つを失い、最後には被害者を自らの手で斬るしかなかった。哀れと思う気持ちまで捨てた覚えはない」
それは、この場の全員に共有された認識だった。
王国側も、アルフィーの悲劇そのものには同情している。
今代勇者がそこで壊れたことも理解している。
だが同時に、その壊れ方があまりにも危険だとも理解していた。
外務卿が静かに言う。
「そして、この件は単なる国内問題ではありません」
彼は別紙へ指先を落とした。
「この世界で、人類側の勇者は同時代に一人しか存在しない」
その一言に、会議室の空気がわずかに張り詰め直した。
この会議にとっても、それは大前提だった。
勇者はただの強者ではない。
人の理における裁定者。
人類圏全体にとって、災厄に最後の楔を打ち込める唯一の存在。
そして王国は、その唯一を他国に先んじて制度の中へ組み込むことに成功した国だった。
外務卿は続ける。
「王国は勇者制度を最も早く整えた国です。勇者の保護、補佐、記録、災厄情報の集約、遠征支援、裁定時の実務。勇者をただ抱え込むのではなく、国家制度の中で運用できる形にした。ゆえに我が国は、単なる“勇者がいる国”ではなく、“勇者制度を持つ国”になった」
「その結果、我が国は人類圏の中心国として扱われるようになった」
老臣が低く付け加える。
「そうです」
外務卿は頷いた。
「勇者が一人しかいない以上、その存在を制度の中に安定的に置ける国は、それだけで大きな発言力を持ちます。災厄対処の中心、秩序維持の中核、最後の抑止力を抱える国として」
彼は一枚の文書をめくった。
「だからこそ王国は、長年にわたり外交上の大きな優位を得てきました。表向き他国は我が国を称賛する。勇者制度を整え、人類全体に貢献している国として。しかし内心では違う。唯一の勇者を独占していることに対し、強い羨望と嫉妬を抱いている」
近衛長が鼻で短く息を吐く。
「当然だろうな」
「ええ」
外務卿は認めた。
「なぜあの国だけが唯一の勇者を持つのか。なぜあの国だけが人類側最大の切り札を制度ごと独占しているのか――そう思われて当然です。ですが同時に、他国はそれを正面から否定しきれない。王国は実際に制度を整え、勇者を守り、支えてきたからです。正しいことをした上で、利益も得た。そこが厄介なのです」
国王が低く言った。
「そして、その優位は一方的な恩恵ではなかった」
「はい」
外務卿はさらに別の文書を出した。
「勇者制度がもたらしたのは、外交的信用だけではありません。安全保障上の抑止力でもありました」
彼の声が少しだけ硬くなる。
「他国は、王国へ軽々しく攻め込めなかった。理由は単純な軍事力ではありません。たとえ形式上は正当な理由を掲げられたとしても、戦争の最中に兵が乱暴狼藉を働けば、それだけで勇者がその国の上層部を災厄として裁定しうるからです」
それは重い意味を持つ言葉だった。
つまり勇者は、王国にとっての盾であるだけではない。
他国の上層部にとっては、自国の戦争犯罪がそのまま自分たちへの裁定に繋がりかねない、恐るべき監視者でもあった。
外務卿は続けた。
「どれほど大義を掲げようと、戦の現場で兵の統制を完璧に保つことはできません。略奪、暴行、放火、占領地での私刑。ひとたびそれが起きれば、勇者は“侵攻の名目”ではなく“結果として生じた災厄の規模”を見る。だから他国は、王国へ侵攻すること自体を躊躇してきたのです」
騎士団長が重く頷く。
「つまり、勇者がいたからこそ戦争そのものが抑えられていた」
「はい。ですがそれは、他国だけを縛っていたわけではありません」
外務卿は今度は国王へ視線を向けた。
「王国自身もまた、勇者に見限られぬよう周辺諸国への侵攻を一切行わなかった。勇者が災厄と見れば、王国上層部も安全ではない。つまり勇者制度とは、我が国の特権であると同時に、我が国自身をも縛る均衡装置だったのです」
老臣が静かに言う。
「勇者は王国の剣ではなく、王国の檻でもあった、ということだな」
「ええ」
外務卿は頷いた。
「だからこそ、今代勇者を失うというのは単なる戦力喪失ではありません。人類側最大の特権と、長年築いてきた外交的・安全保障上の優位を、自ら手放すことを意味します」
部屋が静まり返る。
その重さは、この会議の全員が痛いほど理解していた。
もし勇者が複数いるなら、一人失っても制度は残る。
だが唯一なら違う。
王国が今代勇者を切ることは、一国家の危険人物処分では終わらない。
それは、人類圏の均衡そのものに手を入れる行為になる。
国王がそこで口を開いた。
「分かっている」
低い声だった。
彼は今夜も玉座ではなく、円卓の奥に立ったままだった。
威厳のためではない。座ることを自分に許していないような、そんな立ち方だった。
「先代殿への恩もある。勇者という存在が、この国に何をもたらしてきたかも分かっておる。民がどれほど救われてきたかも、諸国がそれをどう見てきたかもな」
そこで少しだけ言葉が切れる。
「だからこそ、今まで切れなかった」
誰も反論しない。
先代勇者は、王国にとって大恩ある存在だった。
表向きには、ある日突然姿を消したことになっている。王国側はその真相を知らない。だが理由もなく消えたと信じている者は、この場にはいなかった。
災厄を斬り、王国を救い、王家を支え、何度も民を守った男。
その先代が遺した後継が、今代勇者だった。
だから王国は今代をかなり庇ってきた。
勇者就任からまだ1年も経っていない。
アルフィーの悲劇が起きたのは、半年前。
つまり、王国がここまで踏み込むまで、実質半年しか経っていない。
普通なら早すぎる。
まだ見守るべき時間だ。
まだ立て直しを試みるべき時間だ。
先代への恩義を思えば、なおさらだった。
だが逆に、その異常な早さこそが、今代勇者の危険性の深さを示していた。
騎士団長が口を開く。
「半年でここまで来た。それが全てでしょう」
誰もすぐには返せない。
「十年かけて狂ったわけではない。長い腐敗の果てでもない。たった半年で、王国法も忠誠も功績も、裁定の前では意味を失った。これを異常と言わずして何と言うのです」
老臣が苦く言う。
「だからこそ、何度も会議を開いたのだ」
「はい」
宰相が答える。
「一度ではありません。二度でも三度でもない。アルフィー以後、何度も極秘会議を開きました。国王陛下も、我らも、先代殿への恩を軽々しく踏みにじる気はなかった。今代を最初から切り捨てようとしたわけでもない。だから毎回、結論を先送りしてきた」
彼は過去記録の束に手を置いた。
「ですが、そのたび最後の結論は同じでした。勇者は危険である。だが、人の理では殺せない」
それが王国を縛ってきた閉じた輪だった。
危険性に異論はない。
だが方法がない。
だから保留。
何度繰り返しても、そこから先へ進めなかった。
だが今夜だけは違う。
宰相は新しい報告書の束を、卓上へ静かに置いた。
「今夜、この会議がこれまでと異なる理由はここにあります」
近衛長が短く言う。
「例の情報売りか」
「はい」
宰相は頷いた。
「一週間前、ひとりの情報売りが王城へ接触してきました。ローブを深く被った男で、素性は不明。忠義でも信念でもなく、ただ情報を金に換えに来た者です」
「信用したのか」
老臣が問う。
「そのままは信用していません」
宰相は即答した。
「内容は買い取りましたが、即採用はしておりません。ですがまず申し上げるべきは、王国はそれまでユキトという男を、重要対象としては把握していなかったということです」
外務卿が眉をひそめる。
「ユキト?その男はノーマークだったのか」
「完全に、ではありません」
宰相は言葉を選んだ。
「王国側に残っていたのは、武闘大会の記録だけです。低い戦闘力で優勝した、妙な男がいた。しかも女を何人も連れていたらしい――そこまでです」
彼は一枚の書面だけを卓上に置いた。
「当時はそれ以上の価値を見出されなかった。異様ではあっても、国家を動かしてまで追う対象とは判断されていません」
近衛長が低く言う。
「つまり、“妙な優勝者”として埋もれていたわけだ」
「はい」
宰相は頷いた。
「雷竜騒動は王子の失態、フィオラ滞在は後から辿った結果であって、当時から一本に繋がって見えていたわけではありません。ローブの男が“これは竜絡みだ”と持ち込んで初めて、王国は同一線上の出来事として洗い直しを始めたのです」
老臣が目を細める。
「竜と知らなければ見抜けなかった」
「その通りです。ユキト側の隠蔽能力が高い。加えて、行動そのものも断片的で、王国がひとつの脅威として認識するには至っていなかった。我々の観測では輪郭がぼやけ、事件同士が繋がらない」
外務卿が静かに呟く。
「……厄介だな」
「かなり」
宰相は即答した。
「ゆえに、ローブの男の情報を起点に、王国は初めて急ぎ洗い直しを行いました。武闘大会、雷竜騒動、現在の所在、その同行者、生活状況。一週間のうちに、人手を割いて一気に掘り返しています」
騎士団長が問う。
「そこまでして、本物だったのか」
「はい」
宰相は一枚目の書面を開いた。
「まず、半年前――夏の終わりごろ。アルフィーの悲劇とほぼ同時期に、若い雷竜捕獲作戦が失敗しています」
その件を知らぬ者はいない。
愚かな王子が若い雷竜を捕えようとして失敗し、兵士たちは全員爆睡。説明もろくにできず、結局は王子の威厳だけが大きく傷ついた事件だ。
王国では半ば王子の恥として扱われていた。
人的損害ゼロ。
実害は軽微。
だから真面目な軍事案件として深掘りされてこなかった。
「ですが今となっては、あの件は別の意味を持ちます」
宰相の声が低くなる。
「情報売りのもたらした内容は単純です。雷竜騒動の中心にいたのがユキトという男であり、しかもその場には別の竜が関わっていた」
国王が小さくその名を繰り返す。
「ユキト」
「まず事実から申します」
宰相は言う。
「ユキトは三体の竜を従えています」
近衛長が目を細める。
「その時点で国家級の危険人物だな」
「普通なら、です」
宰相は淡々と返した。
「ですが雷竜騒動における王国側の人的被害は、ゼロです」
沈黙が落ちた。
「兵は全員睡眠状態に落とされています。軍務妨害であり、敵対行為に違いはありません。若い雷竜の救出そのものも、王国から見れば看過できる案件ではない」
そこで一度言葉を切る。
「ですが死者は一人もいない。負傷も軽微。実質的損害は、王子の威厳失墜のみです」
老臣が低く呻く。
三竜を抱える危険人物が現場へ介入し、死者ゼロ。
普通ではない。
「それだけではありません」
宰相は次の報告書を示した。
「現場で突然現れた母雷竜が逆上し、睡眠状態の我が兵へ襲いかかろうとした際、ユキトは配下の黒竜にそれを防がせています」
近衛長の眉が動く。
「兵を守らせたのか」
「結果としてはそうです」
「何故だ?」
「不明です。本人の内心までは分かりません」
「だが、守った」
「はい」
重い沈黙。
兵を眠らせた側が、眠った兵を守った。
敵対しているのに、殺さず、むしろ守らせた。
理解しにくい。
だが、事実なら無視できない。
老臣が苦く言う。
「少なくとも、殺せる場面で無意味に殺す手合いではないか」
「その可能性は高いと見ます」
宰相は頷いた。
「次に、武闘大会です。ここで王国は初めて、過去の妙な記録を掘り返す形になりました」
別の書面が開かれる。
「ユキト本人の戦闘力は、1です」
再び沈黙。
兵の子供以下。
武人ですらない数値。
「そして、そのユキトは武闘大会で優勝しています」
近衛長が低く漏らした。
「意味が分からん」
「不正、外部介入、竜の干渉、記録改竄、いずれも調べました」
宰相は言う。
「断定はできません。ですが一つだけ言える。ユキトは単なる“強い竜を持つ男”ではない。本人単体でも、常識の外にいる」
国王が低く言った。
「竜が本体ではなく、ユキト自身が例外ということか」
「そのように見えます」
宰相はさらに続ける。
「大会の過程で、ユキトは竜との契約を破棄しています」
「何の契約だ」
騎士団長が問う。
「詳細不明です」
「不明?」
「はい。ですが少なくとも、三竜に依存し切っているわけではなく、必要なら自ら切る判断ができることは分かる」
そして、さらに次の一枚が置かれた。
「大会後。ユキトは三体の竜へ同時に告白し、三人全員から了承を得ています」
今度こそ、誰も表情を取り繕えなかった。
外務卿が額を押さえ、老臣が「待て」と呻き、近衛長は露骨に顔をしかめた。騎士団長だけが真顔のまま固まっている。
宰相は終始真面目だった。
「確認済みです。誤報ではありません」
「誤報であれ」
外務卿が本音を漏らした。
「私もそう思いました」
宰相は一切崩れずに答える。
「ですが事実です」
老臣が呆然とする。
「三体同時に、ユキトの方から告白したのか」
「はい」
「そして全員が了承した」
「はい」
「全員か」
「全員です」
老臣が天井を見る。
「……なんなんだそれは」
誰にも説明できない。
だが会議はさらに続く。
宰相は最後の書面を開いた。
「そして現在です。王国は急ぎ追跡を行い、対象が王国領フィオラにて冬季滞在中であることを確認しました」
空気がわずかに変わる。
今までの緊張とは別種の、理解不能に対する嫌な予感が混じる。
外務卿が眉をひそめた。
「フィオラ?」
「はい。王国領内の温泉地です」
「……なぜそんな場所にいる」
宰相は一拍置いた。
「冬季滞在のためです」
沈黙。
騎士団長がゆっくり問う。
「逃亡でも潜伏でもなく」
「滞在です」
「王国領内で?」
「はい」
「温泉地で?」
「はい」
老臣が眉間を押さえた。
「何をしているんだ、その男は」
宰相は真顔のまま、報告書をめくった。
「武闘大会の賞金で豪遊しています」
今度ははっきりと、空気が変質した。
近衛長が顔をしかめる。
外務卿は一瞬言葉を失い、老臣は本気で嫌そうな顔をした。騎士団長だけが真顔だが、目が死んでいる。
「……豪遊?」
外務卿が確認する。
「はい」
「国家級戦力候補が?」
「はい」
「王国領内で?」
「はい」
「温泉地で?」
「はい」
宰相は一切ぶれなかった。
「確認された行動は、上級旅館への滞在、高額消費、複数女性との継続的同行です」
老臣が呻く。
「頭が痛い……」
だが、報告はまだ終わらなかった。
「同行者は三名。従来確認済みの三竜と見られる女性たちです。加えて、現在はもう一名増えています」
外務卿が目を閉じた。
「増えた?」
「はい」
「何が増えた」
「女性です」
「……何だと」
「リュシアという若い娘です。竜かどうかは断定できていません」
近衛長が低く言う。
「つまり戦力増の可能性もある」
「あります」
「だが、やっていることはフィオラで豪遊」
「現状、そうです」
老臣が本気で天井を仰いだ。
「なんなんだこいつは……」
誰も答えられない。
宰相は淡々と続ける。
「少なくとも言えるのは、ユキトは完全に追跡不能な怪物ではないということです。竜と知らされて初めて、王国は点と点を線にできた。その上で洗い直した結果、見えてきた現在地がフィオラです」
外務卿が疲れた声で言う。
「そんな危険人物なら、もっと災厄らしく潜伏しろと言いたくなるな」
「同感です」
宰相は珍しく即答した。
「しかし重要なのはそこです。これほどの戦力を持ちながら、現時点でその欲望の向きは国家転覆でも革命でもなく、私的快楽と身内との生活に向いているように見える」
老臣が苦々しく言う。
「下品ではあるな」
「かなり」
宰相は即答した。
「ですが、その俗っぽさはむしろ重要です。少なくとも、正義の一貫性で国家ごと切る類ではない」
この一言で、空気がわずかに戻った。
今代勇者の危険性は、私欲ではなく“壊れた正義”にある。
そこに比べれば、温泉地で豪遊し、女を連れて遊んでいる男は、方向性が違いすぎた。
騎士団長が重く問う。
「それでも危険であることに変わりはない」
「ええ」
「戦闘力1で武闘大会優勝。三竜。契約破棄。意味不明な関係性。正体不明の追加戦力。どれを取っても普通ではない」
「はい」
「だが、今代勇者とは別種だ」
「その通りです」
宰相は最後に二枚の書面を並べる。
「そして、半年前の二つの事件がほぼ同時期に起きていることには、無視できぬ意味があります」
一枚を指す。
「夏の終わりに、アルフィーでは勇者が人を見た。その結果、惨劇が拡大し、今代勇者は以後“見ること”を捨てた。災厄の規模だけで人を断つ化け物へ変質した」
もう一枚を指す。
「ほぼ同じ時期、雷竜騒動ではユキトが三竜を従えながらも、死者を一人も出さず、むしろ眠っていた兵を守っている」
誰も口を挟まない。
「一方は街を失い、勇者が壊れた。
もう一方は王子の威厳だけが失われ、人は死ななかった」
騎士団長が低く言った。
「同じ時期に、別の結末へ分かれたと」
「少なくとも結果はそう見えます」
宰相は静かに言う。
「そして今、片方は国家を内側から崩しかねない刃となり、もう片方は温泉地で豪遊している」
外務卿が目を閉じた。
「情報として並べると頭が痛いな」
「はい」
「だが、だからこそ別種だ」
「はい」
宰相は最後に言った。
「王国の認識は、もう“見て止める”ではありません。そこは過ぎました。我々は今代勇者を生かしたままにできない。殺さなければ、王国が崩れる。今夜ここで問うべきは、ただ一つです」
その声が深く落ちる。
「ユキトは、今代勇者を殺せる可能性のある例外か」
沈黙。
長い、長い沈黙だった。
哀れだと思う。
理解もする。
だがそれでも、今代勇者を生かしたままにはできない。
ならば必要なのは、理解者ではない。
説得者でもない。
殺せる者だ。
外務卿が苦く言う。
「だがそれでも賭けだ」
「はい」
「成功の保証はない」
「ありません」
「勇者を殺せたとして、その後ユキトが次の災厄にならない保証もない」
宰相は少しだけ間を置いた。
「保証はありません。ですが少なくとも、雷竜騒動と現在までの行動を見る限り、国家を滅ぼすことより、自分の快楽と身内の生活を優先している」
老臣が苦々しく言う。
「なんとも情けない安心材料だな」
「ええ」
宰相は答える。
「ですが、壊れた正義よりはまだ理があります」
騎士団長が続ける。
「そして今代勇者は、このままなら確実に国家存亡の危機だ」
「はい」
「ならば、より確実な危機を放置し、より不確実な先を理由に動かぬのは、王として正しいか」
その問いに、国王が答えた。
「正しくはない」
全員が国王を見る。
「だが、より確実な崩壊を前にして、より不確実な先を理由に動かぬのは、王の責ではない」
国王の声音は静かだった。
怒りはない。
あるのは疲労と、それでも逃げない責任だけだ。
「余は、あれを憎んではおらぬ」
誰も驚かなかった。
「アルフィーで壊れた理由も分かる。先代殿の恩も忘れておらぬ。だから庇った。だから何度会議を開いても、毎度“まだ切れぬ”で終わらせてきた。余自身がそうしてきた」
その声が少しだけ硬くなる。
「だが、それでも娘の嫁ぎ先を斬られた時、知ったのだ」
場が静まり返る。
「余が王として調べ、父として託してよいと本気で思った男だった。清廉潔白、非の打ち所がない。次代の柱になると信じた。……それを、あれは切った」
静かな声の方が、かえって重い。
「その時、悟った。あれはもはや、余らの善悪の中にいない。王国の論理では制御できぬ」
老臣が目を閉じる。
「哀れだ。だが哀れだから許される段階は、もう過ぎた……か」
「そうだ」
国王ははっきりと言った。
「分かることと、王国を預けられることは別だ」
再び沈黙。
宰相が最後に結論を整理する。
「これまでの会議は、毎回同じ結論でした。勇者は危険。だが人の理では殺せない。ゆえに保留」
彼は新しい報告書の束に手を置いた。
「ですが今夜、初めて違う。殺せる可能性のある例外が見つかった。だから会議は、初めて“是非”から“実行の是非”へ進めます」
近衛長が問う。
「失敗した場合は」
国王は間を置かず答えた。
「王家の血だけは落とせ」
記録官の筆が、一瞬止まった。
「子らだけでも逃がす。王家はここで終わっても、血は絶やすな。責は余が取る。だが国は、余と共に終わらせぬ」
外務卿が目を閉じる。
「民に知られれば、我らは英雄への裏切り者だ」
「そうだ」
「他国に漏れれば、王国の信用は崩れる」
「そうだ」
「それでもやるか」
国王は迷わなかった。
「やる」
その一言で、退路は消えた。
騎士団長が先に頷く。
「賛成します。今代勇者は国家存亡の危険です。これ以上の猶予は、民を無意味に死地へ送り込むのと同じです」
近衛長も続く。
「王家防衛の観点から賛成です。もはや見て見ぬふりは防衛ではありません」
外務卿は長く黙ってから、絞り出すように言った。
「外交上の損失は計り知れません。勇者を失うとは、人類側最大の特権と、長年築いてきた優位を自ら手放すことです。それでも……国家そのものの崩壊を先送りするための信用など、結局は砂上です。賛成します」
最後に老臣だけが残った。
彼は長く俯いたまま動かなかった。
やがて、老いた両手を膝の上で握りしめ、小さく言った。
「反対したい。最後までしたい。先代殿への恩を思えば、今代までこの手で切るなど、本来あってはならぬ」
誰も急かさなかった。
「だが……それでもなお国を賭けて猶予を重ねることは、もはや恩ではなく甘えか」
老臣はゆっくり顔を上げる。
「賛成します」
宰相が記録官へ視線を送る。
「記録を」
記録官は震える手で筆を走らせた。
「今代勇者を国家存亡に関わる危険存在と認定。極秘裏に排除方針へ移行。外部への漏洩は厳禁。関係者の選定、接触対象の精査、作戦立案を開始」
国王は最後に全員を見渡した。
「正しいとは言わぬ。誇れる決断でもない。勇者に救われた国が、勇者を討つのだ。綺麗で済むはずがない」
その声は静かだった。
「だが王である余が問うべきは、清いかどうかではない。これ以上、見て見ぬふりをして国を賭け続けることが許されるかどうかだ」
答えは、もう出ていた。
その夜。
何度開いても同じ結論に戻っていた会議は、初めて違う終わり方をした。
勇者は危険。
だが人の理では殺せない。
だから保留。
その閉じた輪が、ようやく破られた。
円卓の上に残ったのは、もう是非ではない。
どう殺すか。
誰に賭けるか。
どれだけ秘密のまま終わらせるか。
王国はその夜、ついに英雄を手放す決断をした。




