46.逃げ道
フローラの部屋に入った瞬間、背後で扉が閉まった。
さっきまでの空気が、そこでようやく切り替わる。
ユキトは少しだけ肩の力を抜いたまま、部屋の中を見た。
ヴォルカをどうにか止められた直後だった。胸の奥に残っている熱はまだ消えていない。廊下でフローラに捕まった時も、正直に言えば、軽い小言くらいのものだと思っていた。順番がどうだとか、少しくらい自分にも気を遣えだとか、その程度の話だろうと。
だから最初は、少し気まずいくらいのつもりでいた。
けれど振り返ってフローラの顔を見た瞬間、その考えは消えた。
怒っているようにも見えた。
何かを決めてしまって、その決意ごと押し潰されそうになっているようにも見えた。
ただ一つ言えるのは、いつものやわらかな微笑みはなかった。
ユキトはそこで初めて、これは軽い話では済まないと察した。
フローラは部屋の中央に立ったまま、静かにユキトを見ていた。
声を荒げる気配はない。だからこそ余計に逃げ道がなかった。
「少し、聞いてほしいことがあります」
低い声だった。
責めるための声ではなく、ずっと胸の中に抱えていたものを、もう黙ってはいられなくなった人の声だった。
ユキトはうなずいた。
「……おう」
フローラは視線を逸らさなかった。
「あの場で何が起きていたのかは分かっています」
「ヴォルカが、もう一人で抱えきれる状態ではなかったことも」
「あなたが踏み込まなければならなかったことも、分かっています」
ユキトは黙って聞いていた。
「だから、止めようとは思いませんでした」
「止めるべきでもないと、ちゃんと分かっていました」
そこでフローラは少しだけ唇を噛んだ。
それだけの仕草なのに、整えていたものが崩れかけているのが分かった。
「でも」
「分かっていることと、何も感じないことは別です」
フローラはまっすぐユキトを見つめた。
自分の苦しさをごまかすつもりがない顔だった。
「廊下で待っている間、ずっと考えていました」
「今は入るべきではない」
「今はヴォルカのための時間だ」
「私が割り込むべきではない」
「そう、何度も自分に言い聞かせていました」
部屋の中は静かだった。
外の物音はほとんど入ってこない。だからフローラの声だけが、妙に近く響いた。
「ちゃんと、そう思っていたんです」
「そうしなければいけないとも思っていました」
そこで一度、フローラは息を詰めるように黙った。
「だから、止めたくはなかったんです」
「止める資格もないと、そう思っていました」
ほんの少しだけ、唇が震える。
「……それでも」
「どうしてあの子ばかり、と」
「そう思ってしまいました」
ユキトは息を呑んだまま、何も言えない。
フローラは俯かなかった。
そのまま、ちゃんとユキトを見ていた。
「どうして私は、廊下で待つ側なのだろうと」
「そんなことを思う自分が嫌で」
「情けなくて」
そこまで言ったところで、フローラの頬に細い光が走った。
涙だった。
大きく表情を崩したわけではない。
声も震えすぎてはいない。
ただ、普段なら絶対に見せないはずの涙が、頬に一筋だけ静かに落ちた。
「……それでも、苦しかったんです」
ユキトは息を止めたまま、動けなかった。
フローラはそのまま一歩だけ近づいた。
「私はあなたにとって都合のいい女じゃない」
その言葉は鋭かった。
けれど怒鳴るような鋭さではなかった。
長く胸の中に刺さっていた棘を、自分の手でようやく引き抜いたような痛みの鋭さだった。
「分かってくれるから後回しにしていい相手ではありません」
「我慢できるから待たせていい相手でもありません」
「支えてくれるから、何も言わなくても大丈夫だと思っていい相手でもありません」
フローラの指がユキトの服を掴んだ。
強く引いたわけではない。けれど、その手には震えがあった。
「私だってあなたの恋人です」
その声だけが、少しだけ掠れた。
「少しくらい、同じように必死になってほしいと思ってしまいました」
ユキトは何も言えなかった。
言葉が見つからないのではなかった。
軽い言葉を返してしまったら、ここで全部壊れると分かったからだ。
フローラは俯かなかった。
泣き顔を隠そうともせず、そのまま続けた。
「あなたは、私なら分かると思っていたのでしょう」
「実際、私は分かってしまいます」
「止めるべきでないことも、今は待つしかないことも」
「だから私は、ずっと待ててしまったんです」
唇が小さく震えた。
「支えて」
「整えて」
「平気な顔もして」
「そうしていれば、ちゃんと隣にいられると思っていました」
もう片方の手が、自分の胸元を押さえるように触れた。
痛みを抑えようとしているみたいだった。
「でも、それを繰り返しているうちに」
「私はただ、都合よく支えるための女なのではないかと思ってしまったんです」
そこまで言ってしまってから、フローラはほんの少しだけ目を閉じた。
自分でも言いたくなかったのだと分かる顔だった。
「あなたが苦しい時に支える」
「あなたが前に出たい時に何も言わず後ろから押す」
「あなたが倒れそうなら回復する」
「生活が回るように整える」
「そういうことばかりしていたら」
「私があなたにとって何なのか、分からなくなりました」
ユキトはそこでようやく口を開いた。
「……そう思わせたなら、俺が悪い」
フローラの指先が少しだけ止まる。
ユキトは視線を逸らさなかった。
「そう受け取られても仕方ない」
「俺はちゃんと言葉にしてこなかった」
「分かってくれる相手だと思って、そこに甘えてた」
「傷つけたなら悪かった」
フローラは何も言わない。
責めるでも、許すでもなく、ただ聞いていた。
ユキトは喉の奥に引っかかるものを押し込むように息を吐いた。
「でも、それでも言わせてくれ」
「都合がいいから頼ってたんじゃない」
「壊れないと思って甘えてたんじゃない」
フローラの目が少しだけ揺れる。
「一番信頼してたからだ」
「言わなくても分かってくれると思ってた」
「そこに甘えてたのは俺の未熟さだ」
「でも、それはお前を軽く見てたからじゃない」
ユキトは一歩近づいた。
今度はフローラが逃げなかった。
「お前は、都合のいい女なんかじゃない」
フローラの瞳が見開かれる。
その言葉を待っていたのか、自分でもそんなものを欲しがっているとは認めたくなかったのか、どちらともつかない顔だった。
ユキトは続けた。
「生活のことだって、ずっと見てた」
「旅先で金の使い方を決めて、宿のことも食い物のことも日用品のことも、全部回るようにしてくれてた」
「俺は口にしなかったけど、当たり前だなんて思ったことは一度もない」
「助けられてた」
「かなり」
フローラの指先が、服を掴んだままわずかに強くなる。
「戦う時もそうだ」
「俺が前に立つ時、毎回何も言わずに支えてくれてた」
「回復も、状況把握も、全部」
「あれがなかったら俺は前に立てない」
「分かってた」
「本当はずっと分かってた」
ユキトは少しだけ顔をしかめた。
言いづらいことを無理やり口にしている顔だった。
「前に立ってるくせに、後ろに支えられてるって認めるのが嫌だった」
「恥ずかしくてちゃんと言えなかった」
フローラの唇が小さく揺れた。
泣きそうなのを堪えているのか、笑いそうになったのか分からない微かな動きだった。
「表彰式の時も覚えてる」
「ぐちゃぐちゃな告白だったのに、一番に答えてくれたのはお前だった」
「あの時、どれだけ救われたか今でも覚えてる」
「ちゃんと見てた」
「忘れてない」
フローラの目からもう一筋、涙が落ちた。
ユキトは止まらなかった。
今ここで止まったら、また同じことになると分かっていた。
「加護のこともそうだ」
「戦闘力1の俺に、ただ可哀想だと思ったんじゃなくて」
「生きてほしいって、本気で思ってくれた」
「そのために加護までくれた」
「あれがどれだけ重いことか、分かってる」
「分かってたのに、ちゃんと礼を言えてなかった」
ユキトの声は低いままだった。
飾った言い方は一つもなかった。
だからこそ、誤魔化していないことがそのまま伝わった。
「全部、今でも大事に覚えてる」
フローラが何か言おうとした。
けれどその前に、ユキトが手を伸ばした。
正面から、そのまま抱きしめた。
強引ではなかった。
逃がさないためでもなかった。
泣き崩れる前に止めるためでもなかった。
ちゃんと向き合って、ちゃんと返すための抱擁だった。
フローラの身体がわずかに固くなる。
それでも拒まなかった。
むしろそのまま力が抜けていくのが分かった。
ユキトは抱きしめたまま、フローラの耳元ではっきり言った。
「お前は都合のいい女なんかじゃない」
さっきより強い声だった。
言い聞かせるためではなく、もう二度とそこへ戻らせないための断定だった。
「そんなふうに思うな」
「思わせたのが俺でも、もうそのままにはさせない」
「お前は俺の恋人だ」
「ちゃんとそう思ってる」
フローラの肩が震えた。
さっきまで立っていられたのが不思議なほど、そこでようやく全部がほどけたみたいだった。
「……ずるいです」
声が小さく漏れた。
「今さら、そんなふうに言うんですね」
ユキトは何も返さなかった。
言い訳を足せば軽くなると思った。
フローラは抱きしめられたまま、ユキトの胸元に額を寄せた。
服を掴んでいた手が、今度は離れないために掴み直す手になる。
「私は、分かってしまうんです」
「あなたが何を考えているかも、どこで無理をしているかも、わりと見えてしまう」
「だから待ててしまうし、支えられてしまう」
小さく息を吸う音がした。
「でも、それでも」
「分かることと、平気でいられることは別でした」
ユキトは腕に少しだけ力を込めた。
フローラは目を閉じたまま続ける。
「便利な女だと思っているのではないかと、そう考えてしまった自分が嫌でした」
「そんなことを言えば、あなたを困らせることも分かっていました」
「それでも、今日は黙っていられませんでした」
「言ってよかった」
ユキトの返事は短かった。
フローラは少しだけ顔を上げる。
涙の跡が残っていた。
それでも、さっきまでの思い詰めた顔ではなかった。
「……そう言うんですね」
「言う」
「お前が黙って耐える方が嫌だ」
フローラはその言葉に、ようやく少しだけ笑った。
いつもの綺麗な笑みではなかった。
泣いた後の、ひどく弱くて、でも安心した顔だった。
「本当に、ずるいです」
「悪かった」
「はい。悪いです」
さっきまでの鋭さはもうなかった。
けれど甘やかしてもいなかった。
「でも」
「……少しだけ、安心しました」
その声は小さかった。
抱きしめられたまま、ようやく吐き出せた本音だった。
ユキトは頷いた。
「ならよかった」
フローラは少しだけ眉を寄せる。
「そこは、もう少し気の利いたことを言ってください」
「無理だ」
「今のでだいぶ限界だ」
それを聞いて、フローラは今度こそほんの少しだけ笑った。
涙の名残が残ったままの、静かな笑いだった。
部屋の中はまた静かになった。
けれどさっきの静けさとは違っていた。
張り詰めて苦しいだけの沈黙ではない。
言うべきことを言ったあとに残る、少し不格好で、でも逃げないと決めた二人のための静けさだった。
フローラはまだユキトの服を掴んでいた。
ユキトもそれをほどこうとはしなかった。
今夜だけは、このままでいいと思った。
しばらくして、フローラの指先から力が少しずつ抜けた。
ユキトもそれに合わせて腕を緩める。
「……もう大丈夫か」
「大丈夫ではありません」
即答だった。
ユキトがわずかに眉を寄せる。
フローラはその顔を見て、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「ですが、さっきよりはましです」
「ならよかった」
「だから、そこはもう少し気の利いたことを――」
言い切る前に、ユキトがふいに身を寄せた。
フローラの頬に、軽く唇が触れる。
あまりにも自然で、
あまりにも一瞬で、
何をされたのか理解するのが半拍遅れた。
ユキトは自分でも少し気まずそうに視線を逸らす。
「……さっき、言い足りなかった分」
それだけ言って、今度こそ扉の方へ向かう。
数拍遅れて、フローラの頬に熱が広がった。
泣いたあとの熱とは違う、どうしようもなく落ち着かない熱だった。
「……やっぱり雑ですね」
返ってきた声は小さい。
けれど、さっきまでよりずっと柔らかかった。




