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44.アルフィー

あの街のことを、今代勇者は忘れたことがない。


忘れられるはずがなかった。


むしろ逆だ。

忘れたいと願った日ほど、あの街は鮮明になる。


朝の市場のざわめき。

焼きたてのパンの匂い。

窓辺に干された洗濯物が風に揺れる音。

母親に怒られながら、それでも笑って走っていく子供たちの足音。

井戸端で噂話をしていた女たちの、他愛もない笑い声。

まだ青い果物を並べながら、今年は出来が悪いとぼやいていた果物売りの男。

近いうちに式を挙げるのだと照れくさそうに話していた若い恋人たち。

礼拝堂の前で犬にパンくずをやっていた老人。


小さな街だった。

華やかな大都市でも、戦略上重要な拠点でもない。

ただ人が生きていた。

生きて、笑って、働いて、疲れて、愛して、明日を信じて眠る。

それだけの街だった。


だからこそ、壊れた。


勇者は人の理における裁定者だった。


だが、その力は万能ではない。


誰が、どこで、いつ、何をし、どんな方法で災いを引き起こすのか。

そんなふうに未来が分かるわけではない。

人の罪を証拠立てて暴き、裁判官のように白黒をつける力でもない。


見えるのはただひとつだけ。


その者が将来引き起こしうる“災厄の規模”――その大きさだけ。


村一つで収まるのか。

街を滅ぼすのか。

国を割るのか。

あるいはもっと大きな歪みとして世界に傷を残すのか。

輪郭だけが、世界のひずみとして視える。


だから勇者は、まだ何もしていない者を斬ることがある。

泣いて許しを請う者を斬ることがある。

何の証拠もない者に剣を向けることがある。


人から見れば理不尽だった。

残酷だった。

狂っているようにすら見えただろう。


それでも勇者は、見えてしまう。

人が知らない“その先”が、見えてしまう。


だから先代は言った。


災厄の規模だけで人を断ずるな。

大きな災厄を孕む者ほど、同時に大きな希望へ転じる可能性も持つ。

最後まで見ろ。

人を見て裁け。

可能性だけで切るな。


若かった今代勇者は、その教えを信じていた。


信じたかった。


人を救う側でありたかった。

人を見て、生かす余地を残せる裁定者でありたかった。

ただ機械のように斬るための剣にはなりたくなかった。


その男に会ったのは、街外れの礼拝堂だった。


礼拝堂は古く、小さかった。

色褪せた聖印。

軋む木の扉。

窓から差し込む夕方の光が、埃を細かく浮かせていた。

祈りのための長椅子はところどころひび割れていて、それでも丁寧に磨かれていた。


男はその中央に跪いていた。


痩せていた。

頬はこけ、目の下には濃い隈。

肌は土気色で、まともに眠っていないのがすぐ分かった。

爪の間に黒い土が入り込み、指先は荒れてひび割れていた。

何日も泣き続けた者の顔だった。


だが、勇者の目には別のものも映っていた。


男の向こう側に広がる、重いひずみ。

濃く、淀んだ災厄の気配。

一人の破滅では終わらない。

誰か数人で済むものでもない。

もっと多くの命が、あの男の先に横たわっている。

勇者の権能は、はっきりとそれを告げていた。


隣にいた兵が小さく息を呑んだ。


「勇者様」


警戒の滲む声だった。


「これは危険です」

「今ここで討つべきかと」


別の兵も頷いた。


「禁忌に触れたとの報告もあります」

「遅れれば被害が広がるかもしれません」


男は震えながら額を床につけた。


「私は……もう、やりません」


掠れた声だった。

石を擦るような、喉の奥が切れているような声。


「死者を戻したかっただけなんです」


兵の視線が冷えた。


死霊術。

死者蘇生。

魂と肉の境をこじ開ける外法。

人の理に背く禁忌。


それだけで斬られても文句は言えない。


男はなおも言葉を続けた。


「妻が、死んだんです」

「冬に」

「熱が出て」

「薬も、祈りも、間に合わなくて」

「それで、子供も……」


そこで声が詰まった。

喉の奥で何かが潰れたような音がした。


礼拝堂の奥には、小さな花が供えられていた。

乾ききった白い花。

古びた子供用の木彫りの鳥。

粗末だが、丁寧に縫われた布人形。

生活の延長にあった死が、そこに残っていた。


男は頭を上げないまま言った。


「一目でいいと思ったんです」

「戻らなくてもいい」

「ただもう一度だけ」

「声を聞ければ」

「ありがとうって、言えれば」

「それで終わりにするつもりだった」


兵が吐き捨てるように言った。


「禁忌に“つもり”など関係ない」


「……はい」


「何人巻き込んだ」


「誰も」

「私だけです」


「術はどこまで進めた」


「失敗しました」

「戻らなかった」

「何も、戻らなかったんです」


勇者は黙って男を見ていた。


権能はなおも告げている。

重い災厄。

見過ごすな。

ここで断て。

理はそう囁いていた。


だが目の前の男は、泣いていた。

醜い命乞いをしているわけではなかった。

逆恨みの炎も、世界を呪う狂気も見えなかった。

そこにいたのは、喪失に耐えられなかった凡人だった。

愛する者を失い、耐えきれず、間違えた、ただの人間だった。


勇者は思い出していた。


先代の言葉を。


大きな災厄を孕む者ほど、同時に大きな希望へ転じる可能性もある。

最後まで見ろ。

人を見て裁け。


その教えは、勇者の胸の奥にまだ温かく残っていた。

疑いたくなかった。

可能性だけで人を切るのではなく、最後まで見て、それでも駄目な時に断つ。

そうありたかった。


勇者は低く問うた。


「今後、禁術に触れるか」


男はすぐに首を振った。


「触れません」


「誓えるか」


「誓います」


「償う気はあるか」


男の肩が小さく震えた。


「あります」

「どんな罰でも受けます」

「でも、できるなら……」


勇者は待った。


男は額を床に押しつけたまま、掠れた声を絞り出した。


「妻と子を、俺の手で埋葬させてください」


長い沈黙が落ちた。


兵たちは固唾を呑んでいた。

誰もが勇者の裁定を待っていた。


権能は重い災厄を見せている。

だが、男は本当に悔いているように見えた。

少なくとも今この瞬間は。

少なくとも、勇者にはそう見えた。


勇者は剣を納めた。


金属の擦れる音が、礼拝堂に静かに響いた。


兵たちが息を呑む。


「監視をつけろ」


勇者の声は硬かった。


「この男は生かす」

「街の外へは出すな」

「禁術資料はすべて押収」

「埋葬が済み次第、身柄を預かる」


「勇者様!」


兵の一人が思わず声を荒げた。

勇者は振り返らなかった。


「責任は俺が持つ」


男は崩れ落ちた。


両手を床につき、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も何度も頭を下げた。


「ありがとうございます」

「ありがとうございます……!」


その声を聞きながら、勇者はほんの少しだけ、救われた気がした。


ああ、間違えなかったのかもしれない。

可能性だけで人を切らずに済んだ。

この男にはまだ、人として戻る余地があったのかもしれない。

先代の教えは、やはり間違っていなかったのかもしれない。


そう、思ってしまった。


それが、すべての始まりだった。


十日ほど、何も起きなかった。


男は従順だった。

監視にも抵抗しなかった。

埋葬も静かに終えた。

妻と子の墓の前で泣き崩れ、その後は抜け殻のように黙り込んだ。


街では噂が立った。


禁忌に触れた哀れな男。

だが勇者様は話を聞き、すぐには切らなかった。

きっと悔いていたのだろう。

勇者様は厳しいだけではない。

ちゃんと人を見てくださる。


勇者はそれを耳にした。

表情には出さなかったが、胸の奥で小さく安堵していた。


人を見て決めること。

それは間違いではなかった。

自分はまだ、裁定者である前に、人間でいられる。


そう思いかけていた。


十一日目の朝だった。


市場で老婆が倒れた。


唐突だった。

さっきまで隣人と話していた。

笑っていた。

荷物を選んでいた。

それが、糸を切られた人形みたいに、その場に崩れ落ちた。


悲鳴。

ざわめき。

人が駆け寄る。

医師が呼ばれる。

勇者の耳にもすぐに報が届いた。


脈がない、と医師は言った。

呼吸もない。

死んでいる、と。


だが、それだけでは終わらなかった。


同じ刻、別の通りで男が倒れた。

井戸のそばで娘が崩れた。

パン屋の主人が焼きたての籠を抱えたまま前のめりに沈んだ。

家の中では、子供が朝食の途中で椅子から落ちた。

店先では、客と話していた仕立て屋の女が、そのまま糸を手にしたまま伏した。


昼までに二十七人。


全員、心臓が止まっていた。


外傷なし。

毒なし。

魔獣の痕跡なし。

感染の兆候も見当たらない。


街は混乱した。

誰も理解できなかった。

あまりにも唐突で、あまりにも静かな死だった。


勇者も理解できなかった。


ただ、嫌な予感だけがあった。

喉の奥に鉛を押し込まれたような重苦しさ。

まだ形のない恐怖が、胸の奥でじわじわと膨らんでいく。


そして夕方、最初に倒れた老婆が目を開けた。


家族は泣いて喜んだ。

医師ですら一瞬、神の奇跡かと思った。

だが、違った。


老婆は目を開けた。

娘の声に反応した。

視線も合った。

確かに“そこにいた”。


なのに。


胸は動かない。

脈がない。

体温がない。

指先は冷えきり、硬くなり始めていた。


「お母さん?」


娘の声が震える。


老婆はゆっくり唇を開いた。

乾いた皮膚がひび割れるような音がした。


「……さむい」


医師の顔が蒼白になる。


「寒いよ」

「火を」

「火を焚いておくれ」


その夜。

二十七人全員が目を覚ました。


死んでいるのに、意識だけがあった。


翌日には百を超えた。


誰も暴れなかった。

誰も人を食わなかった。

理性があった。

家族の名前を呼び、自分の名を覚え、事情を理解していた。


だからこそ地獄だった。


「勇者様、私は助かるのでしょうか」


「ねえ、お父さんの手、冷たいよ」

「どうして?」


「痛くないんです」

「でも、腕が上がらない」


「明日、式だったんです」

「私、綺麗なままでいたかった」


「母さんが、母さんが腐っていく」

「なんとかしてください」

「お願いです」


時間が経つほど、彼らの身体は確実に死体へと近づいていった。


三日目、指先が黒く変色した。

五日目、関節が軋み始めた。

七日目には腐臭が通りに漂った。

目は濁り、皮膚は裂け、肉は少しずつ落ちていく。

それでも意識だけが残っている。

苦しみだけが終わらない。


勇者は毎日、彼らの前に立った。


立つしかなかった。

自分の裁定の結果がこれなら、目を逸らすことだけは許されないと思った。


だが、立つたびに心が削れた。


ただ遊んでいただけの子供が、自分の黒ずんだ手を見て泣いていた。


「ねえ」

「なんでこれ、ぼくの手なの?」

「やだよ」

「もとにもどして」


母親は泣きながらその子を抱こうとした。

だが抱いた瞬間、子供の皮膚がびり、と薄く裂けた。

母親は悲鳴を飲み込んで、震えながら謝った。


「ごめんね、ごめんね、ごめんね」

「痛かったね」


勇者は、その場で吐いた。


誰にも見られないように路地裏に駆け込み、胃液しか出なくなるまで吐いた。

喉が焼けた。

目の奥が熱かった。

それでも涙が止まらなかった。


違う。

こんなはずじゃなかった。

自分は人を見た。

ちゃんと見た。

生きる余地を探した。

可能性だけで切らなかった。

先代の教えを守ろうとした。

なのにどうしてこうなる。


答えは分かっていた。


見誤ったのだ。


自分が。


男の危険性を。

災厄の重さを。

あるいは、自分に人を見極める資格が本当にあったのかどうかを。


調べはすぐ、あの男に行き着いた。


男は逃げていなかった。


街外れの家にうずくまり、膝を抱え、青白い顔で震えていた。

まるで自分も被害者であるかのように、怯えきっていた。


勇者が扉を蹴破った瞬間、男は飛び上がり、次の瞬間には床に這いつくばった。


「知らなかった」

「知らなかったんだ」

「こんなことになるなんて」


勇者は自分でも驚くほど静かな声で言った。


「何をした」


男は泣きじゃくった。

言葉にならない嗚咽を吐きながら、必死に喋った。


「戻せなかった命の代わりに」

「死を薄く広げれば」

「街に残る死を分け合えば」

「器を保ったまま、拒絶なく馴染むって」

「本に、書いてあって」

「でも、そんなつもりじゃ」

「こんなふうに、みんなが」


勇者の中で何かが音を立てて切れた。


その瞬間、理解した。


目の前の男は、世界を憎んだ怪物ではなかった。

ただ弱かった。

ただ耐えきれなかった。

ただ大事なものを失って、禁忌に縋った。

ただそれだけだった。


そしてそんな“ただの弱さ”を、自分は見逃した。

いや、見逃したどころか、生かした。


責任は俺が持つ、と言ったのは自分だ。


その結果、街が死んだ。


男は額を床に擦りつけながら叫んだ。


「殺してくれ!」


その言葉を聞いた瞬間、勇者は剣を抜いていた。


「最初から」


自分でも声が分からなかった。

喉の奥で何かが軋んでいた。


「最初から、そうしていればよかったんだ」


一太刀だった。


男の首は泣き声の途中で飛んだ。

血が床に広がった。

静かだった。

あまりにも、静かだった。


だが、それで何も終わらなかった。


終わるはずがなかった。


街の人々はもう戻らない。

男を斬っても、腐敗は止まらない。

理はすでに侵されきっていた。


そして勇者は、次の現実を突きつけられた。


このまま放置すれば、彼らはさらに崩れる。

いずれ理性も失うかもしれない。

死者としての穢れが広がるかもしれない。

街そのものが、より深い災厄へ沈むかもしれない。


ならば、ここで終わらせるしかない。


勇者は最初の一人の前で、動けなかった。


老婆だった。


あの最初に目を開けた女だ。

顔の皮膚は乾き、頬はひび割れ、目の下の肉が少し垂れ下がっている。

だが目だけは、まだ人間のままだった。


「勇者様」


老婆は微笑もうとした。

口元が裂け、血の代わりに黒い液が滲んだ。

それでも微笑もうとした。


「息子たちは……外に?」


勇者は答えられなかった。


「こんな顔、見せたくないんです」


剣を握る手が震えた。


「お願いがあります」


勇者は黙ったまま立っていた。


老婆は、自分の冷えた手を見つめながら言った。


「もう、終わらせてください」


勇者は動けなかった。


「……できませんか」


その声に責める色はなかった。

ただ、哀れむような優しさだけがあった。

それがなおさら勇者の胸を刺した。


「俺、は……」


声が潰れた。


「俺が」


喉が詰まった。

息がうまく入らない。

胸の奥で何かが壊れそうだった。


「俺が、こうした」


老婆はゆっくり首を振った。


「違います」


違わない。

違うはずがない。

お前を生かすと決めたのは自分だ。

責任は自分が持つと言ったのも自分だ。

その自分が見誤った。

だからこの街はこうなった。


なのに老婆は言った。


「だから、終わらせてください」


勇者は泣いた。


その場で。

剣を持ったまま。

子供みたいに。

嗚咽で呼吸もままならなくなるほど、泣いた。


嫌だった。

斬りたくなかった。

この老婆は何も悪くない。

ただこの街で生きていただけだ。

朝に起きて、誰かのために食事を作り、少しずつ老いて、静かに人生を終えるはずだった。

そんな人を、どうして自分が斬らなければならない。


「いやだ……」


自分でも情けないと思うほど弱い声が漏れた。


「いやだ」

「いやだ……!」


老婆はただ待っていた。


勇者は泣きながら剣を振り上げた。

腕が震えて、何度も力が抜けた。

それでも最後には、振り下ろした。


肉を断つ音がした。


その瞬間、勇者の中で何かが決定的に壊れた。


次は子供だった。


ただ街角で石を蹴って遊んでいただけの、小さな子供。


顔の半分はまだ綺麗なままだった。

だから余計に痛かった。

まだ人間のままに見えた。

まだ助かるかもしれないように見えてしまった。


子供は勇者を見るなり泣き出した。


「やだ」

「こわい」

「いたいのやだ」


勇者はその場で膝をついた。


剣を取り落としそうになった。

目の前が滲んで、子供の顔がまともに見えない。


「ごめん」


それしか言えなかった。


「ごめん」

「ごめん、ごめんなさい」

「ごめんなさい……!」


子供は泣いていた。

母親も泣いていた。

母親は自分ではもう抱けない腕で、せめて声だけでも子供をあやそうとしていた。


「大丈夫よ」

「大丈夫」

「すぐ終わるから」

「怖くないから」


そんなわけがあるか、と勇者は思った。

何も大丈夫じゃない。

全部が終わっている。

自分のせいで終わっている。


「俺が」

「俺が……!」


叫んだ。

意味のない叫びだった。

何に向けたのかも分からない。

自分自身か。

理か。

先代か。

神か。

あるいは、あの時剣を納めた自分の甘さか。


勇者は泣きながら子供を斬った。


次は若い恋人たちだった。


近いうちに結婚するはずだった二人。

花屋で式の飾りを選んでいた。

笑いながら、くだらないことで言い合いをしていた。

そんな普通の若者だった。


今は互いの身体を支え合っていた。

男の口元は裂け、女の指先は黒く崩れかけている。

それでも二人は、最後まで相手の顔を見ていた。


「先に彼女を」


男が言った。

だが女は首を振る。


「だめ」

「一人は嫌」

「一緒がいい」


勇者はその言葉を聞いた瞬間、息が詰まった。


一緒がいい。

ただそれだけの願いだ。

生きていた頃なら、当たり前に叶ったはずの願いだ。


それすら、自分は奪った。


勇者はその場で剣を握り締め、歯を食いしばった。

肩が震えた。

息が荒くなる。

視界が揺れる。


「やめてくれ……」


誰に言ったのか分からなかった。

二人にか。

自分にか。

世界にか。


「もう、やめてくれ……!」


それでも二人は静かだった。

泣きながら、互いの手を握っていた。

そして、勇者を責めなかった。


責められた方がましだった。

罵られた方が楽だった。

なぜ生かしたと叫ばれた方が、まだ呼吸ができた。


なのに彼らは言った。


「お願いします」


勇者は叫んだ。


本当に、叫んだ。


喉が裂けるかと思うほど。

肺が潰れるかと思うほど。

腹の底から、獣みたいに、みっともなく、情けなく、絶望そのものみたいな声で。


「うわああああああああああああああああああああっ!!」


その叫びは祈りでも怒りでもなかった。

ただ壊れる音だった。


勇者は泣きながら、二人を斬った。


そうして斬り続けた。


酒場の主人も。

花売りの娘も。

井戸の番をしていた老人も。

子供を抱けず泣く母親も。

子供の名を呼び続ける父親も。

友人同士で最期まで手を取り合っていた若者たちも。


斬るたびに泣いた。

斬るたびに謝った。

斬るたびに自分を呪った。

それでも手を止めなかった。

止められなかった。


兵が代わろうとした時、勇者は怒鳴った。


「来るな!!」


声がもうまともに出ていなかった。

掠れて、裂けて、血混じりの呼気になっていた。


「これは、俺の……っ」

「俺の裁定だ……!」


誰にも背負わせたくなかった。

背負わせる資格もないと思った。

これは自分の失敗だ。

自分が人を見ようとしたから起きた。

自分が可能性だけで切ることを拒んだから起きた。


なら、最後まで自分が斬るしかない。


夜が更けても終わらなかった。

朝になっても終わらなかった。

日が昇っても、通りにはまだ泣き声が残っていた。


勇者はもう何度も吐いていた。

胃の中は空なのに、喉の奥だけが焼けつくように痛んだ。

涙は止まらず、顔はぐしゃぐしゃで、鼻水も血も汗も区別がつかなかった。

腕は重く、指は痺れ、剣を握る感覚すら薄れていく。

それでもまだ終わらない。


「勇者様」


最後の方では、名前を呼ばれるだけで胸が裂けそうになった。


頼るな。

すがるな。

許さないでくれ。

そう思うのに、皆、最後まで勇者を見ていた。


救ってくれる者を見る目で。

終わらせてくれる者を見る目で。

責めもせず、憎しみも向けず、ただ痛みと恐怖と安堵を混ぜた目で。


それが何より苦しかった。


憎まれたかった。

この手を呪ってほしかった。

お前が生かしたせいだと叫んでほしかった。


なのに誰も、そうは言わなかった。


だから勇者は、自分で自分を責め続けるしかなかった。


最後の一人を斬り終えた時には、もう声が出なかった。


市場の真ん中で膝をついた。

あれほど人の気配に満ちていた場所に、今は誰もいない。

焼きたてのパンの匂いもない。

笑い声もない。

あるのは死臭と、乾いた風と、自分の荒い呼吸だけ。


剣が重かった。


血と腐液で汚れた刃が、まるで罪そのものみたいに重かった。


勇者はそれを見下ろした。

手が震えていた。

いや、全身が震えていた。


先代の言葉が、どこからか聞こえた気がした。


最後まで見ろ。

人を見て裁け。


勇者は顔を歪めた。


そして、笑ったのか泣いたのか自分でも分からない顔で、喉の潰れた声を絞り出した。


「見た」


掠れた声だった。


「見たんだ……!」


誰もいない市場に向かって、勇者は叫んだ。


「見た!!」

「ちゃんと見た!!」

「泣いてるのも、苦しんでるのも、悔いてるのも、助かりたいって思ってるのも!!」

「見たんだよ!!」


喉が裂ける音がした。

咳き込み、血が混じった。

それでも止まらなかった。


「だから生かした!!」

「可能性だけで切るなって、あんたが言ったから!!」

「最後まで見ろって言ったから!!」

「俺は、俺は……!」


そこで言葉が崩れた。


呼吸が続かない。

肺が焼ける。

視界が揺れる。

それでも勇者は叫び続けた。


「その結果がこれか!!」

「これが人を見るってことか!!」

「これが生かすってことか!!」

「子供を!!」

「恋人を!!」

「街を!!」

「俺に斬らせて!!」


剣を石畳に叩きつけた。

鈍い音が響いた。

手のひらが裂けた。

それでも痛みは、心の痛みに比べれば何でもなかった。


勇者は石畳に爪を立てるみたいにしてうずくまり、声にならない声で泣いた。


嗚咽。

咳。

掠れた呻き。

もはや言葉にならない後悔。


どれだけ泣いても、あの子供は戻らない。

どれだけ叫んでも、あの恋人たちの明日は来ない。

どれだけ自分を呪っても、街は生き返らない。


それでも泣くしかなかった。

叫ぶしかなかった。

そうでもしなければ、自分がまだ人間だと証明できなかった。


やがて、喉が完全に潰れた。


もう叫べなかった。

声を出そうとしても、掠れた空気しか漏れない。

涙も枯れかけて、目の奥がただ熱いだけになった。


その時、勇者の中に一つの確信だけが残った。


もう二度と、同じことはしない。


泣いていようが。

悔いていようが。

まだ人らしさが残っていようが。

生きる余地があるように見えようが。


災厄になる可能性があるなら、断つ。


切っても切っても災厄は現れるだろう。

人は弱く、愚かで、壊れやすい。

これから先も同じような者はきっと現れる。

そのたびに目の前で泣く一人を見逃していたら、また街が死ぬ。

また子供を切ることになる。

また誰かの明日を、自分の判断で腐らせることになる。


それなら最初から断つしかない。


もう迷わない。

迷う資格などない。

生かすという選択を、自分は一度失敗した。

ならその責任として、これから先は切り続ける。


目の前で災厄を断ち続けること。

それだけが、自分にできる唯一の償いだ。


勇者は震える足で立ち上がった。


その日を境に、彼は変わった。


先代の教えを捨てたのではない。

捨てたふりをしなければ、生きていけなくなったのだ。


人を見れば、あの街を思い出す。

泣き声を聞けば、あの子供の顔が蘇る。

恋人たちを見れば、あの二人の「一緒がいい」が胸を刺す。


だからもう見ない。

いや、見るものを変える。


その者の涙ではなく、その先の災厄を見る。

迷いではなく、規模を見る。

希望ではなく、被害を見る。


そうしなければ、自分はまた誰かを生かしてしまう。

そしてまた、取り返しのつかない地獄を生む。


だから彼は切る。


切っても切っても災厄は現れる。

それでも切る。

泣いて叫んで喉が潰れる夜を二度と繰り返さないために。

あの街で斬った全員の沈黙に、せめて少しでも顔向けするために。


それが今代勇者にとっての正義だった。

いや、正義と信じ込まなければ立っていられない、壊れた祈りだった。

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