43.それは裏切りか?
高級宿の一室は、昨日と同じ場所とは思えないほど静かだった。
湯宿らしい柔らかさはある。
木の香り。
カーテン越しの淡い光。
庭の向こうに立つ白い湯気。
けれど今朝の空気は、くつろぐためのものではなかった。
机の上には、昨日宰相から渡された調査書の束が積まれている。
厚い。
紙の端は揃っているのに、そこに詰まった時間と人手の重さが、見ただけで分かるほどだった。
廊下の向こうから、小さな話し声が聞こえた。
「昨日、勇者様がお戻りになったんだろう」
「昼過ぎには王都入りされたらしいよ」
「道理で、街道も人が多かったわけだ」
「王都はお祭りみたいな騒ぎだったってさ」
宿の者たちは声を潜めていた。
だが、それでも少し浮ついているのが分かる。
ここは王都から離れた場所だ。
それでも勇者が戻ったというだけで、翌朝になっても空気が変わっている。
勇者とはそれだけの存在なのだと、話を聞くだけで伝わってきた。
ユキトは、その声が遠ざかるのを待ってから、机の上の紙束を見た。
外では、その英雄の帰還を祝っている。
その翌朝に、自分たちはその英雄をどうするか決めるための記録を読む。
妙な気分だった。
「……人気者だな」
ぼそりと呟く。
ヴォルカは椅子に座ったまま、静かに頷いた。
「はい。ここまで離れていても、この空気ですから」
「そりゃ王国も正面から切れねえわけだ」
ユキトはそう言って、椅子へ浅く腰を下ろした。
机に肘はつかない。
紙束だけを正面から見る。
フローラはもう読み始める姿勢だった。
ネムリアは眠そうな顔のまま椅子に座っているが、目は閉じていない。
こういう時だけは、ちゃんと起きている。
「じゃあ、見るか」
ユキトが一番上の束を引き寄せた。
最初の数枚をめくっただけで、思っていたよりずっと丁寧だと分かった。
裁定対象の名前。
出身。
家族構成。
過去の経歴。
近隣証言。
被害記録。
王国側で独自に洗い直した形跡。
ただ危険人物の一覧を雑に並べたものではない。
一件ごとに、その人間がどういう生活をしていて、どこで何をしていたのかまで拾っている。
「……かなり見てるな」
ユキトが小さく言う。
「ええ」
フローラが紙を追いながら答えた。
「もっと簡略なものかと思っていましたが……これは、相当に時間をかけています」
ヴォルカも横から覗き込み、少しだけ眉を寄せる。
「……ちゃんと調べていたんですね」
「まあ、少なくとも雑ではねえな」
ユキトは一枚を机に置いた。
最初の裁定対象は、分かりやすかった。
奴隷商の元締め。
人攫いと売買を何年も繰り返し、複数の地方を跨いで人を流していた男。
別の一件。
街道沿いの集落を脅して物資を吸い上げ、逆らう者を私兵に襲わせていた盗賊崩れ。
さらに別の一件。
魔物をわざと街道へ流し、護衛需要を作って利を得ていた犯罪者。
読むだけで、ユキトの顔が少しずつ渋くなる。
「……これは、まあ」
軽く済ませたくはなかった。
だが、並んでいる内容そのものは重い。
誰が見ても、危険だったと分かる類のものだ。
しかも、王国側の補足がそこに添えられている。
当該対象は以前から危険兆候が見られたこと。
周囲の証言を総合すれば、勇者の判断は拙速とは断じきれないこと。
現時点の被害だけでは測れない潜在的危険性が認められること。
フローラが紙を追いながら小さく言った。
「……細かいですね」
「だな」
ユキトは次の束へ手を伸ばした。
「後からちゃんと洗ってる」
そこからしばらく、紙をめくる音だけが続いた。
朝の光が少しずつ部屋の中を動いていく。
茶は何度か運ばれ、冷めたものが下げられ、また新しいものが置かれた。
そのたびに宿の者は気を遣って、必要以上に室内を見ようとしなかった。
読み進めるうちに、ユキトはふと手を止めた。
「……ん?」
「どうしましたか?」
フローラが問う。
ユキトは手元の数枚を並べた。
少し前の案件と、今開いている案件。
見比べる。
「……なんか、急に変わるな」
「何がです?」
「記録の感じだ」
フローラもその紙を引き寄せ、目を通す。
やがて、彼女もわずかに眉を寄せた。
「……本当ですね」
最初の頃の記録は、起きたことの輪郭がはっきりしていた。
どこで。
誰が。
何をして。
何人死んだか。
どの町がどう荒らされたか。
だが、目の前の紙は少し違う。
地方の若い領主の記録だった。
表向きは善政で知られ、民にも人気がある。
書かれている内容を追っても、目立つ被害はまだ見えない。
それでも勇者は、その男を裁定している。
王国側が添えている補足はこうだった。
民心掌握の手際が異様に早いこと。
周辺の傭兵団との繋がりが不自然に深いこと。
将来的に私兵化する危険があること。
現時点で被害は確認されていないが、潜在的脅威は軽視できないこと。
ユキトが眉をひそめる。
「……なんか、飛ぶな」
「はい」
フローラも頷いた。
「前半に書かれている事実と、最後の結論の間が少し遠いです」
「こっちもだ」
別の一枚をめくる。
今度は地方の癒術師だった。
病人を多く救っていて、感謝状まで出ている。
記録の前半にも、明確な悪事は出てこない。
だが勇者は、その女にも刃を向けている。
補足に書かれているのは、回復の速度が通常より早すぎること。
患者の囲い込みが起きていること。
信徒化の兆候があること。
現時点では善行に見えるが、後の支配に転じる危険があること。
ヴォルカが小さく息を呑んだ。
「……まだ、大きなことは起きていないように見えます」
「そうなんだよな」
ユキトが紙を見たまま言う。
「前のやつらは、読んでる途中で危なさが見えた」
「でもこれは、最後の補足で急に危険って方向へ持っていってる感じがある」
フローラが静かに紙を置いた。
「補足の役目が、少し変わっていますね」
「変わってるな」
ユキトは短く答えた。
「前は、書いてあることを確かめてる感じだった」
「でもこの辺から、足してる感じがする」
そこから先を追ううちに、その違和感は一度きりではないと分かってきた。
似た書き方が増える。
現時点で被害確認なし。
ただし将来的危険性あり。
看過できず。
潜在的脅威は大きい。
同じ型の文が、何度も出てくる。
そしてそこでようやく、フローラが低く言った。
「……庇っていますね」
ユキトが視線を上げる。
フローラは紙へ目を落としたまま続けた。
「最初の頃は、後から事実を確かめていたのだと思います」
「ですが、この辺りから違います」
「勇者の裁定に理由があったと示すために、足りない部分へ言葉を足しているように見えます」
ヴォルカが小さく問い返す。
「では……王国は、この時点ではまだ勇者を支えようとしていたんですね」
「たぶんな」
ユキトが低く答える。
「最初から切るつもりなら、こんな書き方しねえ」
「苦しくても、まだ“理由はあった”って形にしてる」
その時だった。
「……増えてる」
低い声に、三人の視線が向く。
ネムリアが、いつの間にか紙束の端に指先を置いていた。
眠そうな顔のまま、厚みを押している。
「このへんから、いっぱい」
ユキトは日付を見返した。
確かにそうだった。
それまでは、一件ごとの調査が深い。
記録も丁寧だ。
人となりを調べ、周辺を洗い、勇者の判断と照らしている。
だが、ある時期から急に件数が跳ねている。
一件一件の紙が薄い。
補足はあるが、どれも似たような文だ。
確認が浅いというより、もう数に追いつけていない。
ユキトは一枚を抜き出した。
小規模な村の鍛冶屋。
武器の出来が異様に良い。
周辺の荒くれ者が流れ込み始めている。
将来的に武装集団の核となる懸念あり。
別の一枚。
旅芸人崩れの男。
人を集める才に長ける。
言葉で群衆を煽る性質あり。
現時点で被害確認なし。
ただし規模拡大時の危険性大。
さらに別の一枚。
小さな孤児院を営む女。
保護した子供の数が急増。
寄付元不明。
思想誘導の危険あり。
現時点で犯罪事実なし。
しかし看過できず。
ヴォルカが戸惑ったように言う。
「……これでは、どこまでが本当に見えていた危険で、どこからが補足なのか」
「もう王国も追い切れてねえんだろ」
ユキトが低く答える。
「前ならもっと厚かった」
「でも今は、勇者が切ったあとに、王国が短い言葉で形だけ揃えてる感じだ」
フローラも頷いた。
「はい。補足が残っているのは、まだ支えようとしていた証拠です」
「ですが件数がここまで増えれば、確かめ切れません」
「……それでも補足は消えてねえな」
ユキトが、紙束の一番上を指で払うように見た。
短い。
薄い。
定型的だ。
それでも全部に、「危険性はあったはずだ」という形だけは残っている。
「まだ庇ってる」
その言葉に、部屋が静かになる。
「一件ずつ見切れてねえのに、それでも“勇者の判断には理由があった”って形だけは残してる」
「追いついてないのに、切り捨てる側には回りきれてねえ」
フローラが小さく息を吐いた。
「……はい」
「もう支え切れてはいません」
「それでも、支えるのをやめきれなかったのでしょう」
「つまりこの辺で、勇者の方が変わったってことか」
誰もすぐには答えなかった。
だが、否定する材料もない。
外からは、遠く人のざわめきが聞こえてくる。
昨日の勇者帰還の話をしている人間たちが、まだ王都の方へ気持ちを向けている。
その裏で、自分たちは資料の中から、英雄の狂い始めた時期を探している。
妙に現実感が薄かった。
昼を過ぎた頃、もう一度初めから見直した。
そしてユキトは一つの記録で手を止めた。
日付。
時期。
前後の裁定件数。
その少し前から、補足の空気が変わっている。
そしてその後、目に見えて件数が増えている。
だが――その前に、妙な切れ目があった。
「……なんだこれ」
「どうしましたか?」
フローラが問う。
ユキトは数枚を並べ直した。
前。
後。
その間。
「この三週間だけ、妙だな」
ヴォルカが身を寄せる。
「空白、ですか?」
「完全に抜けてるわけじゃねえ」
ユキトは紙を指で押さえたまま言った。
「記録はある。日付もある。件数もゼロじゃない」
「でも、前後と並べるとここだけ妙に薄い」
フローラもすぐに紙を寄せた。
「……本当ですね」
「補足が短いです。調査も浅い」
「しかも、前後の流れと少し噛み合っていません」
ユキトは紙を見たまま、ぼそりと言った。
「なんだこれ。夏休みか?」
ヴォルカがすぐに顔を上げる。
「なつやすみ、とは何ですか?」
「子供が学校休む期間」
「学校?」
「勉強する場所」
ヴォルカは真面目な顔で頷いた。
「では、ここだけ仕事が減っていた、という意味ですか?」
「いや」
ユキトは首を振った。
「そうとも言い切れねえ」
「他の時期で、こういう崩れ方してる場所がねえんだよな」
紙を一枚、また一枚とめくる。
前の月。
その前。
少し後。
似たような抜け方を探す。
ない。
全くない、とはまだ言い切りたくなかった。
見落としがあるかもしれない。
量も多い。
だが、少なくとも今目に入る範囲では、この三週間だけが浮いて見える。
ネムリアが紙束を見たまま、ぽつりと言った。
「ここだけ、合わない」
誰もすぐには返さなかった。
活動が止まっていたわけではない。
裁定そのものが消えていたわけでもない。
それなのに、ここだけ記録の手触りが違う。
ただ忙しかっただけかもしれない。
たまたま調査が遅れたのかもしれない。
ありえなくはない。
だが、それにしては妙だった。
そしてそのあとで、補足は苦しくなり、件数は跳ね、記録全体の空気が変わっている。
ユキトが低く言う。
「……この辺りから、だな」
「はい」
フローラが答える。
「少なくとも、記録の質が変わり始めています」
「で、その手前に、ちょっと気になる抜けがある」
ユキトは三週間分の紙を軽く叩いた。
「断定はまだしねえ」
「でも、他にこういう崩れ方してる時期が見当たらねえなら、気にはなる」
ヴォルカが紙へ目を落としたまま、小さく言った。
「……怖いですね」
「怖いな」
ユキトは素直に答えた。
「補足が苦しくなり始めた時期」
「件数が跳ねた時期」
「その少し前にある、妙に合わねえ三週間」
「ここで何かあった、とはまだ言わねえ」
「でも、見逃していい感じじゃねえ」
重い沈黙が、机の上へ落ちた。
紙の擦れる音も止む。
遠くのざわめきだけが、別の世界のものみたいに薄く聞こえる。
その沈黙の中で、フローラがもう一度、三週間分の記録へ視線を落とした。
指先で日付を辿る。
前後の紙を見比べる。
そして、しばらくして、ふと目を細めた。
「……あの時期」
「ん?」
ユキトが顔を上げる。
フローラは少し考えるように間を置いた。
記憶の糸を慎重に引き寄せるみたいに、ゆっくり口を開く。
「以前、宿で耳にした噂と近いかもしれません」
「噂?」
「ええ」
フローラは頷いた。
「東の方で、街が閉じただとか」
「人が急に倒れただとか」
「死んだはずの者が動いていただとか……そういう話です」
ユキトの眉が寄る。
「……ああ」
思い出した。
完全に忘れていたわけではない。
ただ、その時は流したのだ。
遠くの土地の、気味の悪い噂。
朝食の席で聞いた、どこまで本当か分からない怪談じみた話。
心臓が止まっているのに歩いていただの。
死んだのに店を開けていただの。
話がぐちゃぐちゃで、まともに相手をする気にもならなかった。
「その時は、尾ひれのついた噂話だと思いました」
フローラが静かに続ける。
「ですが今、この時期の資料の薄さと重ねると……無関係とは思えません」
「東の街」
ユキトは低く繰り返した。
「そこが何かのきっかけだったってことか」
ヴォルカが言う。
「でも、そうならなぜ王国は会談の場で言わなかったのでしょう」
ユキトは短く答えた。
「……隠してるな」
ユキトが言った。
誰も否定しない。
「しかも、雑にじゃねえ」
「最初から、ここだけ見せる気がない感じだ」
フローラが紙の端へ指を滑らせる。
「ええ。後から抜いたというより……最初から、触れさせないために形を整えているように見えます」
ヴォルカの表情が固くなる。
「なぜ、そんなことを」
「決まってる」
ユキトは椅子の背にもたれず、前を見たまま言った。
「ここを知ったら、見え方が変わるからだ」
「勇者がいつからおかしいのか、何でおかしくなったのか」
「そこまで見えたら、ただの危険物処理じゃ済まなくなる」
ネムリアが小さく首を傾ける。
「……ころしてほしいから?」
「たぶんな」
ユキトは短く頷いた。
「王国が欲しいのは、余計な迷いのねえ手だ」
「理由まで知って情が入るのは困る」
「だからそこだけ伏せた」
言葉にすると、やけに納得できた。
王国を全面的に信じたわけではない。
だが、ここまで調べて、ここまで庇おうとして、それでも最後に暗殺を持ち出した国だ。
そこへ至るまでに、情も理屈も散々擦り切らせたのだろう。
だからこそ、最後は切るために、切りやすい形で話を持ってきた。
「……今の俺たちじゃ、ここから先は調べようがねえな」
ユキトが吐く。
街ひとつの古い惨劇。
しかも意図的に薄められた記録。
この宿に籠っているだけで辿れるはずがない。
そう言ってから、ふと止まった。
「……いや」
顔を上げる。
「いるな」
ヴォルカが少しだけ瞬く。
「誰がですか」
ユキトの口元がわずかに歪んだ。
「ちょうどいいのがいたな」
ヴォルカが小さく瞬く。
「……あの情報屋、ですか」
「たぶん一番近い」
ユキトは短く答えた。
「王国がわざわざそばに置いてる以上、あいつも何も知らねえってことはないだろ」
「少なくとも、東で起きたあの件について、紙よりはましな返しができるはずだ」
フローラは静かに頷いた。
「ええ。こちらだけで考えていても、ここから先は進みません」
「なら、知っていそうな者に当たるべきですね」
ネムリアが眠そうな顔のまま言う。
「……ぱしり」
「そう、あのぱしり」
ユキトは立ち上がった。
椅子がわずかに鳴る。
「部屋にいるか?」
「今朝は見ましたがその後見ていませんね」
フローラが答える。
「ですが、宿の中にはいるはずです」
「逃げてたら面倒だな」
「その時は、その時です」
フローラの返しは穏やかだったが、中身は穏やかではなかった。
ヴォルカも立ち上がる。
「行きましょう」
「今なら、まだ宿の中で捕まえられると思います」
ネムリアも遅れて立つ。
「……つかまえる」
「お前が言うとちょっと怖いな」
ユキトはそう言って、調査書の一番上だけを軽く整えた。
全部を抱えていく必要はない。
今必要なのは紙束そのものじゃなく、そこから掘り出した違和感の方だ。
四人は部屋を出た。
廊下には、昼をとうに過ぎた宿の気配が満ちていた。
朝の静けさはもうない。
行き来する足音が増え、ところどころで宿の者が慌ただしく動いている。
湯を運ぶ者。
下げ膳を抱えた者。
新しい茶器を盆に乗せて運ぶ者。
開け放たれた障子の向こうからは、西へ傾き始めた光が差し込み、床板の色を少し赤くしていた。
遠くから、客の話し声と笑い声が混じって聞こえる。
「勇者様、昨日王都に入られたんでしょう?」
「ええ。すごい人だったって話よ」
「いいわねえ、見に行けた人は」
そんな断片が耳をかすめる。
外の空気は浮ついている。
けれど四人は、そちらへ気持ちを持っていかれなかった。
真っ直ぐ、情報屋の部屋へ向かう。
扉の前でユキトが二度、軽く叩いた。
返事はない。
もう一度叩く。
やはり返事はない。
「……いねえな」
「まさか、本当に逃げたわけでは」
ヴォルカが眉を寄せる。
「逃げるなら昨夜のうちでしょう」
「今朝は見ました、ここで急に消える方が不自然です」
フローラが落ち着いて言う。
ちょうどその時、通りかかった宿の職員が足を止めた。
「あの、お連れ様をお探しでしょうか」
ユキトが振り向く。
「茶髪の、いけ好かない男だ。見てないか」
宿の職員は少し考えてから答えた。
「……先ほど、共有スペースの方で、それらしい方をお見かけした気がします」
「それらしい?」
「はい。茶色の髪の男性で……お一人でしたので」
「そりゃたぶんあいつだな」
ユキトは短く言って、軽く手を上げた。
「助かった」
宿の職員が小さく頭を下げる。
これから聞きに行く話は軽くない。
四人とも、それは分かっている。
ユキトは廊下の先を見た。
「行くぞ」
ユキトが短く言って、先に歩き出した。
四人はそのまま共有スペースの方へ向かう。
足取りは早い。
何か知っているなら、今すぐ聞き出したかった。
高級宿の共有スペースは、昼の光をやわらかく取り込んでいた。
湯宿らしい木の香り。
磨かれた床。
廊下の向こうからかすかに聞こえる湯の音。
その一角にある、六人ほどが入れる個室。
障子でゆるく仕切られたその中へ視線を向けた瞬間、四人の足がそろって止まった。
ローブの男は、実に優雅にくつろいでいた。
卓の上には湯気の立つ茶。
小皿には菓子。
しかも一つではない。
二つ三つと手を伸ばした痕跡があり、今まさに次はどれにしようかと迷っていたところだった。
さっきまでこちらは、王国が何を隠しているのかだの、勇者がどこで壊れたのかだの、重たい話を掘り返していた。
そんな空気を抱えたまま来てみれば、当の本人は
高級宿を満喫する気満々の顔で茶と菓子を前にしている。
何やってんだこいつ。
たぶん、その場にいた四人全員が同じことを思った。
一方で、障子が開いて四人が揃って現れた瞬間、ローブの男が本気で固まったのも無理はなかった。
「……え」
最初に出たのは、それだけだった。
ユキト。
ヴォルカ。
フローラ。
ネムリア。
しかも全員いる。
何だそれ。
なんで全員で来る。
嫌な予感しかしない。
つまり向こうも向こうで、たぶんほぼ同じことを思っていた。
お互い、何やってんだ?である。
一拍。
その一拍で、呆れと苛立ちがきれいにまとまる。
「楽しそうだな」
声音が冷たい。
ローブの男は一拍遅れて、慌てて取り繕った。
「いやあ、ほら、高級宿なんだから使わないと損だろ?」
「こういうのは楽しまない方が失礼っていうか」
「待機しろとは言われたけど、廊下で直立してろとは言われてないし」
ネムリアが卓の菓子を見る。
「……いっぱいある」
「いる?」
「……いらない」
「いらないのかい」
受けない。
ヴォルカも笑わない。
フローラは静かに個室の中を見回したあと、ローブの男へ視線を戻した。
ユキトは相変わらず、面倒そうな顔のままだ。
空気が軽くならない。
ローブの男はそこでようやく理解した。
ああ、これは本当に雑談じゃない。
四人はそのまま中へ入ってきた。八人用の個室だ。四人が向かいに座っても、まだ狭くはない。
だが、ローブの男にとっては一気に逃げ場がなくなった気がした。
正面にユキト。
その隣にフローラ。
反対にヴォルカとネムリア。
囲まれた、というほど露骨ではない。
ないのだが、そう感じるには十分だった。
ローブの男は乾いた笑みを浮かべる。
「……それで?」
「わざわざ四人で来るってことは、またろくでもない話なんだろうけど」
ユキトはすぐには本題を言わなかった。
代わりに、卓の上の茶器と菓子を一瞥してから、椅子に浅く腰を下ろす。
「先に言っとく」
「ん?」
「次に会ったら、話くらいは聞いてやる」
ローブの男は一瞬、まばたきをした。
「……は?」
「だから」
「ちゃんと話せ」
あまりに直球だった。
一瞬、意味を取り損ねる。
だが理解した次の瞬間、ローブの男の頭の中で別の計算が弾けた。
次に会ったら、話くらいは聞く。
それは、かなり大きい。
正直、かなりうまい。
この男とは、もう関わりたくないと思っていた。
厄介だ。
面倒だ。
関わるたびに胃が痛む。
何を考えているのか分からないし、分かったところでうまく扱える気がしない。
近づけば近づくほど、ろくでもない場所に引きずり込まれる気がする。
だが――高級宿での監禁生活は、悪くなかった。
食事はうまい。
寝床は清潔。
湯もある。
何より、金払いがいい。
これを一度味わってしまうと、安宿の硬い寝台に戻るのが馬鹿らしくなる。
しかも、今のこの男は三体の竜持ちだ。
王国すら遠回しに話を通すしかない相手。
その窓口に、自分は食い込めている。
次も話を聞いてもらえるなら、今後に繋がる。
相当でかい。
嫌だ。
今でも嫌だ。
できれば関わりたくない。
だが、それとこれとは話が別だった。
ローブの男は、内心で深く息を吐く。
この話は、受けるべきだ。
いや、受けたい。
そう判断した直後、別の疑問が浮かんだ。
……で、何の話だ?
これだけうまい餌を先に置くということは、逆に言えば、その後ろにある話は軽くない。
軽いはずがない。
昨日は王国宰相と会っている。
その翌朝に、四人揃って自分のところへ来た。
しかも最初に餌を見せてきた。
ろくでもない。
間違いなくろくでもない話だ。
ローブの男は、期待と警戒がせめぎ合うのを感じながら、軽く肩をすくめた。
「聞こうじゃないか」
「内容によるけどね」
ユキトは頷きもしなかった。
「去年の夏の終わり」
それだけで、ローブの男の意識が少しだけ沈む。
ユキトは続ける。
「東の方で、変な噂があったよな」
変な噂。
その言い方だけでは、まだいくらでも逃げられる。
そう思った直後、フローラが静かに補った。
「街が閉じただとか、人が急に倒れただとか」
「心臓が止まっているはずなのに動いていただとか」
「死んだ者が、普段通り生活していたとか」
ローブの男の指先が、わずかに止まる。
ユキトが続ける。
「その時は怪談だと思って流した」
「でも、昨日の紙を見た限り、時期が重なる」
「東の方で起きた、大きな事件」
「王国がそこだけ妙に薄くしてる何があった?」
そこで、全部が繋がった。
昨日の会談。
王国の重鎮。
分厚い調査書。
その翌朝。
四人揃って、自分のところへ来る。
聞かれたのは、東の事件。
しかも資料の空白と重なる時期。
ローブの男の顔色が、分かりやすく変わった。
勇者案件だ。
しかも、ただ勇者の話を聞きたい程度じゃない。
王国はこの四人に、何かを依頼しようとしている。
そして、その判断材料として、あの事件が必要になる程度には深いところまで踏み込んでいる。
それを理解した瞬間、背筋が寒くなった。
え、待て。
本当にそこまで行ったのか。
王国、そんなところまで追い込まれてるのか。
しかも、この四人に?
なんで自分がその継ぎ目にいるんだ。
一瞬だけ、本気で逃げたくなった。
だが四人は目の前にいる。
逃げられる空気ではない。
ローブの男は、とっさに最も安全そうな道を選んだ。
「……東で大きな災害があったのは事実だよ」
まずは一般情報。
深くないところから。
「死者も多かった」
「遠くまで噂が流れて、話が歪んだ」
「死人が動いただの何だのっていうのも、その尾ひれの一つさ」
「勇者様が収めた、ってところまでは広く知られてる」
そこまで言って、茶を一口飲む。
喉が少し乾いていた。
とりあえず一般論で返した。
ここまでなら大きく踏み越えてはいない。
下手に黙るよりはましだ。
しかも最初の取引はまだ残る。
これで繋がる。
次に会った時も話せる。
線は切れていない。
そこまで考えて、ほんのわずかに安堵した。
ユキトが言う。
「そんな話は聞いてねえ」
安堵が、一瞬で潰れた。
フローラも続ける。
「問題は、噂があったこと自体ではありません」
「その時期だけ、資料の中身が不自然な程抜かれています」
ネムリアが、眠そうな顔のまま言った。
「……もしかして、怖がっている?」
ヴォルカは何も言わなかった。
ただ静かにローブの男を見ている。
その無言が、逆に重い。
ローブの男は笑って誤魔化そうとしたが、口元がうまく動かなかった。
「いやいや、怖がるって」
「そんな大げさな――」
「なら条件は破棄だ」
ユキトが平らに言った。
「え」
「その程度の話しか返せないなら、もういい」
「次も話を聞くってのは無しだ」
「お前をここに置いとく意味もない」
今度こそ、本気で焦った。
それは困る。
かなり困る。
この男との線が切れるのは、普通に痛い。
厄介だし、面倒だし、関わるたび嫌な目にも遭う。
だが今後も確実に金になる。
しかも今は王国すら慎重に話を通している相手だ。
それがここで切れる。
一方で、勇者案件は本当に危ない。
王国が触れたがらない場所に、自分から踏み込むのは怖い。
正直かなり怖い。
ローブの男は視線を落としたまま、頭の中で必死に考える。
王国への忠誠心?
そんなものはない。
あっちは金は出すし、筋も通すが、必要になればこちらを便利に使う。
自分を今の立場に押し込めたのだって向こうだ。
気楽な橋渡し役で終われると思っていたのに、気づけば窓口みたいに固定されている。
好きでやっているわけではない。
だが、だからといって露骨に逆らうのも違う。
勇者案件だ。
雑に踏み込めば、自分が潰れる。
じゃあどうする。
そこで、曖昧な言葉が頭に浮かぶ。
余計なことは喋るな。
あの時、王国に言われたのはその程度だった。
いや、もっとそれらしい言い方はしていたかもしれないが、要はそういうことだ。
だが、それは曖昧だ。
余計なこと、とは何だ。
どこまでが余計で、どこからが必要だ。
その線引きは、誰も明言していない。
ローブの男の思考が、そこでゆっくり形を持ち始めた。
自分は今、ユキトのそばに橋渡し役として置かれている。
それも、一度きりの伝令ではない。
昨日で終わりではなく、この件が終わるまで窓口にされている。
ただの置物が欲しいなら、そこらの兵士でも立たせておけばいい。
口を使わない木偶が欲しいだけなら、自分みたいな情報屋をわざわざ置く意味がない。
なら。
必要な時に、話を繋ぐこと。
空気を読むこと。
相手が飲める形へ少しだけ整えること。
そこまで含めて、自分はそばに置かれているのではないか。
いや、そう考えるのが一番自然だ。
王国がこの四人に何か大きな話を飲ませたいのだとしたら。
何も知らされないまま「はい受けます」と言う相手ではないことくらい、向こうだって分かっているはずだ。
特にユキトはそうだ。
会談という形をとった後でなら、それくらい分かるはずだ。
だったら、少し材料を渡す。
納得の取っ掛かりを作る。
前向きに受ける余地を作る。
それは裏切りか?
違う。
違うはずだ。
むしろ逆だ。
依頼を成立させるための補助だ。
王国が真正面から渡しづらい部分を、窓口の自分が少し整える。
そういう役目だと考えれば、全部通る。
口をつぐむだけの木偶なら、最初から自分なんか置かない。
自分みたいな情報屋をそばに置いているということは、必要な時には話せ、そういう意味だろう。
そこまで考えた時、最初はただの言い訳だった理屈が、妙に気持ちよく繋がった。
そうだ。
これは余計なことじゃない。
これは役目だ。
補助だ。
調整だ。
むしろ自分は、王国を助けている。
ローブの男はそこで、ふっと顔を上げた。
「分かった分かった、話すよ」
ローブの男はそう言って、茶碗を卓へ戻した。
さっきまでの軽さはまだ完全には消えていない。
だが、それでももう、誤魔化しだけで抜けるつもりはない声だった。
空気が静かに締まる。
ユキトは何も言わない。
フローラも、ヴォルカも、ネムリアも、ただ続きを待った。
ローブの男はそこで一度だけ視線を落とした。
ついさっきまでの茶と菓子の時間が、妙に遠い。
「君たちが引っかかってるのは、ただの怪談や災害じゃない」
「その街の名は――“アルフィー”だ」
ユキトの目がわずかに細くなる。
初めて聞く名だった。
フローラも静かにその名を繰り返す。
「アルフィー……」
ローブの男は頷いた。
「王国が嫌がるのも分かる」
「勇者様が変わった切れ目として見るなら、あそこは避けて通れない」
ローブの男はもう軽口を挟まなかった。
個室の空気が、そこでひとつ沈んだ。
さっきまで茶と菓子の匂いがしていたはずなのに、妙に温度が変わった気がした。
「ただの災害じゃない」
「あれは、もっと質の悪い話だ」
そこで語りの温度が落ちる。
空気が沈む。
記憶の方へ、話が滑っていく。




