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42.見てしまった以上、切るしかない

荒野を渡る風が、乾いた草を低く撫でていく。


空は高く、雲は薄い。

昼下がりの陽光が、剣の刃にだけ冷たく反射していた。


男は立っている。


純白の髪。

薄い青の瞳。

細身の体つきだが、どこにも隙がない。

その手にある片手剣は血を吸っていない。

いや、正確には――吸わせていない。


倒れているのは、一人の男だった。


見た目だけなら、どこにでもいる旅人に見える。

武器を抜いていたわけでもない。

威圧的な魔力を撒いていたわけでもない。

周囲の兵士たちから見れば、どう見ても「そこまで即座に斬る必要があったのか」と思う相手だった。


だが。


勇者には見えている。


その男の背後に沈むもの。

空気の奥に滲む歪み。

輪郭の外に広がる、黒く巨大な“規模”。


今はまだ形になっていない。

何をやるのかも、いつやるのかも分からない。

だが、放置すれば街一つでは済まない。

そういう“重さ”だけが、勇者には見える。


それだけで十分だった。


男の喉がひゅ、と鳴る。

何か言おうとしていたのかもしれない。

命乞いか、言い訳か、それともただの疑問か。


だが、勇者は聞かない。


見てしまった以上、切るしかない


心の中で、それだけを繰り返す。


迷ったら駄目だ。

立ち止まったら駄目だ。

見てしまったなら、もう切るしかない。


剣は一閃だった。


風が遅れて鳴る。

男の体が崩れ落ちる。

返り血はない。

致命の線だけを正確に裂いた、無駄のない一太刀だった。


周囲の兵士たちは息を呑んだ。


誰もが剣を握っている。

だが、誰一人として今の斬撃を追いきれていない。

勇者の前でそれを悟ること自体が、嫌な汗を呼ぶ。


一人の兵士が、ごくりと喉を鳴らした。


――やはり、狂っている。


口には出さない。

出せるわけがない。


目の前にいるのは、この国を守る勇者だ。

人の理における裁定者。

大災厄を未然に断ち、人々を守る英雄。

そうであることに嘘はない。


それでも。


人を斬った直後の、この静けさ。

一片の迷いも見せず、ただ次へ進むような顔。

それが、兵士にはどうしても恐ろしく見えた。


けれど表に出すのは、決まりきった言葉だけだ。


「……お疲れさまでした、勇者様」


声をかけた兵士の顔は固い。

敬意はある。

だが、心からの安堵はない。


勇者はそちらを見た。

薄い青の瞳が一瞬だけ向く。

それだけで兵士の背筋が固まる。


「異常なしだ」

「王都へ戻る」


それだけ告げて、勇者は剣を収めた。


本来なら、もっと早く戻るはずだった。


一年前。

先代勇者が死に、その座が継承された日。

王国はその日を、今代勇者の即位の日として記憶している。


本来なら王都では、その節目に合わせた式典が行われる予定だった。

勇者本人が帰還し、姿を見せ、人々に安堵を与える。

そういう日になるはずだった。


だが、そうならなかった。


遠征先で裁定案件が重なった。

討伐も続いた。

後回しにできない災厄の芽が、行く先々で見つかった。

ひとつ断てば、また次が見えた。

止まれば遅れる。

遅れれば、その間に手遅れになるかもしれない。


だから帰れなかった。


王国もそれを責められない。

民もまた、勇者が職務のために遅れたのだと聞けば納得する。

むしろ「ようやく戻られた」と歓迎するだけだ。


その埋め合わせも兼ねて、帰還予定の今日、王都では急ぎ凱旋の列が整えられていた。


勇者が街道を抜け、王都へ近づくにつれて空気が変わる。


門の内側には兵士が整列し、旗が掲げられ、沿道にはすでに人が集まっていた。

勇者はそういうものを好まない。

だが、王国にとっては必要なのだろう。

この男がまだ“国を守る勇者”としてそこに在ると、人々に見せることが。


門が開く。


歓声が上がる。


「勇者様だ!」

「勇者様が戻られたぞ!」

「おお、本当に……!」

「今年もご無事で……!」


道の両脇で人々がざわめく。

商人が、女が、子供が、老人が、皆一様に顔を明るくする。

中には今日初めて勇者を見た者もいるだろう。

それでも分かる。


兵士の列。

王国旗。

先導する近衛。

そして中央を進む、純白の髪の剣士。


この場でただ一人、誰よりも自然に道の中心にある存在。

面識のない民衆にすら、それだけで十分だった。


「勇者様ー!」

「やっぱりすごい!」

「今年も守ってくださったんだ!」


歓声は聞き慣れているはずだった。


感謝も、安堵も、期待も。

勇者になってから、何度も浴びてきた。

本来なら、それは守れた証のはずだった。


それでも今日は、少しだけ耳に刺さった。


高い子供の声が混じる。

拍手が重なる。

花びらが風に流れる。


その瞬間だけ、世界がずれた。


舞っている花びらが、灰に見えた。

祝福の拍手が、乾いた破裂音に重なった。

沿道に並ぶ人々の顔が、一瞬だけ別の何かへ変わりかける。


泣いていた。

助けを求めていた。

冷たい手を見下ろしながら、自分の名を呼んでいた。


喉の奥が、ひどく冷えた。


王都の石畳の上に、別の街路が重なる。

もう何もないはずの場所。

もう終わったはずの地獄。

それでも目の奥だけが、それを見ていた。


勇者は瞬きをしなかった。


立ち止まれば鈍る。

鈍れば迷う。

見てしまったなら、もう切るしかない。


そうやって、胸の奥で蘇りかけたものごと押し殺す。


表情一つ変えず、勇者は列の中央を進んだ。


兵士たちの固さとは対照的だった。


近くで刃を見た者は怖れている。

遠くで結果だけを知る者は讃えている。

その温度差の中を、勇者は淡々と進んだ。


だが、その歩みが一度だけ止まった。


城下中央通りの広場。

沿道に設置された掲示板だった。


祝祭の告知。

通達。

お触れ。

手配書。

様々な紙が幾重にも貼られている。


その中に、一枚だけ新しい紙が混ざっていた。


勇者の視線が、そこへ吸い寄せられる。


ざわめいていた周囲が、一瞬だけ静かになった。

誰も、勇者がそんなものに目を止めると思っていなかったからだ。


列を止めるほどではない。

だが勇者は進行の歩をわずかに緩め、その紙を見た。


黒髪の若い男、簡単な風体。

同行者として、三人の女の情報。

それぞれ特徴はあるが、どれも“極悪人”の手配書というには妙だった。


凶悪犯のような文言はない。

残虐な罪状も書いていない。

明確な被害も書かれていない。

ただ、異常に警戒を促す書き方だけが目につく。


勇者の目がわずかに細くなる。


おかしい。


国家印付きの手配書だ。

だが、そのわりに根拠が薄い。

これではまるで、理由を濁したまま先に手足だけを動かしているように見える。


しかも、同行者が三人。


多すぎる。

ただの逃亡者の書き方ではない。

何か別の意図があるように見える。


前々から、こうしたビラが出回っていた可能性はある。

だが勇者はここしばらく遠征続きで、掲示などに細かく目を通していなかった。

今、初めてちゃんと読む。


「……止まれ」


短い命令に、先導していた近衛が一瞬で動きを止める。

民衆は何が起きたのか分からず、ざわめきだけを残した。


勇者は掲示板へ歩み寄った。

一枚、手配書を剥がす。

紙が乾いた音を立てる。


付き従っていた兵士が、明らかに困惑した顔でそれを見ていた。


勇者はその紙から目を離さず問う。


「この男は、何をした」


兵士は一瞬、面食らったように目を見開いた。


「は……?」


「追われている理由だ」

「王国は何を根拠に、この男を追っている」


兵士は明らかに困った顔をした。

知っている者の顔ではない。

知らないまま末端で動いている者の反応だった。


「い、いえ……自分は、詳細までは……」

「危険人物である可能性が高い、としか……」


勇者は紙を見下ろす。


危険人物。


その曖昧さが引っかかった。


本当に危険なら、もっと書きようがある。

これではまるで、理由を知らされないまま先に末端だけが動かされている。


「……そうか」


それ以上、兵士を責めはしなかった。

末端に聞いても無駄だと分かったからだ。


ならば、聞く相手は一人しかいない。


勇者は手配書を握ったまま、向きを変える。


王城へ向かう。


勇者が歩けば、門は開く。

兵士は慌てて道を空ける。

取り次ぎも必要ない。

勇者が宰相に会いたいと言えば、それだけで通る。


それがこの国での、勇者の重さだった。


王城の石廊下は静かだ。

夕方の光が細長く差し込み、床に淡い色を落としている。


案内された執務室の前で、護衛の騎士が無言で扉を開いた。


中では宰相が書類を片付けていた。

顔を上げる。

勇者の姿を見て、一瞬だけ目が止まる。


「……勇者殿」

「お戻りでしたか」


勇者は答えない。

そのまま手配書を机の上へ置いた。


「この男だ」


宰相の視線が紙へ落ちる。

すぐには表情を変えない。

だが、その変わらなさが逆に不自然だった。


「何をした」


短い問い。


宰相は少しだけ沈黙し、それから口を開く。


「彼の名前はユキト、王国が警戒している人物です」


「それは見れば分かる」

「理由を聞いている」


宰相の指先が、紙の端を軽く押さえる。

わずかな癖だった。

だが勇者は見逃さない。


言いづらい時の動きだ。


「現時点では、確定した犯罪行為があるわけではありません」


勇者の目が細まる。


「では、なぜ追う」


宰相は答えるまでに、ほんのわずかな間を置いた。


「……竜を連れている可能性があります」


それは嘘ではない。

だが、全部でもない。

勇者には分かった。


言い回しが苦しい。

そこに本音がない。


宰相は続ける。


「王国としては、確認が必要です」

「不安要素を放置するわけにはまいりません」


勇者はしばらく宰相を見ていた。


この男は、今、何かを隠している。

完全な虚偽ではない。

だが、核心を言っていない。


なぜだ。


勇者に対してすら、なお濁す理由があるのか。


宰相は視線を逸らさない。

それが余計に、濁りを強く感じさせた。


勇者は手配書を取り上げる。


「……そうか」


短く、それだけ言う。


宰相は何も付け足さなかった。

付け足せなかったのかもしれない。


勇者は背を向ける。

そのまま執務室を出た。


廊下を歩きながら、手の中の紙をもう一度見る。


ユキト。


犯罪者には見えない。

王国は理由を濁した。

だが、追っている。

それも、かなり強く。


ただの手配犯ではない。

王国が隠しながら追っている男。


夕暮れの赤が、廊下の向こうに長く伸びている。


勇者は歩きながら、心の底に沈んだ違和感を見下ろしていた。


迷ったら駄目だ。

立ち止まったら駄目だ。

見てしまったなら、もう切るしかない。


そう決めた。

そう決めたはずなのに。


宰相から聞いたその名前だけが、妙に心に残った。

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