41.勝てないだろこれ
高級宿の一室は、湯宿らしい柔らかさを残しながらも、会談のためにきっちり整えられていた。
昨夜通された食事処や、湯上がりに休める部屋とは違う。
椅子と机が置かれ、向かい合って座る形が最初から決まっている。
壁際の飾りは控えめで、窓の外には手入れの行き届いた庭と、その向こうに淡く立つ湯気が見えた。
静かで、上等で、落ち着いている。
だが、落ち着ける空気ではなかった。
机の片側にユキトたち四人。
反対側に王国宰相ガレスと近衛長。
護衛は外へ下げられているが、気配までは消えていない。
必要以上に威圧しない代わりに、ここが王国の正式な場であることだけは、最初から最後まで崩さない。
そういう部屋だった。
ユキトは椅子に深くもたれず、少しだけ腰を浮かせるような姿勢で正面を見ていた。
左手は机の上に置かず、自然に下ろしている。
いつでも動ける位置だった。
ヴォルカは背筋を伸ばして座っている。
高級宿そのものは明らかに気に入っていたが、会談室に入った瞬間にそういうものは全部引っ込めていた。
フローラは静かに全体を見ている。
ネムリアは眠そうな顔のままだったが、こういう時だけはきちんと起きている。半分閉じた目の奥で、部屋の空気そのものを見ていた。
短い沈黙のあと、宰相が口を開いた。
「本日はお時間をいただき、感謝します」
低く、落ち着いた声だった。
「そして、この場を受けてくださったことにも礼を申し上げたい」
前回の崖の上とは違う。
相手を測るための顔合わせではなく、今日は最初から何かを持ってきている声だった。
「前回は、事実確認と顔合わせが主でした」
「ですが今日は違う」
「王国として、正式にお願いしたいことがあります」
その言葉で、部屋の空気が少しだけ沈んだ。
ユキトは机の上の茶にも触れず、短く返した。
「で、何だ?」
宰相は一度だけ近衛長と視線を交わし、それからまっすぐに言った。
「勇者に関する件です」
その一言に、ヴォルカの目がわずかに動く。
ネムリアも、ほんの少しだけ瞬きをした。
フローラは変わらない。
だが、一番はっきり反応したのはユキトだった。
「……は?」
本当に、一瞬だけだった。
虚を突かれた顔だった。
警戒でも反発でもない。
純粋に、意味が分からない時の顔。
それがすぐに消え、代わりに眉が寄る。
「なんで俺たちなんだ」
「軍でやればいいだろ」
「もっと竜じゃないと駄目な案件かと思った」
訳が分からない。
本気でそう思っているのが、そのまま声に出ていた。
宰相はそこで、わずかに引っかかった。
知らない、というほどではない。
勇者という単語自体は理解している。
だが、その響きに対する重みが、この国の人間としては薄すぎる。
この男は、本当に何者なのか。
問いは口に出さなかった。
今はそこを掘る場ではない。
宰相は静かに言う。
「……なら、一から話しましょう」
ユキトは黙る。
横でフローラも口を挟まない。
知っている。だがここは王国側に説明させるべきだと判断したのが、その沈黙で分かった。
「我が王国は、勇者を制度として抱え、支えてきました」
宰相はそう切り出した。
「旅費、装備、補給、滞在先、報酬、情報、人員」
「勇者が動くために必要なものを国が整え、継続的に支える」
「それが長く、王国の役目でした」
ユキトは少しだけ眉を寄せたあと、言った。
「要するに、王国が面倒を全部見て、勇者を動かしてきたってことだな」
「……大筋では、その理解で構いません」
宰相が頷く。
「ただし、勇者は兵ではない」
「王の剣でもない」
「人の理における裁定者です」
その言葉に、ユキトの目が少しだけ細くなる。
「理そのものの執行者に近い存在、と言った方が正しいかもしれません」
「勇者は、対象が将来引き起こしうる災厄の“規模”だけを見ることができる」
部屋は静かだった。
上等な机も椅子も、今はただ声を受け止めるためだけにあるように思えた。
「見えるのは“規模”だけです」
「方法、時期、具体的内容までは分からない」
「何をしたかではなく、将来どれほどの災厄を招きうるかで判断する」
「ゆえに、まだ何も起こしていない者に対しても裁定が下ることがある」
ユキトは黙って聞いていた。
表情は大きくは動かない。
だが、最初の「なんで俺たちだ」よりは、少しだけ話の形を理解し始めていた。
宰相はそこで、ほんの少し間を置いた。
「先代勇者は違いました」
その一言で、空気がわずかに変わる。
「規模だけで切るのではなく、最後まで人を見て裁く思想を持っていた」
その瞬間、ユキトの胸の奥に、あの老人の姿がよぎった。
花の神殿。
くたびれた背中。
頼りなさそうに見えて、最後の最後で一番重いものを背負った男。
自分たちを生かすために、何もかも置いていった、あのジジイ。
顔には出さなかった。
だが胸の奥だけが、ほんの少し引っかかった。
宰相はそれに気づかず、続ける。
「今代勇者は違う」
「規模だけを見て切る」
「そして、その裁定は、もはや看過できない段階にあります」
そこで宰相は、机の脇に置いていた紙束を持ち上げた。
厚い。数枚どころではない。
何人もの手を経て積み上がった重さが、見た目だけで分かる。
机の上に置かれる。
紙がぶつかる鈍い音が、妙に生々しかった。
「王国側で独自に調べました」
「今代勇者がどう変わったのか」
「詳細は、今この場の主題ではありません」
宰相の指先が、紙束の上に置かれた。
「ですが、後で確認していただきたい」
「これは、そのための調査書です」
「この選択は必要だということを、理解していただきたい」
ユキトは紙束を見る。
重い。たぶん中身も重い。
それでも今はまだ、そこへ手を伸ばさなかった。
「……で」
視線を上げる。
「危険なのは分かった」
「でも数で掛かれば殺せるだろ」
「軍で囲んで終わらせりゃいい話じゃねえのか」
近衛長が、そこで初めて口を開いた。
「終わらない」
短い。
だが、迷いがなかった。
「勇者は人の理の裁定者だ」
「ゆえに、人の理の内側からは終わらせられない」
ユキトが眉を寄せる。
近衛長は、事実だけを並べるように言葉を重ねた。
「人間の攻撃は命中しても著しく減衰する」
「よろけさせることはできる。体勢を崩すこともできる」
「足止めも、包囲も、追い詰めることも可能だ」
「だが決定的な傷にはならない」
「討てない」
「殺せない」
「人の理による封印も通らない」
ヴォルカの表情が固くなる。
ネムリアの目が少しだけ開く。
フローラは何も言わずに聞いている。
近衛長の声は平坦だった。
「過去に、勇者を邪魔だと判断した国が、完全拘束に成功した事例がある」
「理由は省く」
「特殊部隊を送り込み、多数の犠牲を出しながら、勇者を物理的に埋めることに成功した」
ユキトの目がわずかに細くなる。
「巨大な落とし穴だった」
「底へ落とし、自力では外に出られない深さまで沈め、その上から土を被せた」
「生き埋めだ」
「兵士は、終わったと確信した」
近衛長はそこで一拍置いた。
「だが数日後」
「埋めたはずの勇者は、その国の首脳陣の前に単身で現れた」
「剣を突きつけ、裁定を行った」
「そして災厄ではないと判断すると、そのまま何もせず帰っていった」
沈黙が落ちる。
ユキトはすぐには言葉を返さなかった。
頭の中に絵が浮かんでしまう。
埋めたはずの相手が、数日後には当たり前みたいな顔で現れる。
しかも報復ではなく、裁定のためだけに。
殺せない。
閉じ込められない。
理屈も分からない。
強いとか弱いとか、そういう話ですらない。
人間側の理屈そのものが通じない。
宰相がそこで引き取る。
「そのため王国は理解しています」
「裏切りが発覚した勇者を、人間側の手段で、報復不能なまま抑え込むのは不可能だと」
ユキトが息を吐く。
「なんだそれ」
「絶対に勝てないじゃないか」
「その通りです」
宰相は即答した。
「人間では勝てない」
そこでようやく、ユキトの思考が一つ先へ進む。
「……でも、それなら」
短く考えるような間があった。
「お前らが直接勇者に言えばいいんじゃないか?」
「やり方を変えろなり、止まれなり」
ぴたりと空気が止まった。
宰相も、近衛長も、そこで言葉を失う。
ほんの数拍。
だが、それで十分だった。
ユキトは何も言わないまま、その沈黙を見る。
それから一人で、勝手に納得する。
ああ、そうだな。
言えるわけがない。
そこで裁定方法に口を出す。
あるいはやめろと諫める。
もし反発されたら、その瞬間に終わりだ。
相手は人間の常識で止められない。
しかも正義の顔をしたまま、こちらを見る側だ。
宰相はその沈黙を切るように、低く言った。
「加えて、民は勇者を支持しています」
その声は、先ほどまでよりさらに重かった。
「大規模災厄から国を守ってきた英雄として」
「今なお、圧倒的に」
「仮に王国が正面から勇者へ刃を向ければ、我々が先に崩れるでしょう」
王国は詰んでいた。
人の理の内側では討てず。
正面から諫めることもできず。
政治の表でも、公然とは切れない。
ユキトにも、それは分かった。
狂ったやつが、正義の顔をしたままいつ自分たちを裁きに来るか分からない。
しかも人間では止められず、民衆はそちらを支持している。
そりゃあ、たまったものじゃない。
「……前に会った時」
ユキトが、ゆっくり口を開く。
「特に依頼もせず、俺の人となりだけを見ていったのはそのためか」
宰相は黙っていた。
否定しない。
ユキトは続ける。
「つまり彼女たちを動かしたいから、俺に話を通してるわけだ」
今度もまた、誰も否定しなかった。
それが答えだった。
そこでユキトが見たのは、恐怖だけではなかった。
宰相が次の言葉を出す前に、ほんのわずかに目を伏せる。
近衛長も、顔をしかめるまではいかないが、口元が硬い。
二人とも、ただ冷たく言い切る時の顔ではなかった。
そこにあるものが何なのかまでは、ユキトにも分からない。
躊躇なのか、諦めなのか。
あるいは、もう何度も飲み込んできた後悔なのか。
ただ、単純に切り捨てるだけの話ではないことだけは伝わってきた。
これから口にされるのは、軽く扱っていい話ではない。
少なくとも、この二人はそれを分かっている。
王国側を全面的に信用したわけではない。
だが、こいつらがこの話を便利な材料として持ち出しているわけではない。
それだけは分かった。
宰相は数秒、黙ったあとで言った。
「依頼したい内容は一つです」
部屋がさらに静かになる。
近衛長は何も言わない。
止めない。だが賛成して胸を張っているようにも見えない。
宰相はまっすぐにユキトを見る。
言いたくない。
だが言うしかない。
そういう声だった。
「……暗殺だ」
討伐でもない。
捕縛でもない。
排除でもない。
暗殺。
選んだ言葉そのものが、王国の追い詰められ方を表していた。
「今代勇者を、ここで終わらせたい」
「正面からではなく、確実に」
「人の理の外から」
宰相の声は最後まで淡々としていた。
だが、その淡々さの下にある重さだけは、隠しきれていなかった。
ユキトはしばらく黙っていた。
頭の中では、先代勇者の顔と、今聞いた話と、目の前の二人の複雑な表情の顔が並んでいた。
暗殺に踏み切るのは正しい。
少なくとも、国家側の判断としては筋が通っている。
狂ったやつが正義の顔で裁きに来る。
しかも人では止められない。
民衆は支持している。
それなら、裏で終わらせるしかない。
そこまでは理解できる。
だが。
ユキトはそこで、ようやく口を開いた。
「報酬は?」
軽くはなかった。
必要だから聞く声だった。
宰相はすぐには答えない。
ほんの少しだけ間を置く。
金、土地、権利、便宜、物資。
並べられるものはいくらでもある。
だが、それを一つずつ数えること自体が、この依頼の重さを安くする気がした。
やがて、重く言う。
「王国にできる範囲で、望むものすべてを与える」
近衛長は何も言わなかった。
だが、それは軍も含めて受けるということだった。
ユキトはさすがに少しだけ目を見開く。
大きい。
あまりに大きい。
普通の依頼で出る言葉じゃない。
ここまで言うしかないくらい、追い詰められてる証拠だった。
それから、少しだけ肩の力を抜くように息を吐いた。
「この件、俺は全く無力じゃないか?」
皮肉というより、確認に近かった。
戦うのは自分じゃない。
殺すのもおそらく自分じゃない。
王国が欲しいのは、自分の力ではなく、自分が連れている竜たちの意思だ。
それを分かった上で、あえて口にする。
宰相は答えなかった。
答えなくても分かるからだ。
ユキトは左右を見る。
ヴォルカ。
フローラ。
ネムリア。
この話は、自分一人に向けられたものじゃない。
実際に前へ出るのは、自分ではなく彼女たちだ。
なら、自分一人の感情や都合で、この場で決めていい話ではなかった。
「……俺一人じゃ決められねえ」
低く、はっきり言った。
「こいつは、結局こいつらを前に立たせる話だ」
「だったら、ちゃんと話さなきゃ駄目だ」
部屋は静かだった。
宰相も、近衛長も口を挟まない。
ユキトは机の上の調査書へ視線を落とす。
分厚い紙の束。
王国がここまで積み上げてきた時間と執着が、その重みだけで分かる。
「そのためにも、まずはこれを読む」
指先で紙束を軽く叩く。
「話はそれからだ」
しばらくして、宰相がゆっくり頷いた。
「……承知しました」
本音では、ここで返答が欲しかったはずだ。
だが、それを求められる立場ではないことも理解している。
だからそれ以上は押さない。
ただ一つだけ、重く付け加えた。
「時間は多くありません」
「分かってる」
ユキトの返事も短かった。
そこで会談はいったん終わった。
結論は、まだ出ていない。
王国の依頼を受け勇者を殺すのか、それとも受けないことにするのか。
何一つ、まだ決まっていない。
ただ一つだけ確かなことがあるとすれば、次に進むには、もうこの紙束から目を逸らせないということだった。
高級宿の静かな一室に、調査書の束だけが重く残っていた。




