40.飼い殺しにされた気分
崖の風は、下から吹き上がるほどに冷たかった。
乾いた空気が衣服の裾を揺らし、足元の小石をかすかに転がしていく。
ここを選んだのはユキトだった。
見通しがよく、囲まれにくい。
伏兵も置きにくい。
それだけ分かれば、もう十分だった。
ユキトは中央より少し後ろに立ち、相手が来るはずの山道だけでなく、その左右、そのさらに外まで視線を流していた。
ヴォルカは自然と一歩前へ出られる位置にいる。
フローラは全体を見渡せる場所に。
ネムリアは崖から少し離れた岩に腰を下ろしていて、今にも眠りそうな顔をしているが、あれでちゃんと周囲を見ている。
そしてその少し後ろで、ローブの男が落ち着かない顔をしていた。
ここまで来ても、まだ自分がこんな場所に立っているのが信じられない。
最初は、ただの情報だった。
危ない匂いのする、高く売れそうな情報。
王国に流して、接触の橋だけ掛けて、あとは上で勝手にやってくれればいい。
そう思っていた。
なのに気づけば、馬車を手配させられ、食事を増やさせられ、宿を何度も蹴られ、挙句の果てにこんな山奥の崖で会談場所まで整えさせられている。
正直、これだけで十分に嫌だった。
それでも報酬はよかった。
そこだけは認めざるをえない。
やがて、フローラが小さく言った。
「来ます」
ユキトもすでに見ていた。
遠く、山道の向こうに人影が現れる。
数は多くない。
だが少なすぎもしない。
先頭に一人。
その後ろに数人。
近づくにつれて、それがはっきりしていく。
先頭の男は壮年だった。
派手な衣装ではないが、仕立ての良さは隠せない。
歩き方にも、周囲に守られることに慣れた気配がある。
その後ろの護衛たちも、人数こそ絞られているものの、どう見ても場慣れした精鋭だった。
大軍ではない。
だが、最低限でもない。
王国側なりに削って、それでもなお連れて来ざるをえなかった人数。
そんな半端さだった。
ユキトはその並びを一目で数える。
数。
武装。
間合い。
前に出る気配。
伏兵の有無。
今のところ、露骨な隠しは見えない。
それだけで信用はしないが、少なくとも話す気まではあるらしい。
やがて向こうもこちらを視認し、一定の距離で止まった。
風が、崖下から強く吹き上がる。
その風の中で、先頭の男が一歩だけ前へ出た。
護衛はそれ以上詰めない。
詰めないが、いつでも動ける位置にはいる。
王国側もまた、この場を完全には信じていない。
それがそのまま距離に出ていた。
ユキトは一歩も引かなかった。
崖の風に上着の裾が揺れる。
呼ばれた男の顔ではない。
会ってやる側の顔だった。
先頭の壮年の男は、その空気を真正面から受け止めるように一度だけ目を細めた。
それから、低く落ち着いた声で名乗る。
「王国宰相、ガレス・オルディアだ」
そこで、場の空気がようやく一つの形になった。
会談は、まだ始まっていない。
だが土俵だけは、もう完全にでき上がっていた。
宰相はまず、真正面からユキトを見るのではなく、一度だけローブの男へ視線を向けた。
「約束のものを」
短い一言だった。
護衛の一人が前へ出て、重そうな袋を二つ差し出す。
一つはずしりと重い革袋。
もう一つは、それよりやや小ぶりだが、それでも十分な厚みのある袋だった。
ローブの男は無意識に喉を鳴らした。
先に大きい方を受け取る。
指先で口を開き、中を見た瞬間、さすがに顔が固まった。
多い。
思っていたより、ずっと多い。
「……ずいぶん気前がいい」
「口止め料込みだ」
宰相は淡々と言った。
「……内容は詮索するな」
ローブの男の口元が、ほんの少しだけ引きつる。
口止めされたことは少し悔しい。
それでも正直かなり嬉しい額だった。
だがその次の瞬間、もっと嫌な現実を思い出す。
四割。
約束したのは自分だ。
彼はほんの一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、惜しむように袋を見た。
それから、いかにも仕方ないという顔で中からかなりの額を取り分け、別の小袋に移してユキトへ投げるようには渡さず、さすがに両手で差し出した。
「……ほら、君の分だ」
ユキトは受け取って、重さに眉をひそめた。
フローラが横から静かに中身を確認し、ヴォルカが目を丸くする。
ネムリアまで、眠たげな目を少し開く。
闘技大会の優勝賞金より、遥かに多い。
それは四人とも、すぐに分かった。
ヴォルカが思わず声を落とす。
「……こんなに」
「四割でこれかよ」
ユキトも、さすがに少しだけ目を細めた。
その反応を見ながら、宰相は内心で静かに驚いていた。
四割。
情報屋の成功報酬の四割を、事前に飲ませているのか。
この男はやはり一筋縄ではいかない。
場所選びで最後まで譲らず、こちらの都合をことごとく切ったのも思い出す。
さらに金で動く情報屋の取り分すら先に噛んでいる。
ただの逃亡者ではない。
ただの無鉄砲でもない。
護衛が残ったもう一つの袋を、今度はローブの男へそのまま渡す。
「こちらは別口だ。輸送費、手配費、その他諸々を含む」
ローブの男はそちらも受け取る。
さっきよりは顔に出さないつもりだったが、わずかに表情が緩んだ。
かなり多い。
これからもよろしく、という含みまで透けて見える額だった。
その直後だった。
ユキトがじろりとそちらを見る。
本当に、それだけだった。
責めたわけでもない。
何かを言ったわけでもない。
ただ見ただけだ。
なのにローブの男は、反射的に背筋を伸ばした。
「……ち、違うからね」
誰も何も言っていないのに、先に口が出た。
ネムリアが小さく首を傾げる。
「……なにが」
「いや、ええと……健全な経費だよ」
「誰も聞いてねえ」
ユキトが冷たく言う。
ローブの男は口をつぐんだ。
護衛の一人が無表情のまま視線を逸らす。
ヴォルカが少しだけ困ったようにローブの男を見る。
フローラは何も言わないが、口元だけわずかに緩んでいた。
宰相だけは、そのやり取りを黙って見ていた。
やはり妙だ。
情報屋みたいな輩が怯えるのは、強者や権力者に対してだ。
この男は戦闘力1だというのに、その情報屋が先に身を固くしている。
それだけで、十分におかしい。
「では」
宰相が静かに言う。
「ここから先は、余計な耳を入れたくない」
ローブの男が、ぴくりと顔を上げた。
嫌な予感がした。
「下がってもらう。護衛とともに外で待機だ」
「……ああ、そういうこと」
ローブの男はそこで、ようやく本能的に察した。
これはもう、自分が聞いていい話ではない。
国家同士だの、竜だの、王国の重鎮だの。
そういう単語の中心に、自分みたいな情報屋が立ち会っていていい場じゃない。
会わせて、金をもらって、そこで終わり。
本来ならそれでよかったはずだ。
報酬も十分にもらった。
むしろ、もらいすぎなくらいだ。
なら、これ以上ここにいる理由はない。
いや、ないどころか、いたくない。
余計なことを知れば、そのぶん逃げにくくなる。
知った時点で、もうただの橋渡し役では済まなくなる。
ローブの男は、判断だけは早かった。
「分かった。じゃあ僕はここで失礼――」
踵を返しかけた、その前に。
護衛の一人が、無言で進路を塞いだ。
「待機を命じられている」
ローブの男は止まった。
「……え、待機?」
「この場を離れることは許可されていない」
数秒、無言だった。
それからローブの男は、心底嫌そうな顔をした。
逃がしてくれないらしい。
最悪だ。
聞かされるのも嫌だが、知らないまま拘束されるのももっと嫌だ。
だがここでごねて、この場の全員に余計な印象を残す方がまずい。
彼は舌打ちだけを喉の奥で飲み込み、仕方なく護衛たちとともに少し離れた場所まで下がった。
崖地の外れ。
会話の中身までは聞こえないが、空気だけは伝わってくる距離。
本当に面倒なことになった。
前なら、こういう国家級案件の橋渡し役に食い込めたことを、儲け話として見られた。
王国相手の実績になる。
次の仕事の値も上がる。
多少面倒でも、割に合うと思えた。
今は、全然嬉しくない。
もうユキトとは関わりたくない。
本気でそう思っていた。
崖地に残ったのは、ユキトたち四人と、宰相、それから護衛数人だけだった。
風がまた吹く。
少しだけ沈黙が落ちたあと、宰相が口を開いた。
「まず、事実確認から始めたい」
「勝手にしろ」
ユキトの返答は短い。
「彼女たち三人は、竜で間違いないか」
「間違いない」
ユキトは余計な言い回しもせず答えた。
それから、三人へ顎で合図する。
ヴォルカが髪を払う。
フローラも静かに同じようにする。
ネムリアは少し遅れて、「……ん」とだけ言って前髪をずらした。
それぞれの角が、風の中に露わになる。
黒竜。
聖竜。
そして眠たげな少女のそれ。
宰相は表情を変えなかった。
だが内心では、まず一つの結論を置く。
情報屋の第一報は正しかった。
少なくとも、この会談の土台は信用していい。
「戦闘力1というのは本当か」
次の問いはすぐに飛んだ。
「ああ、本当だ」
ユキトは即答した。
その時の顔。
声。
間。
視線。
宰相はそれをそのまま記憶する。
これが基準だ。
この男が、少なくとも今、自分で正しいと思っていることを言う時の顔。
今後の嘘や濁しは、ここから測る。
「去年の夏の終わり、我々が把握している雷竜捕獲作戦――」
そこで宰相はわずかに言い換える。
「君の側から見れば、雷竜救出作戦とでも言うべきか」
ユキトの目がわずかに細くなった。
「それを実施したのは君で間違いないか」
「間違いない」
「なぜ兵士を眠らせるだけで、殺さなかった」
ユキトは少しだけ間を置いた。
「あの時はそれが最善だった」
「別の手があればやった」
短い。
だが、それ以上は渡さないという響きがあった。
宰相は次の問いを重ねる。
「では、なぜ雷竜の母親から、寝ている兵士を黒竜で庇った」
そこでヴォルカの目が一瞬だけ動いた。
ユキトはそれを見ずに答える。
「それも同じだ」
「それが最善だったからだ」
「兵を殺しても、得がなかった」
宰相は頷きもしなかった。
ただ、内心で仮説を一つ置く。
かなり慎重だ。
無駄に殺す気は薄い。
少なくとも快楽や示威のために血を流すタイプではない。
だが、理由の芯は明かさない。
必要な答えだけ出して、核心は握ったままにする。
「第三王子アルベルトを知っているか」
今度は少し角度を変えた。
ユキトは一切のためらいなく言う。
「知らないな」
宰相は内心で即座に切る。
嘘だ。
そこはほぼ確信だった。
王子の現在の様子から見ても、何らかの接触、あるいはもっと厄介な干渉があったと考える方が自然だ。
だが今は深追いしない。
ここで無理に剥がすと、本筋が濁る。
ならば得るべきは事実ではなく、性質だ。
平然と嘘をつける。
必要な場所では、迷いなく切る。
それで十分だった。
「闘技大会に出たのは、なぜだ」
「目立つのは本来、好まないだろう」
「やむを得ない事情があった」
ユキトは言う。
「それだけだ」
名声では動かない。
目立つこと自体に価値も感じていない。
事情で嫌な手も取る。
宰相は一つずつ、男の輪郭を組み立てていく。
「表彰式で、彼女たち三人との契約を破棄したと聞いた」
その瞬間だった。
ユキトの目が、わずかに揺れた。
ほんのわずか。
だが、それまでの問答とは明らかに違った。
宰相は見逃さない。
「何の契約だった」
ユキトは答えない。
沈黙が落ちる。
ヴォルカが困ったように視線を逸らし、フローラが口を開きかけてやめた。
ネムリアは眠たげな顔のままだが、ほんの少しだけ頬が引きつっている。
宰相は重ねる。
「……かなり重要な契約内容だったのか」
ユキトが露骨に嫌そうな顔をした。
それで十分だった。
ここは地雷だ。
内容は分からない。
だがこの男にとって、見られたくない、触れられたくない、不気味な何かがそこにある。
初めて、感情がはっきり漏れた場所として記憶しておく。
「……話を変えよう」
宰相はそこで追及を切り替えた。
「表彰式で観客の前で告白し、全員に受け入れられたというのは本当か」
「今も彼女たちと付き合っているのか」
「そうだ」
即答だった。
今度は一切揺れない。
そして、その答えに対する三人の反応の方が、宰相にはむしろ強かった。
ヴォルカが一瞬だけ目を見開き、嬉しさを隠しきれずに口元を緩める。
フローラも目を伏せる角度が少しだけ柔らかい。
ネムリアは「……うん」とでも言いたげに小さく頷いた。
本物だ。
宰相は、さすがにそこではじめて内心で呆然とした。
ありえない。
竜という種族を知っている常識からすれば、ありえない。
それも三人同時など、さらにありえない。
三竜が異常なのではない。
たぶん、異常なのはこの男の方だ。
頭の中でそれをどうにか整理し終えてから、宰相は表情を崩さずに言った。
「……それは、結構なことだ」
言うしかなかった。
少なくとも、王国が一時的に切り崩せる程度の関係ではない。
それだけは明白だった。
「フィオラ滞在時、リュシアという女がいたな」
宰相は次の札を切る。
「あれは君にとって、どんな関係だ」
その問いに、ユキトは一瞬だけ目を細めた。
だが、本当に強く反応したのは質問した宰相の方だった。
もしその女も竜で、この場にいないのだとしたら。
それは単なる同行者では済まない。
視界の外。
山道の陰。
崖下。
あるいは、もっと離れた場所。
この場に出ていない戦力が、まだ別にいる可能性がある。
宰相は表情を動かさなかったが、意識だけは即座に周囲へ広げた。
護衛たちも、主のわずかな空気の変化を感じ取ったのか、目線だけで周辺を洗う。
その気配を見た上で、ユキトはあっさり言った。
「性癖の対象外だったから振った女だ」
「竜とかじゃない」
横でヴォルカが本当に一瞬だけ固まったが、すぐに頷く。
フローラも自然な顔で視線をずらす。
ネムリアまで、「……そういえば、いた」とぼそりと合わせた。
即興の隠蔽としては十分だった。
宰相はそこで、伏兵の線をひとまず切る。
少なくとも、今この場での反応は自然だった。
本当にただの人間の女だった可能性が高い。
だが同時に、別の単語が耳に引っかかった。
「性癖?」
少しだけ身を乗り出す。
「詳しく聞かせてくれないか」
その食いつきに、今度は三人の方が嫌な顔をした。
ユキトはなぜかまったく気にしていない。
「俺は封印された爆乳ドラゴン娘しか興味がないんだ」
真顔だった。
風が吹いた。
宰相は一瞬、理解が追いつかなかった。
ドラゴン娘。
そこまでは分かる。
実際、目の前に三人いる。
爆乳。
宰相は反射的に三人へ視線を向けた。
ヴォルカが耳まで赤くなり、フローラがすっと目を伏せ、ネムリアが眠たげな顔のまま少しだけ胸元を隠す。
……まあ、それも分からなくはない。
知りたくはなかったが、分からなくはない。
だが。
封印された。
そこで思考が止まる。
宰相の眉がわずかに寄った。
「待て」
さすがにそこは流せなかった。
「封印された、というのは何だ」
「そのままの意味だ」
ユキトは平然と答える。
「封印されてる爆乳ドラゴン娘を見つけて、解くのがいいんだよ」
今度こそ、宰相は本気で絶句した。
封印されている竜。
それを見つける。
そして解く。
言葉にすると、性癖などというぬるい話ではない。
普通に危険人物の発想だった。
「……おぬしは」
宰相が低く言う。
「封印された竜を、わざわざ解いて回っているのか」
「語弊があるな」
ユキトは少し考えてから言った。
「結果的にはそうなったこともある」
「あるのか……」
宰相は思わず額を押さえたくなった。
横でヴォルカが顔を覆う。
フローラは羞恥と呆れの入り混じった顔でため息をつき、ネムリアは小さく呟く。
「……また言ってる」
宰相はこの瞬間、心の底から理解した。
竜の女を色気で篭絡した、などという話ではない。
そんな次元ではなかった。
もはや三竜の問題ではない。
危険の中心は、この男だ。
「……そうか」
結局、それだけで流すしかなかった。
これ以上は、知れば知るほど頭が痛くなる類の情報だと本能が告げていた。
「フィオラを優勝賞金で豪遊していたと聞いた」
「なぜそこへ行った」
「温泉という癒しが欲しかったから」
ユキトは当然のように答える。
宰相は一瞬、何も返せなかった。
本当にそれなのか。
嘘には見えない。
だが理解はできない。
「フィオラから、なぜ一度は避けたエルフィアへ行った」
今度の問いには、ユキトが露骨に顔をしかめた。
「必要だったから」
それだけだった。
そこに何か大きな事情があることだけは分かる。
だが今は掘れない。
無理に触れば、本筋が壊れる。
宰相はそこで切り替える。
「リリウムで、なぜ野に下るという選択を取った」
その問いだけは、空気が少し変わった。
ユキトは、今度はほんの少しだけ感情を出した。
「あれだけ俺の情報が外に出回ったんだ」
「もう今まで通りの生活ができないだろ」
短い。
だが、それで十分だった。
表に出ているのは不満だけだ。
その奥にある本音――飼い殺しへの拒絶までは言わない。
だが、嫌悪だけははっきり伝わる。
宰相はそこで、初めて本気で頭を下げた。
「それはすまなかった」
ヴォルカがわずかに目を見開く。
フローラも静かに宰相を見る。
「こちらに、君たちをそのように追い込む意図はない」
「ただ、行方が分からず、接触するためにそうするしかなかった」
そこに取り繕いはなかった。
本気の謝罪だった。
ユキトはしばらく何も言わなかった。
だが、少なくともその謝罪を鼻で笑って切り捨てはしなかった。
それだけで、宰相には十分だった。
ここまでの問答で、組み上がった人物像はこうだ。
戦闘力は本当に1。
だが三竜を束ねる。
慎重で、無駄な殺しを避ける。
嘘は平然とつく。
手の内は絶対に全部見せない。
名誉では動かない。
欲望はあるが方向が常識外れだ。
三人との関係は本物。
人の暮らしには未練がある。
だが自由を奪われることを、何より嫌う。
扱いは難しい。
だが、話は通る。
少なくとも、“アレ”よりましだ。
国家存亡の危機に対して、この男が使えるかどうか。
それを見極める土台は、ようやく整った。
しばらく沈黙が落ちた。
今度はユキトの方から口を開く。
「で」
短い一言だった。
「なんで呼ばれた?」
それは当然の問いだった。
ここまで、王国側は聞くだけ聞いた。
だが肝心の理由は、まだ一度も言っていない。
宰相はその問いを受けて、少しだけ息を吐いた。
「今回は、顔合わせ程度だと思ってほしい」
ユキトの眉がわずかに動く。
「今日ここで、こちらの都合だけで話を決めるつもりはない」
「まずは君たちの考えを聞かせてもらい、それを持ち帰って首脳陣と協議したい」
「その上で、改めて正式に話したい」
「今ここで全部話さねえのか」
「話せる段階まで整理が済んでいない」
宰相は正面から答えた。
「ただ、約束できることはある」
風が吹く。
「君たちを害する気はない」
「囲うつもりもない」
「少し時間がほしい。それから話す」
それは、かなり踏み込んだ誠意だった。
ユキトは黙って聞いている。
宰相は続けた。
「次はもっと話しやすい環境を用意したい」
「王都から離れた高級宿だ。名湯で有名な露天風呂もある」
その瞬間だった。
ネムリアの顔が、分かりやすく上がる。
「……ろてんぶろ」
ヴォルカもつい反応した。
「……名湯の、露天風呂ですか」
ユキトが横目で二人を見る。
早い。
反応が早すぎる。
宰相はそこを見逃さないが、あえて淡々と続けた。
「王都へ連れ込む気はない」
「場所も王都の外だ」
「気に入らなければ、その場で断っても構わない」
フローラが静かに口を開く。
「……王都の中ではなく、外」
「はい」
「こちらが納得できなければ、その場で話を切ってもよいのですね」
「その通りだ」
フローラは少しだけ視線を下げて考え、それからユキトを見る。
「少なくとも、王都内へ入るよりは安全です」
「今回の会談でも、宰相閣下はその場でこちらをどうこうする気はありませんでした」
ヴォルカが少しだけ視線を逸らす。
「……その、最近は温泉にも入れていませんでしたし」
ネムリアが即座に頷いた。
「……いきたい」
ユキトは露骨に渋い顔をした。
囲い込みの一種ではないか。
そう疑うのは当然だ。
だが、今回の宰相は少なくともその場で罠を張らなかった。
謝罪もした。
話を急いでまとめようともしていない。
それに、王都の中ではなく外。
断る余地まで明言した。
完全には信じない。
だが、今の条件なら“まだマシ”だ。
そして何より、横の二人が露骨に乗り気すぎる。
ネムリアに至っては、今にも「いく」と言い出しそうな顔をしている。
ユキトは長く息を吐いた。
「……見てから切るぞ」
それが、譲歩だった。
ネムリアがすぐに言う。
「……いく」
「まだ決まってねえ」
「……きまった」
「決めてねえ」
ヴォルカが少しだけ嬉しそうに、でも気まずそうに目を逸らす。
フローラはそのやり取りを見て、小さく笑った。
宰相はそこで、初めて少しだけ肩の力を抜いた。
「では、そのように手配します」
「場所と日取りは、これまで通りあの男を通します」
ユキトは短く頷く。
「分かった」
宰相は、そこで一度だけ言葉を切った。
「それと、もう一つ」
護衛の一人が前へ出て、今度は先ほどより小ぶりな袋を差し出す。
宰相はそれをユキトへ向けた。
「本来なら、こちらが先に事情を明かすべき場でした」
「にもかかわらず、今日は確認ばかりになった」
風が吹く。
「それでも会ってくださったこと、質問に答えてくださったことに礼を申し上げます」
「これは、その謝礼として受け取っていただきたい」
ユキトは袋を見たあと、すぐには手を出さなかった。
露骨に買収めいて見えるか。
それとも筋を通した礼と見るか。
その一瞬の間を、宰相は黙って待った。
フローラが静かに中身を見て、目を細める。
最初の四割ほどではない。
だが、それでも十分に重い。
「……ちゃんと、礼として分けてきたんですね」
その呟きに、宰相は短く頷いた。
「接触の報酬とは別です」
「今回は、こちらが聞く側に寄りすぎた」
「なら、礼も別であるべきでしょう」
ユキトはそこでようやく袋を受け取った。
「……筋は通すんだな」
「通さねば、次の話などできません」
宰相はそう答えた。
このやり取りで、ヴォルカの表情がほんの少しだけ和らぐ。
ネムリアも袋そのものより、空気の変化をぼんやり感じ取ったように瞬きをした。
ユキトは完全に信用したわけではない。
それでも、少なくともこの男は露骨に騙し討ちへ寄せる類ではない、と一段だけ判断を変えた。
話はそこで終わった。
ユキト達への依頼の中身は、まだ何も明かされていない。
だが次へ進む線だけは、ようやく引かれた。
少し離れた場所で待機していたローブの男は、会談が終わる気配を感じ取っていた。
会話の中身までは聞こえない。
だが空気は分かる。
殺気が膨らんでいない。
交渉が決裂した感じでもない。
むしろ――嫌な予感だが――続く気配がある。
最悪だ。
やがて護衛の一人が近づいてきて、短く言った。
「次回もお前が窓口だ」
ローブの男は、しばらく無言だった。
前なら嬉しかった。
王国案件の継続窓口。
高く評価されている証拠だ。
情報屋としては上出来だ。
だが今は、全然嬉しくない。
「……本気かい?」
「お前が最も適任だそうだ」
「他に誰かいないのか」
「ユキトという男と旅をした。説得もした。最初に情報を売り込んだのもお前だ」
兵士は淡々と並べる。
「気心を最も知っている」
知りたくて知ったわけじゃない。
そう言い返したかったが、やめた。
遠くで、ユキトたちが戻ってくる。
ネムリアは明らかに機嫌がいい。
ヴォルカもどこか期待を隠せていない。
フローラは静かだ。
ユキトだけが、いつものように面倒そうな顔をしている。
ローブの男は、その顔を見た瞬間、なぜか背筋が冷えた。
報酬は十分もらった。
輸送費も上乗せされた。
今回の仕事としては大成功のはずだ。
なのに、少しも勝った気がしない。
むしろ、ここから先の方が長いと分かってしまった。
兵士が横で言う。
「宿の手配も進めろ」
「王都から離れた高級宿だ。名湯の露天風呂で知られている。」
兵士は懐から折り畳まれた資料を出し、ローブの男へ渡した。
「候補地と経路、必要な手配はまとめてある」
ローブの男はそれを受け取って、天を仰ぎたくなった。
終わった。
もう終わりだ。
次も自分が呼ばれる。
その次も、たぶんそうだ。
前だったら嬉しかった評価が、今はただただ重い。
今は、自分が王国に飼い殺しにされる側へ回ったような気さえした。
ユキトが近づいてくる。
ローブの男は、反射的に少しだけ姿勢を正した。
ユキトはそれを見て、何も言わない。
ただ一瞬だけ視線を向けただけだった。
それなのに、ローブの男はまた少しだけ怯えた。
本当に嫌な男だ。
嫌な男なのに、王国は本気で対話する気でいる。
そしてたぶん、自分はそのパイプ役から逃げられない。
風がまた崖下から吹き上がる。
国家規模の面倒事の入口に、自分は立っている。
その事実だけが、妙に生々しく残った。




