39.きにいった
少しだけ沈黙が落ちた。
草が揺れる音だけが、間を埋める。
ローブの男は、軽く息を吐いた。
月明かりの下で向かい合う四人は、妙に静かだった。
さっきまでのやり取りで、少なくとも一つだけはっきりしている。
この場の主導権は、もう自分の手にはない。
正直、気分はよくない。
だが、ここで引けば報酬は消える。
だから男は、余計な含みを削って口を開いた。
「依頼主は王国だ」
ユキトは何も言わない。
男は続ける。
「君たちと接触したがっている。かなり急いでいるのも本当だ」
「ただし、理由の中身までは僕も知らない」
そこで、わずかに肩をすくめた。
「正確には、知らされていない、かな」
「僕に渡されているのは、接触の依頼と報酬の条件だけだ。それ以上は外に出す気がないらしい」
フローラが静かに問う。
「表立っては動けない、ということですか」
「そういうことだろうね」
男は答えた。
「堂々と呼びつける気はない。だから僕みたいなのを噛ませている」
ユキトがそこで初めて口を挟んだ。
「王城に来い、みたいな話じゃないのか」
「少なくとも、今の時点では違う」
それを聞いた瞬間、ユキトの中で何かが固まる。
王国は会いたがっている。
だが、大手を振っては動けない。
なら、最初からこっちが下手に出る理由はない。
ヴォルカが警戒を崩さないまま言う。
「……理由も分からないまま、私たちに会わせようとしていたんですか」
「そういう仕事だからね」
男は苦く笑った。
「もっとも、ここまで嫌がられるとは思ってなかったけど」
「嫌がってるんじゃねえよ」
ユキトが言う。
「信用してねえだけだ」
その言い方があまりに即物的で、男はほんの少しだけ笑みを消した。
そうだ。
こいつはこういう男だった。
好奇心で動かない。
正しさでも動かない。
相手の事情に同情して乗るような甘さもない。
聞いた上で、必要なら使う。
いらないなら切る。
その乾ききった判断が、妙に厄介だった。
ユキトは少しだけ首を鳴らして、それから言った。
「で、王国は俺たちに何を出す気だ」
「報酬は出すらしい」
「その雑さで来るな」
「まだ僕に渡されてるのはそこまでだよ。まず接触の返事が必要だった」
ユキトはそこで、もう一度だけ短く息を吐いた。
それから、あっさり言った。
「じゃあ段取りは全部お前な」
ローブの男は一瞬、意味を取り損ねた。
「……は?」
「聞こえただろ」
ユキトは冷めた声のまま続ける。
「王国との連絡、日程調整、移動の手配、宿、飯。全部だ」
「いや、それはある程度は――」
「ある程度じゃねえ。全部だ」
ぴしゃりと切る。
「こっちは今からどっかの街に入って、のんびり連絡待ちなんてできねえ」
「顔が割れてる。徒歩移動は無理だ。馬車を出せ」
男の眉がわずかに動いた。
そこに、妙な気配があった。
虚勢でも見栄でもない。
本当に、隠す気がない声だった。
ユキトは続ける。
「飯も宿も必要だ」
「こっちはもう金がねえ」
ローブの男の目が細くなる。
それを見越していたように、ユキトは懐から革の小袋を取り出し、ぽんと投げた。
男は受け取る。
軽い。
中を覗くと、硬貨が数枚だけ底に転がっていた。
どれも小さな銅貨ばかりだ。
宿どころか、まともな食事にも足りない。
「……これだけ?」
ユキトは悪びれもせずに言った。
「祭りで全部使った」
ヴォルカが思わずユキトを見る。
フローラは表情を変えない。
ネムリアも何も言わない。
人としての生活を終わらせるために、最後まできっちり使い切った。
それは四人とも、もう分かっている。
だからそこに確認はいらなかった。
その代わり、ローブの男の内側で、何かが噛み合った。
ああ。
そういうことか。
こいつらは、交渉に応じなければ困る側じゃない。
金がないことすら隠さないのは、開き直っているからじゃない。
そのまま野に降りる気だったんだ。
街を捨てる。
人の社会から外れる。
最初から、そのつもりで動いていた。
だから王国の誘いは、こいつらにとって救いでも何でもない。
ただの横槍だ。
この事実を依頼主に伝えれば、向こうはさらに折れる。
そう直感した。
ユキトは、そんな男の内心など知ったことではないという顔で続けた。
「馬車を出せ。目立たないやつな」
「宿も最低限でいいが、足はつきにくい方がいい」
「食いもんは削るな。五人分だ」
ネムリアが小さく手を挙げた。
「……わたしのぶん」
「知ってる」
それからユキトは、もう一つだけは最初から一切譲らない声音で言った。
「あと場所だ」
ローブの男が目を上げる。
「会う場所のすり合わせだけは、最初からこっちが切る」
「そこは譲らねえ」
「王国側にも都合はあるだろうけど?」
「知るか」
即答だった。
「囲める場所に呼ばれて行く気はねえ」
「街中も嫌だ。人の多い場所も嫌だ。逃げ道のない場所は論外だ」
「場所の話は全部お前を通せ。王国と直接やる気はねえ」
その言葉には、今までよりはっきりした棘があった。
会談自体は利用する。
だが、そのために首輪を嵌められる未来だけは最初から潰す。
そういう意志だった。
ローブの男はしばらく黙っていた。
面倒が増えた。
本当に増えた。
正直、ここで蹴りたい。
だが、それでも報酬はほしい。
しかもこの条件を持ち帰れば、依頼主はたぶん飲む。
飲まざるをえない。
そう思えてしまう程度には、今の四人の立ち位置ははっきりしていた。
だから男は、いつもの笑みをどうにか顔に戻して言った。
「……注文の多い客だ」
「客じゃねえよ」
ユキトは即答した。
「使い走りだろ、お前」
ヴォルカがわずかに息を呑む。
ネムリアが「……ひどい」とぼそりと呟く。
フローラだけが、止める気配もなく静かに立っていた。
ローブの男は数秒だけ黙り、それから肩をすくめた。
「いいよ。そこまで言うならやってやる」
「最初からそう言え」
「その代わり、費用は全部あっちに回す」
「勝手にしろ」
そこでようやく、この場の最初の段取りだけは決まった。
男は今夜のうちに一度離れ、依頼主へ秘密の手紙を飛ばすことになる。
四人はこの近辺で一晩だけ隠れ、翌日以降の動きを待つ。
話がまとまると、緊張が解けたわけでもないのに、空気だけが少し変わった。
ローブの男は最後に一度だけ四人を見た。
黒竜。
聖竜。
眠たげな少女。
そして、その先頭に立つ戦闘力のなさそうな男。
どう見ても釣り合わない。
なのに、この場で一番厄介なのは間違いなく先頭の男だった。
「……じゃあ、また明日」
「遅いと苦情いれるぞ」
「善処するよ」
男はそう言って背を向けた。
草を踏む音が遠ざかる。
その背中が見えなくなってから、ヴォルカがようやく小さく言った。
「……本当に、全部やらせるんですか」
「やらせる」
「でも」
「向こうの都合だろ」
それで終わりだった。
フローラが静かに言う。
「こちらが便宜を図る必要はありません」
ヴォルカは少しだけ困った顔をした。
「フローラさんまで……」
「会談のために、こちらが不利を背負う理由もないでしょう」
ネムリアがぽつりと呟く。
「……ごはん、でるなら、いい」
ユキトが鼻で笑った。
「お前はぶれねえな」
「……ぶれない」
その夜は、街道から外れた木立の中で短く休んだ。
誰も深くは眠らなかった。
だが、少なくとも方針だけは決まった。
人の社会から外れて消えるつもりだった四人は、そこから一度だけ進路を変える。
ただし、それは王国に従うためではない。
会ってやるためだ。
その上で、必要なら切る。
そういう夜だった。
翌日、ローブの男は戻ってきた。
戻ってきたというより、顔にうっすら疲労を張りつかせたまま現れた。
朝の光の中で見ても、分かる程度に目の下が重い。
夜通し動いたのだろう。
ユキトはそれを見ても特に労う気配なく言った。
「馬車は」
「ある」
「飯は」
「持ってきた」
「宿は」
「今夜の分は押さえた」
「遅い」
「十分早いと思うけどね」
男は笑ったが、目が笑っていなかった。
「それで、依頼主は?」
「手紙は出した」
ユキトは黙る。
ローブの男は続けた。
「条件はそのまま書いた。君たちは金がなく、このまま野に降りる覚悟だったこともな」
そこで少しだけ口元を歪める。
「だから、どうせ飲むと思って先に準備した」
「馬車も、宿も、食い物も」
「返事待ちで突っ立ってるほど悠長な案件じゃないし、君たちが待つとも思えなかったからね」
ユキトは短く鼻を鳴らした。
「まあ、正解だな」
「嬉しくない正解だけど」
「場所の話は」
「それも僕が通す」
男は言った。
「王国側の希望は僕が持ってくる。君たちの条件も、僕が返す。直接は繋がない」
「それでいい」
「最初からそのつもりだよ。君、そこだけは本当に譲る気ないだろ」
「ない」
即答だった。
そのまま四人は馬車へ乗り込んだ。
用意された馬車は、豪華さのない地味なものだった。
旅商人が使うような型で、目立ちすぎず、かといってあまりにぼろいわけでもない。
ユキトは一目見てから、車輪と幌と馬の具合だけ確認した。
「まあいい」
「上から目線だなあ」
「下に出る理由がねえ」
その返しに、ローブの男は本気で何も言えなかった。
一方で、馬車を見たネムリアの反応は分かりやすかった。
「……おお」
本当に小さな声だった。
だが、その一言だけで十分だった。
眠たげな目が、ほんの少しだけ開いている。
「……のるの?」
「乗るんだよ」
「……ほんとに」
「ほんとにだ」
ネムリアは無言のまま馬車へ近づいて、そっと側面に触れた。
木の感触を確かめるみたいに指先を滑らせてから、幌を見上げる。
「……うごく、へや」
「雑な理解だな」
「……でも、うごく」
その声は、いつもより少しだけ浮いていた。
ヴォルカもまた、馬車を前にして落ち着かない様子だった。
「……こんなふうになっているんですね」
「近くで見ると……思っていたより大きいです」
「まあ、そうだな」
ユキトは答えながらも、周囲から意識を外さない。
ヴォルカは馬の方を見て、それから車輪を見て、もう一度馬車全体を見る。
「乗ったこと、ないです」
「知ってる」
「えっと……ちょっと、楽しみです」
その言い方が妙に素直で、ローブの男は一瞬だけ目を瞬かせた。
ネムリアがすでに荷台の縁へ手をかけている。
「……はやく」
「お前さっきまで眠そうだっただろ」
「……いまも、ねむい」
「そうかよ」
「……でも、のる」
ヴォルカも少しだけ顔をほころばせる。
「ネムリアさん、そんなに気に入ったんですね」
「……きにいった」
「まだ動いてすらないぞ」
ユキトがそう言っても、二人の空気はどこか柔らかかった。
祭りのあと、街を捨てる話をして、ここまで来た。
本来なら沈みきっていてもおかしくない場面だ。
それでも、初めての馬車というだけで、少しだけ気分が動く。
長い時を生きていても、知らないものを前にした時の反応まで鈍くなるわけではないらしい。
対照的に、ユキトだけは少しも浮かれていなかった。
乗り込む前にも一度、周囲を見る。
道幅。
見通し。
近くの林。
馬車を止められそうな場所。
伏せられる位置。
視線がずっと忙しい。
ローブの男はそれを見ながら、心の中でうんざりした。
せっかく馬車を用意した。
せっかく地味な型を選んだ。
せっかく朝一で持ってきた。
なのにこいつは、旅の快適さより先に「どこで詰むか」を見ている。
間違ってはいない。
間違ってはいないが、面倒くさい。
馬車が動き出すと、ネムリアは目に見えて機嫌がよくなった。
揺れに合わせて、ぼんやりと窓の外を見る。
幌の内側に手を伸ばしてみたり、座面を軽く押してみたり、妙に忙しい。
「……うごいてる」
「だからそうだって」
「……すごい」
「そんなにか」
ヴォルカも揺れに少し驚きながら、窓の外を見ていた。
「思ったより静かなんですね」
「もっと揺れるかと思ってました」
「道がまだマシなんだよ」
ユキトは短く答える。
その間も視線は外へ向いていた。
「ユキトさんは、乗ったことあるんですか」
「向こうでならな」
「そうなんですね」
ヴォルカは感心したように小さく頷いた。
それから少しして、馬車が速度を上げた瞬間、彼女はほんの少しだけ身体を強張らせたが、すぐにその変化にも慣れていく。
「……あ、でも」
「ん?」
「ちょっと、楽しいです」
その言葉に、ネムリアがこくりと頷いた。
「……たのしい」
ユキトは二人の方を見て、ほんの一瞬だけ口元を緩めかけた。
だが次の瞬間にはもう、外へ視線を戻していた。
ローブの男はその横顔を見て思う。
快適な旅路だ。
少なくとも、普通の基準なら。
馬車がある。
食事もある。
宿もある。
徒歩で野宿しながら進むより、遥かに楽だ。
なのに、その快適さを一番使っていないのが先頭の男だった。
周囲を見て、音を拾って、止まる場所を気にして、通る道を気にして。
休む前から次の退路を考えている。
こっちはこっちで、そんな男に振り回されながら全部手配しているのだからたまったものではない。
快適な旅のはずなのに、苦痛なのは自分だけのように感じられた。
その日の昼、街道脇で短く休んだ時も似たようなものだった。
ネムリアは馬車から降りるなり、幌を見上げて言う。
「……これ、いい」
「まだ言ってるのか」
「……いい」
ヴォルカも苦笑しながら、馬に少しだけ視線を向けた。
「歩くより、かなり楽ですね」
「まあな」
「人が使う理由が分かる気がします」
「今さらかよ」
「だって、こういうのに乗る機会って、今までなかったので……」
言いながら少しだけ照れたように笑う。
ネムリアはその横で、馬車の車輪を見ていた。
「……これで、ずっといける?」
ローブの男が即座に答える。
「無理だよ」
「どうして」
「金がかかるから」
ネムリアはそこで静かにユキトを見る。
ユキトはため息混じりに言った。
「ずっとは無理だろ」
「……だめ?」
「だめだ。さすがに一生こいつに払わせるわけにはいかねえ」
ローブの男は少しだけ安堵したような顔をした。
だが、ユキトはすぐに続ける。
「ただし、交渉が終わるまでは別だ」
「……別?」
「王国が会いたいって言ってんだろ。なら会う場所までの足は向こう持ちだ」
ローブの男の顔から、安堵が消えた。
「君ね」
「宿も飯も同じだ。交渉が終わるまではそっちの都合だろ」
「……本当に遠慮がないな」
「遠慮してほしいなら、こっちを探すな」
ネムリアがこくりと頷いた。
「……じゃあ、まだのれる」
「会談まではな」
「……うれしい」
「知ってる」
ローブの男は思わず口を挟んだ。
「そこは君が先に止めてくれないかな?」
「止めただろ。一生は無理だって」
「範囲の切り方が悪質なんだよ」
ヴォルカが少しだけ笑いをこらえる。
フローラも視線だけ柔らかくした。
そしてその空気の中でも、ユキトだけは休憩場所の周囲を見ていた。
草の倒れ方。
林の奥の暗さ。
道の曲がり方。
馬車を出す向き。
快適な旅路の中で、一人だけずっと緊張している。
その対比は、ローブの男から見てもひどくはっきりしていた。
馬車があることに素直に浮かれる二人。
淡々と受け入れつつ全体を見ているフローラ。
そして、その全部を楽しむ余裕もなく警戒だけを切らないユキト。
本当に、こいつらは妙な一行だ。
その後も旅は続いた。
昼に着ける街でも、状況次第でわざと一つ手前で止まる。
宿に入る前には必ず周囲を見る。
裏手の抜け道と、人目の多さと、馬車をすぐ出せる位置を確認する。
一度など、ローブの男が押さえた宿を見て、ユキトが入口の前で言った。
「だめだな、ここ」
「何が」
「正面広すぎる。見張られやすい」
「裏口もある」
「裏に回るまでが長え」
「……君、本当に面倒だね」
「捕まるよりマシだろ」
その一言で、全部終わる。
ヴォルカは何度か「そこまでしなくても」と言いかけた。
だが王国の名が出るたび、結局は口を閉じた。
フローラは最初から止めない。
「警戒を削る局面ではありません」
その一言で済ませることもあれば、もっと淡々と補足することもある。
「囲める地形を避けるのは自然です」
「連れ込める場所で会えば、交渉ではなく拘束になります」
「こちらが安全を確保するのは当然でしょう」
ローブの男は、そのたびに「君までそれを言うのか」と思ったが、言い返せるだけの理屈がない。
ネムリアはだいたい静かだった。
だが、食事が絡む時だけは別だった。
夕方、食卓に並んだ量を見て、眠たげな目のまま言う。
「……すくない」
「十分あるだろ」
「……ない」
「いや、ある」
「……ユキト」
「おい」
その一言で、なぜかユキトが当然のように口を挟む。
「増やせるか」
ローブの男は額を押さえたくなった。
「君たち、僕を何だと思ってるんだい」
「べんりなやつ」
ネムリアが先に言った。
数秒、完全に間が止まった。
フローラが視線を逸らす。
ヴォルカが「ネムリアさん……」と小さく止める。
ユキトは肩をすくめるだけだった。
結局、その夜の食事は少し増えた。
数日が過ぎ、一週間が過ぎた。
その間、ローブの男は移動の手配、宿、食事、進路の調整、そして依頼主への報告まで、全部を押しつけられていた。
夜、一人で帳面を見ながら、男はようやく口に出した。
「……この分も全部上乗せだな」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
最初は面白い案件だと思っていた。
今も、面白くないわけではない。
だが面白さと面倒さは別だ。
そして今は間違いなく、面倒さの方が勝っている。
笑いながら人を使う情報屋は多い。
自分もその一人だ。
だが使う側だったはずの自分が、いつの間にか完全に使われている。
それが妙に腹立たしかった。
しかも、あの男は礼を言わない。
感謝もしない。
当たり前みたいな顔で負担を増やす。
なのに、全部理屈が通っている。
顔が割れている。
金がない。
街に入るリスクがある。
相手が会いたがっている。
こちらが安全を確保するのは当然。
どれも正しい。
だからこそ腹が立つ。
男は帳面を閉じた。
「王国、お前らの依頼だろ。なら払え」
嫌な笑みが、ようやく少しだけ戻った。
損をしたなら、別の相手から回収する。
それだけの話だ。
王都に近づくにつれて、ユキトの警戒はさらに露骨になった。
それを一番はっきり見ていたのはフローラだった。
彼は、会談へ向かっているようでいて、少しも会談そのものを信じていない。
信じていないからこそ動いている。
宿を決める。
だが、まず退路を見る。
馬車を止める。
だが、すぐ出せる向きに直させる。
休む。
だが、見通しの悪い場所では休まない。
ローブの男にすら、次の進路を最後までは言わないことがあった。
わざと一度別の道へ折れ、そのあと元に戻ることもある。
嫌がらせに見えなくもない。
実際、半分はそういう意地もあるのだろう。
だが本質は別だ。
この人は、会談に行こうとしているのではない。
会談が何に変わっても、生きて帰るために進んでいる。
フローラはそれを理解していた。
理解していたから、止める気になれなかった。
ある日、夕暮れの川辺で短く休んでいた時、ヴォルカがぽつりと言った。
「……ここまでしなくても、話くらいはできるかもしれません」
ユキトは石を一つ拾って川へ投げた。
「かも、で捕まるのは嫌だ」
「それは……そうですけど」
「向こうが本当に話したいなら、こっちの条件くらい飲める」
「飲めないなら、その程度ってことだ」
ヴォルカは返せなかった。
フローラが静かに言う。
「交渉の席は、相手の善意で守られるものではありません」
「こちらで守るべきです」
ヴォルカは少しだけ困った顔をしたが、最終的には小さく頷いた。
「……はい」
ネムリアは川辺の石に座ったまま言う。
「……おふろ、ないの、やだ」
空気が一瞬だけ抜けた。
ユキトが振り返る。
「だから会談終わったら考えるって言ってんだろ」
「……おふろ、ほしい」
「知るか」
「……ほしい」
フローラが少しだけ笑った。
ヴォルカもつられて口元を緩める。
そういう時間があるからこそ、逆に分かる。
このまま野に降りる覚悟は本物だ。
だが、本音では誰も望んでいない。
街の暮らしを捨てるのは惜しい。
湯も、食事も、祭りも、灯りも、全部惜しい。
それでも捨てるつもりでいた。
だからこそ、今の会談は王国側の“救い”ではない。
こちらが、一度だけ利用する横道だ。
会談場所の最終指定は、王都まであと数日というところで決まった。
最初、相手方は王都近郊を望んでいたらしい。
少しでも管理しやすい場所。
少しでも移動の少ない場所。
せめて王都の勢力圏に近いところ。
だがそれは全部、ユキトが切った。
「人が多い場所では会わねえ」
「囲める地形も嫌だ」
「逃げ道のない場所は論外だ」
ローブの男が、その条件を持ち帰って、また戻る。
その往復が二度続いたあと、ようやく相手方も完全に折れた。
最終的に、ユキトが指定したのは山奥の崖付近だった。
王都から離れている。
人目が少ない。
見通しが利く。
伏兵を置きにくい。
先に現地入りすれば、罠も張られにくい。
最悪、誰かが竜形態になればそのまま離脱できる。
そこまで聞いた時、ローブの男は呆れ半分で言った。
「本当に最後まで信用する気がないんだね」
ユキトは平然と返した。
「信用してるなら、こんな場所は選ばねえよ」
それが全てだった。
当日、ユキトたちは先に現地へ入った。
崖地は、思っていた通り乾いた風が強かった。
木々はまばらで、隠れられる場所が少ない。
足場は少し悪いが、その分だけ大人数の接近は目立つ。
崖の縁近くまで行けば、下から吹き上げる風が衣服を揺らす。
見通しはいい。
誰がどこから来るか、かなり早い段階で分かる。
ユキトは現地に着いてから、しばらく何も言わず周囲を見ていた。
地面の荒れ方。
岩の位置。
馬車を下げる場所。
引くならどちらか。
誰をどこに立たせるか。
ヴォルカは自然と少し前に出られる位置へ。
フローラは全体を見渡せる位置へ。
ネムリアは一見すると崖から少し離れた石に腰を下ろしていたが、あれで十分に周囲を見ている。
ローブの男は馬車のそばで、どこか落ち着かない顔をしていた。
「ここまでやるか……」
「まだマシな方だ」
ユキトが短く返す。
「君、毎回それ言うね」
「毎回そうだからな」
ローブの男はそこで、ほんの少しだけ黙った。
その慎重さが、そのまま自分の売った情報に価値を持たせている。
改めてそれを痛感する。
そりゃあこいつの情報、世にまともに出回らないわけだ。
捕まらない。
定住しない。
足跡を残さない。
会う時ですら、ここまで地形を選ぶ。
嫌な相手だ。
使い走りをさせられているのも腹立たしい。
だが、情報屋としては少し感心せざるをえなかった。
待つ時間は長く感じられた。
誰も無駄口を叩かない。
ヴォルカは珍しく、何も言わずに風の流れを見ている。
フローラもまた、遠くの気配を探るように静かだった。
ネムリアだけは相変わらず眠たげだったが、寝てはいない。
やがて、フローラが小さく言った。
「来ます」
ユキトもすでに見ていた。
遠く、山道の向こうに人影が現れる。
数は多くない。
だが少なすぎもしない。
先頭に一人。
その後ろに数人。
近づくにつれ、それがはっきりしてくる。
先頭の男は壮年だった。
派手な衣装ではないが、仕立ての良さは隠せない。
歩き方にも、周囲に守られることへ慣れた気配がある。
そして、その後ろに続く護衛たちは、人数こそ絞られているものの、どう見ても場慣れした精鋭だった。
大軍ではない。
だが、最低限でもない。
王国側なりに削って、それでもなお連れて来ざるをえなかった人数。
そんな半端さだった。
ユキトはその並びを一目で数える。
数。
武装。
間合い。
前に出る気配。
伏兵の有無。
今のところ、露骨な隠しは見えない。
それだけで信用はしないが、少なくとも話す気まではあるらしい。
ローブの男が小さく息を吐いた。
「来たね」
「見りゃ分かる」
「もう少し可愛げがあってもいいと思うけど」
「今さらだろ」
やがて向こうもこちらを視認し、一定の距離で止まった。
風が、崖下から強く吹き上がる。
その風の中で、先頭の男が一歩だけ前へ出る。
護衛はそれ以上詰めない。
詰めないが、いつでも動ける位置にはいる。
王国側もまた、この場を完全には信じていない。
それがそのまま距離に出ていた。
ユキトは一歩も引かなかった。
崖の風に上着の裾が揺れる。
腕には、すでにガントレット盾を装着している。
構えてはいないが、いつでも前に出せる位置にあった。
表情は静かだった。
呼ばれた男の顔ではない。
会ってやる側の顔だった。
先頭の壮年の男は、その空気を真正面から受け止めるように一度だけ目を細めた。
それから、低く落ち着いた声で名乗る。
「王国宰相、ガレス・オルディアだ」
そこで、場の空気がようやく一つの形になった。
会談は、まだ始まっていない。
だが土俵だけは、もう完全にでき上がっていた。




