38.そういうのが一番だるい
花の神殿を離れたあとは、誰もすぐには喋らなかった。
さっきまで遠くで聞こえていた花火の音も、歩くうちに少しずつ離れていく。
祭りの喧騒はまだ街の向こうに残っているはずなのに、四人の周囲だけ、先に夜の静けさへ沈んでいた。
白い石の道が土へ変わる。
花の香りが薄れていく。
靴の裏で小石が鳴る。
現実が、また肩に戻ってきていた。
ユキトは前を歩きながら、頭の中でさっきから同じことを繰り返していた。
賞金はもうない。
闘技大会で得た金。
そこから旅費を引いて、宿代を払い、日用品を揃えて、冬を越して、あちこち移動して。
最後に今日、惜しまず使った。
もう尽きた。
じわじわ減っていく残金を見ないふりしていたわけじゃない。
むしろ見ていたからこそ、今日で終わりにした。
人として生きるために持っていた金は、今日で使い切ったのだ。
しばらく歩いてから、ユキトが口を開いた。
「……もう、今まで通りは無理だな」
声は低かったが、妙に乾いていた。
ヴォルカが顔を上げる。
フローラも静かに視線を向ける。
ネムリアは眠たげなまま歩いていたが、聞いていないわけではない。
ユキトは続ける。
「今すぐ捕まるとか、そういう感じじゃねえ」
「でも王国にバレた以上、もう今までみたいに街入って、適当に稼いで、宿取って、何となく人の中でやってくのは無理だ」
少しだけ間を置く。
「しばらく、人の社会から外れる」
ヴォルカの肩がわずかに揺れる。
「外れる……」
「そう、生活を変える」
ユキトはあっさり言った。
「人の街の外で生きる方に移す」
フローラが静かに頷く。
「妥当ですね」
その一言には、慰めはなかった。
だが冷たさもなかった。
ただ現実を、現実として置いているだけだった。
「所持金も、もう底を尽きましたし」
ユキトは鼻で笑う。
「はっきり言うな」
「事実ですので」
「分かってる」
分かっている。
だからこそ今日、全部使った。
金が残っているうちにまだどうにかできると思っていたなら、たぶん祭りであんな使い方はしなかった。
あれは区切りだ。
人として生きる時間に引いた、最後の線だった。
ネムリアがぼそりと呟く。
「……お金、ないの」
「ない」
「……そっか」
それだけ言って、また少し黙る。
沈黙は重かったが、前のように壊れた沈黙ではなかった。
同じ現実を見た上で落ちる静けさだった。
ユキトは頭を掻いた。
「別に、今すぐ世界の果てに消えるとかじゃねえよ」
「街の中で暮らすのが無理ってだけだ」
「しばらく外れる。そんだけだ」
ヴォルカは俯いたままだった。
未練がないわけではない。
それはもう、祭りの中で一度ちゃんと表に出てしまっていた。
だから今さら誤魔化せない。
けれど、それを今ここでどう言葉にしていいのか、まだ分からない。
そんな空気だった。
しばらくして、ヴォルカがようやく口を開いた。
「……私は」
声は小さかった。
「街で暮らして、ちゃんと食べて、眠って」
言いながら、自分でも言葉を探しているのが分かる。
「今日みたいにみんなで遊べるのが……幸せでした」
夜道に、その一言だけが静かに落ちた。
ユキトは振り返らない。
けれど、その声はちゃんと届いていた。
フローラが小さく頷く。
「ええ。私も同じです」
ヴォルカがゆっくり顔を上げる。
フローラは少しだけ遠くを見るように続けた。
「この一年は、一年とは思えないほど濃密でした」
「騒がしくて、予想外ばかりで、退屈する暇もありませんでした」
「正直に言えば……失うのは惜しいです」
そこに気取ったところはなかった。
理性的に認めているだけなのに、その分だけ重かった。
ネムリアもぼそりと続ける。
「……フィオラ、よかった」
「風呂、いっぱいあった」
「みんなで、歩いた」
少しだけ考えるように間を置いてから、さらに言う。
「……よかった」
短い。
でも、それで十分だった。
ユキトの胸の奥に、妙な痛みが落ちる。
自分だけじゃなかった。
三人とも、この一年をちゃんと好きになっていた。
その事実は少し救いで、同時にひどく重かった。
フローラがそこで静かに言葉を継ぐ。
「ですが」
その一言で、空気が少しだけ戻る。
「惜しいことと、残れることは別です」
「この一年が楽しかったことと、今ここに留まれることは同じではありません」
ヴォルカは唇を引き結び、それから小さく頷いた。
「……はい」
声はかすかに震えていた。
それでも、逃げなかった。
その直後だった。
ネムリアが、眠たげなまま言う。
「……いく」
三人の視線がそちらへ向く。
ネムリアは続けた。
「ユキトと、いく」
それだけだった。
けれど、その短い言葉は夜道に妙にはっきり残った。
仕方ないからではない。
条件の話でもない。
街に残れないから同行する、でもない。
ただ、自分の意思でついていくと、そう言ったのだ。
ユキトは一瞬だけ言葉に詰まった。
胸の奥で、何か固かったものがほんの少しだけ緩む。
「……そうかよ」
出てきたのは、それだけだった。
でも、その短い返事の中に、思っていたより深い安堵が混じっていた。
フローラはその反応を見て、小さく息を吐いた。
ヴォルカも、少しだけ目を細める。
その上で、現実は現実として残る。
ユキトはまた前を向いたまま、ゆっくりと考えを繋げた。
三人と本気で向き合うと決めた時から、いつかこういう日が来るかもしれないとは思っていた。
ヴォルカも、フローラも、ネムリアも。
どう考えても、人の社会に永遠に隠して置けるような存在じゃない。
ずっとごまかし続けられるとは思っていなかった。
それでも、何となく先送りにしながらここまで来た。
旅の途中で、いざという時に潜れそうな場所はいくつか見ていた。
地図でも目星はつけていた。
人里から遠い。
水がある。
見張りやすい。
最低限、生きてはいける。
でも、それは決して“暮らしやすい場所”じゃない。
寝床は粗い。
雨風はしのげても、宿の寝台みたいにはいかない。
食事は安定しない。
風呂なんて当然ない。
寒さも、湿気も、虫も、全部そのままだ。
街の灯りも、屋台も、ありふれた日常もそこにはない。
野に降りるのは、普通に嫌だった。
便利な日常を失うのは嫌だ。
人としての暮らしを手放すのは嫌だ。
それでも。
このまま捕まって、三人ごと自由を奪われる方がもっと嫌だった。
だから、行くしかない。
一年隠し通せたなら、よくやった方だ。
ここらで潮時だな、と。
「まあ、候補はいくつかある」
少しだけ明るく言ったのは、三人を沈ませすぎたくなかったからだ。
ヴォルカが小さく聞き返す。
「候補、ですか」
「前から見てたからな」
「人里から遠くて、水があって、見張りやすいとこ」
「完全に安全じゃねえけど、街の中で監視されながら暮らすよりはマシだ」
肩をすくめる。
「最悪、雨風しのげりゃ何とかなる」
「だいぶ雑ですね……」
ヴォルカが呆れたように言う。
でも、さっきより少しだけ声が柔らかい。
「雑なくらいでちょうどいいんだよ」
「気にしすぎると気が滅入る」
フローラは何も挟まずに聞いていた。
明るくしようとしているのを分かっている顔だったが、あえて崩しはしない。
「快適さは捨てろ」
ユキトは続ける。
「寝床は悪いし、飯は工夫が要るし、しばらく風呂もねえ」
ネムリアが、わずかに眉を寄せる。
「……おふろ、ないの」
「ない」
「……むぅ」
「文句言うな」
「言う……」
ヴォルカが小さく笑った。
本当に小さく。
でも、そこで笑えたこと自体が、少し救いだった。
そんなふうに、ほんの少しだけ空気が緩みながら夜道を進む。
神殿を離れ、山へ向かう道は、思ったよりも開けていた。
白い石畳が途切れた先。
そこから先は、背の低い草が一面に広がる、ゆるやかな登りの一本道だった。
左右に木立はある。
けれど街道そのものは隠れる場所が少なく、月明かりの下では人影が妙によく見えた。
風が吹くたび、草が波みたいに揺れる。
祭りの喧騒も、花火の残響も、もうここまではほとんど届かない。
神殿の気配も、街の灯りも、少しずつ背後へ遠ざかっていた。
ユキトは先頭を歩いていた。
右手に荷物。
左手は、いつでも盾に触れられる位置。
背中には、祭りの中よりずっと強い警戒が戻っている。
その少し後ろを、ヴォルカ、フローラ、ネムリアが続いていた。
そして、ゆるやかな坂の先に――人影があった。
月明かりの下。
草原の一本道の真ん中。
隠れもせず、逃げもせず、ただ立っている。
ローブの男だった。
ユキトの足が、ほんのわずかに止まる。
後ろの三人も、それに合わせて歩を緩めた。
向こうもこちらを見ていた。
まるで先に気づいていたように見えるのに、その目だけはわずかに見開かれている。
数拍の無言が落ちた。
ローブの男は、本当に驚いていた。
神殿の調査に来ただけだった。
候補地を一つ見て、何もなければそのまま引くつもりだった。
それなのに。
月明かりの下、真正面から現れたのは、
想定よりもずっと厄介で、ずっと面白い四人組だった。
「……これはまた」
最初に口を開いたのは向こうだった。
いつもの軽い調子を作ってはいる。
だが、その声の奥に混じる本物の驚きまでは隠しきれていない。
「会えたら幸運、くらいには思っていたけど」
「本当に会えるとはね」
ユキトは何も返さない。
そのまま歩き出す。
止まったのは一瞬だけだった。
何事もなかったように、前へ出る。
ヴォルカたちも無言で続いた。
ローブの男は、その場をどかずに話しかける。
「花の神殿を少し見に来ていてね」
「聖竜封印地点の候補はいくつか当たっているんだ」
視線が、わずかにフローラへ向く。
「聖竜は災厄そのものとは少し違う」
「壊すより、救う側に回ることもある」
「君みたいなのは、特にね」
ヴォルカの肩が小さく強張る。
ネムリアは眠たげな目のまま男を見ている。
フローラは表情を一切動かさなかった。
男は続ける。
「……この先の神殿の主は、君かな?」
返事はない。
ユキトは歩く。
一定の歩幅。
止まらない。
振り向きもしない。
ローブの男は、その無反応にわずかに目を細める。
少しは何か返ると思っていた。
視線でも、呼吸でも、ほんの小さな揺れでもいい。
だが四人とも静かすぎた。
その中でも、先頭の男だけは別種だった。
聞いていないのではない。
全部聞いている。
聞いた上で、反応だけを渡してこない。
その感触を、ローブの男はここでようやく思い出し始める。
ああ、そうだ。
こいつは、こういう男だった。
少し煽れば転ぶような手合いではない。
気になる情報を匂わせれば、勝手に寄ってくる類でもない。
聞いていないふりをして、全部聞いた上で切る。
それを思い出した時にはもう、四人との距離はかなり詰まっていた。
草原の一本道の真ん中で向かい合う形のまま、じわじわと間合いだけが狭まっていく。
ローブの男は気を取り直す。
探りに乗らないなら、次の札を切るしかない。
「王国が君たちを探している」
今度は少しだけ声を落とした。
それでもユキトの歩幅は変わらない。
「一ヶ月前に手配が回り始めた」
「だが、驚くほど情報が上がらなかった」
「フィオラまでは追えていたんだがね」
無言。
一定の歩幅。
「雷竜の件の場所からフィオラへ向かうなら、普通はエルフィアを抜ける方が近い」
「ところが君たちは、わざわざそちらを避けた」
「なら王国側が、“以後もエルフィアは避ける”と読むのも無理はない」
「そのせいで、フィオラを出たあとにそちらへ流れた可能性を見落とした」
「追跡が切れたわけだ」
まだ、止まらない。
ローブの男は続ける。
「もっとも、僕は逆にそちらにいるかもしれないと踏んだ」
「一度あからさまに避けたなら、その次はかえって盲点になる」
「それに、ちょうど封印地点候補も見て回っていたところでね」
「だからこの辺りを洗っていた」
「……とはいえ、本当に会えるとは思っていなかった」
薄く笑う。
「半分は勘だよ」
それでも、まだ何も返ってこない。
聖竜。
神殿。
フローラ。
王国の追跡。
フィオラ。
エルフィア。
自分の勘。
ここまで出しても、男はまだ止まらない。
怒りもしない。
警戒を口にも出さない。
ただ歩いてくる。
揺さぶるつもりでいた。
少しでも反応を取れれば、その先が見えると思っていた。
だが今、揺れているのは自分の方だった。
どこで切り返してくる。
何を軸に話を奪う。
嫌な予感が、遅れて腹の底へ落ちる。
そして四人は、そのまま真正面で話せる距離まで来た。
もう大声を張る必要もない。
月明かりの下で、互いの表情がはっきり見える距離。
逃げる気配も、誤魔化す余地もない。
そこで初めて、ユキトが足を止めた。
ローブの男の真正面だった。
そして、ようやく口を開く。
「いくら稼いだ?」
ローブの男は、一瞬だけ何を言われたのか分からなかった。
金?
そこから来るのか、と反応が遅れる。
普通なら違う。
先に出るのは、怒りか警戒か、せいぜい焦りだ。
だが目の前の男は、どれでもなかった。
感情が読めない。
その一拍の遅れのあとで、嫌な予感だけが形になる。
――まさか。
――俺の取り分を持っていく気か?
笑みが、今度こそ止まる。
「……いきなりそこか」
声は低かった。
「どうせ金になると思ってここまで来たんだろ」
「だったら先にそっち話せ」
ローブの男は小さく息を吐く。
「まだ儲けてはいないさ」
「だが、君を会わせられるなら報酬になる」
「会うだけでか」
「そうだ」
ユキトの目が、わずかに細くなる。
「へえ」
短いそれだけで、妙な圧があった。
ローブの男は肩をすくめる。
「王国がね」
「かなり切羽詰まっている」
「中身までは聞かされてない」
「だが、会わせれば金になる」
「ここまで条件を隠したまま、そこだけ出してくる時点で、まともな案件じゃないのは分かる」
ユキトは数拍だけ黙って、それから言った。
「四割よこせ」
ローブの男が目を瞬かせる。
「何?」
「報酬の四割」
ユキトは一歩も動かずに言う。
「中身も知らねえ案件に、こっちだけ都合よく使われる気はねえんだよ」
「会えば金になるんだろ」
「なら、その金の四割はこっちのもんだ」
ローブの男は口元を歪めた。
「さすがにそれは暴利だ」
その言葉が落ちた瞬間だった。
さっきまで真正面で止まっていたユキトが、何事もなかったように再び歩き出した。
横を突っ切る。
一切ためらわずに。
ヴォルカも、フローラも、ネムリアも、そのまま続く。
確認も相談もない。
最初から、そういう動きだと決まっていたみたいに。
ローブの男は、ほんの一瞬だけ動けなかった。
本当に行く。
頭の中でそれが形になるのが、半拍遅れた。
ここで逃したら終わる。
報酬も、交渉の余地も、次に繋がる足場も、何も残らない。
喉の奥が、わずかに乾いた。
「……待て」
今度の声は、さっきまでより少し低かった。
ユキトは止まらない。
そこでローブの男は、もう駆け引きをやめた。
「四割は払う」
月明かりの下で、その声だけが妙にはっきり落ちた。
「ここで君を逃したら、僕の取り分はなくなる」
「中身は本当に知らない」
「だが、王国が異常に焦っていることだけは分かる」
「だから追ってた」
そこでようやく、ユキトが足を止めた。
半身だけ振り返る。
もう最初みたいな対話の位置ではない。
少し行き過ぎた場所から、振り返っている。
それが余計に主導権の差を見せつけていた。
「最初からそう言えよ」
吐き捨てる。
「匂わせて、脅して、探り入れて、こっちに喋らせようって腹が透けてんだよ」
「そういうのが一番だるい」
ローブの男は答えない。
答えられない、の方が近かった。
ユキトは冷めた目のまま続ける。
「王国のためだの、正義だの、そういう綺麗事を先に出されたら、そのまま帰ってた」
「お前の都合なら、まだ話になる」
ローブの男はそこで、短く息を吐いた。
笑って取り繕う余裕は、もう薄い。
「……本当に嫌な男だね、君は」
「知ってる」
「で、どうする」
「話だけは聞く」
ユキトは答えた。
「乗るとは言ってねえ」
「中身がクソなら帰る」
「それでいい」
ローブの男は言う。
「なら、話せ」
ユキトは短く言った。
少しだけ沈黙が落ちた。
草が揺れる音だけが、間を埋める。




