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38/92

38.そういうのが一番だるい

花の神殿を離れたあとは、誰もすぐには喋らなかった。


さっきまで遠くで聞こえていた花火の音も、歩くうちに少しずつ離れていく。

祭りの喧騒はまだ街の向こうに残っているはずなのに、四人の周囲だけ、先に夜の静けさへ沈んでいた。


白い石の道が土へ変わる。

花の香りが薄れていく。

靴の裏で小石が鳴る。


現実が、また肩に戻ってきていた。


ユキトは前を歩きながら、頭の中でさっきから同じことを繰り返していた。


賞金はもうない。


闘技大会で得た金。

そこから旅費を引いて、宿代を払い、日用品を揃えて、冬を越して、あちこち移動して。

最後に今日、惜しまず使った。


もう尽きた。


じわじわ減っていく残金を見ないふりしていたわけじゃない。

むしろ見ていたからこそ、今日で終わりにした。


人として生きるために持っていた金は、今日で使い切ったのだ。


しばらく歩いてから、ユキトが口を開いた。


「……もう、今まで通りは無理だな」


声は低かったが、妙に乾いていた。


ヴォルカが顔を上げる。

フローラも静かに視線を向ける。

ネムリアは眠たげなまま歩いていたが、聞いていないわけではない。


ユキトは続ける。


「今すぐ捕まるとか、そういう感じじゃねえ」


「でも王国にバレた以上、もう今までみたいに街入って、適当に稼いで、宿取って、何となく人の中でやってくのは無理だ」


少しだけ間を置く。


「しばらく、人の社会から外れる」


ヴォルカの肩がわずかに揺れる。


「外れる……」


「そう、生活を変える」


ユキトはあっさり言った。


「人の街の外で生きる方に移す」


フローラが静かに頷く。


「妥当ですね」


その一言には、慰めはなかった。

だが冷たさもなかった。


ただ現実を、現実として置いているだけだった。


「所持金も、もう底を尽きましたし」


ユキトは鼻で笑う。


「はっきり言うな」


「事実ですので」


「分かってる」


分かっている。


だからこそ今日、全部使った。


金が残っているうちにまだどうにかできると思っていたなら、たぶん祭りであんな使い方はしなかった。

あれは区切りだ。

人として生きる時間に引いた、最後の線だった。


ネムリアがぼそりと呟く。


「……お金、ないの」


「ない」


「……そっか」


それだけ言って、また少し黙る。


沈黙は重かったが、前のように壊れた沈黙ではなかった。

同じ現実を見た上で落ちる静けさだった。


ユキトは頭を掻いた。


「別に、今すぐ世界の果てに消えるとかじゃねえよ」


「街の中で暮らすのが無理ってだけだ」


「しばらく外れる。そんだけだ」


ヴォルカは俯いたままだった。


未練がないわけではない。

それはもう、祭りの中で一度ちゃんと表に出てしまっていた。

だから今さら誤魔化せない。


けれど、それを今ここでどう言葉にしていいのか、まだ分からない。

そんな空気だった。


しばらくして、ヴォルカがようやく口を開いた。


「……私は」


声は小さかった。


「街で暮らして、ちゃんと食べて、眠って」


言いながら、自分でも言葉を探しているのが分かる。


「今日みたいにみんなで遊べるのが……幸せでした」


夜道に、その一言だけが静かに落ちた。


ユキトは振り返らない。

けれど、その声はちゃんと届いていた。


フローラが小さく頷く。


「ええ。私も同じです」


ヴォルカがゆっくり顔を上げる。


フローラは少しだけ遠くを見るように続けた。


「この一年は、一年とは思えないほど濃密でした」


「騒がしくて、予想外ばかりで、退屈する暇もありませんでした」


「正直に言えば……失うのは惜しいです」


そこに気取ったところはなかった。

理性的に認めているだけなのに、その分だけ重かった。


ネムリアもぼそりと続ける。


「……フィオラ、よかった」


「風呂、いっぱいあった」


「みんなで、歩いた」


少しだけ考えるように間を置いてから、さらに言う。


「……よかった」


短い。

でも、それで十分だった。


ユキトの胸の奥に、妙な痛みが落ちる。


自分だけじゃなかった。

三人とも、この一年をちゃんと好きになっていた。


その事実は少し救いで、同時にひどく重かった。


フローラがそこで静かに言葉を継ぐ。


「ですが」


その一言で、空気が少しだけ戻る。


「惜しいことと、残れることは別です」


「この一年が楽しかったことと、今ここに留まれることは同じではありません」


ヴォルカは唇を引き結び、それから小さく頷いた。


「……はい」


声はかすかに震えていた。

それでも、逃げなかった。


その直後だった。


ネムリアが、眠たげなまま言う。


「……いく」


三人の視線がそちらへ向く。


ネムリアは続けた。


「ユキトと、いく」


それだけだった。


けれど、その短い言葉は夜道に妙にはっきり残った。


仕方ないからではない。

条件の話でもない。

街に残れないから同行する、でもない。


ただ、自分の意思でついていくと、そう言ったのだ。


ユキトは一瞬だけ言葉に詰まった。


胸の奥で、何か固かったものがほんの少しだけ緩む。


「……そうかよ」


出てきたのは、それだけだった。

でも、その短い返事の中に、思っていたより深い安堵が混じっていた。


フローラはその反応を見て、小さく息を吐いた。

ヴォルカも、少しだけ目を細める。


その上で、現実は現実として残る。


ユキトはまた前を向いたまま、ゆっくりと考えを繋げた。


三人と本気で向き合うと決めた時から、いつかこういう日が来るかもしれないとは思っていた。


ヴォルカも、フローラも、ネムリアも。

どう考えても、人の社会に永遠に隠して置けるような存在じゃない。


ずっとごまかし続けられるとは思っていなかった。

それでも、何となく先送りにしながらここまで来た。


旅の途中で、いざという時に潜れそうな場所はいくつか見ていた。

地図でも目星はつけていた。


人里から遠い。

水がある。

見張りやすい。

最低限、生きてはいける。


でも、それは決して“暮らしやすい場所”じゃない。


寝床は粗い。

雨風はしのげても、宿の寝台みたいにはいかない。

食事は安定しない。

風呂なんて当然ない。

寒さも、湿気も、虫も、全部そのままだ。

街の灯りも、屋台も、ありふれた日常もそこにはない。


野に降りるのは、普通に嫌だった。


便利な日常を失うのは嫌だ。

人としての暮らしを手放すのは嫌だ。

それでも。


このまま捕まって、三人ごと自由を奪われる方がもっと嫌だった。


だから、行くしかない。


一年隠し通せたなら、よくやった方だ。

ここらで潮時だな、と。


「まあ、候補はいくつかある」


少しだけ明るく言ったのは、三人を沈ませすぎたくなかったからだ。


ヴォルカが小さく聞き返す。


「候補、ですか」


「前から見てたからな」


「人里から遠くて、水があって、見張りやすいとこ」


「完全に安全じゃねえけど、街の中で監視されながら暮らすよりはマシだ」


肩をすくめる。


「最悪、雨風しのげりゃ何とかなる」


「だいぶ雑ですね……」


ヴォルカが呆れたように言う。

でも、さっきより少しだけ声が柔らかい。


「雑なくらいでちょうどいいんだよ」


「気にしすぎると気が滅入る」


フローラは何も挟まずに聞いていた。

明るくしようとしているのを分かっている顔だったが、あえて崩しはしない。


「快適さは捨てろ」


ユキトは続ける。


「寝床は悪いし、飯は工夫が要るし、しばらく風呂もねえ」


ネムリアが、わずかに眉を寄せる。


「……おふろ、ないの」


「ない」


「……むぅ」


「文句言うな」


「言う……」


ヴォルカが小さく笑った。

本当に小さく。

でも、そこで笑えたこと自体が、少し救いだった。


そんなふうに、ほんの少しだけ空気が緩みながら夜道を進む。


神殿を離れ、山へ向かう道は、思ったよりも開けていた。


白い石畳が途切れた先。

そこから先は、背の低い草が一面に広がる、ゆるやかな登りの一本道だった。


左右に木立はある。

けれど街道そのものは隠れる場所が少なく、月明かりの下では人影が妙によく見えた。


風が吹くたび、草が波みたいに揺れる。

祭りの喧騒も、花火の残響も、もうここまではほとんど届かない。

神殿の気配も、街の灯りも、少しずつ背後へ遠ざかっていた。


ユキトは先頭を歩いていた。

右手に荷物。

左手は、いつでも盾に触れられる位置。

背中には、祭りの中よりずっと強い警戒が戻っている。


その少し後ろを、ヴォルカ、フローラ、ネムリアが続いていた。


そして、ゆるやかな坂の先に――人影があった。


月明かりの下。

草原の一本道の真ん中。

隠れもせず、逃げもせず、ただ立っている。


ローブの男だった。


ユキトの足が、ほんのわずかに止まる。

後ろの三人も、それに合わせて歩を緩めた。


向こうもこちらを見ていた。

まるで先に気づいていたように見えるのに、その目だけはわずかに見開かれている。


数拍の無言が落ちた。


ローブの男は、本当に驚いていた。


神殿の調査に来ただけだった。

候補地を一つ見て、何もなければそのまま引くつもりだった。


それなのに。


月明かりの下、真正面から現れたのは、

想定よりもずっと厄介で、ずっと面白い四人組だった。


「……これはまた」


最初に口を開いたのは向こうだった。


いつもの軽い調子を作ってはいる。

だが、その声の奥に混じる本物の驚きまでは隠しきれていない。


「会えたら幸運、くらいには思っていたけど」


「本当に会えるとはね」


ユキトは何も返さない。


そのまま歩き出す。


止まったのは一瞬だけだった。

何事もなかったように、前へ出る。


ヴォルカたちも無言で続いた。


ローブの男は、その場をどかずに話しかける。


「花の神殿を少し見に来ていてね」


「聖竜封印地点の候補はいくつか当たっているんだ」


視線が、わずかにフローラへ向く。


「聖竜は災厄そのものとは少し違う」


「壊すより、救う側に回ることもある」


「君みたいなのは、特にね」


ヴォルカの肩が小さく強張る。

ネムリアは眠たげな目のまま男を見ている。

フローラは表情を一切動かさなかった。


男は続ける。


「……この先の神殿の主は、君かな?」


返事はない。


ユキトは歩く。

一定の歩幅。

止まらない。

振り向きもしない。


ローブの男は、その無反応にわずかに目を細める。


少しは何か返ると思っていた。

視線でも、呼吸でも、ほんの小さな揺れでもいい。

だが四人とも静かすぎた。


その中でも、先頭の男だけは別種だった。


聞いていないのではない。

全部聞いている。

聞いた上で、反応だけを渡してこない。


その感触を、ローブの男はここでようやく思い出し始める。


ああ、そうだ。


こいつは、こういう男だった。


少し煽れば転ぶような手合いではない。

気になる情報を匂わせれば、勝手に寄ってくる類でもない。

聞いていないふりをして、全部聞いた上で切る。


それを思い出した時にはもう、四人との距離はかなり詰まっていた。


草原の一本道の真ん中で向かい合う形のまま、じわじわと間合いだけが狭まっていく。


ローブの男は気を取り直す。


探りに乗らないなら、次の札を切るしかない。


「王国が君たちを探している」


今度は少しだけ声を落とした。


それでもユキトの歩幅は変わらない。


「一ヶ月前に手配が回り始めた」


「だが、驚くほど情報が上がらなかった」


「フィオラまでは追えていたんだがね」


無言。


一定の歩幅。


「雷竜の件の場所からフィオラへ向かうなら、普通はエルフィアを抜ける方が近い」


「ところが君たちは、わざわざそちらを避けた」


「なら王国側が、“以後もエルフィアは避ける”と読むのも無理はない」


「そのせいで、フィオラを出たあとにそちらへ流れた可能性を見落とした」


「追跡が切れたわけだ」


まだ、止まらない。


ローブの男は続ける。


「もっとも、僕は逆にそちらにいるかもしれないと踏んだ」


「一度あからさまに避けたなら、その次はかえって盲点になる」


「それに、ちょうど封印地点候補も見て回っていたところでね」


「だからこの辺りを洗っていた」


「……とはいえ、本当に会えるとは思っていなかった」


薄く笑う。


「半分は勘だよ」


それでも、まだ何も返ってこない。


聖竜。

神殿。

フローラ。

王国の追跡。

フィオラ。

エルフィア。

自分の勘。


ここまで出しても、男はまだ止まらない。


怒りもしない。

警戒を口にも出さない。

ただ歩いてくる。


揺さぶるつもりでいた。

少しでも反応を取れれば、その先が見えると思っていた。


だが今、揺れているのは自分の方だった。


どこで切り返してくる。

何を軸に話を奪う。


嫌な予感が、遅れて腹の底へ落ちる。


そして四人は、そのまま真正面で話せる距離まで来た。


もう大声を張る必要もない。

月明かりの下で、互いの表情がはっきり見える距離。

逃げる気配も、誤魔化す余地もない。


そこで初めて、ユキトが足を止めた。


ローブの男の真正面だった。


そして、ようやく口を開く。


「いくら稼いだ?」


ローブの男は、一瞬だけ何を言われたのか分からなかった。


金?


そこから来るのか、と反応が遅れる。


普通なら違う。

先に出るのは、怒りか警戒か、せいぜい焦りだ。


だが目の前の男は、どれでもなかった。


感情が読めない。


その一拍の遅れのあとで、嫌な予感だけが形になる。


――まさか。


――俺の取り分を持っていく気か?


笑みが、今度こそ止まる。


「……いきなりそこか」


声は低かった。


「どうせ金になると思ってここまで来たんだろ」


「だったら先にそっち話せ」


ローブの男は小さく息を吐く。


「まだ儲けてはいないさ」


「だが、君を会わせられるなら報酬になる」


「会うだけでか」


「そうだ」


ユキトの目が、わずかに細くなる。


「へえ」


短いそれだけで、妙な圧があった。


ローブの男は肩をすくめる。


「王国がね」


「かなり切羽詰まっている」


「中身までは聞かされてない」


「だが、会わせれば金になる」


「ここまで条件を隠したまま、そこだけ出してくる時点で、まともな案件じゃないのは分かる」


ユキトは数拍だけ黙って、それから言った。


「四割よこせ」


ローブの男が目を瞬かせる。


「何?」


「報酬の四割」


ユキトは一歩も動かずに言う。


「中身も知らねえ案件に、こっちだけ都合よく使われる気はねえんだよ」


「会えば金になるんだろ」


「なら、その金の四割はこっちのもんだ」


ローブの男は口元を歪めた。


「さすがにそれは暴利だ」


その言葉が落ちた瞬間だった。


さっきまで真正面で止まっていたユキトが、何事もなかったように再び歩き出した。


横を突っ切る。

一切ためらわずに。


ヴォルカも、フローラも、ネムリアも、そのまま続く。

確認も相談もない。

最初から、そういう動きだと決まっていたみたいに。


ローブの男は、ほんの一瞬だけ動けなかった。


本当に行く。


頭の中でそれが形になるのが、半拍遅れた。


ここで逃したら終わる。

報酬も、交渉の余地も、次に繋がる足場も、何も残らない。


喉の奥が、わずかに乾いた。


「……待て」


今度の声は、さっきまでより少し低かった。


ユキトは止まらない。


そこでローブの男は、もう駆け引きをやめた。


「四割は払う」


月明かりの下で、その声だけが妙にはっきり落ちた。


「ここで君を逃したら、僕の取り分はなくなる」


「中身は本当に知らない」


「だが、王国が異常に焦っていることだけは分かる」


「だから追ってた」


そこでようやく、ユキトが足を止めた。


半身だけ振り返る。


もう最初みたいな対話の位置ではない。

少し行き過ぎた場所から、振り返っている。

それが余計に主導権の差を見せつけていた。


「最初からそう言えよ」


吐き捨てる。


「匂わせて、脅して、探り入れて、こっちに喋らせようって腹が透けてんだよ」


「そういうのが一番だるい」


ローブの男は答えない。


答えられない、の方が近かった。


ユキトは冷めた目のまま続ける。


「王国のためだの、正義だの、そういう綺麗事を先に出されたら、そのまま帰ってた」


「お前の都合なら、まだ話になる」


ローブの男はそこで、短く息を吐いた。


笑って取り繕う余裕は、もう薄い。


「……本当に嫌な男だね、君は」


「知ってる」


「で、どうする」


「話だけは聞く」


ユキトは答えた。


「乗るとは言ってねえ」


「中身がクソなら帰る」


「それでいい」


ローブの男は言う。


「なら、話せ」


ユキトは短く言った。


少しだけ沈黙が落ちた。


草が揺れる音だけが、間を埋める。



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