35.私にはまだわからない
最低だ。
思わせぶりなことだけ言って。
待たせるだけ待たせて。
会いに来たと思ったら、それを切る。
なのに。
そんな男のそばにいることを、あの三人は選ぶのだ。
怒って、呆れて、軽蔑して。
それでも置いていかない。
私にはまだわからない。
そんなものを愛と呼ぶのかどうかも。
でも――
いつか私にも、本当に誰かを好きになる日が来たなら。
その時には少し、わかるのかもしれない。
風が吹いた。
森の枝葉を揺らし、頬に触れた空気は少し冷たい。
熱を持っていた顔に、その冷たさが沁みた。
「……最悪です」
誰に向けたでもなく呟く。
当然、返事はない。
もう戻らないと、自分で決めた。
あそこで立ち止まったままだったら、きっとずっと終われない。
だから歩いた。
歩くしかなかった。
それでも胸の奥の痛みは、森をいくつ越えても消えなかった。
時間が経てば少しは薄れると思っていたのに、そんな気配はない。
思い出すたび腹が立つし、同じくらい苦しくなる。
「リュシアちゃん?」
後ろからかかった声に、びくりと肩が揺れた。
振り返ると、木立の間にミラが立っていた。
灰色の長髪をざっくりとまとめ、外套を羽織っているが、それでもどこか街向きではない華やかさがある。
その少し後ろには、同じく外套姿のナナがいた。銀髪を隠しきれていない。
こちらは華やかというより、目立ち方そのものが危うかった。
「何でもありません!」
反射で強く返してしまってから、しまったと思う。
けれどミラは咎めず、ただ少しだけ口元を緩めた。
「何でもない人の声じゃなかったけど」
「……うるさいです」
「はいはい」
軽い調子で流してから、ミラは周囲を見回した。
「で、今日はこのまま街に入るんだよね?」
リュシアは息を吐いた。
切り替えろ。そう自分に言い聞かせる。
感傷に浸っていられるほど、今の自分たちには余裕がない。
目の前には、人間社会に溶け込めるかどうか怪しい女が二人。
しかも片方は、下手をすれば存在そのものが災害扱いされてもおかしくない古代兵器だ。
もう片方は飄々としているくせに、平気で空気を読まずに動きそうな灰竜である。
自分がやるしかない。
そう思うのと同時に、少しだけ胸の奥が痛んだ。
前は、こういう面倒を、誰かが嫌そうな顔で先に片づけていた。
文句を言いながら、面倒くさそうに、それでも結局は抜けなくやっていた。
頭の中に浮かんだ顔を、リュシアは無理やり追い払った。
「入ります」
言って、二人を見回す。
「ただし、その前に確認です。二人とも今のままだと目立ちます」
ミラが目を瞬かせた。
「そんなに?」
「そんなにです」
ナナが静かに首を傾げた。
「私はこの外套で十分に隠れているのでは?」
「隠れてません」
即答した。
「まずナナさんは喋り方が固すぎます。あと立ち方が変です」
「立ち方、ですか」
「兵士とか護衛とか、そういう感じじゃなくて……命令待ちの人みたいなんです」
ナナが少しだけ傷ついた顔をする。
だが事実だから仕方ない。
「ミラさんは逆です」
「逆?」
「自然すぎます」
「え、そこ褒めるとこじゃない?」
「違います。自然に見えて、自然な人間の範囲を少しだけ超えてるんです」
「難しいなあ、人間って」
ミラが肩をすくめる。
その仕草すら妙に絵になっているのが腹立たしい。こういうのは目立つのだ。
――絶対に竜だとバレるな。
ふと、脳裏に声が蘇った。
嫌になるくらい鮮明に。
街では目立つな。
強い動きはするな。
変だと思われるな。
人間の町で一番大事なのは、“最初に怪しまれないこと”だ。
リュシアは奥歯を噛んだ。
こういう時だけ、その言葉が妙に役に立つのが腹立たしい。
「とにかく!」
少し大きめの声を出して、自分の思考ごと切る。
「街に入ったら、まず服と身なりを整えます。特に二人とも髪と目立ち方をどうにかします」
ミラが自分の髪をつまんだ。
「髪も?」
「はい。ミラさんはとにかく華やかすぎます。ナナさんは逆に、雰囲気が硬すぎて浮きます」
「なるほど、私は“柔らかく見せる”必要があるのですね」
「そうです。あと、あんまり周囲を観察しすぎないでください」
「危険確認は必要では?」
「必要ですけど、あまりやると逆に不審なんです!」
説明しながら、自分でも少し可笑しくなった。
ほんの少し前まで、自分も似たようなことを言われていた気がする。
その時は腹が立った。
今だって腹は立つ。
でも、正しかったことも分かってしまう。
「お金は?」
ミラの問いに、リュシアは腰の袋へ手を当てた。
中の重みを確かめる。
「あります。最低限なら」
「へえ。ちゃんと稼いでたんだ」
「ええ、私が稼いだんです」
少しだけ胸を張ってから、言い足す。
「……それに、私の分はちゃんと残ってましたし」
「残ってた?」
ミラが首を傾げる。
ナナも静かにこちらを見る。
「前のパーティで、私だけ報酬の分配はあったんです」
言ってから、ほんの少し視線を逸らした。
「あいつ……ユキトは、私が稼いだ分は自分で持っとけって言ってました。いつか独り立ちする時のための資金にしろって」
言い終えた瞬間、胸の奥が少しだけ軋んだ。
今になってその金で二人の服や宿代を払うことになるのが、妙に悔しい。
ナナが静かに言った。
「頼ってばかりで申し訳ありません」
「別に、いいです」
リュシアは少しだけ顔を逸らした。
「私も前は、頼るばっかりでしたし」
その言い方は少し違う気がした。
頼っていた。守られていた。教えられていた。
それを今さら認めるのは、やっぱり悔しい。
ミラは何も言わなかった。
ただ、少しだけ優しい目をした。
その視線がたまらなく気まずくて、リュシアはさっさと踵を返す。
「行きますよ」
「今日の目標は、二人を街で浮かせないこと。それから、最低限のお金を稼ぐことです」
「私の言う通りにしてください」
「はーい」
「了解しました」
二人の返事を背に受けながら、リュシアは前を向いた。
まだちゃんと笑えない。
まだ思い出すと苦しい。
まだ終わったと認めたくない気持ちも、たぶんどこかにある。
それでも、今は歩かなければならない。
自分の足で。
この二人を連れて。
腹が立つ相手に教わったことを、結局きっちり使いながら。
その事実が少し悔しくて、少しだけ可笑しかった。
最初に寄ったのは、街外れの安い衣料品店だった。
冒険者や旅人向けの品が多く、値段もそこまで高くない。
変に上等な服を買うより、こういう店の方が自然に紛れられる。
「なるほど、人間はこういう布で“普通”を作るんだねえ」
店先で外套をつまみながら、ミラが妙に感心したように言う。
「変な言い方しないでください」
「だって本当だよ?」
「本当でも言わなくていいんです」
ナナは棚に並んだ服を見つめたまま、動かない。
「……どれも、違いがよく分かりません」
「分からないからって全部同じ顔で見ないでください。店員さんが怯えてます」
実際、少し離れた位置からこちらを見ていた店員が、びくりと肩を揺らした。
ナナは慌てて視線を逸らす。
「すみません。威圧したつもりは」
「それも言わなくていいです!」
リュシアは額を押さえた。
先が思いやられる。
結局、ミラには地味な色の外套と、体の線を出しすぎない服を選ばせた。
本人は「もうちょっと遊びがあっても良くない?」と言っていたが却下した。
ナナには機能一辺倒すぎず、それでいて目立たないものを選ぶ。本人は無駄だと言いたげだったが、宿や街で浮かないためだと言い含めると渋々従った。
ついでに髪のまとめ方や、帽子の深さ、目線の置き方まで細かく調整する。
「歩く時は周囲を見すぎない。見てるのに見てないふりをするんです」
「難易度が高いですね」
「人間社会ってそういうものなんです」
ミラが少し面白そうに言う。
「リュシアちゃん、妙に慣れてるね」
その言葉に、リュシアは一瞬だけ詰まった。
「……慣れたんです」
正確には、慣れさせられた、が近い。
だがそこまでは言わなかった。
店を出たあと、近くの水場で簡単に身だしなみを整える。
髪を隠し、目立つ所作を抑え、並んで歩く位置まで決めた。
「ミラさんは少し後ろ。ナナさんは私の反対側。二人とも、何かあっても先に動かない」
「危険があっても?」
「街中ではまず私が判断します」
ミラが小さく笑う。
「リュシアちゃん、本当にしっかりしてるね」
「……嫌ってほど言われましたから」
「へえ」
ミラの声が少しだけ柔らかくなる。
それ以上何も言わなかったのが、ありがたかった。
ギルドに入った瞬間、いつもの匂いがした。
酒、革、鉄、汗、紙。
少しだけ懐かしくて、少しだけ気が引き締まる。
どこの街でも、ギルドの空気は大きくは変わらない。
だからこそ、ほんの少しだけ安心できた。
リュシアは二人に目配せした。
ミラとナナは少し離れた席へ行く。
表に出るのは自分だけだ。
戦闘力の測定や登録手続きなんてさせたら、余計な面倒しか起きない。
受付に立つと、若い受付嬢が事務的な笑みを向けた。
「ご依頼の受注ですか?」
「はい」
「冒険者証をお願いします」
リュシアは首から下げていた証を差し出した。
受付嬢は目を落とし、登録情報を確認する。
「リュシアさんですね。冒険者証、確認終わりました」
その一言に、ほんの少しだけ安堵する。
まだ自分は、こうして普通の冒険者として扱われる場所を持っている。
「今日はお一人ですか?」
「いえ、同行者はいます。依頼を受けるのは私ですけど」
受付嬢はちらりと奥を見たが、それ以上は何も聞かなかった。
「承知しました。受注は登録者ご本人名義になりますので、問題ありません」
その“問題ありません”に、また少しだけ肩の力が抜ける。
掲示板を見て、危険度と報酬の釣り合いを考える。
採集依頼は安い。討伐依頼は二人を隠しながらだと目立ちすぎる。
護衛は素性を詮索される可能性がある。
指先で依頼書をなぞりながら、ふと昔のやり取りを思い出した。
報酬だけで飛びつくな。
危険度、移動距離、目立ち方、依頼主の空気。全部見ろ。
得だけ見て動くと、だいたい後から面倒が来る。
リュシアは小さく舌打ちした。
まただ。
こういう時ばかり、あの男の声が頭の中でよく喋る。
結局選んだのは、街道近くの薬草採集地の安全確認と、小型魔物の追い払いを兼ねた依頼だった。
報酬はそこそこ。危険度は低い。三人で動いても不自然じゃない。
何より、ミラとナナの力を“やりすぎない範囲”で使える。
受付を済ませて戻ると、ミラが軽く首を傾げた。
「終わったの?」
「終わりました」
「意外とあっさりなんだね」
「そうです、中で余計なことをしなければ普通は通ります」
「へえ……」
ミラは短く相槌を打っただけだった。
けれどその目は、さっきより少しだけリュシアを見ていた。
ちゃんとやれるんだな、と思われた気がして、少しだけ落ち着かない。
依頼自体は大きな問題なく終わった。
小型魔物は三匹。
薬草採集地の近くに巣を作っていたが、リュシアが前に出て、ミラが風圧を“人間の技”に見える程度に抑えて援護し、ナナが位置と動きを正確に読むことで、短時間で片づいた。
「今の、少し出力が高すぎます」
戦闘後、リュシアはすぐにミラを睨んだ。
「そう?」
「そうです。風の音が変でした」
「そこまで分かるんだ」
「分かるようになったんです!」
少し強めに返してから、リュシアはナナを見る。
「ナナさんもです。あまり正確すぎる動きは逆に変です」
「……一秒で息の根を止めないと」
「そういうのです!」
ナナは少しだけ黙り込んだ。
だが、すぐに真面目に頷く。
「修正します」
リュシアは槍の石突きを地面に軽く打ちつけた。
「人間に見える範囲で強い、が大事なんです。やりすぎたら終わりです」
言いながら、自分でもほんの少しだけ可笑しかった。
こんなふうに誰かへ釘を刺す側になるなんて、少し前の自分なら想像もしなかった。
ミラが横で笑う。
「ほんと、ちゃんと教わってきたんだねえ」
「……うるさいです」
「でも助かるよ。こういうの、私たちだけじゃたぶん適当になってたし」
軽い調子だったが、その奥に本音が混じっていた。
リュシアはそれを聞いて、少しだけ気まずくなる。
役に立てている。
今、自分が。
それが少し嬉しくて、同じくらい悔しかった。
夕方、報酬を受け取って宿へ戻る。
安宿だが、三人で泊まるには十分だった。
テーブルに硬貨を並べ、今日の出費と残りを計算する。
宿代。食費。衣類代。雑貨代。
減っていく金額を見ながら、ミラがぽつりと呟いた。
「……思ったより減るの早いね、お金」
「当たり前です」
リュシアはすぐに返した。
「宿に泊まって、ご飯食べて、服まで揃えたんですから」
「いやあ、分かってはいたんだけどねえ」
ミラは苦笑する。
「でも、こうして目の前で減っていくと、ちょっと現実だなって」
「現実ですよ」
リュシアは硬貨を指先で弾き、袋に戻していく。
「だから皆、働くんです」
言ってから、少しだけ手が止まった。
以前は、こういう計算も、なんだかんだで前にいる男がやっていた。
報酬の分配も、宿代の確認も、足りなくなりそうなものの補充も。
嫌そうな顔をしながら、面倒くさそうに、それでも結局は抜けなくやっていた。
ここでもか。
と、少しだけ腹が立つ。
リュシアは袋の底を確かめた。
まだある。
冒険者になってから自分で稼いだ金。ユキトはそれを一度も取り上げなかった。
それどころか、「自分の分は自分で持っとけ。後で必要になる」と言っていた。
その“後”が、まさかこんな形で来るとは思わなかった。
「……ほんと最低です」
小さく呟く。
「そんなに許せないの?」
ミラは独り言に割り込んだ。
「最低なものは最低なんです」
「でも、ちゃんとしてたんでしょ?」
ミラの言葉に、リュシアは少しだけ言葉に詰まった。
「……そういうところだけ、ちゃんとしてるんです」
「厄介だねえ」
「本当に厄介なんですよ」
強く言ったはずなのに、最後は少しだけ声が弱くなった。
少しの沈黙が落ちる。
ミラはテーブルの上の硬貨を指先で転がしながら、ぽつりと言った。
「まあ、あの子がろくでもなかったのは否定しないけどね」
リュシアは顔を上げた。
「……否定しないんですね」
「しないよ」
ミラはあっさり頷いた。
「だって、実際かなりひどかったし」
その言い方が軽すぎて、逆に胸に刺さる。
リュシアは唇を噛んだ。
自分は好きだと言って、断られた。
それだけだ。
でもミラは違う。
一年待って、信じて、再会して。
その先で切られた。
比べるものじゃないのかもしれない。
でも、それでも、あれは自分よりずっとひどいと思った。
「……私、自分のことより、あれの方がひどいと思ってます」
思わずそう零すと、ミラが少しだけ目を丸くした。
「私の方?」
「当たり前です」
リュシアはすぐに返した。
「一年ですよ」
「ミラさん、一年ずっとあの人のために封印の中にいたんですよね」
「まあ、結果的にはそうなるかなあ」
「そうなるかなあじゃないです!」
声が少し強くなる。
「待ってたじゃないですか。信じてたじゃないですか。なのに来た瞬間、あんな言葉……あれは普通にないです」
ミラはその勢いに少しだけ肩を揺らしたあと、小さく笑った。
「うん。まあ、それはそう」
「軽いですね……」
「軽くしないとやってられない時もあるんだよ」
ミラは少しだけ視線を落とした。
「ちゃんと傷ついたよ、あの時は」
「……見てました」
「うん。見られてたね」
「だから、今さら平気そうにされると、ちょっと腹立ちます」
ミラがふっと笑う。
でもその笑いは、さっきまでより少し薄かった。
「あの場で平気な顔してたのだって、あれ以上みっともなくなりたくなかっただけだよ」
その一言に、リュシアは黙った。
ミラは軽い。
飄々としている。
何でも面白がっているように見える。
でも本当は違う。
この人は、痛かったことまで無かったことにしているわけじゃない。
その場で崩れないように、笑っていただけだ。
「私ね」
ミラが静かに言う。
「最初のうちは、ほんとに腹立ってたよ」
「そりゃそうです」
「うん。だから今度は私が埋めてやろうかなとも思った」
「物騒すぎます」
「でしょ?」
少しだけ空気が緩む。
ミラは肩をすくめた。
「でも、雑に切り捨てたわけじゃないのも分かってた」
リュシアは黙る。
「ちゃんと悩んで、ちゃんと苦しんで、それでも無理だって言ったんだろうなってのは分かった」
「分かったから、余計に痛かったんだけど」
その言葉は、リュシアにも刺さった。
適当に切られたわけではない。
誤魔化されたわけでもない。
ちゃんと向き合った上で切られた。
だからこそ、余計に痛い。
「引きずって止まるほどじゃなくなっただけ」
ミラはそう言って、少しだけ笑った。
「そうしないと、私までそこで終わっちゃうし」
リュシアはその言葉を黙って聞いていた。
ミラは軽い。
飄々としている。
でも本当は、その軽さで自分を運んでいるのだ。
痛かったことを消しているのではなく、抱えたまま前へ動いている。
それはたぶん、自分にはまだない強さだった。
「リュシアちゃんは、まだ無理でいいんじゃない?」
「……え?」
「無理に吹っ切ったふりしなくていいってこと」
ミラは笑う。
「好きだったなら、痛いのは当たり前でしょ」
「しかも相手、結構どうしようもなかったし」
「……そうですね」
思わず、少しだけ笑いそうになる。
「誤魔化しても、たぶん余計こじれるよ」
図星だった。
ずっと、自分で自分を誤魔化していた。
ひどい男だと言い続ければ、未練まで一緒に消えてくれる気がしていた。
でも消えない。
どれだけ腹が立っても、好きだった。
だから痛い。
その単純なことを、ようやく認めるしかなくなった。
横で黙って聞いていたナナが、静かに口を開いた。
「好きだったことまで否定する必要はありません」
二人がそちらを見る。
ナナは少しだけ視線を伏せ、それからまっすぐリュシアを見た。
「否定すべきは結果であって、あなたの感情そのものではないはずです」
「痛みがあるなら、それは軽い感情ではなかったということです」
「なら、無かったことにする方が不自然でしょう」
不器用で、真面目で、少しだけ断定の強い慰めだった。
でも、その不器用さがありがたかった。
リュシアは鼻をすすった。
「……二人とも、優しすぎます」
「そう?」とミラ。
「はい。今はちょっとむかつくくらいです」
「それはひどいなあ」
ミラが笑う。
その笑いにつられて、リュシアもほんの少しだけ、唇を緩めた。
翌日。
街を歩いている時、少しだけ空気の違いに気づいた。
兵の数が多い。
巡回の間隔が短い。
それに、街の人間たちの声が妙に低い。
何かを恐れているような。
もしくは、余計なことを口にしたくないような。
「……変ですね」
リュシアが呟くと、ナナが小さく頷いた。
「警戒態勢に近い空気です」
ミラが眉を上げる。
「戦争?」
「そこまでは分かりませんけど……」
ギルドでも少しざわついていた。
王都方面が慌ただしい。検問が増えた。誰か大物が動いた。
噂話は断片的で、はっきりしない。
その曖昧さが、逆に不気味だった。
帰り道、広場の掲示板の前に人だかりができていた。
普段なら依頼書を見る冒険者くらいしか集まらない場所に、一般の町人まで立ち止まっている。
けれど、そのざわめきは妙に低かった。
興味本位で覗いているというより、見てしまったから目を逸らせずにいるような、そんな空気だった。
「何でしょう」
リュシアは人の隙間を縫って前へ出た。
そして、次の瞬間、息を呑んだ。
貼り出されていたのは依頼書ではない。
王命による触れ書きだった。
中央に大きく書かれているのは、名ではなかった。
人数。
特徴。
周辺住民への通達。
発見時の報告先。
そして、不用意に刺激するな、という妙に慎重な言い回し。
名前はない。
けれど、分かる者には分かる。
男一名。
同行者、女三名。
黒髪、赤い瞳の女。
淡い桃色の髪を持つ女。
眠たげな緑髪の少女。
そして、男についての記述はひどく曖昧だった。
年若い。
軽薄な言動が見られる。
周囲の女たちと行動を共にしている可能性が高い。
雑だ。
雑なのに、嫌になるほど分かる。
文面は短かった。
だが、その短さが余計に重い。
該当する一行を発見した者は、速やかに最寄りの兵、役所、関所へ報告すること。
周辺住民は、当該人物らに不用意に接触せず、刺激を避けること。
匿蔽、虚偽報告、追跡妨害は王命への背反とみなし、厳重に裁く。
「……は?」
思わず声が漏れる。
横から、ミラが覗き込んだ。
いつもの軽さが、少しだけ消えている。
「これ……」
ナナも無言で触れ書きを見上げていた。
その目が、静かに細められる。
ただの揉め事ではない。
ただの追跡でもない。
王国の側が、最初から民間に捕らえさせる気などない。
見つけろ。
知らせろ。
だが、触れるな。
そう命じている。
だから街の空気が重いのだ。
誰も大きな声では話さない。
関わればまずいと、本能で分かっているような静けさだった。
リュシアの胸の奥が、ひどく冷たくなった。
別れた。
終わった。
もう関係ない。
そう思おうとした。
なのに、目の前の文字を見た瞬間、その全部が吹き飛んだ。
名前はない。
名前など、どこにも書かれていない。
それでも。
「……これって」
喉が、ひどく乾く。
リュシアは、その触れ書きから目を離せなかった。
そこに書かれている誰かが、誰なのか。
考えるまでもなかった。




