34.その一言は、刃みたいだった。
三つの影が、森の奥へ消えていく。
灰色。
銀色。
金色。
木々の隙間に見えていた背中は、やがて葉の揺れに紛れて見えなくなった。
ユキトは、その場から動けなかった。
追いかけない。
全てが終わった。
いや、ここからが本番だろう一番向き合わないといけない人が残っている。
血の匂いがする。
湿った土が、靴の裏に重い。
息をするたびに体のどこかが痛んだ。
でも今は、それより胸の奥の方がずっと痛かった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
ヴォルカも。
フローラも。
ネムリアも。
三人とも、すぐ後ろにいる。
気配はちゃんとあるのに、誰もすぐにはユキトに近づかなかった。
当然だった。
許されたわけじゃない。
さっき見せたものは、どれも最低だった。
隠していた。
誤魔化していた。
そして、傷つけた。
そのことを、誰もすぐに言葉にできなかった。
風が吹く。
揺れた枝の隙間から、細い光が地面に落ちる。
その光が血の色を照らして、やけに生々しく見えた。
ユキトは俯いたまま、かすれた声で言った。
「……すまない」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
三人とも返さない。
返せるはずがなかった。
重い沈黙が、また落ちる。
その沈黙のあと、最初に動いたのはヴォルカだった。
ゆっくり、迷うような足取りでユキトの前まで来る。
けれど、すぐそばまでは来ない。
手を伸ばせば届く、その少し手前で止まった。
唇が震えている。
怒っている。
悲しんでいる。
それでも放っておけない。
そんな気持ちが、そのまま立ち姿に出ていた。
「……最低です」
小さな声だった。
ユキトは顔を上げない。
「……ああ」
ヴォルカは少しだけ息を吸った。
「本当に、最低です」
今度ははっきり言った。
ユキトは黙ったまま、それを受ける。
ヴォルカの目には涙がにじんでいた。
「どうして、話してくれなかったんですか」
責める声だった。
でも怒鳴る声ではなかった。
「ミラさんのことも、ナナのことも……どうして黙ってたんですか」
「……言えなかった」
「言えなかったで、済むと思ってるんですか」
「思ってない」
その返事があまりにも真っ直ぐで、ヴォルカの目が揺れた。
怒りは消えない。
傷ついた気持ちも、そのままだ。
それでも、さっき確かに聞いてしまったのだ。
守りたい相手がいる。
もう一人で勝手に終わっていい立場じゃない。
あの言葉に、自分が含まれていると分かってしまった。
それが、どうしようもなく胸に残っていた。
そんな自分が少し悔しかった。
ヴォルカは唇を噛んでから、ぽつりと言う。
「私……最初、すごく嫌でした」
ユキトの肩がわずかに動く。
「ミラさんのこと、あなたがまた勝手に連れてくるつもりなんだって思って」
「私たちに何も言わないで、また勝手に決めるんだって思って」
そこでヴォルカは目を伏せた。
「……すごく、嫌でした」
その言葉は正直だった。
「怒りました。腹も立ちました。今でも立ってます」
「……だろうな」
「でも」
ヴォルカはそこで顔を上げる。
涙は浮かんでいるのに、その目はちゃんとユキトを見ていた。
「あなた、私たちを捨てる気じゃなかったんですよね」
ユキトは答えない。
答えられない。
ヴォルカは続ける。
「ミラさんを受け入れなかったことは、ひどいです。最低です」
「……ああ」
「でも同時に、少しだけ……安心したんです」
その言葉は、ヴォルカ自身にも痛かったのだろう。
声が少し震えた。
「そんなふうに思った自分も、嫌です」
「ミラさんがあんなに傷ついたのを見たあとで、安心したなんて思う自分が、ほんとに嫌です」
ヴォルカは目尻を拭う。
「でも、『お前たちを拒むんじゃない』って言われた時」
「『もう一人で勝手に終わっていい立場じゃない』って言ってくれた時」
そこで、とうとう涙がこぼれた。
「嬉しかったんです」
ユキトの喉が詰まる。
ヴォルカは泣きながら、でもしっかり言った。
「あなたが、ちゃんと生きる方を選んでくれて」
「私たちのことを置いて、自分だけで終わるんじゃなくて」
「そう言ってくれたのが……嬉しかったんです」
声が震える。
「だから余計に、腹が立つんです」
それはヴォルカにしか言えない怒り方だった。
責めたい。
でも嬉しかった。
嬉しかったからこそ、もっと腹が立つ。
その矛盾が、そのまま彼女の気持ちだった。
ユキトは視線を落とす。
「……悪い」
「謝ってほしいんじゃありません」
ヴォルカは涙を拭った。
「今はまだ、許せません」
「……ああ」
「でも」
そこで一歩だけ近づく。
「だからって、一人にしていい理由にもなりません」
その言葉を最後に、ヴォルカは少しだけ横へ退いた。
次に前へ出たのはフローラだった。
ヴォルカより静かだった。
けれど、その静けさは冷たさというより、感情をちゃんと押さえている人の静けさだった。
フローラはユキトの前まで来ると、傷をひと目見て、静かに言った。
「応急処置だけします」
ユキトは反射的に返す。
「いらない」
フローラの手が止まる。
「……そうですか」
それだけ言って、本当に手を引いた。
ユキトは少しだけ目を上げる。
断れば、いつものように押し切ってくると思っていたのかもしれない。
けれどフローラは、無理には触れなかった。
その代わり、まっすぐにユキトを見る。
「言いたいことは、たくさんあります」
「……だろうな」
「正直に言えば、かなり怒っています」
声は穏やかだった。
でも、その穏やかさの奥にあるものははっきりしていた。
「隠していたこともそうですし、ミラさんにしたことは、見ていて本当にひどかったです」
ユキトは目を逸らす。
「……ああ」
フローラは続ける。
「軽蔑もしています」
それは静かな言い方だった。
だからこそ、余計に重かった。
「でも」
そこで少しだけ、フローラの表情がゆるむ。
優しく笑う、というほどではない。
ただ、完全に閉じていた扉が、少しだけ開いたような変化だった。
「最後に、ナナを壊さない方を選んだことは見ていました」
ユキトは何も言えない。
「だから全部帳消し、とはもちろん言いません」
「……分かってる」
「今まで通りにも、たぶんなれません」
「……ああ」
「すぐに許せるとも思っていません」
フローラはそこで一度、静かに息をついた。
「でも、あなたが最後に選んだことには意味があります」
その言葉に、ユキトの指先がわずかに動く。
フローラは言う。
「あなた、自分が悪いから死んで終わればいい、とは言いませんでしたよね」
「……」
「ちゃんと、生きて向き合う方を選びました」
「それは、私には大きかったです」
ユキトはゆっくりと顔を上げる。
フローラの瞳はまだ厳しい。
でも、その厳しさは見限るためのものではなかった。
「私は、そういうところまで全部含めて見ています」
「最低だったことも」
「それでも最後に踏みとどまったことも」
少し間を置いてから、フローラは言った。
「だから、今ここであなたを切り捨てる気はありません」
その言い方が、フローラらしかった。
優しすぎない。
でも、はっきりと残る。
ユキトは喉を鳴らす。
「……そうか」
「ただし」
フローラの声が少しだけ強くなる。
「これで終わりだとは思わないでください」
「今日のことは消えません」
「ミラさんのことも、あなたが隠していたことも、私の中にはちゃんと残ります」
「……ああ」
「そのうえで、これからどうするかを見ます」
その言葉は、赦しではなく猶予だった。
けれど今のユキトには、それで十分すぎるほど重かった。
フローラはもう一度ユキトの傷に目を落とす。
「……それで」
少しだけ声がやわらぐ。
「本当に応急処置もいりませんか?」
ユキトは一瞬だけ黙る。
それから、小さく首を振った。
「……頼む」
フローラはそこで初めて、ごくわずかに表情を和らげた。
「はい」
白い光が手のひらに宿る。
柔らかく、あたたかな光だった。
痛みを全部消すような力ではない。
けれど血を止め、今すぐ倒れない程度には支える光だった。
傷に手をかざしながら、フローラは静かに言う。
「これは、許したという意味ではありません」
「……分かってる」
「生きて、ちゃんと向き合ってくださいという意味です」
ユキトは目を閉じた。
「……ああ」
短い返事だった。
けれど、さっきより少しだけ真っ直ぐだった。
治療を終えたフローラは、そっと手を引く。
「帰ってから、ゆっくり考えてください」
「考えることは、たくさんありますから」
その言葉は厳しい。
けれど、突き放してはいなかった。
最後に近づいてきたのはネムリアだった。
いつものように、気配が薄い。
けれど今は、その薄さが逆に鋭かった。
ネムリアはユキトの正面まで来ると、しばらく黙って彼を見下ろした。
何も言わない。
ユキトも何も言えない。
沈黙。
その沈黙のあと、ネムリアは小さく口を開いた。
「……かくしてた」
「……ああ」
「みにくいの、しってたのに、かくしてた」
「……ああ」
「……さいてい」
ユキトは苦く息を吐く。
「知ってる」
ネムリアはその返事を聞いても、表情を変えなかった。
ただ、少しだけ首を傾ける。
「でも」
そこで一歩、近づく。
「にげなかった」
ユキトの目がわずかに揺れる。
ネムリアは続けた。
「ひとりで、かってに、おわるのも、やめた」
それはさっきのユキトの言葉そのものだった。
一番短いのに、一番核心だけを抜いていた。
ネムリアはじっと見つめたまま、最後に言う。
「……にげるな、こんどは」
その一言は、刃みたいだった。
優しくない。
慰めでもない。
ただ、核心だけを貫いている。
ユキトは、その言葉に返事をするまで少し時間がかかった。
逃げた。
隠した。
埋めた。
誤魔化した。
全部、本当だ。
だからこそ、その一言は容赦なく刺さる。
「……ああ」
ようやく出た声は、小さかった。
「もう逃げない」
ネムリアはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
それが満足なのか、不満なのかは分からない。
ただ、そのまま何も言わず、くるりと向きを変える。
そして。
いつもみたいに、当然の顔でユキトの背中にもたれた。
その重みが戻ってきたことに、ユキトは一瞬だけ息を止めた。
誰も、まだ許したとは言わない。
ヴォルカは怒っている。
フローラも厳しい。
ネムリアも容赦がない。
それでも。
誰も去らなかった。
ユキトは目を閉じる。
さっきまでより、胸の痛みが少しだけ違っていた。
消えたわけじゃない。
軽くもなっていない。
でもその痛みの中に、まだ前へ進めと言われている感覚が混じっていた。
ヴォルカがそっと言う。
「帰りましょう」
ユキトはすぐには頷けなかった。
帰る場所がまだあるのか。
自分にそんな資格があるのか。
そう思ってしまう。
だが、フローラが静かに続ける。
「帰ってから考えてください」
「考えることは、山ほどあります」
ネムリアが背中からぼそりと足す。
「……ぜんぶ、あとまわし、だめ」
それに、ヴォルカが小さく鼻をすすりながら言った。
「逃げないんでしょう?」
ユキトは目を開ける。
三人は、そこにいた。
怒っている。
傷ついている。
軽蔑もしている。
それでも、ここにいる。
「……ああ」
今度の返事は、少しだけはっきりしていた。
「帰る」
その言葉を合図にするように、四人はゆっくりと森を歩き出す。
封印柱は消えた。
埋めて誤魔化した過去も、もうない。
残ったのは、失ったものと、残されたものだけだった。
それでもユキトは歩いた。
背中の重みと、隣を歩く気配を感じながら。
もう逃げないために。




