36.何それ怖い
三人の気配を背中に感じながら、ユキトは山道を歩いていた。
先頭はいつも通り自分だ。
木の根が土の下で盛り上がっている。
少しでも踏み方を誤れば足を取られる。
昨夜の雨で地面はまだ湿っていて、斜面側の土も緩い。
落石があるなら、最初に受けるのは自分。
罠があるなら、最初に踏むのも自分。
待ち伏せがあるなら、最初に狙われるのも自分。
前衛なんてそんなものだ。
だが、今日はそれだけではなかった。
先に立って歩いていないと、後ろを振り返るのがきつかった。
エルフィアを抜けた。
森を越えた。
もう戻る理由はない。
それなのに、胸の奥にはまだあの場所の湿った空気がへばりついていた。
ミラの顔。
ナナの声。
自分の口から出た、どうしようもなく最低な本音。
全部、残っている。
背後から足音が続く。
ヴォルカ。
フローラ。
ネムリア。
三人ともいる。
けれど、以前のような空気ではなかった。
会話は必要最低限。
足場が悪ければ短く告げる。
枝が視界を塞げば、そこだけ伝える。
魔物の気配があれば、そちらを見る。
それだけだ。
ヴォルカは黙っている。
怒りが消えたわけではないのだろう。
フローラも必要なことしか言わない。
ネムリアも、前のように当然の顔で背中に寄りかかってきたりはしなかった。
形だけは、いつも通りだった。
でも空気は戻っていない。
それで当然だとユキトは思っていた。
軽蔑された。
傷つけた。
隠していた。
あんなものを見せた。
すぐ元通りになれるわけがない。
前だけを見て歩きながら、ユキトは一度だけ浅く息を吐いた。
リュシアのことも、頭の端には残っていた。
いなくなったこと自体は、これでよかったのだと思う。
子供の面倒みたいなものは終わった。
あいつまで抱え続けていたら、いずれもっと面倒になっていた気もする。
変な未練を持たれる前に離れた方がいい。
そういう意味では、間違ってはいない。
ただ。
最後に見せたものだけは、本気で悪かった思う。
今さらそこだけ綺麗に切り分けられるほど、自分は器用ではない。
山道は徐々に細くなり、木々の密度も少しずつ薄くなっていく。
尾根へ向かう道だ。
この先を越えれば、人里のある側へ抜けられる。
今の目的はそれだけだった。
エルフィアを離れる。
人間の街へ出る。
その先をどうするかは、まだ決めていない。
その時だった。
先を歩いていたユキトの足が止まる。
「……なんだこれ」
低く呟く。
道の先、木々の間に不自然な開け方をした空間があった。
近づくにつれて、それがただの空き地ではないと分かる。
地面が大きく抉れている。
土が捲れ、岩盤が露出し、何か巨大なものが叩きつけられたような窪みがいくつも並んでいた。
何本もの木が根元からへし折れている。
岩肌には深い爪痕。
黒く焼け焦げた跡まで残っていた。
魔物が暴れたにしては規模がでかすぎる。
後ろの三人も足を止めた。
ヴォルカがわずかに息を呑む。
フローラの視線が周囲を一周する。
ネムリアも珍しく眠そうなまま黙ってその跡を見ていた。
「……竜、ですか」
ヴォルカが小さく言った。
ユキトは焼け焦げた木の幹に手を触れ、乾いた炭を指先で崩す。
「でかいのがやり合ったな。魔物じゃねえな、これ」
「……まだ近いです」
フローラが静かに言う。
「気をつけてください」
ユキトは短く頷いた。
竜同士の争いか。
縄張りか。
そういう類だろうと思い覗いてみることにした。
痕跡は尾根の向こうへ続いていた。
四人は言葉少なにそれを追う。
斜面を登り、崩れた岩場を越え、息を潜めながら最後の木立を抜ける。
その先で、ユキトは岩陰に身を寄せた。
谷向こう。
そこにいた。
二頭の竜。
一頭は赤い。
小柄だった。
細身で、若い。
燃えるような赤鱗をしているが、体格の時点で分かる。格下だ。
もう一頭は青い。
大きい。
雄の体つきで、骨格から違う。
厚みのある胸、太い四肢、重い首。戦い慣れているのが遠目にも分かった。
見た目だけでも差は明白だった。
青い竜が踏み込む。
その一歩だけで、谷の地面が震えた。
赤い竜が正面から受ける。
だが押し返せない。
爪と牙で食らいついても、青い竜の方が一枚上だった。
「……青の方が強いな」
ユキトが小さく呟く。
赤い竜も食らいついてはいる。
諦めてもいない。
だが押し返せない。
真正面からでは、どう見ても勝てない。
そのはずなのに。
見ているうちに、ユキトは眉を寄せた。
「……なんで今ので決めねえ」
青い竜の牙が喉元へ届く。
砕ける位置だ。
だが、最後だけわずかに逸れる。
次の一撃もそうだ。
首を落とせる軌道に入っているのに、寸前で崩す。
赤い竜も同じだった。
必死に食らいついている。
なのに決定打だけは、妙に入れない。
殺し合いにしてはおかしい。
「……なんだこれ」
ユキトがそう漏らした時だった。
後ろの三人の空気が変わった。
ヴォルカがびくりと肩を震わせる。
見れば、耳まで赤くなっていた。
フローラは平静を装っていたが、目元が明らかに揺れている。
ネムリアも眠そうなままではあるが、どこか落ち着かないように視線を逸らした。
ユキトはそちらを振り返る。
「……なんだよ」
誰もすぐには答えない。
その間にも谷向こうの戦いは続いていた。
押されていた赤い竜が、突然、大きく息を吸い込む。
次の瞬間。
咆哮。
それまでとはまったく違う声だった。
威嚇でも悲鳴でもない。
谷の空気そのものを揺らすような、妙に耳の奥へ残る響き。
ぞわり、とユキトの背中を何かが這った。
空気が変わる。
青い竜の動きが、その一瞬だけ止まった。
「……は?」
赤い竜の圧が変わっていた。
さっきまでの、若くて格下の竜のものではない。
何か別の質に変わったような、圧。
次の踏み込みで赤い竜が青い竜を押し返す。
土が爆ぜる。
岩が砕ける。
さっきまで押される側だった赤い竜が、今度は逆に押し込み始めていた。
青い竜が本気で受けに回る。
爪で受け、肩で受け、体ごと捻って流す。
明らかに余裕が消えた。
それでも赤い竜は止まらない。
何度弾かれても食らいつく。
重さが違う。
執念が違う。
青い竜が徐々に、確実に押され始める。
ユキトは目を見開いた。
「……なんだこれ」
今度の声には、さっきよりはっきりした驚きが乗っていた。
答えたのはフローラだった。
言いづらそうに、ほんの少しだけ視線を逸らしながら。
「……求愛モードです」
「は?」
ユキトが振り返る。
ヴォルカが真っ赤になったまま、小さく口を開いた。
「り、竜の……求愛行動の、一つです……」
「求愛?」
意味が分からず、ユキトの顔が露骨に歪む。
フローラが咳払いをひとつした。
平静を保とうとしているのが逆に分かる。
「普段の格では相手にされない竜でも、格上に伴侶を迫るための、最終手段のようなものです」
「……迫る?」
「ただ好きだと示すだけではありません」
フローラは谷向こうから目を逸らせないまま続ける。
「相手に、伴侶として受け入れるか、打ち負かして拒絶するかを迫る形です」
ユキトはしばらく黙った。
谷向こうでは赤い竜がさらに押し込み、青い竜の体勢を崩している。
「……で」
嫌な予感しかしないまま、ユキトは聞く。
「負けたらどうなるんだ」
今度はヴォルカが答えた。
耳まで赤い。
目も泳いでいる。
それでも言わなきゃいけないから、泣きそうな顔で言う。
「ま、負けた側は……勝った側を伴侶として受け入れます」
「……は?」
「生活の主導権も、基本的には勝った側です」
「主導権?」
フローラが小さく息を吐く。
「人間で言えば……その、相手に尻を敷かれるような形です」
「強制かよ」
「……そうです」
短く、フローラが言う。
ネムリアがぼそりと足す。
「……くつがえらない」
ユキトの顔がますます引いた。
フローラはさらに言いづらそうに続ける。
「竜の番は、基本一人です。ですからとても重いものです。軽い気持ちで使うものではありません」
「一人」
「はい」
「……で、既に伴侶がいる場合は」
そこまで言ってから、フローラは一瞬だけ言葉に詰まった。
ヴォルカが目を逸らす。
ネムリアは無表情のまま、やっぱり少しだけ落ち着かない。
結局、答えたのはフローラだった。
「最悪です」
「雑だな」
「雑ではありません」
即答だった。
いつもより少し強い。
「既に伴侶がいる相手にこれを使うのは、奪う形になります」
「……ああ」
「奪われた側は、まず黙っていません」
「そりゃそうだろうな」
「その後は決闘になります」
「竜同士で?」
「はい」
「で、勝った方が取る?」
「そうです」
「負けた方は?」
「……普通は、死ぬまでやります」
ユキトは一瞬だけ無言になった。
谷向こうでは、赤い竜が青い竜の肩口へ食らいつき、そのまま地面へ叩き伏せる。
青い竜が受け身を取って転がる。
だが立ち上がるより先に、赤い竜がさらに踏み込んだ。
「……何それ」
まだ、この段階ではそこまでだった。
怖いは怖い。
重いのも分かる。
だがどこか遠い。
竜の話だ。
そう思っている。
その認識が壊れたのは、次の瞬間だった。
青い竜が地に伏す。
赤い竜がその喉元を制した。
勝負がつく。
谷に一瞬だけ静寂が落ちた。
やがて二頭の姿が揺らぎ、竜形態が解ける。
現れたのは、赤髪の少女だった。
若い。
小柄だ。
ぼろぼろで、傷だらけで、息も荒い。
けれど顔は――勝利でいっぱいだった。
青い方は年上の青年だった。
体つきは鍛えられている。
普段なら余裕のある強者なのだろうと分かる顔立ちだ。
だが今は消耗しきり、肩で息をしていた。
赤い少女はふらつきながらも、嬉しそうに青年へ駆け寄る。
「やった……勝った」
「ほんとに、勝っちゃった……!」
そのまま、ぼろぼろの体で青年に抱きついた。
「これで決まりだね、旦那様」
青年は息を切らしたまま目を見開く。
「……ああ、分かってる」
声は掠れていた。
意味を知らない顔ではない。
受け入れざるを得ないことも、理解している顔だった。
だが。
少女はそれで終わらなかった。
「ふふ、うれしい」
「これから朝も昼も夜も、ずーっと一緒だね」
青年の表情がわずかに引きつる。
「……まあ、それは……そうだな」
「うん! それでね――」
少女は花でも摘むみたいな明るさで、次々に言葉を重ねた。
「これからは旦那様の予定、わたしが決めるね」
「勝手にどこか行くのなし」
「ひとりで抱え込むのもなし」
「知らない女に愛想振りまくのはもっとなし」
青年の眉がぴくりと動く。
「……待て」
「うん?」
「予定、全部か?」
「うん、全部」
にこにこしながら、少女は即答した。
「だって旦那様、放っておいたらすぐどっか行きそうだし」
「ちゃんと見てないと危ないもん」
「いや、そこまで管理されるものなのか……?」
もう一段、青年の顔色が悪くなる。
少女はまったく悪びれず、嬉しそうに続ける。
「安心して、ちゃんと大事にするよ?」
「ごはんも寝る場所も、体調も、ぜんぶ見てあげる」
「朝はちゃんと一緒に起きて」
「夜は、わたしより先に寝ないでね」
「あと、外に出る時は一言ちょうだい」
「できれば手も繋いでほしいな」
「それと女の人と二人きりはだめ」
「……おい」
「なに、旦那様?」
少女は小首を傾げる。
無邪気で、嬉しそうで、逃がす気だけが一切ない笑顔だった。
青年の喉がひくりと鳴る。
「……条件、多くないか?」
「そう?」
「普通だよ?」
「普通じゃないだろ……」
「だって番だよ?」
「ちゃんと愛すよ?」
「わたし、やっと勝ったんだよ?」
そこに悪意はなかった。
本気で当然だと思っている顔だった。
それが余計に怖い。
「あとね」
少女はさらに抱きつく力を強める。
「知らないところで傷作って帰ってくるのもなし」
「隠し事もなし」
「勝手にいなくなるのはもっとなし」
「ちゃんと毎日、わたしの顔見て」
青年の顔が、目に見えて青ざめていく。
「……毎日?」
「毎日」
「ずっとか?」
「ずっと」
「……朝も昼も夜も?」
「うん、朝も昼も夜も」
「…………」
青年の顔から、みるみる余裕が消えていく。
理解はしていた。
受け入れなければならないことも分かっていた。
だが。
実際に突きつけられる。
これから先ずっと一緒。
生活の主導権は向こう。
番は一人。
逃げ道はない。
「これから末永く、よろしくね」
「わたしの旦那様」
少女が満面の笑みでそう言った時、
青年は本当に魂でも抜けたような顔になっていた。
「……何それ怖い」
本気で出た声だった。
ヴォルカとフローラがびくりとする。
ネムリアだけが瞬き一つせず谷向こうを見ていた。
ユキトはゆっくりと三人を振り返る。
「……いや、待て」
嫌な汗が出る。
「まさかお前ら、俺相手にああいうのやりたいとか言わないよな」
三人とも固まった。
「……さすがにないよな?」
淡い希望を込めた確認だった。
その希望を最初に壊したのはヴォルカだった。
耳まで真っ赤。
目は泳ぎ、声は震え、今すぐ穴があれば入りたいみたいな顔をしている。
「そ、それは……」
「おう」
「……でも、やりたいです」
一瞬、空気が止まった。
言った本人が自分の発言を理解した次の瞬間、ヴォルカの顔が限界まで赤くなる。
「ち、違……違わないですけど……!!」
「うわっ」
ユキトが本気で引く。
フローラは顔を伏せて、こめかみを押さえた。
かなりきつそうだが、逃げずに答える。
「……本来、伴侶と認めた相手になら、考えないわけではありません」
「お前もかよ」
「ただし」
フローラはそこで顔を上げる。
いつもの静けさに戻ろうとしているが、頬はうっすら赤い。
「あなた相手にやれば、あなたが死にます」
言い切った。
「そこは断言なんだな……」
「断言できます」
ネムリアがぼそりと言う。
「……したら、しぬ」
「お前まで」
「……はずかしい」
「いやそっちかよ」
ユキトは頭を抱えたくなった。
「待て待て待て、俺相手にやったら本当に死ぬだろ」
誰も否定しない。
ヴォルカは真っ赤なまま俯き、
フローラは視線を逸らし、
ネムリアは淡々とした顔で立っている。
したくないわけではない。
できないのだ。
その事実が、変な冗談みたいに見えて、全然笑えなかった。
ユキトはゆっくりと息を吐く。
本来、竜の伴侶には返す形がある。
受ける形がある。
答える形がある。
命をかけて選ぶ形がある。
でも自分には、それが何一つできない。
人間だ。
戦闘力一だ。
最初から土俵に立てていない。
三人が向けてくれているものに対して、自分が本来の意味で返せるものは何一つない。
それなのに。
三人はまだ隣にいる。
怒りも。
軽蔑も。
傷も。
何も消えていないはずなのに、それでも一緒にいる。
なら、自分に返せるものは何か。
大した答えは出ない。
綺麗な言葉も出ない。
上手いやり方も分からない。
でも、何もしないよりはましだと思った。
その時、ユキトの脳裏に一つの街が浮かんだ。
山を越えた先にある人間の街。
花の街リリウム。
去年の春先、まともにデートらしいことをした街だ。
……そういえば。
そこでユキトはふと気づく。
もうすぐ春だった。
思い出し方は最悪だった。
竜の求婚を見て、
番だの旦那様だの朝も昼も夜もだのを聞かされて、
その流れで季節を思い出すとか、どう考えても嫌すぎる。
なんで春の気配をそんなので思い出さなきゃならないんだ、と自分でも思う。
けれど、そういえばこの時期だったな、と妙に納得してしまった。
祭りも近いはずだ。
ユキトは前を向いたまま言った。
「……山越えたら、街に寄るか」
三人が少しだけこちらを見る気配がした。
「リリウム」
短く、それだけ言う。
「そういえば、もうすぐ春だったな」
「祭りの時期だろ、たぶん」
ヴォルカはまだ顔が赤いままだったが、しばらく黙ってから言う。
「……行くのは、別にいいです」
ぎこちない。
でも拒絶ではない。
ネムリアが小さく言う。
「……ことしも、いく?」
「そのつもりだ」
ユキトが返す。
フローラは一拍置いてから口を開いた。
「一度でどうにかなると思わないでください」
「思ってねえよ」
ユキトはすぐに答えた。
フローラはその返事を聞いて、少しだけ目を伏せる。
「……なら、構いません」
それで決まった。
四人は再び歩き出す。
谷の向こうでは、赤い少女の明るい声がまだかすかに響いていた。
旦那様、旦那様と嬉しそうに呼ぶ声に、青年の青ざめた顔が妙に焼きついて離れない。
ユキトは歩きながら、胸の中にいくつものものを抱えたままだった。
求愛モード。
竜の伴侶の本来の形。
自分には返せないもの。
それでも歩くしかない。
何もしないまま立ち止まるよりは、ずっとましだ。
山の向こうには花の街リリウムがある。
だがこの時、四人はまだ知らない。
そこで自分たちの名前と顔が、別の意味で広がっていることを。
山風が吹き抜ける。
ユキトは先頭のまま、前だけを見て歩いた。
今度こそ、逃げないために。




