32.アッシュ
森の奥は、昼だというのに薄暗かった。
枝葉が幾重にも天を覆い、差し込む光を細く裂いている。
湿った土の匂い。
朽ち葉の沈む感触。
時折吹く風だけが、梢を揺らしてかすかな葉擦れの音を立てていた。
その奥。
木々が円形に途切れた空間の中央に、それは立っていた。
巨大な封印柱。
白とも灰ともつかない石質の柱は、真っ直ぐ空へ伸びている。
かつては何かが刻まれていたのだろう。柱の正面には古代文字らしき溝が残っていたが、その大半は厚い苔と長年の風化に覆われ、もうまともには読めない。
柱の根元には、不自然な盛り土があった。
土。
石。
折れた枝。
積もった葉。
森の地形に紛れるほど馴染んでいる。
だがよく見れば、誰かが意図して埋めた痕跡だとわかる。
その痕跡を見て、ヴォルカが小さく眉をひそめた。
「……ここ、なんですね」
ユキトは答えなかった。
答える代わりに、ただ封印柱を見上げていた。
昔、自分で土をかけた場所。
その時はただ、面倒ごとを埋めて忘れるつもりだった。
まさか一年後、自分の足でここへ戻ってくることになるとは思ってもいなかった。
ネムリアが背中からぽつりと呟く。
「……おおきい」
フローラは静かに柱へ近づき、表面に手をかざした。
「術式はまだ生きています」
その声は落ち着いていた。
だが、ユキトの横顔を見た時だけ、ほんの少しだけ冷たくなる。
ここへ来る前、ユキトは四人に話していた。
昔、自分が封印された危険なエルフを見つけたこと。
そして解かずに埋めたこと。
その理由は軽蔑されて当然のものだったし、実際に軽蔑もされた。
それでも一応、危険な相手だからと不用意に解かなかったという一点だけは、理屈として受け止められていた。
だが、ユキトはそのすべてを話してはいない。
リュシアが腕を組んだまま言う。
「で、これを解くのね」
ユキトは短く頷いた。
「ああ」
「いまさら逃げないのね」
「逃げない」
返事は短かった。
けれどその声には、逃げたい気持ちを押し殺している硬さがあった。
フローラが振り返る。
「解きます」
ユキトは一拍置いてから答えた。
「頼む」
フローラはそれ以上何も言わず、封印柱の前に立った。
両手を胸の前で重ねる。
白く細い指先に、花聖の光が灯った。
柔らかい光だった。
破壊のための力ではない。
閉じられたものを傷つけずにほどいていく、静かな力。
柱の表面に淡い光が走る。
苔の下、風化した古代文字の溝に沿って、青白い線が一本ずつ点いていく。
長く眠っていた術式が、ゆっくりと目を覚ますようだった。
ミシ、と低い音が響く。
ヴォルカが息を呑む。
リュシアが目を細める。
ネムリアは無言のまま、じっと見ている。
フローラは集中したまま囁くように言った。
「……強引に壊すのではありません。絡まった結び目を、一つずつ……」
パキン、と乾いた音。
柱の表面に細いひびが走る。
だがそれは乱暴な破壊の亀裂ではない。
閉じた花がゆっくりと開いていくような、整った変化だった。
光が強くなる。
森が真白に染まり、衝撃が木々を揺らす。
枝葉がざわめき、盛り土の上の枯葉が舞い上がる。
白い閃光の中で、柱の輪郭そのものがいったん溶けた。
そして。
やがて静寂が戻った時、そこに立っていたのは二つの影だった。
一人は、銀色の長い髪。
透き通るように白い肌。
尖った耳。
もう一人は、灰色の長い髪。
淡い灰銀の瞳。
小さな角と、しなやかな尾。
ヴォルカが目を見開く。
「……ドラゴン!?」
リュシアの顔色が変わる。
フローラの表情から、最後の穏やかさが消えた。
ネムリアだけが、静かに瞬きをした。
最初に飛び出したのは、灰色の少女だった。
「――アッシュ!」
叫ぶような声。
灰色の髪を揺らし、彼女は一直線にユキトへ駆けた。
迷いがない。
疑いもない。
そのまま勢いよく胸へ飛び込み、両腕で抱きつく。
「来てくれた……!」
声が震えている。
泣き笑いのような、壊れそうなくらい嬉しそうな声だった。
「来てくれたんだね……! お姉ちゃん、ずっと待ってたんだよ……!」
その場の空気が、止まった。
ユキトの体が固まる。
ヴォルカが息を止める。
フローラの瞳が静かに細くなった。
ネムリアは無言。
リュシアは一歩も動かず、冷えた目でその光景を見ていた。
ミラは気づかない。
「ナナは、来ないんじゃないかって言ってたけど……でも、でもアッシュならって、私――」
そこでようやく、ミラの言葉が止まる。
抱きついた相手の身体が、思い描いていたものと違う。
匂いも、骨格も、ぬくもりも。
ゆっくりと顔を上げる。
そこにあるのは、弟の顔じゃない。
ユキトだ。
灰銀の瞳から、みるみる色が抜けていく。
「……あれ」
小さな声だった。
「……ユキト?」
ユキトは答えられない。
ミラは離れなかった。
離れられなかった。
腕を解けば現実になるとでもいうように、指先だけが服を掴んだまま固まっていた。
その背後で、ナナが静かに言った。
「……やはり、そうですか」
最初からわかっていた顔だった。
ミラだけが信じていた。
ナナだけは最初から、目の前の男がアッシュではなくユキトだと理解していた。
そしてそのうえで、この瞬間を見守っていた。
リュシアが低く言う。
「……最悪」
ヴォルカの唇が震えた。
「ユキトさん……この人……」
フローラは淡々と続ける。
「意図的に隠していたのですね」
ユキトは何も言わなかった。
だが、その沈黙で十分だった。
ミラがようやく、ふらつくようにユキトから離れる。
嬉しさと困惑と、理解したくない現実がぐちゃぐちゃに混ざった顔だった。
「……違うの?」
その問いに、ユキトはすぐ答えられなかった。
喉が塞がっている。
何を言っても、今さらまともな言葉にはならないとわかっていた。
それでも、言わなければならない。
ミラは泣きそうな顔で続けた。
「……そっか、ユキトか」
「でも私、約束、覚えてたよ」
ユキトの肩が揺れた。
「封印された爆乳ドラゴン娘ならヒロインにしてあげるって……面白い人だなって思ったけど、でも……」
そこで言葉が途切れる。
笑おうとして失敗したような、壊れた顔になる。
「……あれ、冗談じゃなかったから」
ヴォルカが、はっと息を止めた。
フローラは目を閉じる。
そして、開いた時にはもう完全に理解していた。
ネムリアがぽつりと呟く。
「……さいてい」
短い。
だが、逃げ道のない一言だった。
リュシアは、顔を歪めた。
最低。
本当に最低だ。
こんな男を、一瞬でもいいと思った自分が、心の底から恥ずかしかった。
ナナが一歩、前へ出る。
「ミラがこの一年、どんな気持ちであなたを待っていたと思っているんですか」
声は大きくない。
だが、広間の空気を切り裂くには十分だった。
「戻ってこないと口では言っても、信じていなかったわけではありません。呆れながらも、馬鹿だと言いながらも、この人は待っていた」
ナナの銀の瞳が、まっすぐユキトを射抜く。
「なのにあなたは、来た瞬間にそれを壊すんですか」
ミラが何か言おうとした。
だが、ナナは止まらない。
「思わせぶりなことだけ言って、期待だけ持たせて、封印の中に置き去りにした」
「そのうえ一年後、ようやく来たと思ったら、今度は受け入れられないと切り捨てる」
「あなた、自分が何をしたのか、分かっていますか?」
ユキトは答えなかった。
いや、答えられなかった。
全部その通りだった。
反論の余地なんて、どこにもない。
ミラが小さく言う。
「……ユキト」
その声に、ユキトは少しだけ顔を上げた。
だが、視線はミラまで届かない。
「俺には……もう、これ以上、人を愛せない」
その言葉は、広間に落ちた瞬間、何もかもを決定的にした。
ミラの顔から、最後の希望が消える。
泣くことすら忘れたような顔だった。
傷ついた、というより、心のどこかがその場で崩れ落ちたような顔。
呆然と立ち尽くしていた。
ヴォルカが小さく息を呑む。
「……そんな」
フローラは何も言わなかった。
ただ、その沈黙がどんな言葉より重かった。
ネムリアはユキトを見たまま、もう一度だけ呟く。
「……ほんとに、さいてー」
リュシアは唇を噛んだ。
最低だ。
本当に最低だ。
思わせぶりなことだけ言って。
待たせるだけ待たせて。
会いに来たと思ったら、それを切る。
そんな男を、自分は少しでもいいと思っていたのか。
胸の奥が冷たくなる。
恥ずかしさと嫌悪が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
ナナの目が、さらに鋭くなる。
「それが、あなたの答えですか」
ユキトは何も言わない。
言い訳をしようと思えば、できたかもしれない。
守りたい相手がいるとか。
もう抱えきれないとか。
これ以上誰かを傷つけたくないとか。
だが、そんなものは全部、今さらだった。
ナナが吐き捨てるように言う。
「死ねばいいのに」
低く、はっきりした声だった。
その一言で、森がさらに静まった気がした。
ユキトは、その言葉を真正面から受けた。
死ね。
そう言われて当然だと思った。
むしろ、その方が自然だとさえ思った。
ここで殺されても文句は言えない。
ミラにしたことも、隠していたことも、何一つ弁解できない。
けれど。
その瞬間、頭の奥に別の感覚が戻ってくる。
ここに来た理由は何だったのか。
死ぬためじゃない。
逃げないためだ。
ミラからも。
ナナからも。
自分がずっと埋めてきた醜い過去からも。
そして何より――目の前のエルフは、今なお世界そのものを脅かしうる危険だ。
ユキトは、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺が殺されても、文句は言えない」
低い声だった。
「ミラにしたことも、黙ってたことも、全部俺の罪だ」
ヴォルカが小さく息を呑む。
フローラは黙ったまま聞いている。
ネムリアは瞬きひとつせず見ていた。
ユキトは続ける。
「恨まれて当然だ。許される資格があるとも思ってない」
ナナの目は冷たい。
それでもユキトは逸らさなかった。
「……でも、まだ死ねない」
空気が揺れる。
「お前を壊さなきゃ、世界が壊れる」
ナナの眉がぴくりと動いた。
ミラは、呆然としたまま、かすかにユキトを見る。
「今ここで諦めて終わる方が、もっと不誠実だ」
「俺はもう、一人で勝手に終わっていい立場じゃない」
ヴォルカの瞳が揺れる。
フローラが静かに顔を上げる。
ネムリアは無言のまま聞いていた。
「守りたい相手がいる」
「生きて向き合わなきゃいけない相手がいる」
「だから俺は、ここで死ぬわけにはいかない」
そして前を向いたまま言う。
「フローラ。回復は不要だ、加護も切ってくれ」
フローラの唇がわずかに動く。
だが何も言わない。
ヴォルカがはっと顔を上げた。
「ユキトさん、それは……!」
ネムリアもわずかに目を細めた。
それはただの支援ではない。
一度外せば、二度と付け直せない、一度きりの加護だ。
ユキトは遮る。
「お前たちを拒むんじゃない」
その言葉に、ヴォルカが詰まる。
「これ以上、お前たちの優しさに隠れて立つわけにはいかないだけだ」
「これは俺の罪だ」
「俺が引き受ける」
「だから」
「俺一人で決着を着ける」
沈黙。
次の瞬間。
ナナが笑った。
笑ったというより、唇を吊り上げた。
怒りと軽蔑と、どうしようもない憎しみが混ざった、冷たい笑み。
「……一人で決着を着ける?」
その声には温度がなかった。
「よくもそんな都合のいいことが言えますね」
ユキトは黙って受ける。
ナナはミラをそっと後ろへ下がらせた。
ミラはまだ呆然としたままだ。
泣くことすら、少し遅れている。
ナナが一歩、前へ出る。
「殺されても文句は言えない。でも死ぬつもりはない」
「生きなきゃいけない」
「守りたい相手がいる」
その言葉を、嘲るように繰り返す。
「――ふざけないで」
声が低くなる。
「そんなの、あなたの事情でしょう?」
「ミラがどんな気持ちで待っていたと思ってるの」
「……あなたには何を言っても無駄だと思いますがもう一度いいます」
「来ないかもしれない、戻らないかもしれない。そう言いながら、それでも、来るかもしれないって信じてた」
「馬鹿みたいに、ずっと」
「ずっと、ずっと」
ナナの目には涙が滲んでいた。
怒りだけではない。
同じ封印の中で過ごした一年が、その声に乗っていた。
「ミラは一度だって、あなたを笑わなかった」
「呆れても、馬鹿だと言っても、信じるのをやめなかった」
「来たらどんな顔をしよう、何を話そうって、何回も何回も」
声が震える。
「それを、あなたは――」
そこでとうとう、怒声になった。
「ヒロインにしてあげるだの、採用だの、そんな軽い言葉で縛っておいて!!」
「来たと思ったら振るって何ですか!?」
「こんな残酷なことをしておいて、まだ自分は生きる責任がありますなんて、よく言えますね!!」
ユキトは唇を噛む。
反論はない。
一つもない。
ナナはミラを後ろへ下がらせ、静かに告げた。
「……いいでしょう」
その声音が逆に静かで、余計に恐ろしかった。
「生きなきゃいけないっていうなら、生きるために戦いなさい」
「でも勘違いしないでください」
「これは贖罪でも、覚悟の証明でもない」
「ただ、あなたが踏みにじったものの重さを、少しでもその身で知るための時間です」
ナナの魔力が広がる。
空気が軋む。
木々の葉がざわめく。
封印の残滓に反応するように、周囲の土がかすかに浮き上がった。
ヴォルカが反射的に一歩出かける。
だがフローラがその腕をそっと掴んで止めた。
「フローラさん……!」
フローラは静かに首を振る。
「ここは、止めてはいけません」
ネムリアも動かない。
眠たげな目の奥だけが、鋭く光っていた。
ユキトは深く息を吐いた。
震えている。
怖くないはずがない。
それでも、足は引かない。
「来い」
短く言う。
ナナの目が細くなる。
「……後悔しても遅いですよ」
ユキトは歯を食いしばって答える。
「後悔はしない」
その返しに、ナナが一瞬だけ目を見開いた。
だが次の瞬間には、怒りがそれを塗り潰した。
魔力が爆ぜる。
決闘が始まった。




