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31.夜の中へ消えた

そのあと、ユキトは旅館をでて夜の中へ消えた。


誰も呼び止めなかった。

呼び止めてはいけないと、全員が分かっていた。


露天から上がったあとも、部屋の空気はしばらく妙に静かだった。


湯気の熱がまだ肌に残っている。

障子の向こうでは雪が淡く降り続いていて、外の気配だけがやけに遠い。

さっきまで同じ湯にいたはずなのに、もうそれぞれが違う場所へ切り離されてしまったような、不思議な静けさだった。


最初に動いたのはヴォルカだった。


「……少し、風に当たってきます」


そう言って部屋を出ていく背中は、普段より少しだけ小さく見えた。


フローラは何も言わず、髪を拭く手を止めない。

ネムリアは布団の端に座り込んだまま、ぼんやりと湯上がりの火照りを逃がしている。

リュシアはまだ完全には涙を拭いきれていなかったが、それでももう誰かに縋るような空気ではなかった。


ただ、静かに座っていた。


痛い。

でも、それだけでは終わらない。


そんな夜だった。


ヴォルカ


ヴォルカは宿の渡り廊下の端まで歩いて、そこでようやく足を止めた。


冷たい夜気が、湯上がりの熱を少しずつ奪っていく。

けれど頭の中は、逆に熱く、散らかったままだった。


リュシアの泣き顔が離れない。


普段は勝ち気で、拗ねて、意地を張って、でもどこか真っ直ぐで。

そういうあの子が、あんなふうに声を震わせて泣くのは、見ていて苦しかった。


苦しかったのに。


「……聞きたかったんですね、私も」


小さく漏れた独り言は、すぐ白い息に混ざって消えた。


――あなたにとって、一番好きな人は誰なんですか。


あの問いは、リュシアだけのものではなかった。

あの場にいた全員の胸を、同じように刺していた。


聞きたくないはずだった。

そんなことを聞いて、誰か一人の名前が出たら、きっと苦しい。

壊れるものだってあるかもしれない。


それでも、聞きたかった。


もし自分の名前が呼ばれたら。

そう思ってしまった瞬間、胸の奥が小さく跳ねる。


そのことに気づいて、ヴォルカは目を伏せた。


「ひどいですね……」


リュシアが泣いていた。

あんなに痛そうだった。

そのすぐ隣で、自分はまだ、選ばれたいと思ってしまっている。


フローラはきっと強い。

少なくとも、自分よりずっと落ち着いて見える。

ああいう時も、感情に流されすぎない。

ちゃんと全部を見て、全部を分かったうえで黙っていられる。


ネムリアは、何を考えているのか分からない時がある。

でも、分からないからこそ怖い時もある。

静かで、何も欲しがっていないみたいに見えて、でも一番深いところを離さない。

あの子には、そういう重さがある。


そして自分はどうだろう。


寄り添ってきた時間はある。

助けられたことも、支えたこともある。

一緒に笑って、怒って、旅をしてきた。


でも、それで一番になれるのかと問われたら、急に分からなくなる。


一番になりたいのか。

それとも、今の形が壊れないことの方が大事なのか。


しばらく考えて、ヴォルカは小さく首を振った。


「……どっちも、ですね」


それが一番正直だった。


選ばれたら、嬉しい。

選ばれなかったら、きっと痛い。

でも誰か一人だけが選ばれて、他の誰かがこぼれ落ちる形も、怖い。


そんな都合のいい願いが許されるわけではないと分かっていても、そう願わずにはいられなかった。


廊下の先で風が鳴る。

ヴォルカは手すりに触れたまま、白い息を吐いた。


「明日……ユキトさん、何て言うんでしょう」


答えはまだない。

でも、明日には来る。


それを待つしかなかった。


フローラ


フローラは部屋の灯りを少し落とし、静かに髪を梳いていた。


濡れた髪が肩を滑り、指先に冷たく絡む。

普段と変わらない所作を保っているつもりだったが、胸の内側まで整えきれているわけではなかった。


一番。

随分と残酷な言葉だと思う。


誰が一番好きか。

その問い自体は単純だ。

子どもでも口にできる。


だが、単純だからこそ残酷だ。


複雑に積み重なってきた関係を、一つの序列に押し込めようとする。

近さも、重さも、時間も、傷も、全部を並べて比べようとする。


それでも、あの場であの問いが必要だったことも分かっている。


リュシアは逃げなかった。

そして、逃げなかった以上、あの子は最後まで見届ける側に立った。

その意味で、あの問いは礼儀だった。


フローラは静かに息を吐く。


自分があの子をそこへ追い込んだとは思わない。

決めたのはリュシアだ。

だが、隠れて済ませられない形に整えたのは自分だ。


その責任くらいは理解している。


だからこそ、自分もまた問われているのだと思った。


もし、ユキトが一人の名を挙げるとしたら。

自分はその名の中にいるのか。


理屈だけで考えるなら、材料はある。


一緒に過ごした時間。

旅の中で整えてきた関係。

言葉にしすぎない距離。

支えたことも、支えられたこともある。


だが、そんなものを並べて優劣をつけ始めた瞬間、何かが違う気もする。


ヴォルカにはヴォルカの強さがある。

優しさ、真っ直ぐさ、寄り添う力。

あの子は自分よりずっと感情に素直で、その分だけ相手を救う時がある。


ネムリアにはネムリアの深さがある。

静かで、眠そうで、曖昧に見えるくせに、一度根を張ると絶対に動かない。

あの子は順位という言葉に一番執着しないようでいて、実際には最も手放さない気がする。


そして自分は。


「……選ばれたいか、と問われれば」


否定はできなかった。


できるはずがない。


ただ、同時に分かってもいた。

ユキトは、誰か一人を指して済むほど単純な場所にはもう立っていない。


むしろ、それができるなら、ここまで面倒な男にはなっていない。


それが救いなのか、業なのか。

今夜のフローラにはまだ判断がつかなかった。


櫛を置き、障子の外の雪明かりを見る。


「……あなたがどう答えるにせよ」


小さく呟く。


「それで終わるような関係では、もうないでしょう」


それは信頼だった。

同時に、祈りに近いものでもあった。


ネムリア


ネムリアは先に布団へ入った。


けれど、眠ってはいなかった。


薄い布団の中で、目だけを開けている。

湯上がりの体は温かいのに、胸の奥のどこかだけが少し落ち着かなかった。


――いちばん。


頭の中で、その言葉を何度も転がす。


よく分からない。

でも、あまり好きな感じはしなかった。


だれか一人。

のこりはちがう。

そういう感じがしたから。


リュシアは泣いていた。

あれはきっと、かなり痛い。

ヴォルカも揺れている。

フローラは静かだったけど、静かだから何もないわけじゃない。


ネムリアは布団の端を少しだけ握る。


自分が一番かどうかは、よく分からない。

そういう順番の言葉に、あまり実感がない。


でも、一つだけ分かることがある。


あの人がいなくなるのは嫌だ。

自分がいないところへ行くのも嫌だ。

だれか一人のものになる、みたいなのも嫌だ。


それが独占欲なのかどうかは分からない。

でも、言葉にする前に答えだけは出ていた。


「……となりがいい」


ぼそっと零れた声は、布団の中に吸い込まれる。


ヴォルカは優しい。

フローラは正しい。

どっちも分かる。


でも、自分はたぶんそのどちらとも違う。


優しく譲れないし、正しく整理もできない。

ただ、静かにそこにいて、離れたくないと思っているだけだ。


それで十分だとも思う。

十分じゃないのかもしれないとも思う。


少しだけ、眠りたくなかった。


明日の答えを、まだ聞きたくない気もした。


それでも、明日は来る。

ネムリアは目を閉じたまま、小さく息を吐いた。


部屋の中に戻った三人は、結局その夜、深くは語らなかった。


言葉にすれば壊れそうなものが、今はまだ多すぎた。


そしてその頃、ユキトは宿の裏手へ続く小さな坂を上がっていた。


誰もいない場所だった。

木立の向こうから、フィオラの灯りがぼんやり見える。

湯煙が夜の空気に溶けて、街全体が淡く霞んでいた。


冷たい風が頬に当たる。

湯上がりの熱が抜けていく。

それでも頭の中は、少しも静かではなかった。


――あなたにとって、一番好きな人は誰なんですか。


あの問いが、まだ耳の奥に残っている。


簡単に答えられると思っていたわけではない。

でも、ここまで詰まるとも思っていなかった。


誰か一人を選ぶ。

たったそれだけの形に、どうしても今の自分が収まらない。


ユキトは息を吐き、近くの岩に腰を下ろした。


静かな暮らしが好きだったはずだ、とふと思う。


一人の方が楽だった。

誰にも踏み込まれず、誰にも期待せず、誰も待たない。

そういうものだと思っていた。


家でもそうだった。


父親はほとんど家にいなかった。

家の中にいても、いる感じがしないことの方が多かった。


母親は違った。

ちゃんと気にかけてくれていたし、構ってもくれた。

ただ、仕事が忙しかった。

朝からいない日も多くて、帰ってくる頃にはもう疲れていることもあった。


誰も自分を捨てたわけじゃない。

放っておかれていたわけでもない。


でも、気づけば一人でいる時間の方がずっと長かった。


一人でいる。

それが普通だった。


異世界へ来た時も、最初は同じつもりだった。それが普通だった。


だが、そうならなかった。


最初はジジイがいた。

そのあとにヴォルカが来た。

ネムリアがいて、フローラがいて。


考える暇もないくらい色んなことがあって、気づけば常に誰かがそばにいた。


戦って、揉めて、飯を食って、寝て、また歩く。

面倒で、騒がしくて、静かじゃなくて。

それなのに、いつの間にかそれが当たり前になっていた。


今こうして一人で夜の空気を吸っているのに、どこか落ち着かない。


静かなのが好きだったんじゃない。

一人で平気だと思い込んでいただけだと、今になって分かる。


「……面倒だな」


独り言は、やけに正直だった。


リュシアが駄目だった理由も、そこでようやくはっきり見えた。


胸の大きさじゃない。

精神年齢でもない。

封印されているかどうかでもない。


リュシアは仲間だ。

大事だ。

放っておきたくないと思う。

泣いていたら気になるし、危ない場所にいれば助けたいとも思う。


でも、それ以上にはならない。


なれない、ではなく、もうならない。


ユキトはそこで初めて、自分の中身を正確に掴んだ気がした。


ヴォルカと、フローラと、ネムリア。

この三人が、自分の中に入ってきたのではない。

気づけば、自分の方がこの三人を含んだ形に変わってしまっていた。


もう、三人がいることを前提に笑って、考えて、迷っている。

誰かを庇おうとする時の体の動きも、飯の味の感じ方も、夜に気を抜ける場所も、先のことを考える時の怖さも、全部そこに繋がっている。


今の自分は、もう一人で完結していた頃の自分じゃない。


だから、入る場所がない。


誰かを足せば狭いとか、順番がないとか、そういう話ですらなかった。

もう空いている席がないのではない。

席という形そのものが、最初から三人ぶんで閉じている。


ここにもう一人を入れるには、誰かを押しのけるしかない。

けれど、誰か一人をずらした時点で、残るのは今の自分じゃない。

別の何かだ。


それはたぶん、選べないというより、終わっているのだ。


自分が誰かを愛せる余地は、もう残っていない。


ヴォルカと、フローラと、ネムリア。

その三人で、もう埋まっている。


埋まっていて、苦しくない。

足りないとも思わない。

むしろ、それ以外が入り込む方が違う。


リュシアが悪いわけじゃない。

遅かったわけでもない。

何かが少し違えば、という話でもない。


もう駄目なのだ。


今の自分は、もうこの三人以外を愛せない。


そう気づいた瞬間、妙に静かだった夜気が、少しだけ肺に痛かった。


「……やっとわかった」


こぼれた独り言は、呆れにも似ていた。


ひどく不誠実だ。

綺麗な答えでもない。

けれどたぶん、これが一番嘘がない。


誰が一番かではなく、

もう他の誰かが入り込めないところまで来てしまっている。


それが、今の自分だった。


ユキトは夜の向こうのフィオラを見る。


ここに来てから、休んだ。

笑った。

緩んだ。

だからこそ、見ないふりをしていたものが浮いてきた。


きちんと向き合わなければいけない。


その覚悟だけは、今夜のうちにはっきりした。


誰が一番か。

その答えと、それはどこかに繋がっている気がした。


逃げているままでは、もう先へ進めない。


ユキトはしばらくその場に座り、雪の匂いのする空気を吸い込んだ。


夜は長い。

だが明日は来る。


答えを持って戻らなければならなかった。


翌朝、部屋の空気はまだ少し硬かった。


朝食の前。

窓の外は薄曇りで、積もった雪が柔らかく光っている。

机を挟んで向かい合う形になった五人は、誰もいつもの調子ではなかった。


リュシアの目は少し赤い。

泣き腫らした痕は隠しきれていない。

それでも、もう顔は上げていた。


ヴォルカは落ち着かない様子で湯呑みに触れている。

フローラは静かに座っているが、視線は逃がしていない。

ネムリアは眠そうだったが、珍しくしっかり起きていた。


ユキトが口を開く。


「昨日の答えだ」


誰も何も言わない。

部屋の空気が、そこで少し張った。


ユキトは一度だけ息を吐く。


「一番は選べない」


その一言で、誰も動かなかった。


予想していた者もいただろう。

そうでない者もいただろう。

だが実際に口にされると、やはり重かった。


ユキトは続ける。


「聞きたい答えじゃないのは分かってる」


「不誠実に見えるのも分かってる」


「でも、考えて出した答えはこれだ」


視線を上げる。


「今の俺は、ヴォルカと、フローラと、ネムリア、三人全員で形作っている」


「誰か一人じゃ駄目だ」


「誰か一人だけ選ぶなら、それはもう今の俺じゃない」


「……だから、一番は選べない」


沈黙が落ちる。


最初に目を伏せたのはヴォルカだった。

苦しそうで、でもどこか安堵も混じっている顔だった。


フローラは静かに聞いていた。

表情は大きく変わらない。

だが、否定もしなかった。


ネムリアは少しだけ首を傾げ、それから小さく頷いた。

順位の言葉ではなく、残る方を選んだ答えだと、たぶん理解したのだろう。


リュシアだけが、しばらく何も言わなかった。


やがて、ゆっくり息を吐く。


「……最低ですね」


掠れた声だった。

でも昨日よりは、ちゃんと前を向いていた。


「知ってる」


「でも」


リュシアは少しだけ口元を歪める。


「逃げなかったのは、少しだけ偉いです」


「少しだけかよ」


「少しだけです」


その返しに、ヴォルカが小さく笑った。

フローラも目を閉じる。

ネムリアは「……すこし」とぼそっと繰り返す。


昨日より少しだけ、空気が動く。


痛みは消えていない。

全部が丸く収まったわけでもない。

それでも、壊れなかった。


そのことだけが、今は大きかった。


朝食のあと、しばらくしてからユキトが改めて口を開く。


「次の行き先を決める」


その一言で、全員の視線が集まる。


ユキトは短く言った。


「エルフィアに行く」


空気が変わった。


それは今まで明確に避けられてきた名前だった。

誰も強く問い詰めはしなかったが、何か理由があることだけは全員が知っていた。


リュシアが最初に聞く。


「……今まで行きたくなかった理由、聞いてもいいですか」


その問い方は、もう恋の延長ではなかった。

仲間として聞いている。


ユキトは少しだけ黙ってから答えた。


「エルフを、俺は身勝手な理由で埋めた」


ヴォルカが息を呑む。

フローラの目が細くなる。

ネムリアは静かに見ている。

リュシアも言葉を失った。


ユキトは続ける。


「必要な理由はあった。そこは事実だ」


「でも、それだけじゃない」


「ちゃんとした理由だけでやったわけじゃない」


「俺の身勝手さも混ざってた」


「だから行きたくなかった」


「会って、向き合うのが嫌だった」


静かな告白だった。

言い訳も飾りもない。


しばらく沈黙が続いたあと、フローラが小さく息を吐く。


「……ようやく言いましたか」


責めるようでいて、その声はどこか柔らかかった。


ヴォルカは不安そうにユキトを見る。


「怖い、ですよね」


「ああ」


「でも、行くんですね」


「行く」


ネムリアが湯呑みを置く。


「……いくなら、いっしょ」


短いが、それで十分だった。


リュシアはしばらく黙っていた。

それから、ゆっくりと言う。


「恋人は無理でも、仲間はやめません」


「今さら一人で行くとか言ったら怒ります」


ユキトは少しだけ口元を緩めた。


「言わねえよ」


それで決まった。


数日後、一行は白湯郷フィオラを発つ。


朝の空気はまだ冷たい。

けれど、冬の底を越えた冷たさだった。

荷をまとめ、宿を出て、門の外で一度だけ振り返る。


湯煙の立つ街。

笑って、休んで、傷ついて、それでも少しだけ前へ進んだ場所。


リュシアはその景色を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


失恋した。

でも終わってはいない。


ここで何かが壊れたのではなく、形が変わったのだと、まだ完全ではないが思える。


ユキトは前を見る。


フィオラは終わった。

次は、エルフィアだ。


そうして五人は、春へ向かう道を歩き出した。

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