30.1晩くらいまってやります
白湯郷フィオラでの滞在も、いよいよ終わりが見え始めていた。
雪はまだ残っている。
朝は冷えるし、夜になれば吐く息も白い。
それでも、張りつめるだけだった冬の空気とは少し違っていた。
風の奥に、ほんのわずかに春の気配が混じり始めている。
そろそろ次の旅支度を考える時期だった。
そんなある日の夕食後、宿の部屋で鍋を囲んでいた時だった。
フローラが湯気の向こうで、何でもない調子で言った。
「最後の一週間くらい、宿を移しませんか」
ユキトが顔を上げる。
「移す?」
「ええ」
フローラは静かに続けた。
「ここも十分に居心地は良いですが、せっかくフィオラに長く滞在したのですし、最後くらい少し良い宿に移るのも悪くないかと」
「次の旅に向けて、身体をきちんと休める意味もあります」
「個室つきの露天がある宿なら、外へ出にくい日でも落ち着けるでしょう」
理屈はもっともだった。
ヴォルカが少し目を丸くする。
「少し良い宿、ですか」
「はい」
フローラは頷く。
「今の手持ちなら、一週間程度なら十分可能です」
その言い方で、もう下調べも見積もりも済んでいるのだと分かる。
ユキトは少しだけ考える顔をしてから、あっさり言った。
「いいな、それ」
リュシアが思わず顔を上げる。
「え、いいんですか」
「最後の一週間くらい、ちょっと楽しても罰は当たらねえだろ」
「いや、そうですけど……」
「次の旅の分は残してる」
「そこだけはちゃんとしてるんですよね……」
「ちゃんとしてるからな」
いつもの雑な言い方だった。
でも、それで十分だった。
ヴォルカは少し困ったように笑った。
「私は賛成です」
「ここまで歩いてきましたし……最後くらい、そういう時間があってもいいと思います」
ネムリアは鍋の向こうで、眠たげな顔のまま小さく言う。
「……ろてん」
それだけで、もうかなり気にしているのが分かった。
リュシアも、反対する理由はなかった。
むしろ、少し浮き立つものの方が大きい。
最後の一週間。
もうすぐフィオラを発つ。
その前に、少しだけ良い宿へ移る。
それは長い停泊の締めとして、ひどく魅力的に思えた。
「……じゃあ、私も賛成です」
そう言うと、フローラはいつも通り静かに頷いた。
「では、明日手配しておきます」
あまりにも自然な流れだったから、その時は誰も、それ以上深く考えなかった。
翌日、一行が移ったのは、フィオラの山手寄りに建つ高級旅館だった。
中央の賑わいから少し離れた場所にあって、門の前まで来た時点で、もう空気が違った。
手入れの行き届いた石畳。
雪を払われた庭木。
低く流れる湯の音。
木造の大きな建物は派手ではないのに、古く上等なもの特有の落ち着きがある。
軒先からは白い湯気がやわらかく上がり、廊下へ一歩足を踏み入れるだけで、木と湯の匂いが静かに混じった。
案内された部屋は二間続きで、奥には専用の露天風呂がついていた。
リュシアは思わず立ち止まった。
「……え、ちょっと待ってください」
「何ですかここ」
「宿だろ」
ユキトがいつものように返す。
「見れば分かります!」
障子を開ける。
窓の向こうに、雪の残る小さな庭が見えた。
その奥に石組みの露天があって、白い湯気が静かに立っている。
露天があること自体は聞いていた。
けれど、聞いていたのと実際に見るのでは全然違った。
思っていたより広い。
思っていたよりちゃんとしている。
ただ風呂がついているだけではなく、そこだけで一つの静かな空間になっていた。
「……こんな感じなんですか」
思わず声が上ずる。
最後の一週間だけ。
どうせもうすぐフィオラを発つ。
その前のご褒美みたいなものだと思えば、こんな贅沢も許される気がした。
ヴォルカは部屋を見回して、少し困ったように笑った。
「……すごいですね」
その声には素直な感心が混じっていた。
豪華さに浮かれるというより、最後の一週間だけ少し贅沢をすることへの、静かな戸惑いに近い。
フローラは帳場から受け取った紙を静かに整えながら、いつも通り落ち着いていた。
「最後を過ごすには、悪くない選択かと」
大げさには言わないが、否定もしていない。
最初からこういう宿も候補に入れていたのだろうと分かる反応だった。
ネムリアは畳の縁にしゃがみ込み、指先でそっと押してから、ぼそりと言った。
「……やわらかい」
それだけで、かなり気に入ったことが分かる。
リュシアはもう一度、露天の方を見る。
静かで、綺麗で、あたたかそうで。
こんな場所に泊まっていいのかと少し落ち着かないのに、それ以上に嬉しかった。
「……すごい」
思わずこぼれたその一言には、警戒も疑いもなかった。
ただ純粋に、嬉しい、という気持ちだけがあった。
その宿での数日は、拍子抜けするほど穏やかだった。
料理は美味い。
部屋は暖かい。
雪の強い日は無理に外へ出なくてもいい。
晴れた日は町へ降りて、足湯に寄ったり、温泉卵を買ったり、土産物を見たりする。
軽い依頼を受けて戻れば、宿で鍋を囲み、湯に浸かり、夜は静かな部屋でだらりと過ごす。
終わりが近いからこそ、一日一日が少し惜しい。
このままでいたい、と何度も思った。
そしてユキトたち三人は、今では一緒に露天に入ることが当たり前になっていた。
最初からそうだったわけではない。
ヴォルカは照れていたし、フローラは線引きを重んじる方だったし、ネムリアは何も考えていないようでいて、自分なりの距離感は持っている。
ユキトはそれが安心するのか黙って受け入れていた。
戦いのあとに疲れを抜くため。
旅の途中で警戒を共有するため。
誰かがユキトを一人にしないため。
そんな実利から始まって、気づけばそれが自然になっていた。
今の四人にとっては、同じ湯に浸かることも、同じ空気の中で肩の力を抜くことも、もう特別ではない。
肉体関係まではない。
けれど、もう他人ではなかった。
リュシアは、その輪には入らなかった。
いや、入れなかった。
誰かに拒まれたわけではない。
けれど、だからこそ分かってしまうことがある。
あの場は、もう四人の空気で出来上がっている。
自分から踏み込まなければ、そこに自分の居場所はない。
そして、自分から踏み込むには、あまりにも重かった。
裸を見せることも嫌だったし、それ以上に、あの三人と同じ場所へ自分が入ることに心の準備が要った。
まだその位置は自分のものではない。
そう思っていた。
だからいつも時間をずらしていた。
誰もいなくなってから入る。
あるいは朝に入る。
そうやって避けてきた。
最初のうちは、それで何の問題もなかった。
けれど高級旅館に移ってから、少しずつ違和感が積もり始める。
食後、少しユキトに話しかけようとすると、ヴォルカが湯呑みを持って現れる。
廊下で見かけて、今ならと思うと、ネムリアが眠そうな顔でついてくる。
朝、外へ出る前に少しだけでもと思えば、フローラが支度を終えている。
風呂上がりを狙っても、誰かがまだそこにいる。
一度や二度なら偶然で済む。
でも何度も重なると、流石に分かる。
二人きりになれない。
なろうとするたび、自然な形で誰かがそこにいる。
最初は気のせいだと思った。
次に、自分が分かりやすすぎるのかもしれないと思った。
けれど、それにしては出来すぎていた。
そしてようやく気づく。
――これ、フローラだ。
露骨ではない。
止める言葉もない。
責める視線もない。
ただ、状況だけがそうなっている。
それが余計に重かった。
見抜かれている。
しかも、たぶん最初から。
隠れて言うつもりだった。
誰にも見えないところで。
自分だけが傷ついて終わる形で。
でも、そうはいかないのだと、もう分かってしまった。
その夜も、いつものように食事が終わり、四人は露天へ向かった。
リュシアは一人、部屋に残る。
いつも通りなら、このあと時間をずらして入ればいい。
少し待てば、誰もいなくなる。
それで済む。
逃げ道は、まだちゃんとあった。
フローラは何も言わなかった。
ヴォルカもネムリアも、もちろんユキトも、何も言わない。
それが逆につらかった。
選ぶのは、自分だ。
行かないなら、それで終わる。
今まで通りの距離のまま、フィオラを出るだけだ。
それでもいい。
たぶん、傷は浅い。
でも、そう思った瞬間に分かってしまう。
それでは、たぶんずっと残る。
言わなかったこと。
踏み込まなかったこと。
見ないふりをして終わったこと。
喉の奥が熱くなった。
怖い。
本当に怖い。
でも、今しかない。
今、全員が揃っている。
今ならまだ、勇気がある。
明日になったら、きっと無理だ。
どうせ踏み込むなら。
どうせなら、あの関係の外からではなく、その中へ自分で足を踏み入れる形で言いたい。
リュシアは立ち上がった。
手が少し震えている。
でも、止まらなかった。
露天へ続く戸を開けると、夜の冷気が頬に触れた。
湯気が立っている。
石組みの湯船。
静かな庭。
薄く積もり始めた雪。
遠くで湯の流れる音がする。
その中に、三人とユキトがいる。
リュシアは一瞬だけ足を止めた。
無理だ、と本能が言った。
帰りたい。
やっぱりやめたい。
でも、ここで引いたらもう二度と無理だと思った。
普段なら入らない。
心の準備がいる。
あの三人と同じ湯に入るなんて、それだけで重い。
それでも、今しかない。
ここで全員揃っている。
今しか勇気を持てない。
心の準備なんて最後まで整わなかった。
それでも、リュシアは覚悟を決めて湯の中へ入った。
熱い。
肩まで沈むと、全身がじわりと浮く。
いつもなら気持ちいいはずなのに、今日はそれどころではなかった。
全員の存在が近い。
視線を向けていなくても分かる。
湯気の向こうに四人の気配がある。
たぶん、顔が赤い。
湯のせいだけではない。
「……珍しいですね」
ヴォルカが、できるだけ自然な声で言った。
「今日は一緒に入るんですか」
「悪いですか」
「いえ、そういう意味では……」
声が震えているのは自分だけではないらしい。
ヴォルカも少しぎこちなかった。
フローラは湯の縁に寄りかかるようにして、静かに目を閉じていた。
ネムリアは半分湯に溶けている。
ユキトだけが、何も分かっていないような顔で空を見ていた。
その無防備さが、今は少し憎たらしい。
リュシアは湯の中で拳を握る。
ここだ。
今しかない。
「……ユキト」
呼ぶ。
ユキトが顔を向ける。
それだけで心臓が痛かった。
「何だ」
いつもの声だ。
何でもない時の声。
それがひどく遠い。
リュシアは一度だけ息を吸った。
逃げるな、と自分に言い聞かせる。
「私、あなたに言いたいことがあります」
それで空気が変わった。
ヴォルカが動きを止める。
ネムリアがゆっくり目を開ける。
フローラは目を閉じたまま、ただ聞いていた。
ユキトだけが少し眉を寄せる。
「今か?」
「今です」
「……そうか」
もう止められない。
リュシアは湯の中でまっすぐ前を見る。
「最初は、嫌いでした」
「知ってる」
「黙ってください」
ユキトが口を閉じる。
少しだけ、息がしやすくなる。
「嫌いだったし、腹も立ってたし、何なんだこいつって思ってました」
「偉そうで、雑で、人を振り回して」
「でも、ちゃんと見てるところは見てて」
「叩き直して、槍までくれて」
「認める時は認めてくれて」
言いながら、過去が一つずつ浮かぶ。
腹の立つことも多かった。
でも、そのぶん覚えている。
助けられたことも。
救われたことも。
見てもらえたことも。
「最初は、認められたかっただけだと思います」
「ちゃんと仲間に入れてほしかった」
「見てほしかった」
「……でも、途中から違いました」
声が少しずつ細くなる。
言葉にするたび、取り返しがつかなくなっていく。
「何でもないことで嬉しくなって」
「あなたが他の三人に向ける顔を見ると、嫌で」
「少し優しくされるだけで、ずっと覚えてて」
「このままでいたいって思いました」
胸が苦しい。
でも、もうここまで来た。
「好きです」
言った瞬間、世界が静かになった気がした。
「私は、あなたが好きです」
「仲間としてじゃなくて」
「……ちゃんと、女として見てほしい」
湯気だけが揺れている。
誰もすぐには何も言わなかった。
リュシアは、自分の心臓の音だけを聞いていた。
早い。
うるさい。
胸の内側を叩いているみたいだ。
ユキトは、すぐには答えなかった。
困ったような顔もしない。
笑いもしない。
ただ、静かにこちらを見ていた。
その沈黙が、逆につらかった。
やめてほしかった。
そんなちゃんとした顔をしないでほしかった。
いっそ昔みたいに最低なことを言ってくれた方が、怒れたのにと思う。
けれど、ユキトは違った。
しばらくして、低い声で言う。
「……リュシア」
その優しい声だけで、もう駄目なんだとわかった。
「前衛が怖いって、お前は言ったよな」
どくん、と胸が鳴る。
「それは正しい」
「痛いし、死ぬし、誰かを守るために自分を削る場所だ」
「だから俺は、本当に大事なやつをそこに立たせたくない」
ヴォルカが小さく息を止める。
フローラは静かに聞いている。
ネムリアは何も言わない。
リュシアだけが、次の言葉を恐れていた。
「ヴォルカも、フローラも、ネムリアもそうだ」
そこまでは、分かる。
分かるからこそ、その次が怖い。
「でも、お前は違った」
やっぱり、と思った。
予感していた。
気づいていた。
たぶんずっと前から。
でも本人の口から聞くと、こんなにも痛いのかと思った。
「お前なら前に出してもいいと、俺はどこかで思ってた」
「守る側に置きたいんじゃなくて、削る側に置いてもいいと思ってた」
「その時点で、もう答えは出てたんだと思う」
胸の奥の何かが、音もなく崩れていく。
ああ、とリュシアは思った。
ああ、私は違ったんだ、と。
仲間だった。
近くにいた。
笑い合って、鍛えられて、ここまで来た。
それでも、あの三人と同じ場所には立っていなかった。
ずっと、どこかで追いつけると思っていた。
時間をかければ、近づけると思っていた。
でも違った。
最初からそこには、越えられない線があった。
「……俺は、お前を選べない」
はっきりしていた。
優しさのある声で、逃げずに言われた。
それが誠実だと分かってしまったから、余計に苦しい。
リュシアはしばらく何も言えなかった。
湯の熱が頬に触れているのに、身体の芯が冷たかった。
泣きたくないと思った。
ここで泣いたら惨めだと思った。
でも目の奥が熱い。
ようやく、声を絞り出す。
「……そうですか」
変な声だった。
自分の声じゃないみたいだった。
本当は、そこで終わらせるのが一番綺麗だった。
ちゃんと告白して、ちゃんと振られて、終わる。
それで十分なはずだった。
でも、それでは終われなかった。
踏み込むなら筋を通せ。
言葉にされたわけじゃない。
けれど、もう自分で分かってしまっている。
ここにいる全員が当事者なのだ。
なら、最後まで聞かなければいけない。
リュシアは顔を上げた。
「……ひとつ、聞いていいですか」
ユキトが黙って見る。
「あなたにとって、一番好きな人は誰なんですか」
空気が止まった。
ヴォルカが目を見開く。
フローラは静かに息を吐いた。
ネムリアは少しだけ首を傾げる。
リュシアは三人を見なかった。
見られなかった。
でも、これは自分だけの問いじゃないと思った。
聞かなければいけない。
ここで有耶無耶にさせたら、たぶん誰のためにもならない。
ユキトは、すぐには答えなかった。
黙ったまま、少しだけ視線を落とす。
それだけで分かった。
この男は、本気で答えに詰まっている。
やがて低く言う。
「……一晩待ってくれ」
リュシアは眉を寄せた。
「逃げるんですか」
「逃げない」
それだけは即答だった。
「ちゃんと考える」
「結論を出して、明日言う」
すぐ答えられないことに腹が立つはずだった。
でも、不思議とそれ以上責められなかった。
この男が今、本当に考えようとしているのが分かったからだ。
「……分かりました」
それだけ言うのが精一杯だった。
ユキトは湯から上がる。
夜気の中に立ち上がり、濡れた背中に白い湯気が流れる。
障子の向こうへ消えるまで、誰も何も言わなかった。
残された湯船は、妙に広かった。
リュシアはその場から動けない。
言えた。
ちゃんと言えた。
でも終わった。
その事実が、遅れて体に染みてくる。
湯の中なのに寒い。
ヴォルカが、そっと近づいてきた。
「……ごめんなさい」
リュシアはゆっくり顔を上げる。
「なんで、ヴォルカさんが謝るんですか」
「気づいてたのに……何もできなかったから」
「何かされた方が嫌でしたよ」
少し笑おうとした。
でもうまくいかなかった。
ヴォルカは泣きそうな顔で、それでも無理に笑おうとしていた。
「でも、つらいですよね」
その言い方があまりにまっすぐで、リュシアは返せなくなる。
フローラが静かに言う。
「あなたは立派でした」
「告白したからではありません」
「自分で選んだからです」
その言葉は、今は痛い。
褒められても嬉しくない。
でも少しだけ救われる。
ネムリアが、湯の中で小さく寄ってきた。
「……なく?」
その短い一言で、何かが切れた。
リュシアは慌てて顔を背ける。
「泣きません」
言いながら、もう声が震えていた。
「泣きません、けど……っ」
喉が詰まる。
視界が滲む。
頬が熱い。
湯気なのか涙なのか、自分でも分からない。
「……ちょっとだけ、無理です」
その瞬間、ネムリアが何も言わずに肩を寄せた。
ヴォルカがそっと背中に手を置く。
フローラは近づきすぎないまま、届く場所にいてくれた。
その距離感が、逆に優しかった。
リュシアはとうとう顔を伏せた。
肩が小さく震える。
息を殺しても、うまく止まらない。
失恋したのだと、遅れてはっきり実感する。
好かれていないわけじゃなかった。
仲間ではあった。
近くにもいた。
それでも、そこではなかった。
あの三人の隣に立てると、どこかで思っていた。
頑張れば追いつけると。
時間をかければ近づけると。
でも違った。
最初から、違う場所に立っていた。
それが痛かった。
しかも、ユキトはひどく正直だった。
誤魔化さず、逃げず、ちゃんと自分を傷つける言い方で断った。
だから怒れない。
怒れない失恋は、ただ痛い。
湯に落ちる涙は目立たなかった。
それだけが、今は少しだけありがたかった。
しばらくそうしていたあと、ようやく呼吸が少しずつ落ち着いてくる。
ヴォルカの手は温かかった。
ネムリアの肩は軽く触れるだけなのに不思議と安心した。
フローラは何も言いすぎないまま、でもそこにいた。
リュシアは顔を伏せたまま、小さく言った。
「……最悪です」
「ええ」
フローラが否定しない。
「本当に最悪です」
「はい」
「せめて、もうちょっと最低な断り方してくれたら、嫌いになれたのに」
それには、誰もすぐに答えなかった。
ヴォルカが少しだけ眉を下げる。
「ユキトさん、そういう時だけ変に真面目ですから」
「そこなんですよ……」
涙声のままなのに、少しだけ力の抜けた返事になる。
ネムリアがぼそっと言った。
「……ずるい」
その一言に、三人とも少しだけ黙る。
ずるい。
本当にそうだった。
中途半端に優しくて、逃げずに答えて、でもちゃんと残酷だ。
リュシアはぐしゃぐしゃのまま、少しだけ笑ってしまった。
笑ったら、余計に涙が出た。
「……ひどい顔してますよね、私」
「今さらですね」
フローラの返しがあまりにいつも通りで、リュシアは思わず肩を震わせる。
「慰める気あります?」
「ありますよ」
「全然見えませんけど」
「私なりには」
ヴォルカが困ったように笑う。
ネムリアはよく分からないまま、でもまだそばにいた。
少しだけ、息がしやすくなる。
痛い。
つらい。
終わった。
でも、一人ではない。
その事実だけが、ぎりぎりのところで支えになっていた。
しばらくしてリュシアが顔を上げると、目の周りは熱を持っていた。
視界もまだ少し滲んでいる。
けれど、さっきよりはちゃんと前が見えた。
フローラが静かに言う。
「今夜は無理に整えなくていいでしょう」
「……整うわけないじゃないですか」
「でしょうね」
「そこは優しくしてくださいよ」
「では言い換えます」
フローラは少しだけ目を細めた。
「よく踏み込みました」
その言葉に、リュシアは返事ができなかった。
嬉しいわけではない。
でも、無駄ではなかったと思えた。
無駄ではない。
それだけで、今夜は十分だった。
露天の外では、雪が静かに降り始めていた。
障子の向こうへ消えていったユキトは、たぶん今、本当に考えているのだろう。
誰が一番なのか。
それを思うと、胸の奥がまた少しだけざわつく。
聞いたのは自分だ。
筋を通すなら、そこまで聞かなければいけないと思った。
でも、明日その答えを聞く自分は、たぶんまた痛い。
それでも聞くしかない。
もう、そこまで踏み込んでしまったのだから。
リュシアは目を閉じた。
熱い湯。
冷たい外気。
背中にある手のぬくもり。
肩に触れる小さな重み。
少し離れたところにいる、静かな気配。
全部が混ざって、今夜だけは妙に優しかった。
その優しさに甘えるみたいに、リュシアはもう一度だけ、小さく息を吐いた。
「……一晩くらい、待ってやります」
誰に向けたのか分からない呟きだった。
けれど、その声には、泣くだけでは終わらない小さな意地がまだ残っていた。




