表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/32

29.礼を言いたい


山を一つ越えたあたりから、空気の匂いが変わった。


冷たい。

なのに、ただの山の冷気とは違う。

鼻の奥に残るのは、石と水と、どこか柔らかな熱の匂いだった。


最初にそれに気づいたのは、たぶんフローラだった。

けれど、はっきりとそれを口にしたのはヴォルカだった。


「……湯の匂いがします」


その一言に、先頭を歩いていたユキトが少しだけ顔を上げる。


街道は山肌に沿って緩く下っている。

右手は切り立った岩。

左手は少し開けていて、遠くの谷が見えた。


その谷の底に、白いものが見えた。


雪ではない。

湯煙だった。


谷のあちこちから立ちのぼる白が、薄い冬の陽を受けてぼんやりと光っている。

その下に、瓦屋根が重なっていた。

木造の大きな建物。

石畳の坂。

高台へ続く橋。

山あいを縫うように広がる街並み。


近づくほどに、その規模が分かる。


大きい、というより広すぎた。


一つの温泉街というより、温泉を中心に育った一つの都市のようだった。

谷の底だけでは足りず、斜面へ、奥へ、上へ、何層にも宿や湯屋が広がっている。

ところどころから白い湯気が立ち、細い水路にも湯が引かれているらしく、街全体がうっすら霞んで見えた。


リュシアは思わず足を止めた。


「……何ですか、あれ」


その声には、呆れと感嘆が半分ずつ混ざっていた。


ヴォルカが柔らかく笑う。


「着きましたね」


フローラも静かに目を細める。


「ようやく、です」


ネムリアは眠たげな顔のまま、少しだけ顔を上げた。


「……おふろのまち」


ユキトは街を見下ろしたまま、短く言った。


「白湯郷フィオラだ」


その言葉で、ようやく実感が落ちてきた。


着いた。


本当に、ここまで来たのだ。


旅の途中では、何度もその名前を聞いた。

あと何日。

あとどれだけ歩けば。

ここを越えれば近い。

そこから先は山をいくつ。

頭ではずっと、目的地として存在していた。


だが、そこへ辿り着くことと、実際に目で見ることはまるで違う。


町で予定よりずっと長く足を止めた。

リュシアの登録に始まり、槍の訓練、小依頼、生活の立て直し、ネムリアの件まで、当初の想定よりずっと時間を使った。

そのあとも、旅は順調な日ばかりではなかった。


天気に足を取られた日。

野営地が思うように見つからなかった日。

小型魔物に何度も足を止められた日。

道を外して余計に歩いた日。

リュシアが支度に手間取り、全員で少しずつ速度を落として進んだ日もあった。


それでも歩いてきた。


その全部の先にある景色だった。


谷へ下る道は緩やかだった。


下りながら、五人は言葉少なに街を見ていた。

近づくほどに、人の気配が増える。

街道を行き交う馬車。

湯桶を持った客。

宿の送迎らしい小さな荷車。

観光客の笑い声。

石段を上り下りする人影。


谷へ入る入口には、木の大きな門が立っていた。

華美ではないが立派で、湯の街へ入るのだと分かる風格がある。

門をくぐった瞬間、空気がまた変わった。


冷たい。

でも、冷たいだけではない。


町の中にはいくつもの水路があり、そのいくつかはほんのり湯気を立てている。

軒先には暖簾が揺れ、木の看板に宿の名前が墨で書かれている。

道の途中には足湯らしい小さな湯船があり、湯上がりの客が腰掛けていた。


石畳。

木の橋。

紙灯籠。

薄い湯煙。

香ばしい匂い。

どこかで出汁の匂いもする。


リュシアは完全に目を奪われていた。


「広すぎません?」


「広いな」


ユキトが答える。


「温泉街って、もっと……こう……宿が何軒か並んで終わりかと思ってました」


「俺も最初はそういう想像だった」


「これは温泉街っていうか、温泉の町じゃないですか」


「そのままだろ」


「雑っ」


「間違ってねえ」


リュシアはそのやり取りをしながらも、視線は忙しい。


屋台。

土産物屋。

湯気の立つ露地。

高台へ向かう階段。

外湯の看板。

川沿いに建つ大きな旅館。

見上げるほど高い位置にまで続く宿の列。


全部が新しかった。

全部が珍しかった。


「……すごい」


今度の呟きは、小さかった。


旅の初めの頃みたいな、見たもの全部に大きな声を上げる驚きではない。

ここまで自分の足で来たからこそ出る、静かな感動だった。


それを横で聞きながら、ヴォルカは少しだけ柔らかい顔になる。

フローラも何も言わなかったが、その目は穏やかだった。


ユキトが言う。


「とりあえず宿を取る」


「それから風呂」


ネムリアがすぐに反応した。


「……はいる」


「まだ宿も決まってませんよ」


「風呂は入るだろ」


「入りますけど!」


そんな会話をしながら、一行は中央寄りの宿通りまで進んだ。


宿の並びだけでも相当な数がある。


古びているが味のある木造宿。

庶民向けの大きな共同宿。

中級らしい、静かで落ち着いた旅館。

一目で高いと分かる門構えの老舗。

橋の向こうに見える、庭付きの巨大な宿。


リュシアは何となく、いちばん端の安そうな宿へ目を向けた。


「……今回は、どこにするんですか」


「安いとこ?」


ユキトは通りを見渡し、首を軽く鳴らした。


「いや」


「今回は少し使う」


リュシアが目を瞬く。


「使う?」


「金」


「大会の賞金、まだだいぶ残ってる」


その言葉に、リュシアだけでなくヴォルカも少しだけ驚いたような顔になる。


「そんなにですか?」


フローラが静かに補足する。


「旅の間に依頼も受けていましたから」


「それに、大きく使う場面も絞ってきました」


ユキトが肩をすくめる。


「あと、フローラが気づかれないところでちまちま削ってた」


フローラは少しだけ目を伏せる。


「必要のない出費が多かったので、整えただけです」


「整えすぎだろ」


「必要な範囲です」


リュシアはそこで初めて、旅の途中の妙な辻褄が少し見えた気がした。


保存食の買い方。

日用品の交換頻度。

宿を取る時の線引き。

細かい出費の抑え方。


旅の途中で大きく贅沢はしていなかった。

だが、完全に切り詰めていたわけでもない。

そのちょうど中間を、たぶんフローラが陰でずっと整えていたのだろう。


ユキトは宿並びを見ながら言った。


「こういう金は、抱えてるだけでも意味がない」


「でも使い切る気もない」


「次の旅先まで足りる分は残す」


「そこから先は使う」


かなり雑な言い方だった。

だが、線ははっきりしている。


無計画ではない。

でも惜しみもしない。


ヴォルカが少し笑う。


「ユキトさんらしいですね」


「何がだよ」


「大雑把に聞こえるのに、変なところだけちゃんと残すところです」


「それ半分馬鹿にしてるだろ」


「半分は褒めています」


リュシアはその横顔を見ていた。


自分も、その“使う側”に入っている。


たぶん、ユキトはそこまで深く考えていない。

賞金が残っていて、ここは長旅の終着点で、仲間がいるから使う。

たぶんそれだけだ。


それでも、そこに自分も当然みたいに含まれていることが、少しだけ胸に来た。


そこでユキトは、さらに当たり前みたいに言った。


「あと、この冬はここにいる」


「え?」


リュシアが顔を上げる。


ユキトは湯煙の向こうの山を見た。


「冬の山は面倒だ」


「無理に進む意味もない」


「だから、この冬はフィオラで越す」


「春を待ってから次に行く」


静かだった。


旅の途中で、ユキトがこういうふうに“止まる”判断を、皆の前ではっきり口にするのは珍しかった。

けれど、その場で反対する者はいなかった。


フローラが一瞬だけ考える顔をしてから頷く。


「妥当ですね」


ヴォルカも、ほっとしたように微笑む。


「それがいいと思います」


ネムリアはすぐに結論だけ言った。


「……すむ」


「住むわけじゃないですけどね!?」


リュシアの声は裏返った。


けれど、その驚きの奥には、別のものが混ざっていた。


この冬は、ここにいる。


すぐにまた出ていくわけじゃない。

ここでしばらく過ごす。

みんなで。


そのことが、思っていたよりずっと嬉しかった。


嬉しいと自覚した瞬間、それを隠すようにリュシアは口を尖らせる。


「別に、そんなに長くいても飽きません?」


「飽きたら外出ろ」


「雪で出にくいって今言いましたよね!?」


「知るか」


「最低です!」


でも、その軽いやり取り自体が少し心地よかった。


結局、一行は中央湯街から少し外れた場所にある、中級寄りの宿を取った。


最高級ではない。

だが、広い。

部屋は綺麗で、料理も期待できそうだった。

そして何より、湯にかなり力を入れているのが外観だけでも分かる。


通された部屋は、旅の途中で何度も泊まった宿とはまるで違っていた。


畳が広い。

障子がきちんと手入れされている。

低い机も、置かれた湯呑みも、何もかもが落ち着いている。

窓を開ければ湯気の立つ中庭が見え、その向こうには露天へ続く渡りがあった。


ネムリアが入った瞬間、ころりと畳に転がる。


「……やわらかい」


「まだ寝るの早いですって!」


ヴォルカは障子の向こうに見える白い湯気へ目を向ける。


「本当に、少し良い宿ですね」


フローラも部屋の作りを見渡しながら言う。


「過不足ない選択かと」


「その“過不足ない”の基準が高いんですよ、あなたたち」


リュシアが呆れたように言う。

だが口元は少し緩んでいた。


そして、その日の最初の大きなご褒美が来る。


温泉だった。


湯殿は広い。

木と石を使った落ち着いた造りで、湯気が柔らかく天井へ昇っている。

露天へ出れば、外気の冷たさが頬に触れ、その直後に湯の熱がじわりと全身を包んだ。


リュシアが肩まで湯に沈んだ瞬間、思わず息が漏れる。


「……ああ……」


それ以上の言葉が出なかった。


足の疲れが抜ける。

肩の力が落ちる。

旅の間ずっと張っていたどこかが、湯の中でゆっくりほどけていく。


ヴォルカは露天の縁に近い場所で静かに息をついていた。


「ここまで来られて、よかったですね」


フローラが湯をすくいながら答える。


「ええ」


「ようやく、少し休めます」


ネムリアはすでに半分溶けていた。


「……ここ、すき」


リュシアは湯の中で少し膝を抱えるみたいにして、湯面を見つめた。


旅の初めを思い出す。


人間の宿に妙な期待を抱いていた自分。

働くことも、金の使い方も、依頼の意味もよく分かっていなかった自分。

ユキトに人前で転がされて、本気で嫌いだと思った自分。

それでも、そこから少しずつ変わってきた。


「……私」


ぽつりと漏れる。


ヴォルカとフローラが視線を向ける。


「最初、本当に何も知らなかったんですね」


「今さらですか?」


フローラが静かに返した。


「うるさいです」


でも、その返しに以前ほどの刺はなかった。


リュシアは湯の表面を見つめたまま続ける。


「ここまで来られたの、あいつのおかげなのかなって……ちょっとだけ思いました」


“ちょっとだけ”のところで、ヴォルカが少しだけ笑う。


「かなり、では?」


「ちょっとです!」


けれど、その“おかげ”という気持ちは本物だった。


槍をくれた。

見ていた。

叩き直した。

正式に入れた。

ここまで連れてきた。


礼を言いたい。


ちゃんと、ありがとうと言いたい。


そう思う。

だが最近、その感謝の形が少しだけおかしい。


ありがとう、だけでは済まない何かが混ざり始めている。


それが何なのかは、まだ言葉にしたくなかった。


その日の夕方、一行は外湯通りへ出た。


フィオラの夕暮れは、町とはまた違う顔をしていた。


湯気の向こうで、灯りがともり始める。

紙灯籠の橙が石畳に映る。

橋の下を流れる水路から白い湯気が昇り、町全体がうっすら霞んで見える。


湯上がりの客。

屋台の香り。

土産物屋の呼び声。

笑い声。

下駄の音。


完全に観光地の顔だった。


「温泉卵だ」


ユキトが屋台を見て言う。


ネムリアがすぐ反応した。


「……たべる」


「お前はそこだけ反応早いな」


ヴォルカが笑い、フローラも珍しく止めなかった。


屋台の前で、ユキトは五人分まとめて買った。

塩、出汁、小さな薬味が添えられている。


リュシアは受け取りながら、少しだけ目を丸くする。


「……私の分も?」


「四人しかいねえなら四つしか買わねえだろ」


「そういう意味じゃなくて!」


「じゃあどういう意味だよ」


「もういいです!」


でも、ちょっと嬉しい。


そういうところだと思う。


特別な言葉があるわけでもない。

恋愛みたいな視線があるわけでもない。

ただ、当然みたいに自分の分がある。


それがいちいち効く。


温泉卵は熱かった。

黄身がとろりとしていて、リュシアは思わず目を見開く。


「おいしい……」


ネムリアは無言で二つ目に手を伸ばしかけ、フローラに静かに止められていた。


そのあとも、食べ歩きは続いた。


湯花まんじゅう。

串団子。

小皿の湯豆腐。

甘酒。

湯の蒸気で温めた焼き栗。


リュシアは気づけば普通に笑っていた。


「これ、前に買った髪飾りよりこっちの飾りの方が良かったかもしれません」


「また無駄遣いする気か」


「しませんよ!」


「どうだかな」


「今回はちゃんと分かってます!」


そう言い返しながらも、以前のような本気の反発ではない。

仲間内の軽口に近かった。


ユキトも、それに特別な意味は持っていなかった。


リュシアはもう、守るか切るかの対象ではない。

ちゃんと仲間だ。

だから気を張りすぎない。


観光地で皆少し緩んでいることもあって、余計に壁は薄くなっていた。


それを感じているのは、リュシアだけではない。


少し離れた屋台の前で、ヴォルカがそっとフローラを見る。


フローラも同じ方向を見ていた。


ユキトが何でもない顔でリュシアに串を渡す。

リュシアが何でもない顔をしようとして、少しだけ嬉しそうになる。


それを、二人は見逃さなかった。


ヴォルカがごく小さく息をつく。


「……気づいてますね」


「ええ」


フローラは静かに答える。


「かなり前から」


「ユキトさんは」


「気づいていません」


「でしょうね」


そこは即答だった。


二人とも分かっている。


ユキトがリュシアへ流れることはない。

そこは分かっている。


ユキトにとって今のリュシアは、仲間だ。

鍛えて、認めて、ようやく並びに入った新しい一人。

それ以上でもそれ以下でもない。


だからこそ、不安だった。


もしリュシアがこのまま深くなれば、傷つく。

旅の空気が揺れる。

そしてユキトは、たぶんその時まで気づかない。


嫉妬というより、予感に近かった。


夜が深まる頃、一行は湯見坂へ向かった。


高台へ続く石段は長い。

途中途中に小さな足湯や腰掛けがあり、登るほどにフィオラ全体の灯りが見えてくる。


リュシアは途中で少しだけ息を切らした。


「広い上に高低差まであるの、嫌がらせじゃないですか」


「鍛えろ」


「観光で鍛えたくありません!」


そんなやり取りをしながらも、登り切った先で全員少し黙った。


景色が、綺麗すぎたからだ。


谷に沿って灯りが広がっている。

湯煙が夜気に溶け、灯籠の橙がぼやけて揺れている。

川の流れも、屋根の線も、遠くの橋も、全部が柔らかい。


ネムリアがぼそっと言う。


「……きれい」


「ええ」


ヴォルカも頷いた。


フローラも、珍しくすぐには何も足さなかった。


リュシアはしばらく、その景色を見た。


長旅の終わり。

秋から冬へ移る空気。

ようやく辿り着いた場所。


そして隣には、ここまで来た仲間がいる。


その中にユキトもいる。


感謝したい。


ちゃんと、礼を言いたい。


山で救われて。

叩き直されて。

槍をもらって。

正式に入れられて。

ここまで連れてこられた。


ありがとうと、言うべきだと思った。


リュシアは少しだけ横を向く。


ユキトは夜景を見ていた。

何を考えているのか分からない横顔だった。


「あの」


声をかける。


ユキトがちらりと見る。


「何だ」


「その……」


そこで、言葉が止まった。


ありがとう、だけで済まない。


その先にある何かが混ざって、うまく出てこない。


「……何でもないです」


「そうか」


それだけで終わる。


でも、その“何でもない”の中に、自分でも嫌になるくらい色々混ざっていた。


帰り道、リュシアは少しだけ口数が減った。


それを、ヴォルカは気づいていた。

フローラもたぶん気づいていた。

ネムリアはよく分かっていない顔で温泉卵の話をしていた。


夜、部屋に戻ってからも、空気は柔らかいままだった。


障子の向こうに湯気の灯りがぼんやり映る。

外からは遠い笑い声と、下駄の音がかすかに聞こえる。


ネムリアはすでに布団に沈みかけている。

ヴォルカは髪を拭きながら、少しだけリュシアを見る。


「今日は楽しかったですね」


「……まあ」


リュシアはそっけなく返す。

でも、声はあまり硬くない。


フローラが静かに言う。


「あなた、かなり浮かれていますよ」


「浮かれてません!」


「そうですか」


「そうです!」


「では、あの夜景のところで何を言いかけたんです?」


その一言で、リュシアが固まる。


ヴォルカが苦笑した。


「気づいてたんですか」


「当然でしょう」


フローラは淡々としている。

その淡々さが余計に逃げ道をなくす。


リュシアはしばらく黙ってから、小さく吐き出した。


「……お礼、言おうと思っただけです」


「だけ、ですか」


「だけです!」


でも、その“だけ”に自信がないことは、自分が一番よく分かっていた。


ヴォルカは責めなかった。

ただ少しだけ、寂しそうに笑った。


「そういうの、ありますよね」


リュシアは返せない。


フローラも、それ以上は追わなかった。


二人とも知っているからだ。

ここで問い詰めても意味がない。

たぶんリュシア自身、まだちゃんと認めていない。


その後の日々は、幸福な停泊だった。


朝の露天。

昼の食べ歩き。

軽い依頼。

たまの訓練。

足湯。

祈湯神社。

雪が降る前の鋭い空気。

夜の湯見坂。

時々起きる気まずい混浴騒動。

温泉卵屋台の行列。

宿で囲む鍋。


ユキトは時々、驚くほどあっさり金を使った。


「この鍋うまいから追加」


「土産にでも買っとけ」


「どうせ冬の間いるんだ、多少広い部屋の方が楽だろ」


でも、その一方でちゃんと線引きもしている。


「次の旅先まで足りる分は残す」


そこだけは崩さない。


フローラは見えないところで支出を整え、ヴォルカはその空気を柔らかくし、ネムリアは相変わらずマイペースだった。


そしてリュシアは、その日々の中で少しずつ思ってしまう。


このままでいたい。


もっと、ここでこうしていたい。


旅の途中のような張りつめた空気じゃない。

でも、ただ緩んでいるだけでもない。


ちゃんと仲間で、ちゃんと近くて、ちゃんと楽しい。


その中でユキトを見る時間が増えていく。


視線を向ける。

言葉を待つ。

何でもない軽口で嬉しくなる。

他の三人が近いと、少しだけ胸がざわつく。


まだ、はっきりとは言えない。

言葉にしたら何かが変わってしまいそうで、自分でも少し怖かった。


でも、気づき始めている。


感謝だけじゃない。

仲間として嬉しいだけでもない。

認められたくて見ていた相手が、少しずつ、少しずつ、自分の中で違う重さを持ち始めている。


冬が深くなる頃には、フィオラの景色もまた変わった。


山は白くなり、屋根にも雪が積もる。

外へ出にくい日も増えた。

だからこそ、一行は本当にこの街に留まることになった。


ユキトが言った通り、この冬はここで過ごす。


それは正しい判断だった。

でも、リュシアにとってはそれ以上の意味を持ち始めていた。


ここでの時間は、やさしい。


温泉に浸かって、笑って、食べて、歩いて、たまに戦って、また戻ってくる。

そんな繰り返しが、思っていたよりずっと心地よかった。


だからこそ、ふとした時に胸がざわつく。


この時間は、ずっと続くわけじゃない。


そう思った瞬間だけ、言葉にならない何かが喉の奥で引っかかる。


けれど今は、まだそれでよかった。


白湯郷フィオラは、長旅の終わりに辿り着いたご褒美の街だった。

そして同時に、まだ名前のつかない感情を静かに育ててしまう、あたたかな停泊地でもあった。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ