28.怖いのは正しい
町を出る朝は、思っていたより静かだった。
長く居座るつもりはなかった。
最初は数日、せいぜい一週間もいないつもりだった。
装備を整えて、補給をして、それで終わるはずだった。
だが実際には、ずいぶん時間を使った。
リュシアの登録。
槍の訓練。
小依頼の反復。
生活の慣れ。
ネムリアの件。
気がつけば、当初の予定よりかなり長く町に留まっていた。
それでも、無駄ではなかったと、今ははっきり分かる。
宿の部屋ではなく、朝の食堂でもなく、一行は門へ向かう前の広場の端で荷を整えていた。
旅支度は以前よりずっと静かに進んだ。
ヴォルカは荷物の紐を確認している。
フローラは保存食と水の位置を見直していた。
ネムリアはまだ少し眠そうだが、自分の足で立っている。
そしてリュシアは、新しい槍を背に、以前よりずっと手早く荷物をまとめていた。
最初の頃のような手間取り方は、もうない。
紐の締め方も覚えた。
荷重の分け方も覚えた。
歩く時に邪魔になる持ち方も、少しずつ直した。
完璧ではない。
だが、あの頃とは違う。
ユキトは少し離れた場所からそれを見ていた。
腕を軽く動かす。
馴染んだ金属が、わずかに鳴る。
リュシアはもう、最初よりずっとましだった。
槍は最低限、形になった。
小依頼も一人前未満ではあるが、使える。
生活面も、見ていないと回らない段階は越えた。
ネムリアの件も、一度きちんと崩して整理した。
ここまで来たなら、もう曖昧にしておく理由はない。
「よし」
ユキトが声をかける。
全員の動きが止まった。
「出る前に一つだけ言っとく」
リュシアが顔を上げる。
少しだけ身構えている顔だった。
まだ、こういう時に何を言われるか分からないと思っている顔だ。
ユキトはそれを見たまま、淡々と言った。
「リュシア」
「はい?」
「お前も正式に入れ」
一瞬、意味が入ってこなかった。
「……は?」
「もう雑用係でも保護対象でもない」
「パーティとして扱う」
「戦力として数える」
静かだった。
周囲の朝のざわめきだけが、少し遠くにある。
リュシアはしばらく何も言えなかった。
その言葉は、思っていた以上に深く刺さった。
最初は面倒な新入りだった。
人間の生活も知らず、長距離移動も怪しく、口ばかり達者で、実際には足を引っ張ることの方が多かった。
背中にネムリアを乗せられて、雑用みたいなことばかりやっていた時もあった。
そこから少しずつ変わった。
槍を持った。
戦った。
失敗した。
減額された。
金が足りなくなった。
安宿を知った。
何度もつまずいた。
それでも立って、少しずつ覚えて、ようやくここまで来た。
その先にある言葉が、これだった。
戦力として数える。
パーティとして扱う。
それは、たぶん町に着いてからずっと欲しかった言葉だった。
胸の奥が熱くなる。
けれど、それをそのまま出すのは負けな気がした。
だからリュシアは、反射みたいに顎を上げる。
「……当然です!」
思ったより、少しだけ声が上ずった。
ユキトがじっと見る。
「本当にそう思ってるやつは、そんな顔しねえだろ」
「してません!」
「してますね」
フローラが静かに言う。
ヴォルカも小さく笑った。
「かなり嬉しそうです」
「うるさいです!」
ネムリアがぼそっと言う。
「……あかい」
「あなたまで何なんですか!」
顔が熱いのが自分でも分かった。
否定したい。
でも否定しきれない。
嬉しい。
悔しいくらい、嬉しかった。
ユキトはそこで、少しだけ間を置いた。
「勘違いすんなよ」
リュシアがむっとして睨む。
「してません」
「まだ一人前じゃない」
「分かってます!」
「でも、使える」
短い言葉だった。
それだけで、また胸が跳ねた。
リュシアは思わず顔を逸らす。
そういう言い方はずるい。
本当にずるい。
ヴォルカはそんな二人を見ながら、どこかほっとしたように息をついた。
「これでようやく、ですね」
フローラも静かに頷く。
「ええ」
「少し形になりました」
その言葉には、町で過ごした時間全部が含まれていた。
ネムリアはまだ少し眠そうなまま、小さく呟く。
「……ふえた」
「いや、前からいましたけど!?」
「……ちゃんと、ふえた」
リュシアはその言葉に少しだけ詰まる。
それはたぶん、今までとは違う意味だった。
ただ一緒にいるだけじゃない。
ちゃんと、この並びに加わった。
その実感が、ようやく少しだけ形になる。
「じゃあ行くぞ」
ユキトが歩き出す。
以前なら、そこでリュシアは少し遅れていた。
荷物を持ち直し、槍の位置を直し、慌てて追いかけていた。
でも今日は違う。
一拍遅れず、ちゃんとついて出る。
門へ向かう足並みの中で、リュシアは少しだけ周囲を見る。
前にユキト。
その横にヴォルカ。
後ろにフローラ。
近くにネムリア。
その中に、自分もいる。
まだ少しぎこちない。
完全には馴染んでいない。
でも、もう“ついてきているだけ”ではない。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
町の門が近づく。
見慣れた石壁。
何度も通った道。
訓練に行き、依頼へ向かい、買い物をして、帰ってきた場所。
短くはない時間を過ごした町だった。
ユキトが振り返りもせずに言う。
「ここから先は移動が増える」
「町みたいに毎回すぐ寝床があると思うなよ」
「分かってます」
リュシアはすぐに返した。
前なら、たぶん少しだけむっとしていた。
でも今は違う。
それが現実だと、もう知っている。
「歩幅、乱すなよ」
「はい」
「無理なら無理って言え」
「……はい」
「あと、前に出る時はちゃんと見ろ」
ユキトが少しだけ腕を上げる。
「俺が全部拾えると思うな」
「お前が勝手に死角へ入るな」
リュシアがその腕を見る。
最初は変な装備だと思っていた。
今でも少し思っている。
でも、前に立つたび、あれで全部を守れるわけじゃないことも。
受ければ普通に痛いことも。
それでも前に出るために使っていることも、最近は少し分かるようになってきた。
「……分かってます」
今度の返事は、さっきより少しだけ真面目だった。
ヴォルカが柔らかく笑う。
「なんだか、出発って感じですね」
「今さらですけどね」
リュシアが答える。
「いや、でも……」
少しだけ言葉を探す。
「前とは、違う気がします」
その言葉に、フローラが静かに頷いた。
「そうですね」
「今度はちゃんと、五人で出るのですから」
五人。
その言い方が、また少し胸に残る。
リュシアは帽子のつばを軽く押さえた。
嬉しいのを隠すためだったが、たぶん隠しきれていない。
ネムリアが横で見上げてくる。
「……うれしい?」
「うるさいです」
「……うれしいんだ」
「あなた本当に今そういうのだけはよく見ますよね!?」
ヴォルカが笑い、フローラの口元も少しだけ和らぐ。
ユキトは前を向いたまま、小さく息を吐いた。
騒がしい。
でも、悪くなかった。
門を抜ける。
町の外の空気は、少し冷たかった。
季節は確実に進んでいる。
ぐずぐずしていれば、じきに冬が来る。
普通の足なら間に合う。
だが、今の五人で進むなら、無駄にできる時間は多くない。
旅は再開した。
今度は、前とは少し違う形で。
リュシアは歩きながら、自分の槍に一度だけ触れる。
あの町で買ってもらった一本。
最初はぎこちなかった。
まだ完璧ではない。
でも、もうただの飾りじゃない。
自分がこの先、並ぶための武器だ。
前を見る。
ユキトの背中がある。
むかつく。
雑だ。
感じも悪い。
でも、ちゃんと見て、ちゃんと認めて、ちゃんと前へ行く背中だ。
それを目で追ってしまう自分に、まだ名前はつけない。
今はただ、ついていく。
いや、違う。
ついていくだけじゃない。
並ぶために、歩く。
その実感を胸の奥に抱いたまま、リュシアは一歩、町の外へ踏み出した。
町を出て三日目の朝、空気はもう少しだけ冷たくなっていた。
吐く息が白くなるほどではない。
だが、朝露の残り方が変わった。
草を踏んだ時の湿り気も、風の抜け方も、確実に季節が進んでいることを感じさせる。
ユキトは街道脇の石に腰を下ろし、地図を広げた。
簡易な地図だ。
道筋と、大まかな高低差と、途中の補給点だけが記されている。
その横から、リュシアが覗き込む。
「まだそんなにあるんですか」
「あるよ」
「普通に歩けば、一か月半あれば足りる」
「普通に歩けば、な」
その最後の一言に、リュシアがむっとした。
「まだ言います?」
「言うだろ」
ユキトは地図を畳む。
「町で予定より時間を使った」
「このままぐだぐだ進めば、冬に噛まれる」
「だからこれからは、移動も戦闘も無駄を減らす」
ヴォルカが少し困ったように笑う。
「つまり、リュシアさん次第ということですね」
「何でみんな当たり前みたいに言うんですか!」
「当たり前だからです」
フローラが静かに答える。
「うっ……」
そこは反論しづらい。
以前のリュシアなら、朝の支度だけで余計な時間を使っていた。
荷物の持ち方一つ、槍の固定一つ、食事の片づけ一つにしても遅い。
今はだいぶましになったが、それでもまだ四人に比べれば手間が多い。
ネムリアが木にもたれたまま、ぼそっと言う。
「……はやくいこう」
「あなた前まで一番遅かったでしょう」
「……あるいてる」
「それはそうですけど!」
ネムリアが歩くようになってから、移動の空気は少し変わった。
前よりも遅くなる時はある。
休憩の取り方も変わった。
けれど、その代わりに全員で歩幅を調整する意識が生まれた。
ユキトはネムリアを特別枠にしなくなった。
フローラも当然のように背負うことをやめた。
リュシアも、もう雑用係みたいに運搬役を押しつけられてはいない。
その変化は、旅全体の形を少しだけ整えていた。
「行くぞ」
ユキトが立ち上がる。
五人は旅を再開した。
正式加入したからといって、すぐに何かが劇的に変わるわけではなかった。
ただ、役割は少しずつ変わった。
「リュシア、先に水を見てこい」
「はい」
「見つけたら戻って言え。勝手に近づくな」
「分かってます」
「今日の見張り前半、お前な」
「えっ、私ですか」
「正式に入れたんだから当然だろ」
その言い方が、いちいち少しだけ嬉しい。
表向きは「当然です」としか返さない。
だが、内心では一つ一つがちゃんと効いていた。
任される。
数えられる。
最初から“使う側”として話される。
表向きは「当然です」としか返さない。
だが、内心ではいちいち効いていた。
旅の中盤に入る頃には、小さな依頼も再び拾うようになった。
町の中で受けていた時ほど数は多くない。
だが、街道沿いの村や中継地では、人手不足の小仕事がいくらでもある。
薬草採集。
荷運びの同行。
畑荒らしの駆除。
浅い森の見回り。
その多くをリュシアが受けた。
今度は、もう完全な一人ではない。
パーティの一員として受ける。
ただし、実際の処理はまずリュシアにやらせる。
危ない時だけ手を出す。
その形だった。
最初の大きな変化は、槍での初勝利だった。
街道から少し外れた林の縁。
依頼主の村人によれば、畑を荒らす小型魔物がいるらしい。
実際に出てきたのは、犬より少し大きい程度の獣型が二体。
牙はあるが、落ち着いて対処すれば問題ない相手だ。
リュシアが前に出る。
槍を構える。
最初の頃のような無駄な力みは、もうかなり減っていた。
それでもまだ、肩は少し上がっている。
足も、たまに大きく出すぎる。
一体が低く走る。
リュシアは反射で突きたくなる。
だが、ユキトの声が頭の中で先に響く。
――慌てるな。
――届く距離を見ろ。
一歩だけ待つ。
魔物が飛び込む。
その瞬間、穂先を半歩だけ前へ。
浅くない。
ちゃんと脇腹へ入った。
魔物がよろめく。
そこで追いすがらず、槍を引く。
距離を保ったまま、二撃目を喉元へ。
今度は綺麗に決まった。
魔物が崩れる。
一瞬遅れて、もう一体が横へ回る。
だがリュシアは今度こそ見えていた。
牽制を入れる。
鼻先を払う。
怯んだところへ短く差し込み。
戦闘はそれで終わった。
ほんの数息。
たったそれだけの戦闘。
でもリュシアには、前とは明らかに違う感触があった。
ただ当たったんじゃない。
ちゃんと見て、ちゃんと届く距離で、ちゃんと刺した。
「……どうですか」
聞くつもりはなかった。
でも、口が勝手に動いた。
ユキトは倒れた魔物を一瞥し、それからリュシアを見る。
「今のは良かった」
たった一言だった。
なのに、心臓が跳ねた。
胸の奥に熱いものが広がる。
嬉しい。
馬鹿みたいに嬉しい。
顔が緩みそうになるのを、リュシアは必死で止めた。
「……当然です」
「顔が緩んでる」
「緩んでません!」
ヴォルカが吹き出しそうになるのをこらえていた。
フローラの口元も、少しだけ和らいでいる。
その日から、リュシアははっきりと変わり始める。
最初は、強い自分を見せたかった。
竜として。
人間より上で。
足手まといじゃないと証明したかった。
でも今は少し違う。
ちゃんと当てたい。
ちゃんと役に立ちたい。
ちゃんと、この形に入っていたい。
それが、自分でも分かるくらいはっきりしてきた。
その次に来た変化は、連携の成功だった。
数日後、山道へ入る手前の岩場で三体の魔物に出会った。
猿のように手が長く、足場の悪い場所を跳ねる相手だ。
一体一体は大したことがない。
だが位置取りを崩されると面倒なタイプだった。
ユキトが前へ出る。
一体が飛ぶ。
ユキトが半歩ずれる。
受ける。
鈍い音。
足が崩れない。
別の一体が横を取ろうとする。
その瞬間、ヴォルカの小さな支援が入る。
ほんの一瞬、足元が乱れる。
それだけで、魔物の動きが半拍遅れる。
「今!」
ユキトの声。
リュシアが踏み込む。
横から。
深く行きすぎず、届く距離だけ。
槍が脇腹へ入る。
その手応えのまま押し込まない。
引く。
次の位置へ回る。
もう一体が飛ぶ。
ユキトがそれを受け、狭い間を止める。
完全には止まらない。
だからこそ、リュシアが横から刺せる。
フローラが後ろから全体の崩れを見ている。
必要なら回復。
必要なら声。
全員の位置が乱れない。
戦闘は長くなかった。
終わった時、リュシアは少しだけ呆然としていた。
今のは、自分一人で勝ったんじゃない。
でも、ただ守られたわけでもない。
自分の槍が、ちゃんとこの形の中に入った。
ユキトが受ける。
ヴォルカが支える。
フローラが整える。
その中に、自分もいた。
「……入れた」
思わず小さく漏れた。
「何がです?」
ヴォルカが笑う。
リュシアは少しだけ顔を赤くした。
「別に」
「何でもありません」
でも、その何でもない一言の中に、本人にも隠しきれない実感があった。
一方で、失敗もまだ普通にあった。
ぬかるんだ坂道の小戦闘。
リュシアは踏み込みを焦り、足を滑らせた。
体勢が崩れる。
魔物の牙が向く。
避けられない。
次の瞬間、横からユキトが割って入った。
腕で受ける。
鈍い音。
それでもそのまま踏み込み、体ごと押し返す。
魔物がよろめく。
そこで短く打って弾く。
「立て」
ユキトはそれだけ言った。
リュシアが慌てて立ち上がる。
前なら怒鳴られていたかもしれない。
あるいはもっと冷たく切られていたかもしれない。
でも今は違う。
「次は同じミスするな」
それだけだった。
責めすぎない。
でも甘やかしでもない。
距離が、少し変わっていた。
それがリュシアには分かった。
だから見てしまう。
最初はムカついた。
雑で、感じが悪くて、何を考えているのか分からないやつだと思った。
次に、悔しくなった。
でも見てしまった。
次に、認められたくなった。
褒められると嬉しい。
短い一言でも、はっきり分かるくらい嬉しい。
そして気づけば、三人とユキトの距離の近さに少しだけざわつくようになっていた。
ヴォルカが自然に隣へ立つこと。
フローラが言葉にしなくても意図を汲むこと。
ネムリアが何も考えず近くにいること。
そこに、自分だけがまだ少し遅れている。
それが気になった。
まだ、この時点では名前はつかない。
ただ胸の奥が少しざわつくだけだ。
その感情がはっきり形を持ち始める前に、旅の中で一度だけ、本気で前衛が怖いと思う場面が来た。
山道に入ってしばらくした頃だった。
道は狭い。
片側は斜面。
もう片側は大きな岩壁。
足場も悪い。
そこで遭遇したのは、これまでより一段重い相手だった。
猪に似た魔物。
だが肩が異様に高く、牙が太い。
突進の質が明らかに違う。
ユキトが前に出る。
「下がりすぎるな」
短く言う。
リュシアは槍を握る。
ヴォルカが後ろへ位置を取る。
フローラはさらにその後ろ。
魔物が地面を蹴った。
来る。
ユキトが受ける。
凄まじい音がした。
足が石を削って半歩押される。
リュシアの背中が冷えた。
今まで見てきた小戦闘とは違う。
間違えたら、そのまま骨が折れる。
腕が潰れる。
吹き飛ばされる。
二度目の突進。
ユキトがまた受ける。
足をずらす。
体を流す。
それでも、受けるたびに腕へ痛みが通っているのが、遠目にも分かった。
ヴォルカの支援が入る。
足元を乱す。
進路をほんの少しずらす。
「横!」
ユキトの声が飛ぶ。
リュシアが動く。
でも、その一歩が怖かった。
もし外したら。
もしこっちを向かれたら。
この狭さで突っ込まれたら。
自分には受けられない。
避けきれない。
足が、一瞬だけ止まる。
その一瞬が致命的だった。
魔物の首がこちらを向く。
目が合った気がした。
来る。
怖い。
本気でそう思った。
次の瞬間、ユキトが無理やり押し込み、魔物の頭を横へ逸らした。
身体ごと食い込むような動きだった。
止めたけれど、楽ではないのが分かる。
「刺せ!」
その声で、リュシアは震える足を無理やり動かした。
怖い。
でも、やるしかない。
槍を突き出す。
首の付け根。
浅くない。
魔物が暴れ、やがて崩れる。
戦闘が終わっても、リュシアはすぐに息が整わなかった。
槍を持つ手が震えている。
自分でも分かるくらい、震えていた。
ユキトが振り返る。
「怪我は」
「……ないです」
声が少し掠れた。
ユキトは数秒黙った。
それから短く言う。
「さっき、止まったな」
責める声ではなかった。
ただ事実を確認する声だった。
その言い方が逆にきつかった。
リュシアは唇を噛む。
言いたくない。
でも、誤魔化せない。
「……怖かったです」
ぽつりと落ちる。
誰に向けたのか、自分でも分からなかった。
でも言葉は止まらなかった。
「前衛って、ああいうの受けるんですか」
「まともに来たら、痛いとかじゃ済まないじゃないですか」
「避ける場所もないのに、前に立って、あれを受けて……」
声が少し震える。
悔しい。
恥ずかしい。
でも、嘘はつけなかった。
「怖いです」
リュシアははっきり言った。
「前衛、怖いです」
静かだった。
ヴォルカが少しだけ目を伏せる。
フローラも何も言わない。
ユキトはしばらく黙っていた。
それからリュシアを見る。
「そうだよ」
短い返事だった。
「怖い」
「痛いし、死ぬ」
「前に立つってのは、そういう場所だ」
リュシアは顔を上げる。
もっと軽く流されると思っていた。
あるいは、怖がるなと切られると思っていた。
でも違った。
ユキトは、当たり前みたいに認めた。
「だから、怖いのは正しい」
「怖いまま立て」
その一言が、妙に重く胸に落ちた。
ヴォルカも小さく言う。
「……怖くないわけ、ないです」
フローラは静かに続ける。
「前衛は、痛みと死に一番近い位置です」
「だからこそ、そこに立つ意味を間違えると壊れます」
リュシアは槍を握り直す。
怖い。
本当に怖かった。
前衛は華があると思っていた。
強くて、前に出て、格好いいものだと。
でも違った。
痛い。
怖い。
死ぬ。
誰かを守るために、自分を削る場所だ。
そのことが、この時初めて骨まで落ちた。
そして、この言葉は後で残る。
――前衛、怖いだろ。
――お前、そう言ったよな。
――それは正しい。
戦闘のあと、リュシアは少しだけ黙り込んだまま歩いた。
怖い。
それでも、前に立つ。
その意味がまだ全部は分からない。
でも一つだけ、はっきりしたことがある。
あそこに立っているユキトは、思っていたよりずっと重い場所にいた。
弱いくせに。
戦闘力1のくせに。
痛くないわけもないのに。
それでも前に立って、受けて、押し返していた。
その背中を、前よりも少しだけ、真っ直ぐ見られなくなった。
その日から、リュシアの感情はさらに変わっていく。
ムカつく。
悔しい。
見てしまう。
認められたい。
褒められると嬉しい。
他の三人の近さに少しざわつく。
そして、その奥に、今までとは違う熱が混ざり始める。
まだ、はっきりとは言えない。
でも気づきかけている。
たぶん自分は、
認められたくて見ていた相手を、
気づいたら少し特別に見始めている。
旅はまだ続く。
白湯郷フィオラまでは、まだ距離がある。
冬まで一か月半。
普通の足なら間に合う。
だが、今は五人の足で進む旅だ。
その中でリュシアは、少しずつ育っていく。
戦力として。
生活者として。
そして、まだ名前のつかない感情を抱いたまま、誰かを見る一人の女として。




