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27.一瞬、意味が分からなかった

冒険者として登録してからの数日は、派手ではなかった。


大きな依頼もない。

名のある敵もいない。

旅の途中みたいな死線もない。


代わりにあったのは、小さな依頼だった。


薬草採集。

街道沿いの害獣追い。

畑を荒らす小型魔物の駆除。

荷運びの依頼。

森の浅い場所での素材集め。


一つ一つは地味だ。

だが、その地味さの中に、人間の暮らしがあった。


そして、その全てをリュシアが受けた。


最初の数日は、本当に一人でやらせる形だった。

少なくとも、本人にはそう見えていた。


実際には少し離れた場所にユキトたちがいた。


木陰。

建物の影。

街道脇の茂み。


見えるか見えないかぎりぎりの距離で、四人はいつも見ていた。


「本当に毎回尾行するんですね……」


ヴォルカが少し呆れたように言った。


「死なれると困るからな」


ユキトは短く返す。


「でも、助けるのは本当に危ない時だけだ」


「それは分かっていますけど」


フローラが静かに前を見る。

その視線の先で、リュシアが槍を構えていた。


最初の頃のリュシアは、まだ危なっかしかった。


前に出すぎる。

間合いを詰めすぎる。

一撃当てると、そこで意識が止まる。


助けが必要になるほどではない。

だが、少し噛み合いが悪ければ事故になる。

そういう場面が、何度かあった。


ある日、森の浅い場所で小型魔物を相手にした時のことだった。


一体を牽制した直後、横からもう一体が飛び込んできた。

リュシアは気づくのが遅れた。

踏み込みも、戻りも半歩足りない。


その瞬間、ユキトは反射で動いた。


だが、距離があった。


木立を抜け、足場を蹴り、間に合うと判断して踏み込んだその時には、リュシアがぎりぎり自分で槍を引き戻し、柄で相手を逸らしていた。


噛みつきは服をかすめただけで済んだ。


済んだが、ユキトは舌打ちした。


「遠いな」


ヴォルカが小さく目を見開く。


「今のは……」


「間に合ったけど、次もそうとは限らねえ」


フローラも静かに頷く。


「あの距離では、もし一歩遅れていたら危なかったでしょうね」


ユキトは少し黙った。


一人でやらせる。

危ない時だけ助ける。


その方針自体は間違っていない。

だが、見守る距離が遠すぎると、いざという時に届かない。


その日の依頼が終わったあと、街へ戻る途中で、ユキトは木陰から出た。


「……は?」


リュシアが本気で固まる。


少し遅れてヴォルカとフローラ、ネムリアも姿を見せた。


「な、何でいるんですか!?」


「最初からいました」


「はあ!?」


「……ほごしゃつき」


「最悪なんですけど!?」


リュシアの顔が一気に赤くなる。


「見てたんですか!?」


「見てました」


「どこから!?」


「最初からです」


「最悪!!」


ヴォルカが少し困ったように笑い、フローラは小さくため息をつく。

ネムリアはぼそっと言った。


「……ばれてなかった」


「そこ褒めるところじゃないでしょう!」


だがユキトは取り合わず、短く言った。


「方針変える」


リュシアがむっとしたまま睨む。


「何ですか」


「尾行はやめる。今後は最初から近くで見る」


「何かあった時に、すぐ届かないと意味がない」


「それと、終わった後にその場で言う。直すとこ、すぐ直した方が早い」


リュシアはまだ怒っていたが、その言葉には少しだけ詰まった。

それが正しいと、分かってしまったからだ。


ユキトはそのまま続ける。


「今のも遅い。二体目を見るのが遅れた」

「一体目に意識を持ってかれすぎだ」

「あと、柄で逸らした判断は悪くない。でも戻りの足が半歩遅い」


短い。

いつもの調子。

だが今回は、ごまかしがない。


リュシアは少しだけ顔をしかめる。


「……最初からそうしなさいよ」


「お前が一人でできる気になってた方が、最初は都合よかった」


「性格悪いですね!」


「知ってる」


その日から、形が少し変わった。


リュシアは依頼を受ける。

基本的には一人でやる。


だが、ユキトたちは最初から少し近い場所にいる。

手は出さない。

口も挟まない。

ただ、本当に何かあればすぐ届く距離で見る。


そして終わったあと、短く言う。


「歩幅が広い」

「重心が前」

「牽制が牽制になってない」

「今のはいい」

「槍を引くのが遅い」


劇的ではない。

けれど、一つずつ確実に積み上がっていく。


槍の間合い。

歩幅。

重心。

牽制。


最初はただ、強い自分を見せたかった。

竜として。

他より上で。

人間相手ならなおさら。


その気持ちはまだ消えていない。

でも、少しずつ違うものが混ざり始める。


ちゃんと当てたい。

無駄に振るんじゃなくて、届くところに届かせたい。

ちゃんと役に立ちたい。


足手まといでも、守られるだけでもなく、あの人たちの並びに少しでも近づきたい。


その変化に、本人はまだ名前をつけられなかった。


「今の、どうでした」


そう聞きかけて、リュシアは口を閉じた。

聞いたら負ける気がした。

けれど気になる。


そして腹立たしいことに、ユキトは聞かれなくても言う。

次に直す場所を、短く、正確に。


そのうちリュシアは、戦闘の最中ですら考えるようになっていた。


ここで足を出しすぎたら、また言われる。

ここで牽制を一つ入れろと言うだろう。

ここで踏み込みを欲張るなと切るだろう。


いつの間にか、自分の動きを測る基準の一つになっていた。


それはまだ恋ではない。

むしろ、うっとうしい。

感じも悪い。

腹も立つ。


でも、見てしまう。

基準にしてしまう。


翌朝、宿の一階はまだ少し薄暗かった。


窓の外は白み始めているが、街そのものは起き切っていない。

通りから聞こえる音もまばらで、厨房の方から鍋の触れ合う音と、煮える匂いがゆっくり流れてくるくらいだった。


リュシアは椅子に座って、槍の柄を布で拭いていた。


依頼はもう受けてあると昨夜聞かされていた。

街道沿いではなく、森の手前。採集の護衛。

地味だ。

正直、面白くはなさそうだった。


そこへユキトが降りてきた。


眠そうな顔で椅子を引き、勝手に卓の上のパンを取る。

フローラはもう起きていて、温かい飲み物を置いた。

ヴォルカは荷の確認をしている。

ネムリアだけが椅子に座ったまま、うとうとしていた。


「今日の依頼、確認しとくぞ」


ユキトが言う。


「薬師見習いの護衛だ。森の手前で草を採る。奥には入らない」


リュシアは露骨に顔をしかめた。


「採るだけの子を見て歩くだけですか」


「そうだ」


「地味ですね」


「護衛なんてそんなもんだろ」


それでも不満は隠せない。

槍を持つ手に、少し力が入る。


「もっとこう、魔物の巣を潰すとか、危険地帯の突破とか――」


「今日はお前の最終試験だ」


その一言で、リュシアの口が止まった。


「……は?」


ユキトはパンをかじりながら、当たり前みたいに続けた。


「区切りって意味でな。今日で見る」


「何をですか」


「戦えるかどうかじゃねえ」


その声は軽いのに、言っていることは妙に真っすぐだった。


「一人で依頼を終わらせられるかどうかだ」


リュシアは黙る。


ユキトは指を折るようにして言った。


「戦うか、引くか」

「追うか、止まるか」

「何を守る依頼かを途中で見失わねえか」

「終わったあと、ちゃんと終わった形にできるか」


そこで初めて、リュシアの顔から少し不満が引いた。


派手な強さではない。

だが、軽く扱われているわけでもない。


「……それ、戦えればいいって話じゃないんですね」


「今さら何だと思ってた」


「もっと強い敵を倒せるかとか、そういうのかと」


「そっちは後でいい」


ユキトは飲み物を一口飲んだ。


「依頼ってのは、倒した数で終わるとは限らねえ」


リュシアはしばらく黙っていたが、やがてそっぽを向いた。


「……分かりました」


「不満そうだな」


「ありますよ」


「だろうな」


「でも逃げません」


それだけは、はっきり言った。


ユキトは小さく鼻で笑う。


「なら行くぞ」


薬師見習いの少女は、ギルドの前で待っていた。


年はリュシアとそう変わらないようにも見えたが、身体つきは明らかに細い。

背には籠を負い、小さな鎌と布袋をいくつか下げている。

いかにも戦えないと分かる格好だった。


「本日はよろしくお願いします」


ぺこりと頭を下げる。

その動きまで、どこか頼りない。


リュシアは思わず相手を見た。


細い腕。

歩幅も狭い。

ちょっと枝でも引っかけたら転びそうだ。


森の手前まで進むあいだ、少女は採る予定の薬草のことを小声で説明した。

日当たり、土の湿り、葉の形。

リュシアにはよく分からない話だったが、少女にとっては大事な仕事なのだと、それだけは伝わってきた。


現場に着くと、少女はすぐにしゃがみ込み、地面を確かめ始めた。


リュシアは前に立つ。


いつもの癖で、少し前へ出すぎる。

だが背後で草を分ける音がして、足が止まった。


後ろに依頼人がいる。


その当たり前の事実が、今日は妙に重かった。


敵を探すだけでは駄目だ。

前へ出すぎれば、その後ろが空く。

追えば離れる。

仕留めに夢中になれば、守るべきものから目が外れる。


リュシアは槍を持ち直した。


倒す。

それだけなら簡単だった。

でも今日は、それだけで終わらない。


少しして、藪の奥で気配が動いた。


リュシアの肩がぴくりと揺れる。


小型魔物。

一体――いや、二体。


「来ます」


短く告げると、薬師見習いの少女がびくっと肩を縮めた。


その反応を見た瞬間、リュシアは前へ飛び出しかけて止まった。


駄目だ。

離れるな。


リュシアは踏み込みを半歩に変え、斜めに移動した。

依頼人を背に置き、自分が正面を受ける形にずらす。


次の瞬間、小型魔物が飛び出してきた。


一体目は低く、真っすぐ来る。

リュシアは槍で牽制し、そのまま穂先を滑らせて喉元を裂いた。


血が飛ぶ。

一体目はその場で崩れた。


だが、二体目がすぐ横から回る。


速い。


リュシアは身体を返しかけたが、一瞬だけ遅れた。

依頼人の位置を意識した分、切り返しが半拍鈍る。


間に合わない――


そう思った瞬間、横から熱が走った。


ほんの一瞬。

火と呼ぶには小さい、息のような熱。

だがそれで十分だった。


魔物の足が止まり、動きが乱れる。


ヴォルカの補助だ、とすぐ分かった。


リュシアは歯を食いしばった。


そこからは早かった。

槍を返し、体勢を崩した魔物の肩口を深く突く。

悲鳴。

跳ねるように後退。


追えば仕留められる距離だった。

だが、リュシアは追わなかった。


槍を構えたまま、その場で止まる。

後ろに少女がいる。

そっちを残して前へ出る方がまずい。


魔物は数歩うろつき、やがて森の奥へ逃げた。


静けさが戻る。


リュシアは荒く息を吐いたまま、動かなかった。

少し遅れて、背後からおそるおそる声がする。


「……あの、大丈夫、ですか」


リュシアはそこでようやく振り返った。


少女は青ざめていたが、怪我はない。

籠も無事だった。

採った草も落としていない。


「……大丈夫です」


そう言った自分の声が、思ったより硬かった。


依頼はそのまま続行された。


最低限の採集を済ませ、日が高くなる前に引き返す。

帰り道、フローラはネムリアを背負いながら薬師見習いの少女の歩調に合わせ、必要な声だけをかけた。

ヴォルカは周囲を警戒しながら歩く。


リュシアだけが少し離れて歩いていた。


組合に戻る前、開けた場所で一度足を止める。


フローラたちは依頼人の様子を見ていた。

採集物の確認、水分、落ち着き。

そういう仕事を自然にやっている。


リュシアは自分の槍を見た。


血はもう布で拭ってある。

穂先に異常はない。

手も震えていない。


なのに、胸の奥だけが重かった。


「……助け、入りましたよね」


誰にともなく言ったつもりだったが、ユキトが聞いていた。


「ああ」


それだけだった。


リュシアは唇を噛む。


「最終試験、だったのに」


返事はない。


「私、一人で終わらせてません」


今度は声が少し沈んだ。


悔しい。

依頼人は守れた。

位置も考えた。

追わなかった。

そこまではできた。


でも、あの一瞬が足りなかった。

ヴォルカの補助がなければ、もっと危なかった。


そう分かる程度には、今の自分が見えている。

それが余計に悔しかった。


少しして、ヴォルカが近くへ来た。


リュシアはすぐ顔を上げられない。


ヴォルカは変に優しい顔をしなかった。

ただ静かに、事実だけを置くみたいに言った。


「あの子がいましたから」


リュシアは黙る。


「私の判断で支援しました」


それは慰めではなかった。

だが責める口調でもない。


リュシアは槍を握り直す。


喉の奥に、嫌な重さが詰まる。

悔しいし、情けないし、認めたくない。


前なら、ここで拗ねた。

言い訳をしたかもしれない。


でも今は、それを言ったらもっと駄目だと分かる。


リュシアはしばらく黙ったあと、やっと口を開いた。


「……ありがとうございました」


小さい声だった。


言った瞬間、すぐに顔が熱くなる。

逃げたいくらい嫌だった。


ヴォルカは少しだけ目を丸くして、それからやわらかく頷いた。


「はい」


その向こうで、フローラが薬師見習いに水を渡していた。

震えの残る手から籠を受け取り、中身を崩さないように軽く整える。


「採れた分だけで十分です。今日はここまでにしましょう」


落ち着かせる声だった。

ネムリアは隣で、落ちた布袋を拾って抱えている。


依頼人がようやく息を吐けるところまで、もう戦いの外側は回収されていた。


リュシアはその様子を見て、胸の奥がまた少し重くなる。

守るだけじゃ、終わっていない。

無事で終わらせるところまで含めて、依頼なのだと分かってしまった。


そこでユキトが口を挟んだ。


「まだ未熟だな」


リュシアが反射で睨む。


「何ですか」


「本来なら、あそこも自分で収めろ」


容赦がない。

思った通りの言葉だった。


「守って終わりじゃねえ。怯えた依頼人を立たせて、持ち帰るところまでだ」


リュシアは一瞬、言い返せなかった。


「だから満点じゃねえ」


リュシアは悔しさで眉を寄せる。

だが、その続きは予想していなかった。


「でも合格だ」


一瞬、意味が分からなかった。


「……は?」


ユキトは指を折る。


「依頼人を見失わなかった」

「追わなかった」

「助けが入ったのを無かったことにしなかった」

「ちゃんと礼を言えた」


そこで少しだけ口の端を上げた。


「前のお前なら、そこ絶対拗ねて終わってた」


リュシアの顔が一気にしかめられる。


「うるさいですね」


「事実だろ」


「……事実ですけど」


言い返しながら、胸の奥で何かが落ち着いていく。


完璧じゃない。

一人で全部やれたわけでもない。

それでも、前とは違う。


そこを見られていた。


悔しい。

でも、少しだけ嬉しい。


それを素直に出すのも腹が立つので、リュシアは槍を肩に担いでそっぽを向いた。


「満点じゃないのは覚えておきます」


「覚えとけ」


「次は自分でやります」


「できるようになってから言え」


「なります」


即答だった。


ユキトはそこで何も言わなかった。

ただ、否定しなかった。

そのことが妙に残った。


翌朝。


宿の空気は昨日より少しだけ軽かった。


リュシアは起きてすぐ、昨日のことを思い出した。

合格。

満点じゃない。

でも合格。


言葉にすると半端で腹が立つのに、胸のどこかはちゃんと浮いていた。


一階に降りると、もう皆そろっていた。


ユキトは荷をまとめながら、こっちも見ずに言った。


「今日から仮で入れ」


リュシアは一瞬、ぴたりと止まった。


「……え」


「仮パーティー」


今度こそ、胸が跳ねた。


喜びが先に来る。

だが次の瞬間、「仮」という言葉が引っかかった。


「何ですか仮って」


すぐに顔をしかめる。


ユキトは淡々としている。


「まだ全部任せるには早い」


「合格って言ったじゃないですか」


「護衛を任せられる程度には、だ」


「十分じゃないですか」


「十分じゃねえから仮なんだろ」


腹が立つ。

かなり立つ。


でも昨日までとは違う。

外に置かれている感じではなかった。


見習いじゃない。

ついてくるだけでもない。

とりあえずでも、同じ依頼を受ける側に入れられた。


「……中途半端ですね」


「お前にちょうどいい」


「むかつきます」


「知ってる」


リュシアはむすっとしたまま椅子を引いた。

でも、口元だけは少し緩みそうになって、慌てて戻した。


依頼の確認は、宿を出る前に済ませた。


今日は最初から全員で動く。

ただし、昨日みたいな試験ではない。


ユキトが紙を見ながら言う。


「今日はもうお前の試験じゃない。こっちの依頼だ」


リュシアはその言葉を黙って聞いた。


「その代わり、自分の役割は考えろ」

「誰が何するか見て、ぼーっと付いてくるな」


「分かってます」


答えながら、昨日との違いがはっきり分かった。


今日は見られる側じゃない。

一応でも、同じ依頼を受ける側だ。


正式じゃない。

でも、外でもない。


その半歩が、思っていたより大きかった。


出発前、荷の確認をしていた時だった。


ユキトが何気なく言う。


「じゃあ今日は誰かネムリア背負ってくれ」


空気が止まった。


リュシアは最初、何が起きたのか分からなかった。

ただ、フローラが手を止めたのだけは分かった。


静かなまま、フローラが顔を上げる。


「その前に、一つよろしいですか」


声は穏やかだった。

いつも通りに聞こえるくらい、穏やかだった。


なのに、リュシアは反射的に背筋を伸ばした。


ユキトも少しだけ眉を動かす。


「何だ」


フローラはネムリアを見ず、ユキトだけを見て言った。


「いつまでこの子だけが、歩かなくていい前提なのですか」


静かだった。

それだけに、重かった。


ユキトが一瞬、言葉を失う。

ヴォルカも、珍しくすぐには口を挟まなかった。


リュシアは目を瞬いた。


言われてみれば、確かにそうだった。


ずっとそうだった。

野営の時も。

移動の時も。

フローラが背負うか、最近は自分が背負うか。

ネムリアはいつも運ばれる側だった。


最初はそういうものだと思っていた。

眠そうだから。

ふわふわしているから。

危なっかしいから。


けれど、正式に戦闘に入るようになった今、その役が曖昧になる。

その時に初めて、違和感が形になる。


――なんで、この子だけ?


ヴォルカが小さく口を開いた。


「ユキトさん」


責める声ではなかった。

けれど、逃がさない響きがあった。


「ネムリアばかり特別扱いするのは、やっぱり違うと思います」


ユキトがすぐには答えない。


リュシアはそこで初めて、本当に何も考えていなかったのだと分かった。

誤魔化すために黙っている顔じゃない。

言い返す言葉を探している顔でもない。

ただ、本気で、そこで初めて突かれた顔だ。


フローラが続ける。


「この子が眠そうなのは分かります」

「危なっかしいのも分かります」

「ですが、それを理由に常に誰かが抱える前提でいるのは、もう違うでしょう」

「少なくとも、当然のように言うことではありません」


ネムリアは少しだけ目を伏せていた。

いつものように「……ねむい」とも言わない。

何も言わない。

それが、逆に重かった。


本人も少し分かっていたのだろう。

自分だけが運ばれる側になっていることを。

それを、ずっと黙って受け入れていたことを。


リュシアは思わず口を開く。


「……確かに、そうでは?」


全員の視線が一瞬だけこちらに向いた。

だがもう止まらなかった。


「いや、だってそうでしょう」

「私、最近までずっと背負ってましたけど、普通に変だなとは思ってましたよ」

「何でこの人だけ常に運ばれる前提なんですか?」


外側から入ってきたからこそ、見える歪さがあった。


フローラとヴォルカは前から思っていた。

でも長く一緒にいるぶん、当たり前の形に飲まれていた部分もある。


リュシアは違う。

よそ者だからこそ、雑に言える。

そしてその雑さが、かえって核心を刺す。


ユキトはしばらく黙っていた。

そしてようやく、小さく息を吐く。


「……悪い」


誰に向けたのか、一瞬分からなかった。

でもたぶん、全員に向けてだった。


「別に甘やかしてるつもりはなかった」

「ネムリアは放っておくと危ないし、眠そうだし、無理させたくなかった」

「だから運ぶのが自然だと思ってた」


そこまで言ってから、自分の口で言ったことに、自分で気づいたのだろう。


自然だと思っていた。

つまり、前提にしていた。


ユキトの顔がわずかに歪む。


「……俺、平等にするって決めてたんだよな」


小さな声だった。


「でも、できてなかった」


ヴォルカが少しだけ目を伏せる。

フローラは何も言わない。

その沈黙が肯定だった。


ユキトはネムリアを見る。


「歩けるか」


ネムリアはしばらく黙っていた。

それから小さく言う。


「……あるける」


その声は、いつもより少しだけはっきりしていた。


ユキトは一瞬だけ目を閉じる。


「じゃあ、歩け」


命令ではなかった。

でも、甘やかしでもなかった。


ネムリアはゆっくりと壁から体を離した。

少しふらつく。

足元が頼りない。

最初の一歩は、見ているこっちが不安になるくらい覚束ない。


リュシアは思わず身構えた。

ヴォルカも半歩だけ前に出る。

フローラは静かに見守る。


ネムリアはもう一歩、歩いた。

さらに一歩。


遅い。

よろよろしている。

でも、歩けないわけじゃない。


「……歩けるじゃないですか」


リュシアが思わず言う。


ネムリアは少しだけ不満そうにこちらを見る。


「……あるける」


「じゃあ最初から歩いてくださいよ!」


「……ねむいし」


「そこは知ってます!」


そのやり取りに、ヴォルカがふっと息を漏らした。

フローラもほんの少しだけ口元を和らげる。


重かった空気が、少しだけほどける。

でも、ただ軽くなっただけじゃない。

何かが変わった。


その日の移動は、少し遅かった。


ネムリアが歩くぶんだけ時間がかかる。

休憩も増える。

リズムも崩れる。


けれど、誰も「やっぱり背負おう」とは言わなかった。


その代わり、歩幅を合わせる。

荷物の配分を変える。

危ない場所だけ少し支える。


特別扱いを消すのは、放り出すことではない。

ちゃんと全員を見ることだ。


その形を、全員が少しずつ探る一日になった。


昼過ぎ、休憩の時。


ネムリアは少し疲れた顔で座り込んでいた。

でも、どこかいつもと違う。

ぼんやりしているのに、少しだけ機嫌がいい。


「……あるいた」


「はいはい、偉いですね」


リュシアが言うと、ネムリアは少しだけ胸を張った。


「……えらい」


「自分で言うんですか」


ユキトは少し離れた場所で、その様子を見ていた。

何も言わない。


ただ、内心でははっきり分かっていた。


自分はたぶん、ネムリアを守っていたつもりで、結果的に一人だけ別枠にしていた。

無意識だった。

悪意もなかった。

でも、だから許されるわけでもない。


平等にするって決めていた。

全員をちゃんと見ると決めていた。

なのに、自分の中で“仕方ない”にしていた。


そのことが、思っていたより深く刺さっていた。


リュシアは少し離れたところから、その横顔を見る。


前みたいな「嫌なやつ」だけでは、もう片づけられない。


ちゃんと間違える。

ちゃんと気づく。

ちゃんと反省する。


だからこそ、見てしまう。

基準にしてしまう。


まだ恋ではない。

そんなふうに甘くはない。


でも。


戦い方を見て。

言葉を聞いて。

間違えた時の顔まで見て。


知らないうちに、目が向いてしまう相手になっていた。


その日の帰り道。


ネムリアは最後まで、自分の足で歩いた。


遅いし、たまにふらつくし、途中で二回くらい本気で座り込みかけた。

それでも歩いた。


街の門が見えた頃、リュシアがぽつりと言う。


「……何か、ちょっとだけ変わりましたね」


ヴォルカが優しく笑う。


「そうですね」


フローラも静かに頷いた。


「ようやく、少し整った気がします」


ユキトは前を見たまま答える。


「まだ全然だろ」


その言い方はいつも通りだった。

でも、その“まだ”の中に、自分も含まれているのを、今のリュシアはちゃんと分かっていた。

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