表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/35

26.物凄く嫌だった

朝、目が覚めた瞬間。


リュシアはしばらく、天井を見上げたまま動かなかった。


柔らかい。


最初に思ったのはそれだった。


背中が痛くない。

床の冷たさもない。

木の根も、石も、湿った地面もない。

布があって、シーツがあって、ちゃんとした枕がある。


昨夜、風呂に入ったあと、ほとんど倒れるように眠った。

悔しさも、腹立たしさも、湯の心地よさも、全部ぐちゃぐちゃのまま眠りに落ちて――そして朝になった。


人間の宿はすごい。


そう思いかけて、リュシアは眉をひそめた。


いや、違う。


昨日フローラにも言われた。

これはたぶん、普通ではない。

たまたま昨日泊まった宿が、いい宿だっただけだ。


……たぶん。


「……起きた?」


横から、眠たげな声がした。


ネムリアだった。

同じ寝台ではないが、近くの寝具の中から半分だけ顔を出している。


「起きましたよ」


「……ねむい」


「でしょうね」


「……あさごはん?」


「知りません」


答えながら、リュシアは小さく息を吐いた。


行かなければいけない。


朝食。

つまり、あいつらと顔を合わせなければいけない。


正直、嫌だった。


ものすごく嫌だった。


昨日のことが頭から離れない。

何度も転ばされた。

何度も立たされた。

全員の前で恥をかかされた。


嫌いだ。

感じが悪い。

最悪だ。


それは今も変わっていない。


けれど、だからといってこの部屋に引きこもるわけにもいかない。

そんなことをしたら、それこそ子供みたいだ。


「行きたくない顔してる」


ネムリアがぼそっと言う。


「誰のせいですか」


「……ゆきとのせい」


「そこは一致してますね」


リュシアは顔を洗い、帽子を手に取り、それから少し迷って結局かぶった。

まだ角を完全には隠しきれないが、ないよりはましだ。


階下へ降りる足取りは重い。


食堂へ入ると、すでに三人は席についていた。


ユキト。

ヴォルカ。

フローラ。


その瞬間、リュシアは反射的に踵を返しかけた。


だがフローラがすでにこちらに気づいていた。


「おはようございます、リュシア」


穏やかな声だった。


逃げられない。


「……おはようございます」


渋々、席につく。


ユキトも顔を上げた。

目が合う。

一瞬だけ。

そして、お互いすぐに逸らした。


気まずい。


ものすごく、気まずい。


ヴォルカが控えめに口を開く。


「よく眠れましたか?」


「……まあ、はい」


「それはよかったです」


それきり、会話が途切れる。


誰も昨日の模擬戦に触れなかった。


責めるわけでもない。

慰めるわけでもない。

励ますわけでもない。


ただ、触れない。


その沈黙が、かえって重かった。


運ばれてきた朝食を見て、リュシアは少し目を見開いた。


焼きたてのパン。

湯気の立つスープ。

卵料理。

薄く切られた肉。

果物。

香りのいい茶。


昨日の夕食もすごかったが、朝からこれなのか。


「……すごいですね」


思わず本音が漏れた。


ユキトが短く答える。


「ここが高いだけだ」


「え?」


「人間の宿が全部こうなわけじゃない」


リュシアの顔が少し曇る。


「じゃあ、普通は違うんですか」


「かなり違う」


「……そうなんですか」


ヴォルカがちょっと困ったように笑った。


「昨日の宿は、かなり良い方ですね」


フローラも淡々と頷く。


「基準にしない方がいいです」


リュシアは無言でパンをちぎった。


昨夜の風呂。

この朝食。

柔らかい寝台。


その全部が、“普通の人間の暮らし”ではなかったらしい。


少しショックだった。


ユキトは茶を飲みながら、表情を変えずに視線を落とした。


気まずい。


だが、ここで変に何か言っても余計こじれる気がした。


少しだけ考えてから、口を開く。


「飯食ったら出るぞ」


リュシアが顔を上げる。


「……どこへですか」


「装備見に行く」


「お前の」


一瞬、リュシアは意味が分からない顔をした。


ヴォルカとフローラも、ごくわずかに目を瞬かせる。


「え?」


「装備?」


ユキトは気のない調子で言う。


「昨日、レンタル品だっただろ」


「そのままじゃ話になんねえし」


「街にいるうちに一通り揃える」


ヴォルカは小さく黙った。

フローラも表情を変えないまま、ほんのわずかに視線を伏せる。


前衛武器。


その言葉は声には出さない。

だが二人は同じことを思っていた。


――ああ。


――やっぱり。


ユキトは、リュシアを自分たちと同じ側には置いていない。


守る側ではなく、前に出せる側。

少なくとも、今はそう見ている。


理屈は分かる。

昨日の模擬戦を見れば、まず間合いを覚えさせる必要があるのも本当だ。


それでも、少しだけ胸に残るものがあった。


ネムリアはまだ半分眠そうで、その苦さまでは言葉にできない。

ただ空気の変化だけは感じているのか、静かにパンをかじっていた。


リュシア本人だけが、そこまで読み取っていない。


代わりに、純粋に驚いていた。


「……私の、ですか」


「他に誰がいる」


「いや、でも」


「必要だろ」


あまりにも普通の調子で言うので、リュシアは言葉に詰まる。


昨日、あれだけやっておいて。

朝からこんな話をするのか。

意味が分からない。


だが、分からないままでも、心のどこかが少しだけ動いた。


食後、一行は武具店へ向かった。


街の中心から少し外れた通り。

鍛冶の音は奥から聞こえるが、店先はよく磨かれ、いかにも客受けを意識した並び方をしている。


槍、剣、短剣。

革鎧、小盾、手甲。

飾り金具のついた品や、見た目だけ豪華な武具も目立つ。


店に入るなり、リュシアの目は分かりやすく輝いた。


「すご……」


壁に掛けられた槍。

磨かれた穂先。

柄に巻かれた革。

房飾り。

金具。

見ているだけで楽しい。


昨日の訓練でこてんぱんにされた悔しさは消えていない。

だが、それとこれとは別だった。


店員は愛想のいい男だった。

年は三十前後。

身なりは整っていて、笑顔がうまい。

腕っ節のある職人というより、客の財布を見て口を回す商売人の顔をしている。


一行を見るなり、ぱっと目を細めた。


「いらっしゃいませ。おや、昨日登録されたお嬢さんですか?」


リュシアが少しだけ胸を張る。


「まあ、そんなところです」


「それはそれは。では最初の一本は大事ですねえ」


すぐに店員は、見栄えのいい槍を数本前に出した。


飾り金具。

細身の柄。

赤や青の房。

軽く見える作り。

ぱっと見は格好いい。


「こちらなんてどうでしょう」


「女性でも扱いやすい軽量型です」


「見た目も華やかで、街でも映えますよ」


リュシアの目が即座にそちらへ吸い寄せられる。


「これ、いいですね」


一本を手に取る。

細身で、柄に赤い房飾りがついている。

金具も少し装飾的で、見栄えがいい。


「軽いし、綺麗です」


店員はにこやかに頷く。


「ええ、人気があります」


「初めての方には特に」


ユキトが横から手を出して槍を取った。


一度軽く振る。

すぐに返す。


「却下」


「えっ」


リュシアが振り返る。


「何でですか」


「軽すぎる。柄も細い。受けた時にぶれる」


店員がにこにこしたまま言う。


「ですが、初心者の方には重すぎない方が」


「初心者だからこそ、変な軽さで誤魔化すな」


ユキトが切る。


リュシアはむっとして別の一本を見る。


今度は青い飾り紐のついた、穂先が妙に長く美しい槍だ。


「じゃあこれ」


「見た目も強そうです」


店員が即座に乗る。


「お目が高い」


「穂先の造形も美しく、街中でもかなり映える一本です」


「却下」


ユキトがまた即答した。


「何で!?」


「穂先が無駄に長い。取り回しが悪い」


「飾りが多い。絡む」


「見た目だけだ」


「さっきからそればっかりじゃないですか!」


「そういうのばっか見てるのがお前だろ」


店員は笑顔を崩さない。

だが目だけは、面倒な客に当たったなと少し言っていた。


それでも商売人らしく、次の品を出す。


「では、こちらはどうでしょう」


「少し値は張りますが、非常に人気がありまして」


今度は柄に彫り模様の入った槍だった。

確かに高そうだ。

見た目も華やかだ。


リュシアはまた食いつく。


「これ、好きです」


ユキトが一瞥する。


「却下」


「だから何でですか!?」


「値段のわりに中身が伴ってねえ」


「模様代だろそれ」


「うっ……」


店員が口元だけで微笑む。


「見た目にこだわるのも、道具選びの楽しみですよ」


「最初の一本ですし、愛着の持てるものを――」


「愛着で命は拾えねえよ」


ユキトが遮る。


空気が少し止まる。


リュシアは不満げだった。

店員は笑顔のまま一歩引く。

ヴォルカは困ったように見守り、フローラは静かに様子を見ている。


ユキトは並んだ槍の奥から、飾り気の少ない一本を抜いた。


柄はしっかりしている。

金具は地味。

房もない。

穂先の形も実用一辺倒。


見た目だけなら、さっきの品よりずっと面白みがない。


「これだな」


店員が一瞬だけ目を細める。


「……そちらですか」


「悪くはありませんが、少々地味ですよ」


「武器は地味でいい」


ユキトはリュシアに差し出した。


「持ってみろ」


受け取る。


地味だ。

あまり可愛くもない。

格好よさも薄い。


なのに、握った瞬間に分かる。

変に軽すぎず、軸がぶれない。

穂先の重みも先に逃げすぎていない。


「……どうだ」


リュシアは少しだけ黙った。


「……さっきのよりは、持ちやすいです」


「ならそれでいい」


ユキトは少しだけ間を置いた。


「昨日は悪かった」


リュシアが顔を上げる。


「必要だと思ってやった」


「そこは今も変わってない」


「でも、やり方は少し雑だった」


「……悪かった」


ぶっきらぼうだった。

まともに人へ頭を下げ慣れていない言い方だった。


それでも、誤魔化してはいない。


ユキトは槍を軽く持ち上げる。


「その詫びってわけでもねえけど」


「最初の一本としては悪くない」


「使え」


リュシアは完全に面食らった。


謝られると思っていなかった。

しかもものすごく不器用だ。


たぶん元々買うつもりだったのだろう。

その上で、言うなら今だと思っただけだ。


そういう雑さが、いかにもこの男らしい。


「……ずるいです」


「何が」


「そういうのです」


「知るか」


ユキトは代金を払った。


店員は笑顔で受け取る。

ただ、その笑顔の奥には「もっと高いのを勧めたかったのに」という商売人の惜しさが少しだけ残っていた。


店を出たあと、ユキトは言った。


「で、次」


「次って何ですか」


「働け」


「は?」


「とりあえず自分の力で稼いでみろ」


「ギルド行って、依頼受けてこい」


リュシアが目を丸くする。


「一人で?」


「一人で」


「えっ、ちょっと待ってください」


「大丈夫なんですか?」


「たぶんな」


「たぶん!?」


ユキトは肩をすくめた。


「危ない時だけ助ける」


「基本は自分でやれ」


「自分で稼いだ金だ。好きに使え」


言い方だけ聞けば、ほとんど放り出している。


リュシアは不満げだったが、槍を買ってもらった直後でもあり、強く言い返しづらい。


「……分かりましたよ」


そう言って、ギルドへ向かう。


その背中を見送りながら、ユキトは小さく呟いた。


「よし」


ヴォルカが横を見る。


「……今の、本当に一人でやらせるんですか?」


「やらせるよ」


ユキトは即答した。


「ただし」


少しだけ口元を歪める。


「バレないように後ろから見る」


フローラがため息混じりに言う。


「最初からそう言えばいいのでは?」


「言ったら意味ねえだろ」


ネムリアがぼそっと言う。


「……ついてく」


「お前は寝るなよ」


「……がんばる」


こうして、三人と一人――いや、正確には四人と一人の尾行が始まった。


ギルドでリュシアが受けようとしたのは、薬草採集と、採集地周辺に出る小型魔物の追い払いを兼ねた初心者向け依頼だった。


本来なら、もっと単純な採集依頼から始めるのが無難だった。

だがリュシアが「どうせなら戦える方がいいです」と少し見栄を張ったせいで、最初はそちらに手が伸びかける。


しかし受付嬢は依頼票を出しかけたところで、手を止めた。


「昨日、模擬戦でまともに動けていませんでしたよね。こちらにしてください」


差し出されたのは、より安全寄りの採集依頼だった。


「え、でも――」

「駄目です」

「……はい」


有無を言わせない口調に、リュシアはしぶしぶ引き下がった。


後で事情を聞いたユキトは、余計なことをせずに済んだとだけ思った。


リュシアは依頼書を持って街の外へ出る。


槍はまだ新品で、歩くたびに少しだけぎこちない。


尾行する四人は、距離を取りながらついていった。


「新人にしては、それっぽいですね」


ヴォルカが小声で言う。


「見た目だけはな」


ユキトが返す。


フローラは冷静に観察していた。


「依頼書を何度も見直していますね」


採集地は街道からそう離れていない林の縁だった。


薬草は見本付きで依頼書に載っている。

リュシアは最初、それを雑に引き抜こうとして根を傷めかけ、途中で「これ駄目なのでは」と気づいて手を止めた。


少し離れた茂みの向こうで、ユキトが小さく頷く。


「少しは慎重になったか」


昨日の負け方より、先ほどのやり取りの方が堪えたのかもしれない。

自分はまだ、見栄でどうにかなる側ではない。

そのことくらいは、さすがに分かったのだろう。


その途中、小型の魔物が一体出た。


狼に似ているが、痩せていて、牙だけが妙に長い。


リュシアは一瞬だけ身構え、反射で突っ込みかける。

だが、そこで踏みとどまった。


槍を構える。

距離を測る。


一度、牽制。

二度目で鼻先を払う。

魔物がひるむ。

そこでようやく突き。


浅い。

だが当たった。


体勢を崩しそうになる。

危ない。


その瞬間だけ、ユキトの手が動きかけた。

だがぎりぎりで止まる。


リュシアが自分で踏みとどまったからだ。


三度目の突きで、ようやく仕留める。


「……やった」


小さく呟く。


その顔は少しだけ嬉しそうだった。


「今のは悪くないですね」


ヴォルカが言う。


「危なっかしいけどな」


ユキトはそう返したが、声はそこまで厳しくなかった。


依頼そのものは成功した。


薬草も規定数を集め、小型魔物も追い払った。

ただし、採り方がやや雑で、葉を傷めたものがいくつかある。


それでも初回としては十分だろう。


街へ戻る途中、広場のあたりで子供が数人、リュシアの新品の槍に気づいた。


「あ、新人のお姉ちゃんだ」


「その槍ぴかぴか!」


「新品じゃん!」


悪意はない。

ただの好奇心だ。


だがリュシアは少しだけむっとした。


「悪いですか」


「別にー」


「でも昨日、訓練で転がされてた人でしょ?」


「うわ、言うなよ!」


笑いながら走り去っていく。


リュシアのこめかみに青筋が立つ。


茂みの陰でヴォルカが困った顔をした。


「子供って残酷ですね……」


「悪気ない分な」


ユキトが言う。


ギルドへ戻り、納品する。


受付嬢は薬草を確認し、小型魔物の報告も受理した。

だが次の瞬間、少しだけ申し訳なさそうな顔になる。


「採集物の一部に傷みがありますので、今回は満額ではなくなります」


「……は?」


リュシアが固まる。


「規定数自体は満たしていますので受理はしますが、この分は減額です」


「ちょっと待ってください!」


「取ってきたのは同じでしょう!?」


受付嬢は慣れた調子で答える。


「依頼は、取ってくるだけではなく、使える状態で納品するまでが条件です」


「薬草は状態によって価値が変わりますので」


「そんなの……」


「依頼書にも記載があります」


言われて見返すと、確かに小さく書いてあった。


リュシアはぐっと詰まる。


近くで見ていた年配の冒険者が苦笑した。


「新人はみんな通る道だ」


「次は丁寧にやれ」


悔しい。

だが、言い返せない。


そうして受け取った初報酬は、想像より少なかった。

けれどゼロではない。

確かに自分で稼いだ金だ。


革袋の中の硬貨が、妙に重く感じる。


ギルドを出た瞬間、リュシアは少しだけ気分を持ち直した。


減額された。

腹は立つ。

でも、それでも自分で稼いだ。


その事実は嬉しかった。


ギルドの前の屋台から、甘い匂いがした。


焼き菓子。


リュシアは立ち止まる。


店の女将がにっと笑った。


「初めての稼ぎかい?」


「えっ」


「分かるよ。そういう顔、何人も見てきたからね」


「少しおまけしとくよ」


一つ余分に小さな焼き菓子を包んでくれる。


「……いいんですか」


「最初の稼ぎは嬉しいもんだろ」


その親切に、リュシアは少しだけ目を丸くした。


人間の街は面倒だ。

金が要る。

減額もされる。

でも、こういう温かさもある。


「……ありがとうございます」


ぎこちなく言うと、女将は笑った。


焼き菓子を買い、ついでに串焼きも買い、昨日から気になっていた小さな髪飾りまで買った。


自分の金だ。

自分で稼いだ金だ。


好きに使っていいと言われた。


なら少しくらいいいだろう。


その結果、宿へ戻る頃には革袋の中身はだいぶ軽くなっていた。


入口のところで、柱にもたれていたユキトが顔を上げる。


「帰ったか」


リュシアはびくっとした。


「な、何でここに」


「待ってた」


もちろん嘘ではない。

ずっと後ろから見ていたのだが、それは言わない。


ヴォルカたちも少し遅れて自然に合流する。


「どうでした?」


ヴォルカが聞く。


「……別に」


リュシアはそっぽを向く。

だが、少しだけ誇らしさが滲んでいる。


「依頼は終わりました」


「そうか」


ユキトは軽く頷いた。


「で、いくら残ってる」


「え?」


「金」


「今日の報酬」


リュシアは何となく嫌な予感を覚えながら、革袋を開けた。


……少ない。


思ったより、かなり少ない。


ユキトが淡々と言う。


「で、今夜の宿代はどうするつもりだ」


「……え?」


「飯も食うぞ」


「……え?」


「風呂入るならその分もいる」


「靴も減る。袋も紐も消耗する」


「槍だってそのうち手入れが要る」


「怪我したら薬も買う」


「人間はそういうので金が飛ぶ」


一つずつ突きつけられるたび、リュシアの顔色が変わっていく。


「ちょ、ちょっと待ってください」


「そんなにかかるんですか?」


「かかるよ」


「じゃあ昨日の宿とか……」


「高い」


「じゃあ一番安い宿なら……」


「たぶん今のお前の残りじゃ厳しい」


静寂。


リュシアは固まった。


頭の中で、焼き菓子、串焼き、髪飾りが浮かぶ。


買った。

嬉しくて。

使った。


その結果、今夜の寝床が危うい。


「……うそ」


「嘘じゃない」


ユキトの声は淡々としていた。


責めるでもなく、笑うでもない。

ただ現実を置いていく。


「稼ぐのと、生きるのは別だ」


「金は使えば減る」


「当たり前だけどな」


リュシアは青ざめる。


「ど、どうしよう……」


その反応に、ヴォルカが少しだけ可哀想そうな顔をする。

フローラは静かに見ている。

ネムリアは焼き菓子の包みを覗き込んでいた。


「……おいしそう」


「今それどころじゃないです!」


ユキトが小さく息を吐いた。


「今回は宿代は出す」


リュシアがはっと顔を上げる。


「で、でも」


「その代わり、今日は安いとこだ」


「現実見とけ」


その日の宿は、昨日の宿とはまるで違った。


部屋は狭い。

壁は薄い。

隣の声が少し聞こえる。

寝台は固い。

匂いも少しこもっている。

風呂は共同で、しかも昨日よりずっと狭い。


リュシアは部屋に入った瞬間、言葉を失った。


「……せまい」


ネムリアが先に言った。


「そうですね……」


ヴォルカが困ったように笑う。


「でも、休めます」


フローラは淡々と荷物を置いた。


「宿としては十分です」


リュシアはしばらく立ち尽くしたまま、昨日の宿との落差に耐えていた。


やがて、ようやく口を開く。


「……昨日の宿、めちゃくちゃ高かったんですか」


ユキトが肩をすくめる。


「だから最初に言っただろ」


「あれを基準にするなって」


反論できない。


できないが、ショックは大きい。


しばらくして、共同浴場から戻ってきたリュシアは、固い寝台の端に腰を下ろした。

帽子を外し、新しい槍を壁に立てかけ、今日買った髪飾りを手のひらに乗せる。


嬉しかった。

自分で稼いだ金で買ったものだ。


でも、その代わりに宿代が足りなくなった。


これが生活。


強いだけでは足りない。

依頼をこなすだけでも足りない。

金を稼いで、それを考えて使わなければ、普通に困る。


昨日は戦いで折られた。

今日は暮らしで折られた。


リュシアは髪飾りを見つめたまま、小さく呟く。


「……人間、面倒すぎません?」


少し離れた場所で、ユキトが答える。


「面倒だよ」


「でもみんな、それで生きてる」


リュシアは顔を上げる。


ユキトも今日は、昨日ほど刺々しくはなかった。

ぶっきらぼうで、雑で、でも妙に真正面だ。


嫌いは嫌いだ。


でも、全部を嫌いで片づけられない。


そのことがまた少し面倒だった。


「……焼き菓子、買いすぎました」


「見てたら分かった」


「見てたんですか!?」


「バレないように後ろからな」


「最悪!」


ヴォルカが小さく笑ってしまう。

フローラもほんの少しだけ口元を緩める。

ネムリアはもう半分寝ていた。


リュシアは顔を赤くした。


恥ずかしい。

でも、その恥ずかしさの中に、昨日ほどの痛みはない。


代わりに残ったのは、少しの悔しさと、少しの反省と、少しの学びだった。


そして何より。


明日また稼がないといけない、という現実だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ