25.理解するまでやる
数週間の旅の末、ようやく街が見えた。
最初にそれに気づいたのは、正確にはネムリアではなく、ネムリアを背負っていたリュシアだった。
前方の木々の切れ間。
その向こうに、灰色の壁が見えた。
さらに、その内側から細い煙が何本も空へ上っている。
リュシアは思わず足を止める。
「……街」
その声に、先頭を歩いていたユキトが顔を上げた。
木々の向こう。
まだ遠い。
だが確かに、そこにある。
石の壁。
見張り塔。
門。
煙。
人が住んでいる形をした場所。
「ほんとだ」
ユキトが短く言った。
その一言で、後ろを歩いていたヴォルカも顔を上げる。
フローラは静かに目を細め、ネムリアはリュシアの背中の上で眠そうに呟いた。
「……ついた?」
「まだです!」
リュシアが即座に返す。
「見えただけです!」
「見えたなら、ほぼついたようなもの」
「なわけないでしょう!」
文句は元気だった。
だが、その声には旅の初めの頃ほどの張りはない。
予定より遅れた。
かなり遅れた。
道が荒れていた日もあった。
補給の見込みが外れた日もあった。
小型の魔物に何度も足を止められた。
野営の準備に手間取った日もあった。
そして何より、リュシアという新入りがいた。
人間としての長距離移動に慣れていない。
生活力が足りない。
野営の勝手も知らない。
いちいち文句が多い。
そのくせ、根性だけは妙にあった。
朝の支度は遅い。
火起こしも危なっかしい。
だが投げ出さない。
荷物も持つ。
背負わされたネムリアも落とさない。
そこだけは、ユキトも少しだけ評価を改めていた。
もっとも、口に出す気はなかった。
今もリュシアはネムリアを背負っている。
本来なら、こういう役はフローラが受け持つことが多かった。
実際、以前はそうだった。
だが、今は違う。
先日の一件――ネムリアのあのキス以来、フローラは表向き穏やかなまま、ほんの少しだけネムリアへの距離を変えていた。
責めない。
責め立てない。
笑みも消さない。
けれど、前のように甘やかしはしない。
その結果として、ネムリアを運ぶ役は自然とリュシアへ回ってきていた。
「……おりたい」
ネムリアが背中でぼそっと言う。
「おりないでください」
「重くなった」
「そんな急に重くなりません!」
「きもちの問題」
「それを人に背負わせてる側が言わないでください!」
フローラが少しだけ振り返る。
「リュシア」
「はいっ」
「落とさないでくださいね」
「落としませんよ!」
「そうですか。では、そのままお願いします」
穏やかだった。
笑みまで浮かべている。
それなのに、なぜか逆らいづらい。
リュシアはぶすっとした顔で前を向き直る。
「……あの人、絶対ちょっと怒ってますよね」
横からユキトが言う。
「ちょっとどころじゃないだろ」
「やっぱりですか!?」
「何で被害者側みたいな顔してんだよ」
「私が何したっていうんですか!」
「背中のやつに聞け」
「……ねむい」
「都合が悪くなるとそれです!」
ヴォルカが困ったように笑った。
「で、でも、前より上手になってますよ」
「ネムリアの運び方」
「嬉しくないです!」
「荷重の逃がし方、最初よりずっと自然です」
フローラがさらりと追い打ちをかける。
「移動生活に慣れてきましたね」
「そこだけ抜き出すと褒めてるみたいですけど、やってること雑用ですからね!?」
「雑用も生活の一部です」
「うわっ、正論!」
ユキトは少しだけ口元を緩めた。
街はまだ遠い。
だが見えたというだけで、足が少し軽くなる。
宿。
壁。
屋根。
風呂。
特に最後の一つが大きかった。
「……風呂入りたい」
ユキトがぼそっと言う。
ヴォルカが静かに頷く。
「分かります」
ネムリアも呟く。
「……おふろ」
リュシアだけがそこで少し顔をしかめた。
「そんなにですか?」
ユキトが横目で見る。
「お前はまだ知らないだけだ」
「人間の風呂ってそんなにいいんですか?」
「いい」
「かなり」
「文明の勝利だ」
数日前にも似た話はした。
その時、ヴォルカが悪意なく高級宿基準で人間の宿の快適さを語ったせいで、リュシアの中では“人間の宿=信じられないほど快適な夢の施設”みたいな認識ができていた。
その期待が今も消えていない。
「本当に、湯船っていうのがあるんですよね」
「あるよ」
「大きいのが?」
「ある」
「好きなだけお湯が使えて?」
「宿による」
「えっ」
「そこは修正しとく」
リュシアの目が少しだけ揺れた。
夢を守ろうとする顔だった。
「でも、あることはあるんですよね?」
「ある」
「じゃあいいです」
「よくねえよ。お前それ絶対あとで普通の宿見て文句言うだろ」
「言いません!」
「今の言い方だと多分言う」
「言いませんって!」
そんなやり取りをしながら、一行は街道へ出た。
道幅が広くなる。
踏み固められた土。
馬車の轍。
人が通っている痕跡。
数週間ぶりに見る、人間の世界へ繋がるちゃんとした道だった。
門が近づくにつれ、リュシアは露骨にそわそわし始めた。
「壁がありますね」
「あるな」
「門もあります」
「あるな」
「人間って本当にああいうところに集まって住んでるんですね」
「今さら?」
「だって見たことなかったんですから!」
身を乗り出した拍子に、ネムリアがずり落ちかける。
「……おちる」
「ちょっと! 落ちないでください!」
「おりる?」
「おりません! 今ここで落としたら私のせいみたいになるでしょう!」
「お前のせいだろ」
「違います!」
完全に旅慣れたとは言わない。
だが、最初の頃の“私は強いから大丈夫”という根拠のない余裕はだいぶ削れていた。
代わりに増えたのは、生活の面倒くささへの実感と、人間の営みに対する妙な好奇心だった。
門の手前で、ユキトは足を止めた。
「リュシア」
「はい?」
「入る前に言っとく」
その声色が少しだけ硬い。
リュシアも空気を察して背筋を伸ばした。
「絶対に竜だとバレるな」
「あと、人前で竜の使うような大型魔法を使うな」
「身をもって知っただろ」
その瞬間、リュシアの顔から浮ついた色が少し消える。
山。
兵。
囲まれた感覚。
動けなくなった体。
母の咆哮。
最後にあの黒竜。
思い出したのか、唇がわずかに引き結ばれた。
「……分かってます」
「本当に分かってるならいい」
「分かってます!」
「じゃあ角も髪もできるだけ隠せ」
「今のままだと目立つ」
「はいはい、分かってますよ」
「返事が軽い」
「ちゃんとやります!」
フローラが静かに付け加える。
「街の中では、あなたは“珍しい子”ではなく“普通の人間”でいてください」
「できるだけ」
「それ、普通の人間が一番難しくないですか?」
「お前にはそうかもな」
ユキトが答えた。
門を抜ける。
街の空気が、旅の空気と明らかに違った。
石畳。
人の声。
鍛冶の音。
荷車の軋み。
焼かれたパンの匂い。
獣と煙と食事が混ざった、人の街の匂い。
リュシアは完全にきょろきょろしていた。
「すごい……」
「うるさいぞ」
「だって、すごいじゃないですか!」
「そんな顔してると余計目立つ」
「うっ」
ネムリアが背中でぼそっと言う。
「……いなかもの」
「あなたにだけは言われたくありません!」
実際、かなり田舎者っぽかった。
ユキトは少し考えてから、まず市場通りの一角にある服屋へ入った。
「え?」
リュシアが間の抜けた声を出す。
「何ですかここ」
「服屋だよ」
「見れば分かりますよ!」
「じゃあ聞くな」
ユキトは店先の帽子をいくつか見てから、地味な色のつば広帽を一つ取った。
次に、髪色を少し目立ちにくくする外套、それから街で浮きすぎない服を選ぶ。
「これ」
「お前の」
リュシアが目を丸くする。
「……私の?」
「そのままだと目立つだろ」
「角も髪も少しは隠せ」
「必要経費」
言い方はひどく雑だった。
だが、サイズまではちゃんと見ている。
リュシアは帽子を受け取る。
その指先がほんの少しだけぎこちなかった。
少しだけ、嬉しい。
そんな顔を一瞬したあと、すぐに隠した。
「……別に、ありがたくなんかないですけど」
「いらないなら返せ」
「返しません!」
即答だった。
ユキトは少しだけ肩をすくめる。
その様子を見ていたフローラが何も言わずに目を細めた。
ヴォルカは小さく笑い、ネムリアは帽子を覗き込んで「……にあう」とだけ言った。
リュシアはすぐ帽子を被る。
鏡に映った自分を見て、少しだけ複雑そうな顔をした。
竜の娘ではなく、人間の少女に見える。
それは少しだけ落ち着かなくて、でも少しだけ悪くなかった。
服屋を出たあとも、リュシアの視線は忙しかった。
露店。
果物。
焼き串。
革細工。
髪飾り。
短剣。
靴。
色ガラスの小瓶。
木彫りの玩具。
見るもの全部が新しい。
「これ何ですか」
「香辛料」
「これは?」
「保存食」
「これは?」
「髪飾り」
「これ、綺麗ですね」
「買わねえぞ」
「まだ何も言ってません!」
次の店先で、今度は小さな銀色の留め具に目を奪われる。
「……これほしい」
「ダメ」
「早い!」
「お前さっき服買っただろ」
「服は必要経費なんでしょう!?」
「これは違う」
「じゃああっちは!?」
指さした先には焼き菓子があった。
「食いたいのか」
「少し」
「少しじゃない顔してるな」
「……かなり」
ユキトはため息をついた。
「金があればな」
「金?」
リュシアが首を傾げる。
「お前、そこからか」
「だって必要なら取ればいいでしょう、こういうの」
周囲の空気が少しだけ止まる。
ユキトが即座に返す。
「取るな」
「それは盗みだ」
「ぬす……」
「人間の街では、基本的に欲しいものは金と交換だ」
「働いて稼いで、それで買う」
「勝手に持っていくと捕まる」
リュシアが露骨に嫌そうな顔をした。
「面倒ですね」
「面倒だよ」
「でも人間ってそうやって生きてる」
フローラが静かに補足する。
「欲しいものがあるなら、そのために働くのです」
ヴォルカも頷く。
「我慢も必要です」
ネムリアがぼそっと言う。
「……おかねはだいじ」
「あなた絶対よく分かってないでしょう」
「わからないけど、だいじそう」
リュシアはしばらく不満そうに焼き菓子を見ていたが、やがて帽子のつばを軽く押さえて前を向いた。
「……じゃあ、働けばいいんですね」
「そういうこと」
ユキトは短く返した。
「人間として生きるなら、金が要る」
「お前も例外じゃない」
その言葉に、リュシアの表情が少しだけ真面目になる。
市場のきらきらした光景が、少しだけ現実に変わった。
欲しいものがある。
けど、今は買えない。
だから働く。
それはたぶん、リュシアにとって初めての感覚だった。
「で」
ユキトが前方を顎で示す。
「次」
「まだあるんですか」
「冒険者登録」
その一言で、リュシアの目が少し変わった。
欲しいものを買うために働く。
その入口が、ようやく見えたのだろう。
もっとも、その目の奥には別の色もあった。
自分は竜だ。
人間の中に入れば、相当強いはずだ。
そんな甘さが、まだ少し残っている。
ギルドの看板が見えたところで、ユキトは少しだけ足を止めた。
フローラが横顔を見る。
「迷いますか?」
「少しな」
ユキトは正直に言った。
「測定で妙な数値が出ればかなりまずい」
「でも登録しないと、こいつがこの先一人で生きる時の足場がない」
「博打だな」
リュシアが少しだけ瞬く。
一人で生きる時。
その言葉の意味に気づいたのか、一瞬だけ顔が真面目になった。
ユキトは気づかないふりをした。
フローラが静かに言う。
「竜としては未熟です」
「ですが人間基準であれば、“強い人”の範囲に収まる可能性は高いかと」
「むしろ無登録のまま動く方が危ないでしょう」
ユキトは短く息を吐く。
「……行くか」
ギルドの中は、昼前のざわめきに満ちていた。
受付。
依頼板。
出入りする冒険者。
汗と革と金属の匂い。
その中に入った瞬間、リュシアは少しだけ背筋を伸ばした。
こういう場所を、どこかで格好いいものだと思っていたのだろう。
受付嬢が顔を上げる。
「本日はどのようなご用件で――」
「新規登録」
ユキトが言う。
「この子」
受付嬢の視線がリュシアへ向く。
帽子。
顔。
全体。
少しだけ印象には残る。
だが、今のところそれ以上ではない。
「では、適性の確認を――」
そこから先は早かった。
基礎確認。
仮登録。
そして戦闘力測定。
ユキトは最後まで少しだけ嫌な予感を抱いていた。
妙に高すぎれば目立つ。
異常すぎれば疑われる。
だが、結果が出た瞬間、ざわつきはしたものの、想定の範囲内で収まった。
「えっ」
「高い……?」
「新人でこれか?」
受付嬢の声にも、はっきり驚きが混じる。
リュシアはその瞬間、分かりやすく顔を上げた。
あ、今ちょっと気持ちよくなったな、とユキトは思う。
受付嬢が咳払いをして言う。
「かなり優秀です」
「……人間としては、ですが」
フローラが耳元で静かに補足した。
リュシアがちらっとそちらを見る。
だが今は耳に入っていない。
“かなり優秀”。
その言葉が、旅の間に削られたプライドへ綺麗に刺さったのだ。
「……ほら見なさい」
リュシアが小さく、しかし確かにドヤ顔で言う。
「やっぱり私、強いじゃないですか」
「……人間基準ならな」
ユキトが周りに聞かれないよう注意しながら淡々と返す。
「何ですかその言い方」
「竜基準だとめちゃくちゃ弱いって話だよ」
「うっ……」
そこだけは旅の間に身に染みていた。
リュシアが言葉に詰まる。
だが、まだ完全には削れない。
そこで今度は別の疑問が浮かんだらしい。
「……ところで」
「何だ」
「あなたはいくつなんですか」
受付嬢の手が止まる。
近くの冒険者も少しだけ振り向く。
ユキトは嫌な顔もせずに答えた。
「1」
静寂。
リュシアが固まる。
「……は?」
「戦闘力1」
「いち?」
「1」
「1って、あの1ですか!?」
「他に何があるんだよ」
リュシアが受付嬢を見る。
受付嬢は気まずそうに目を逸らした。
本当らしい。
「私でも勝てるじゃないですか!」
その声で、周囲の興味が一気に寄る。
受付嬢が慌てて言う。
「え、ええと、ですがこの方は闘技大会の――」
おもっきり嫌な顔して受付嬢を黙らせた。
リュシアがユキトを指さす。
「戦闘力1でしょう!?」
「私の方が上じゃないですか!」
ギルドの空気が妙にざわつく。
面倒な流れだな、とユキトは思った。
そして次の瞬間には、もう決めていた。
「じゃあやるか」
「は?」
「訓練所」
「模擬戦」
リュシアが目を見開く。
周囲は一気に湧いた。
期待の新人。
戦闘力1の大会優勝者。
わけの分からない対戦だ。
受付嬢まで少しだけ乗ってしまっている。
「これは……見ものですね」
「煽るなよ」
ユキトが言う。
だが、もう遅い。
訓練所にはあっという間に野次馬が集まった。
武器棚の前で、リュシアは少し迷った。
槍。
斧。
棍棒。
短剣。
片手剣。
どれも初めて人間用として握るものばかりだ。
ユキトが黙って見ている。
リュシアは少し眉を寄せ、最後に片手剣を取った。
「それか」
「これが一番扱いやすそうです」
「重すぎないし、変な癖もなさそうですし」
「振れば当たりそうです」
その理由に、ユキトは少しだけ目を細めた。
“扱いやすそう”。
“振れば当たりそう”。
ひどく素直で、ひどく浅い選び方だった。
だが今のリュシアらしいとも思う。
「好きにしろ」
ユキトはそう言って、最初は自前の特製盾を持ち込むつもりだったが、途中でやめた。
なくてもいい。
リュシアの立ち方を見た瞬間に、レンタルの盾と棍棒で十分だと分かったからだ。
「フローラ」
「はい」
「俺の回復を頼む」
「……それとリュシアの回復も」
「分かりました」
「それと」
ユキトは少しだけ目を細めた。
「こいつの心がへし折れるまで……いや、違うな」
そこで、自分の昔を思い出した。
自分の実力を初めて思い知らされた日。
何を持っても通じなかった。
剣も、槍も、素手も、試すたびに地面に転がされた。
丁寧な回復なんてなかった。
それでも立った。
何度も負けて、また覚えた。
痛かった。
惨めだった。
でも、あれがなければ今の自分はない。
だから今回は、同じことをやるだけだ。
「理解するまでやる」
ユキトが言う。
「高い数字だけで生き残れるって勘違いを、ここで捨てさせる」
フローラは静かに頷いた。
模擬戦が始まる。
最初の一歩で、リュシアは自分の速さに酔った。
速い。
実際、かなり速い。
人間基準なら十分に強い。
だが、その一撃は当たらなかった。
ユキトは半歩だけ引き、盾で角度をずらし、そのまま足を払う。
リュシアが転ぶ。
「……え?」
一回目。
二回目は力で押した。
剣を大きく振る。
読みやすい。
受け流され、体勢が崩れ、棍棒で肩を打たれる。
三回目はフェイントのつもりだった。
だが視線でバレる。
踏み込みで読まれる。
止められて、また転ぶ。
四回目。
五回目。
六回目。
立ち上がるたびに転ばされる。
剣は“扱いやすい”はずだった。
なのに当たらない。
むしろ扱いやすいと思ったぶんだけ、雑に振っていたことがはっきり出る。
ユキトは短く言う。
「大振り」
「視線」
「足が正直」
「間合いが雑」
「感情で突っ込むな」
「剣が扱いやすいんじゃない」
「お前が何も考えず振ってるだけだ」
その一言が、リュシアの胸に刺さる。
焦りでさらに大振りになる。
速さに頼る。
力に頼る。
そのたびに潰される。
フローラが回復する。
また立たされる。
周囲のざわめきが、だんだん変わっていく。
最初は期待。
次に困惑。
そして最後は、冷えた評価。
「数字だけか……」
「見た目は派手だけど、あれじゃ実戦は無理だな」
「期待の新人ってほどじゃないか」
手のひらを返す声が、リュシアにははっきり聞こえただろう。
最後に棍棒で手元を弾かれ、剣が床を転がった時、リュシアは膝をついたまま動けなくなった。
ユキトが言う。
「それがお前の今の強さだ」
「高い戦闘力だけで勝てるなら、誰も苦労しない」
静かだった。
訓練所の空気だけが妙に冷えている。
リュシアは顔を上げなかった。
模擬戦の前まで、ほんの少しだけ思っていたのだ。
不器用だけど、悪い人じゃないかもしれない。
雑だけど、少しは気にしてくれているのかもしれない。
弱いのに妙に腹が据わっている、変な男かもしれない。
それが全部、今、ひっくり返った。
全員の前で恥をかかされた。
何度も転ばされた。
何度も立たされた。
見世物みたいに晒された。
嫌いだ。
その場で、はっきりそう思った。
嫌い。
雑魚のくせに。
感じが悪い。
最悪だ。
少しいいかもしれないと思った自分まで、腹が立つ。
――そのあと、ユキトはいつもの安宿ではなく、少し高めの宿を取った。
最高級ではない。
でも、野営明けの体には十分すぎるくらいちゃんとした宿だ。
ヴォルカが少し驚く。
「ここでいいんですか?」
「たまにはな」
ユキトは短く言った。
理由は言わない。
だが内心では、少しだけ引っかかっていた。
必要だったのは本当だ。
あのままなら、いずれどこかで痛い目を見る。
それを街に入った初日で済ませたと思えば、安い。
……ただ。
もう少し、やりようはあったかもしれない。
相手はまだガキだ。
少なくとも、あんなに人が集まった場所で立てなくなるまでする必要まではなかった。
そんなことを考える自分に、少しだけ苦笑する。
リュシアはそんな内心など知らず、浴場へ向かった。
念願の風呂だった。
人間文化の中で、彼女が一番気になっていたもの。
湯気。
湯船。
石の床。
桶。
身体を沈める感覚。
本来なら感動してもおかしくない。
実際、最初に足を入れた瞬間、リュシアはほんの少し目を見開いた。
「あったか……」
思わず漏れたその声は、本物だった。
湯に肩まで沈める。
身体の力がじわじわ抜けていく。
「……これ、ずるくないですか」
「何がです?」
フローラが静かに隣へ来る。
「人間、こんなの知ってて生きてたんですか」
「知っていましたね」
「ずるい……」
悔しさの混じった本音だった。
だが、それでも今は模擬戦の悔しさが上回る。
フローラが湯の表面を見ながら言う。
「気持ちはどうですか」
リュシアは即答した。
「嫌いです」
「ユキトのことですか?」
「そうです」
「感じが悪いし、最悪です」
「少しでもいい人かもって思った自分が腹立ちます」
フローラは否定しなかった。
「そうですか」
「でも、あのままだと」
「また人間に捕まっていたかもしれません」
リュシアが黙る。
フローラは続けた。
「あなたは人間基準では強いです」
「ですが、その強さだけで外を生きられるほど、世界は甘くありません」
「旅の間に、少しは分かったでしょう?」
「……」
「ユキトは、そこで一度折ったのです」
「壊すためではなく、生き残らせるために」
リュシアは唇を噛む。
嫌いは嫌いだ。
それは本当だ。
でも――全部が悪意だったかと言われると、少しだけ分からなくなる。
服も帽子も買われた。
店を見て回らせてもらった。
金のことも教えられた。
登録も考えた上でさせた。
宿も取った。
風呂にも入れている。
雑で、感じが悪くて、言い方も最悪なのに、やっていることだけ見ると一貫している。
それが一番むかついた。
「……嫌いです」
リュシアはもう一度言う。
「でも」
少しだけ、言葉が鈍る。
フローラは急かさなかった。
「……少しだけ、調子に乗ってたのは本当です」
ようやく出たその言葉に、フローラはほんの少しだけ目を細めた。
「それで十分です」
湯気が静かに立ちのぼる。
ネムリアはすでに舟をこいでいた。
ヴォルカは湯に浸かりながら、ほっとしたように息をついている。
リュシアは湯の中で、自分の手を見る。
この手で剣を握った。
振った。
届かなかった。
転ばされた。
悔しい。
腹が立つ。
嫌いだ。
でも全部を嫌いで片づけられない。
風呂の気持ちよさと同じくらい、それは今のリュシアにとって面倒な感情だった。




