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24.説明する必要ない

朝食を食べ終えたころには、太陽はすっかり高くなっていた。


朝の冷えはまだ少し残っている。

だが、焚き火の熱と食事の温かさが胃に落ちた分だけ、昨夜よりはずっとましだった。


ユキトは、鍋の底にこびりつきかけた米粒を木べらでこそぎ落としながら、小さく息を吐く。


食えなくはなかった。

むしろ、初めてにしてはよくできていた方だ。


だが、それとこれとは別だった。


「……やっぱ野営きついな」


ぽつりと漏れた本音に、少し離れた場所で鍋を洗っていたリュシアがぴくっと反応した。


金髪の少女は、まだぎこちない手つきで水を使っている。

洗い方が雑で、泡の切り方も怪しい。

だが一応、教えた通りにはやろうとしていた。


その手を止めて、リュシアが眉をひそめる。


「待ってください」


「それ、ちょっとおかしくないですか?」


ユキトは顔も上げずに聞き返した。


「何がだよ」


「私は野営なんて初めてです」


「だから、こういう生活がきついのは分かります」


「でもあなたは違うでしょう?」


「慣れてる側が普通に文句言ってるの、何なんですか?」


ユキトはそこでようやく鍋から顔を上げた。


少し考えて、わりと素直に答える。


「慣れてるわけじゃない」


「嫌いなだけだ」


リュシアが一瞬きょとんとする。


「……嫌い?」


「好きでやってるわけじゃない」


「じゃあ何でそんな普通の顔してるんですか」


「嫌いだからって毎回騒いでも仕方ないだろ」


「嫌なもんは嫌なままやるしかない時もある」


リュシアは妙に納得いかない顔をした。


「それ、格好いいこと言ってるようで全然格好よくありませんよ」


「知ってる」


「自覚あるんですか」


「あるよ」


ユキトは肩をすくめる。


「むしろ、野営が得意そうに見えたなら心外だ」


「俺は布団と壁と風呂のありがたみを知ってる側だ」


その言い方に、ヴォルカが小さく頷いた。


「……分かります」


「人の宿って、本当に楽ですよね」


ネムリアも木にもたれたまま、半分眠った顔で呟く。


「……おふろ」


それだけで、気持ちは一致していた。


リュシアだけが、まだ微妙に話についていけていない顔をする。


「人間の宿って、そんなに違うんですか?」


「違う」


ユキトが即答した。


「かなり違う」


するとヴォルカが、おずおずと手を挙げた。


「あの……」


「私、少しなら説明できます」


リュシアがそちらを見る。


ヴォルカはまだ少し距離を取っていた。

初めの出会いの印象が最悪だったせいか、本気で怖がられて傷ついたのを引きずっているのか、近づきたいのに近づけない感じがある。


それでも、話す時の声音はやさしかった。


「人間の宿はですね」


「まず、雨風をしのげます」


「それは当然でしょう?」


リュシアが言う。


「はい」


「でも、それだけじゃなくて……」


ヴォルカは指を折るようにして続けた。


「柔らかいベッドがあります」


「大きな湯船があります」


「温かいお湯で身体を洗えます」


「食事が部屋まで運ばれてくることもあります」


「夜は静かで、灯りも綺麗で、窓から景色も見えて……」


「朝になると、焼きたてのパンの匂いがして」


「お肉もやわらかくて、スープも熱くて、果物までついてきて」


言っている本人が少し幸せそうな顔になっている。


リュシアの目が、目に見えて大きくなった。


「ちょっと待ってください」


「温かいお湯って、好きなだけ使えるんですか?」


「ええ」


「身体を沈めるくらい大きいお風呂が?」


「ありました」


「しかもご飯が運ばれてくる?」


「はい」


「寝るところも柔らかい?」


「とても」


リュシアが鍋を持ったまま固まる。


頭の中で何かが膨れ上がっているのが、顔を見れば分かった。


夢。

理想。

過剰な期待。


ユキトは嫌な予感しかしなかった。


「待て」


「その説明、基準が高い」


ヴォルカが止まる。


「え?」


「お前、それ高級宿だろ」


「……あ」


ヴォルカが素で固まった。


「そういえば……そうですね」


「そういえば、じゃない」


ユキトはため息をつく。


「あの時泊まったの、街で一番いい宿だっただろ」


「確かにそうでした……」


リュシアがすぐにユキトを見た。


「じゃあ普通の宿は違うんですか?」


「違う」


「全然?」


「全然じゃないけど、今の説明そのまま期待すると後でキレるぞ」


「そんな……」


リュシアの顔に、本気の落胆が浮かぶ。


まだ泊まってもいないのに、勝手に落差を食らっていた。


ネムリアがぼそりと言う。


「……でも、おふろはある」


「そこは期待していい」


リュシアの目がまた少しだけ輝きを取り戻す。


「おふろ……」


完全に想像していた。


ユキトは内心で思う。


こいつ、たぶん普通の宿でも一回ちゃんと騒ぐな、と。


だがその面倒を今ここで訂正してやるほど親切でもない。

後で勝手に現実を知ればいい。


フローラが、そんな空気を静かに切った。


「いずれにせよ、どこへ向かうかは決める必要があります」


「賞金もありますし、今すぐ追われているわけでもありません」


「でしたら、一度落ち着ける場所を目指すのは悪くありませんね」


ユキトは頷く。


「目的なんて今はないからな」


「一つ言えるとしたら、賞金を使い切るまで争いのない場所でゆっくりしたい」


「それと風呂」


「風呂は大事です」


ヴォルカが珍しく強く頷く。


ネムリアも「……おふろ」とだけ言って賛同した。


リュシアは鍋を置いて、地図の方へ寄ってくる。


「で、その温泉はどこにあるんですか」


フローラが地図を広げる。


指先が一つの場所を示した。


「白湯郷フィオラ」


「幻想的で、比較的平和な温泉郷として有名です」


「谷に湯気が満ち、夜になると灯りが湯面に映って綺麗だとか」


ヴォルカもすぐに頷く。


「保養や湯治に来る人も多いと聞きました」


「戦うための場所というより、休むための場所ですね」


ユキトの顔に、少しだけ生気が戻る。


「いいな」


「今の俺に必要なの、たぶんそういうやつだ」


リュシアが地図を覗き込む。


その指が、道をなぞるように動いた。


少しして、顔をしかめる。


「……遠いですね」


「ええ」


フローラは静かに答えた。


「大きく分けて道は二つあります」


彼女の指が一本の線をなぞる。


「こちら。エルフィアを突っ切る最短ルート」


「順調に行けば二ヶ月」


「ただし街はありません」


「補給もしづらい」


「距離だけは短いですが、かなり荒い道です」


次に、別の線へ指が移る。


「こちらが遠回りルート」


「三ヶ月」


「エルフィアは避けられますが、街は少なく、野宿の回数は増えます」


ユキトがそこで口を挟んだ。


「で、そこにリュシアが入る」


「なっ」


フローラは淡々と続ける。


「ええ」


「今の体力、移動経験、人間生活への適応度を考えると、どちらも一ヶ月は上乗せですね」


「つまり」


ユキトがまとめた。


「エルフィア通っても三ヶ月」


「遠回りなら四ヶ月」


「どっちにしろ季節は変わる」


ヴォルカが空を見上げる。


「春先に始めて、今が夏の終わりですから……」


「着く頃には冬になるか、その手前くらいですね」


「寒さへの備えも必要です」


ネムリアが、嫌そうに肩を縮める。


「……さむいの、きらい」


「俺もだ」


ユキトは率直に言った。


「温泉行く前に凍えたくはない」


リュシアは地図を見ながら、悪気なく口を開いた。


「じゃあ、エルフィアを突っ切ればいいじゃないですか」


「早いんでしょう?」


ユキトは即答した。


「ダメ」


リュシアが顔を上げる。


「え?」


「ダメ」


「でも近道ですよね?」


「ダメ」


「何でですか?」


「ダメだから」


リュシアの顔に、ものすごく素直な「納得いかない」が浮かぶ。


その横で、ヴォルカもフローラもネムリアも、何も言わなかった。


三人とも理由は分かっている。


エルフィア。

封印されたエルフ。

埋めた件。


しかもそれが、ユキトの触れられたくない話だということも、もう理解している。

だから誰も補足しない。


リュシアだけが、その沈黙の意味を知らない。


「いや、でも近道なんですよね?」


「近いな」


「じゃあ何で――」


「説明する必要ない」


ユキトは地図を畳んだ。


かなりドライな声だった。


リュシアは口を閉じる。


納得はしていない。

だが、これ以上踏み込んでも何も返ってこない種類の拒絶だと、本能で分かったらしい。


自分だけが知らない。

自分だけがまだ外側にいる。


その事実が、少しだけ顔に出ていた。


ユキトはそれ以上、フォローしなかった。

今のこいつに説明する義理も、したい気持ちもない。


「で」


「どっちにしろ遠い」


「お前込みだとさらに伸びる」


ユキトがリュシアを見る。


「足引っ張んなよ」


「引っ張りません!」


即答だった。


少し間を置いて、


「……たぶん!」


と付け足した。


ユキトは真顔になる。


「もう引っ張ってるな」


「引っ張ってません!」


「今の“たぶん”で信用が消えた」


「ひどい!」


ヴォルカが少しだけ笑う。

フローラも口元をわずかに緩めた。


ネムリアだけが、眠そうな声でぽつりと言う。


「……たぶん、もうだめ」


「何がですか!?」


「しんらい」


「ひどいのはそっちです!」


結局、遠回りルートに決まった。


街は少ない。

野宿は増える。

着くのは遅い。


でもエルフィアは通らない。


リュシアだけが不満そうだったが、それ以上は言わなかった。


荷をまとめて、再び歩き出す。


木々の間を抜ける道は狭く、足元もあまりよくない。

野営明けの体には、地味にこたえる。


それでも進むしかない。


白湯郷フィオラ。

平和で幻想的な温泉郷。

今のところ、それが唯一の目的地だった。


最初のうちは、リュシアも大人しかった。


昨日と今日だけで、かなり色々ありすぎたのだろう。

文句を言う元気すら途切れ途切れだ。


だが、少し足が慣れてきた頃に、また口が動き始めた。


「……でも、正直よく分かりません」


「何が」


「さっきの話です」


リュシアは前方を見ながら言う。


「ヴォルカが前に出て、適当に殴れば、大抵終わるんじゃないんですか?」


「昨日見た限りでも、あの人、母様よりずっと強いでしょう」


「何でそうしないんですか?」


それは、リュシアからすると当然の疑問だった。


合理的だ。

強い方を前に出せばいい。

終わるなら、早く終わらせればいい。


でもこの一行は、そうしない。


ユキトは前を見たまま答えた。


「俺は前に出したくないの」


リュシアが止まる。


「は?」


「いや、強いんだから使えばいいでしょ」


「使えばって言い方すんな」


「でもそういうことでしょう?」


「違う」


短い返答だった。


ヴォルカはその一言で、少しだけ嬉しそうに目を伏せた。

フローラは静かに目を細める。

ネムリアがぼそっと呟く。


「……そういうひと」


リュシアだけが置いていかれていた。


「全然分かりません」


「分からなくていい」


「良くないです!」


「そのうち分かるだろ」


「曖昧ですね!」


その時だった。


ネムリアがふと顔を上げる。


「……いる」


ユキトの足が止まる。


「どこ」


「みぎ、まえ」


フローラの視線が走る。

ヴォルカもすぐに構えた。


草むらが揺れる。


次の瞬間、小型の魔物が三体、木陰から飛び出した。


狼に似ている。

だが毛並みは黒く、口元には妙に長い牙。

一体一体は大したことがない。

だが群れるタイプだ。


リュシアが一瞬だけ目を見開く。


「え、もう!?」


「出るだろ」


ユキトは前に出る。


「旅なんだから」


リュシアは反射的に言った。


「だから、ヴォルカが殴れば――」


「前に出したくないって言っただろ」


ユキトが一歩踏み込む。


一体目が飛びかかってくる。

盾で受ける。

鈍い音。

すぐに二体目が横から回る。


「左」


フローラの声。


ヴォルカの小規模な魔法が足元を焼く。

派手ではない。

森も燃やさない。

だが軌道がずれて、狼型の動きが一瞬止まる。


ユキトがそこへ体ごとぶつかるように前へ出た。


三体目が背後から来る。


ネムリアが眠そうな声で言う。


「……うしろ」


ユキトが半歩だけずれる。

フローラの光が飛ぶ。

回復ではなく、視界の端を補助する程度の支援。


危なっかしい。


正直、リュシアの目にはそう映った。

前に出るのは一番弱そうな男。

支援するのは一番強い黒竜。

白い竜は回復と全体把握。

眠そうな緑は索敵。


本当に、この形で戦っている。


しかもそれで、噛み合っていた。


最後の一体が飛び込んできたところで、ユキトの盾が横から叩き込まれる。

鈍い音と一緒に魔物が転がり、動かなくなった。


静寂。


戦闘は、短かった。


リュシアは少し遅れて口を開く。


「……本当に、この形なんですね」


「そうだよ」


ユキトが息を整えながら答える。


ヴォルカは後ろで魔力を引き、フローラは何事もなかったように周囲を確認している。

ネムリアはもう半分眠そうだ。


リュシアはまだ理解しきれていなかった。


でも一つだけ分かった。


この四人は、ちゃんとこの形で戦っている。


強い方が前に出るんじゃない。

効率だけで組んでるわけでもない。

意味は分からないけど、意味はある。


少なくとも、リュシアが昨日まで知っていた戦い方とは違っていた。


ユキトが振り返る。


「何ぼーっとしてんだ」


「次行くぞ」


「……はい」


リュシアは少しだけ遅れて歩き出した。


白湯郷フィオラまでは、遠い。


最短でも三ヶ月。

遠回りなら四ヶ月。

街も少ない。

野宿も多い。

季節も変わる。


そして、その初日からこれだった。


温泉はまだ見えない。

風呂も、布団も、壁もない。

あるのは、長い道と、面倒ごとと、妙に息の合った三人組と、その前に立つ弱そうな男だけだ。


面倒で、長くて、騒がしい。


旅は、まだ始まったばかりだった。

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