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23.新しいひとり

リュシアが合流して少し経った後だった。


ネムリアが、芝生の上でもぞりと動く。


「……ん……」


小さく喉が鳴る。

長い眠りから浮かび上がるように、ゆっくりと目が開いた。


竜形態の余熱が抜けていく。

空気に溶けていた圧がすっと薄れ、ネムリアの身体はいつもの小さな姿へ戻っていた。


ぼんやりしたまま、眠たげな目で周囲を見回す。


ユキト。

フローラ。

ヴォルカ。


そこで、ぴたりと視線が止まった。


見慣れない金髪の少女。


ネムリアは数秒だけじっと見て、それから小さく言った。


「……ふえた」


それだけだった。


それ以上は言わない。

言わないのに、空気は妙に気まずい。


ほんの少し前に起きた、あの一件。

誰も口に出して蒸し返さない。だが、なかったことにもなっていない。


フローラが静かに目を細め、軽く睨みつけていた。

ネムリアはそこまで分かっているのかいないのか、またぼんやりしている。


「起きたなら、歩けるか」


ユキトが短く聞く。


ネムリアはこくりと頷いた。

その反応は素直だった。


だが空気のぬるい火種は、まだ消えていない。


その少し後。


今度はヴォルカが、はっと息を呑んで目を覚ました。


「……っ」


上体を起こして、きょろ、と辺りを見る。

記憶が少し飛んでいるのか、不安そうな赤い目が揺れていた。


「え、えっと……ここは……」


そこまではよかった。


次の瞬間、ヴォルカの視線が金髪の少女を捉える。


沈黙、一拍。


「誰ですか!?」


素直すぎる第一声だった。


リュシアがびくっと肩を跳ねさせた。


「ひっ」


顔を青くして、一瞬で半歩、二歩、三歩。

迷いなくユキトの後ろへ回り込む。


ぎゅっと服の背を掴む。


ユキトが振り向きもせず言った。


「何で俺の後ろ来るんだよ」


「あなた以外怖いんですよ!」


即答だった。


ヴォルカが目に見えて傷ついた。


「そ、そんな……」


ユキトが思わず突っ込む。


「なんで強い方が傷ついてんだよ」


「だって普通にショックです……!」


リュシアはユキトの背に半分隠れながら、震えた声で言い返す。


「し、仕方ないじゃないですか! 母様でも勝てない黒竜が急に起きてこっち見たんですよ!?」


「怖いと思ったっていいじゃない……!」


「まだ何もしてませんよ私!?」


ヴォルカはさらに傷ついた。


フローラが額に手を当て、小さく息を吐く。

ネムリアはそのやり取りを見ながら、眠そうに首を傾げていた。


「……にぎやか」


ヴォルカはしょんぼりしながらも、しばらくしてから、おずおずとリュシアに近づいた。


本当に、悪意はなかった。

むしろ逆だ。


彼女は友達がいない。

過去にそういう関係をまともに作ってこなかった。

だからこそ、普通に仲良くしたかった。


「その……」


ヴォルカは少し緊張したように手を胸の前で組み、


「もしよければ……友達になれたら、嬉しいです」


と、できるだけ柔らかく言った。


内容だけ見れば、優しい。

とても優しい。


だがリュシアから見れば、圧倒的な力を持った黒竜が、柔らかく微笑みながら距離を詰めてきているのである。


意味が変わる。


「ひぃっ!?」


リュシアは本気で後ずさった。


「な、なんでさらに怯えるんですか!?」


「こ、怖いに決まってるでしょうが!」


「善意ですよ!?」


「それが怖いんですよ!」


ヴォルカ、再び大ダメージ。


「そんなぁ……」


ユキトが横から淡々と刺す。


「お前、善性だけで押し切れる距離じゃねえんだよ」


フローラも静かに補足した。


「ヴォルカ。あなたに悪気がないのは分かります。ですが、強すぎる者の善意は、時に圧になります」


ヴォルカは固まる。


「あっ……」


そこでやっと理解した。

自分が“優しくしようとしている”こと自体が、相手には恐怖になり得るのだと。


リュシアはまだユキトの後ろから顔だけ出している。

その姿は滑稽だったが、同時に距離をよく示していた。


まだ同じ高さではない。

まだ、対等な相手として見られていない。


それがはっきり分かる。


ユキトは短く周囲を見回した。


兵も王子も寝ている。

だが、いつまでも安全とは限らない。


「説明は移動してからだ」


誰も反論しない。


ユキトは続ける。


「余韻に浸った側から死ぬ。撤収するぞ」


その一言で、空気が切り替わった。


この軍勢の勢力圏から離れる。

今はそれが最優先だった。


移動の最中。


普段なら、こういう時はフローラがネムリアを背負う。

それがもう半ば自然な形になっていた。


だが今回は違った。


フローラは状況確認をしながら、あくまで静かに言った。


「リュシア、お願いしますね」


「……は?」


リュシアが固まる。


「ネムリアをお願いします」


「なんで私が!?」


フローラは穏やかな顔のままだ。


「私は警戒と治癒判断を見ます。ヴォルカはまだ万全ではありません。ユキトは先導役です」


全部、理屈としては正しい。

正しいが、正しすぎて逆にわかる。


静かな怒りだ、と。


ネムリア本人を怒鳴りつけるでもない。

責め立てるでもない。


ただ、余波だけをきっちり返す。


リュシアは顔を引きつらせた。


「いや、だから、なんで私がこのちっちゃいのを……!」


「働いてもらいます」


フローラの声音はやわらかい。

やわらかいのに逃げ道がない。


ユキトが横から雑に足した。


「雑用係だからな」


「まだ候補じゃなかったんですか!?」


「今、昇格審査中だ」


「そんな審査受けた覚えないんですけど!?」


結局、リュシアはぶつぶつ言いながらネムリアを背負うことになった。


その背中で、ネムリアがぽつりと呟く。


「……あったかい」


「精神的にきついんですけど!?」


リュシアの悲鳴に、ユキトは少しだけ笑った。


軍勢の勢力圏からある程度離れた頃には、空はもう暗くなっていた。


水場のある場所を選び、簡単な野営を組む。

ようやく全員が一息つける程度の安全を確保した。


そこでフローラが、全体の流れを整理するように説明した。


睡眠作戦。

ヴォルカの暴走未遂。

王子との契約。

母竜との和解。

そして、リュシアが同行することになった経緯。


リュシアも不本意そうに名乗る。


「……リュシアよ」


腕を組み、つんと顎を上げる。


「別に好きでついてきてるわけじゃないから」


「そうか」


ユキトの反応は薄い。


リュシアが少しむっとする。


彼女の目から見たユキトは、変な男だった。


弱そう。

雑。

理解できない。

なのに、なぜかこの場の中心にいる。


誰より強いわけでもない。

誰より立派なわけでもない。


それでも、皆が自然とこいつの判断に従っている。

そこが一番わからない。


ユキトはそんな視線に気づいているのかいないのか、火を弄りながら言った。


「朝から飯炊きやってもらうからな」


「は?」


「保護付き雑用係候補から雑用係に昇格試験だ」


「はぁ!?」


リュシアの声がひっくり返る。


「ちょっと待ちなさいよ! 私を何だと思ってるの!?」


「面倒を増やす保護対象」


即答だった。


「最低!」


「でも放り出してまた酷い目に遭われると寝覚めが悪い。だから手元で管理する」


言い方は最悪だったが、内容は妙に現実的だった。


変に優しくもしない。

女扱いもしない。

哀れむこともしない。


保護はする。

だが、それ以上はない。


リュシアは言い返したかった。

だが、帰れないのも事実だった。


「……っ」


結局、唇を噛んで黙るしかない。


夜が更けたあと。


焚き火は小さくなり、皆が寝静まった頃だった。


少し離れた場所で、フローラとヴォルカだけが起きていた。


夜気は冷たい。

水音が遠くに聞こえる。


ヴォルカが小さな声で言う。


「……フローラさん」


「なんでしょう」


少しだけ間があった。


ヴォルカは視線を落としたまま、ぽつりと零す。


「リュシアさんのこと、どう思っていますか」


フローラはすぐには答えなかった。


焚き火の残り火を見つめ、それから静かに口を開く。


「恋敵、とは思っていません」


その答えに、ヴォルカが目を瞬く。


フローラは続けた。


「正確には……まだ、恋敵にすらなれていない未熟な子、でしょうか」


きつい言い方ではない。

だが、線は明確だった。


ヴォルカはそれを聞いて、なんとなく理解した。


「ああ……」


「今のあの子は、まだその段階ではありません。自分のことで精一杯ですし、ユキトさんを見る目も、そこに届いていません」


「そう、ですね……」


ヴォルカも頷く。


確かに今のリュシアは、恋だの何だのという場所に立っていない。

怖がって、反発して、プライドを守るので精一杯だ。


フローラは息を吐いた。


「その話はいったん置きましょう」


声がわずかに低くなる。


「私はネムリアの件を、このまま流すのは嫌です」


ヴォルカも同じ気持ちだった。


責めきれない。

あの状況で、ああなった理由は分かる。

ネムリアがどこまで分かっていてやったのかも曖昧だ。


だからこそ、強く断罪しにくい。


でも。


「……嫌、ですよね」


「ええ」


フローラは頷く。


「仕方なかった。そこまでは認めます」


一拍置く。


「でも、次は別です」


その言葉に、ヴォルカの目が少しだけ鋭くなった。


「はい」


そこで会話は途切れた。


注意し直す気はない。

今さら改めて言えば、こちらが負けを認めるようで癪だった。


蒸し返さない。

けれど、忘れたわけでもない。


それで十分だった。


無言の牽制。

それが、そこで完成した。


ヴォルカが小さく呟く。


「……仕方なかったんですよね」


フローラも同じ温度で返す。


「ええ。でも次は別です」


夜気の中で、その言葉だけが静かに沈んだ。


翌朝。


リュシアの地獄が始まった。


「火が弱い」


「うるさいですね!」


「水、先に汲んどけ」


「今やろうとしてました!」


「鍋の置き方が雑」


「雑雑うるさいんですけど!?」


野営の基礎を、ユキトが淡々と叩き込んでいく。


火起こし。

水汲み。

鍋の扱い。

荷物整理。


一切甘やかさない。


「そこ違う」


「はあ!?」


「それだと食えない」


「食えるかどうか今から確認するところだったんです!」


「言い訳してる間にやれ」


「うるさいです!」


リュシアは怒鳴りながらやる。

だが手は抜かない。


負けず嫌いだからだ。

下手くそでも、真面目にやる。


ネムリアは少し離れた場所で毛布にくるまりながら、その様子を見ていた。


「……がんばってる」


「全然嬉しくないんですけど!?」


ヴォルカは少し元気を取り戻した様子で見守り、フローラは静かに微笑む。


ユキトは最後まで事務的だった。


「手止まってるぞ」


「今やろうとしてました!」


「言い訳してる間にやれ」


「だからうるさいですよ!」


朝の森に、リュシアの声が響く。


その騒がしさは、昨日までにはなかった新しい音だった。


まだ仲間とは言い切れない。

まだ距離もある。

まだ未熟で、噛み合っていない。


それでも確かに、この一行の中に新しいひとりが増えていた。

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