21怒りではない確認だ
アルベルトは、最初の一撃を受けてもなお王族らしい顔を崩さなかった。
ユキトの盾が唸りを上げ、横殴りに叩き込まれる。
だがアルベルトは細身の剣で角度をずらし、真正面からは受けない。
「……なるほど」
土を滑りながらも、口元だけで笑う。
「ただの無謀ではないらしい」
「褒めなくていい」
ユキトは間合いを詰める。
アルベルトの装備は良かった。
剣も、防具も、護符も、全部が一級品だ。
金と権力で揃えた、守られる側の装備。
だが、それだけだった。
死ぬほどの実戦を潜った人間の動きではない。
痛みを抱えたまま前へ出る人間の構えじゃない。
フローラが後ろから静かに告げる。
「右腰の護符が中心です」
「睡眠耐性の核と思われます」
「壊せば?」
「効くでしょう」
アルベルトの目が細くなる。
「会話の最中に観察していたのか」
「女を値踏みする王子様よりは、よほどまともです」
フローラの声は穏やかだった。
だがその穏やかさの底が冷たい。
アルベルトは鼻で笑う。
「その舌も、手元に置けば多少は愉快そうだ」
次の瞬間。
ユキトの踏み込みが変わった。
「っ!」
盾ではなく、まず足で入る。
アルベルトが剣で牽制する。
軽い。
軽い打撃では溜まらない。
ユキトはあえて、一歩深く入った。
アルベルトの剣が肩口を裂く。
熱い痛みが走る。
息が詰まる。
だが、そこで止まらない。
次に飛んできたのは、岩陰に伏せていた兵の短槍だった。
王子と同じく睡眠耐性の装備でも身につけていたのか、そいつだけは眠りに落ちていなかった。
「ユキト!」
フローラの声。
だがユキトは避けない。
盾で受ける。
ゴッ、と重い衝撃が腕を通った。
肩が痺れ、骨の奥まで嫌な振動が残る。
「……もらった」
アルベルトが顔をしかめる。
その一瞬の溜めを、ユキトは逃さなかった。
半身になる。
腰を落とす。
体重を乗せる。
ガントレット盾が、ただの防具ではなく打撃武器として叩き込まれる。
ドゴッ!!
蓄積衝撃が、アルベルトの右腰に直撃した。
護符が割れる。
淡い光が砕けるように散った。
アルベルトの顔から、初めて余裕が消えた。
「貴様――」
「うるさい」
ユキトは追う。
護符が壊れたなら、あとは単純だ。
アルベルトは剣を構え直すが、もうさっきまでの整った余裕はない。
守られる前提で立っていた人間が、初めて守りを失った顔だった。
「戦闘力1の分際で!」
「だから何だ」
「お前に私を傷つける権利があるとでも――」
ユキトの拳がもう一度入る。
今度は蓄積ではない。
ただの近距離打撃。
それでも、王子の顎が跳ねるには十分だった。
アルベルトが膝をつく。
そこでようやく、護衛の片方が動こうとした。
フローラの指先が静かに持ち上がる。
花びらのような光。
次の瞬間、護衛の足元から蔓が這い出し、その体を岩に縫い留めた。
「あなたは動かないでください」
「邪魔です」
優しい声だった。
だから余計に怖い。
アルベルトは息を荒げながら、それでも笑おうとした。
「どうした」
「殺す覚悟もないくせに」
「眠らせるだけ。守るだけ」
「甘いな」
ユキトはその言葉を聞いて、一度だけ目を閉じた。
それからフローラを見る。
「回復」
フローラは一瞬だけ迷ったが、すぐに癒しを飛ばした。
アルベルトの傷が戻る。
表面だけ、だが確かに。
王子が顔を上げた、その瞬間。
もう一度、ユキトの盾が腹へめり込む。
ドゴッ!!
「がっ……!」
体が折れる。
「まだ言えるか?」
回復。
殴打。
回復。
殴打。
その繰り返しの中で、ユキトの顔はずっと冷えていた。
だが、平気なわけではない。
痛いのは相手だけじゃない。
殴るたびに肩が軋む。
腕が痺れる。
最初に受けた斬撃も、短槍の衝撃も、ちゃんと残っている。
正直、見ていて気分のいいものじゃなかった。
やっている自分が一番よく分かっていた。
だが――それでも、ユキトには分かることがある。
痛いのは同じだ。
殴られれば痛い。
骨に響く。
息が止まる。
視界が揺れる。
そんなのは、当たり前だ。
ユキトだって、ずっとそうだった。
フローラに回復させて。
立って。
また殴られて。
また痛い目を見て。
それでも前へ出るしかなかった。
痛くないから立てるんじゃない。
痛いまま、気絶するまで立ち続けるしかなかったから、そういう戦い方が体に染みついただけだ。
だから分かる。
目の前の王子が、どこで折れるのかも。
アルベルトは痛みに弱いわけじゃない。
痛みの先に、何もないから耐えられないのだ。
守られてきた人間の痛みだ。
そこで止まれば、誰かが守る。
誰かが終わらせる。
ユキトは違う。
止まれば終わるものを、ずっと背負ってきた。
だから立つ。
立ててしまう。
気絶するまでは、何度でも。
その差だけだった。
「っ、や、やめろ……!」
アルベルトの声が割れる。
回復。
殴打。
回復。
殴打。
何度目かで、王子の目からようやく余裕が完全に消えた。
「まだ言うか?」
ユキトの声は低い。
「今さら……!」
「今さらだよ」
「最初にやめとけって言った」
アルベルトはなおも睨もうとする。
だが、その目はもう揺れていた。
王子は今、初めて理解し始めていた。
目の前の男は、戦闘力1の弱者なんかじゃない。
少なくとも、自分より先に折れるような人間ではない。
痛みを受けるたびに弱るはずなのに、むしろ立つ理由を増やしていく。
そういう壊れ方をした人間だった。
「……っ」
王子の喉が震える。
「貴様……なぜ、そこまで……」
ユキトは答えなかった。
答える必要もなかった。
そんなもの、簡単だ。
折れたら終わるからだ。
そして自分は、気絶するまでは何度でも立つ。
ただ、それだけだ。
やがてユキトはアルベルトの胸倉を掴み、低く言った。
「選べ」
「ここで壊れるか、縛られるか」
アルベルトは歯を食いしばる。
「……王族の私に契約を強いるつもりか」
「そうだよ」
「馬鹿げている」
「お前が言うな」
フローラが一歩前へ出る。
契約術式が、静かに編まれる。
緑と白の光の糸が、アルベルトの周囲を幾重にも巡った。
「内容を告げます」
フローラの声は事務的だった。
「あなたは、ユキトならびに私たちについて見聞きした一切を、他者へ口外できない」
「今この場で起きたことも含みます」
「破れば、あなた自身が壊れます」
アルベルトの顔色が変わる。
「ふざけるな……」
「ふざけてるのはどっちだ」
ユキトが言う。
「飲め」
アルベルトはまだ抵抗しようとした。
だがその目は、もうさっきまでの目ではなかった。
見下すための目ではなく、折れまいとしているだけの目。
結局、契約は沈んだ。
王子の喉に。
胸に。
深く。
そこでようやく、戦いは終わった。
だが、終わった瞬間にフローラが空を見た。
「まずいですね」
ユキトが荒い息のまま振り返る。
「何が」
遠くで、雷が荒れている。
さっきとは質が違う。
乱暴で、粗くて、明らかに制御が落ちている。
「ヴォルカです」
ユキトは眉を寄せる。
「でもヴォルカって、あの竜より遥かに強いんじゃないのか?」
「はい」
フローラは即答した。
「遥かに強いです」
「本気を出したら三秒でステーキにできます」
「だからです」
「……は?」
「強すぎるから、殺さず押さえつけるのが難しいのです」
フローラの声は冷静だった。
「しかも兵を守るために、何度も電撃を受けています」
「竜化した状態で大きな損傷を重ねれば、理性が急速に落ちる」
「このままだと、あの一帯ごと吹き飛びます」
ユキトの顔色が変わる。
「母竜は?」
「もう私でも抑えられます」
フローラは迷いなく言った。
「ですがヴォルカは、今すぐ止めないと危ない」
ユキトは即座に判断した。
「フローラ、母竜頼む」
「ユキトは?」
「ヴォルカを引き受ける」
「正気ですか?」
「今さらだろ」
ユキトは走り出す。
山肌を駆け上がりながら、遠くの黒い影を探す。
見えた。
母竜へ食らいつくように絡みつく黒竜。
雷を受け、焼け、だが離れない。
ヴォルカだった。
その動きはもう、きれいじゃない。
理性で戦っているというより、本能で押さえつけようとしている。
「ヴォルカ!!」
ユキトが叫ぶ。
黒竜の頭が、ぴくりと揺れた。
まだ届く。
「こっち見ろ!」
もう一度叫ぶ。
黒竜の赤い目が、ほんの一瞬だけこちらを向いた。
そこに、まだ彼女がいる。
ユキトはそのまま睡眠範囲――ネムリアが眠り続けている場所へ向かって走る。
「こっちだ!来い!」
「お前の帰る場所はこっちだ!」
ヴォルカの翼が大きく震える。
母竜を押さえつけながらも、意識の一部がこちらへ引かれているのが分かった。
フローラが後方から母竜へ回り込む。
花の結界が、母竜の四肢を縛る。
「こちらは任せてください!」
ユキトは振り返らない。
ただ走る。
後ろから、巨大な翼を羽ばたかせ、周囲の木々をへし折りながら音が追ってくる。
怖い。
本気で怖い。
一歩踏み違えれば死ぬ。
でも止まれない。
「ヴォルカ!」
「信じろ!」
その声に、黒竜が大きく吠えた。
怒りとも苦しみともつかない咆哮。
だが進路は、確かにユキトの方へ変わる。
誘導だ。
運ぶのではなく、呼ぶ。
パートナーとして。
最後の理性へ働きかける。
ネムリアが眠る地点は、もう近い。
ユキトはそこで止まった。
振り返る。
黒い巨体が迫る。
速い。
大きい。
圧倒的だ。
それでも、逃げない。
「来い!!」
ヴォルカの瞳が、最後にもう一度だけ揺れた。
次の瞬間。
その巨体が、睡眠範囲へ踏み込む。
一歩。
二歩。
そこで、ぴたりと動きが鈍った。
「……っ」
翼がぶれる。
地面との摩擦で土埃が散る。
さらにもう半歩、前へ。
そして黒竜は、その場に大きく崩れ落ちた。
地面が揺れる。
眠ったのだ。
竜形態のまま、完全に。
ユキトはその場に膝をつきかけた。
「はあ……っ、は……」
心臓がうるさい。
今さら足が震える。
だが止められた。
吹き飛ばさせずに済んだ。
少し遅れてフローラが来る。
母竜は、すでに花の拘束の中で荒い呼吸をしていた。
怒りは残っている。
だが、さっきまでの破壊衝動は削がれている。
「間に合いましたね」
フローラの声は静かだった。
その時、山頂で細い鳴き声が上がった。
若い雷竜。
ユキトは顔を上げる。
「……あいつ」
「今のうちです」
フローラが言う。
二人で山頂へ向かう。
若い雷竜は、さっきまでの混乱から少しだけ戻っていた。
だがまだ怯えている。
雷を散らし、羽を震わせ、逃げ場のない岩場で唸っていた。
ユキトは両手を見せて近づく。
「もう囲まれてない」
「お前を捕まえに来たわけじゃない」
若い雷竜の目が細くなり、次の瞬間、限界が来たようにその巨体が揺れた。
青白い雷がばちばちと散る。
竜の輪郭が崩れ、縮み、光の中で形を変える。
そして岩場の上に現れたのは、一人の少女だった。
年の頃は人間で言えば十四、五ほど。
金髪。
小柄で華奢。
まだ幼さの残る体つき。
だが、その細い肩の奥には、雷竜らしい張り詰めた気配が残っている。
顔立ちは整っていた。
弱りきってなお、気の強さだけは隠しきれない。
小さな竜角。
細い尾。
荒い息。
そして、疲弊していても睨み返してくる目。
いかにも生意気を絵に描いた少女だった。
「……だれですか、あなたは」
かすれた声。
それでも口調だけは偉そうだ。
「通りすがり」
ユキトが答える。
「うそくさい」
「知ってる」
ユキトは肩をすくめた。
「でも、母親なら連れてこれる」
その一言で、雷竜の少女の目が大きく揺れた。
下で、母竜が低く鳴く。
雷竜の少女の首がそちらへ向く。
「……お母さま」
その声に、母竜の拘束越しの咆哮が少し変わる。
怒りではない。
確認だ。
生きているのか。
無事なのか。
それだけを確かめる声だった。
フローラが静かに拘束を緩める。
「母竜よ」
穏やかな声で告げる。
「こちらは敵意を持っていません」
「子は返します」
母竜の緋色の瞳が、細くなる。
すぐには信じない。
当然だ。
だが、雷竜の少女が震える足で、それでも前へ出ようとした。
「お母さま」
母竜の体が止まる。
数秒。
それから母竜は、大きく息を吐いた。
完全な信頼ではない。
だが、少なくとも今ここで焼き払うつもりは薄れた。
フローラが拘束を解く。
母竜はゆっくりと雷竜の少女へ近づき、鼻先を寄せ、傷んだ羽――今は人間形態に移ったその肩口や背の傷を確かめた。
その仕草は、どこの生き物の親とも同じだった。
心配していた。
怒っていた。
でも何より、生きていてほしかった。
雷竜の少女が鼻を鳴らす。
「……いたい」
母竜が低く鳴く。
叱っているようで、慰めてもいた。
そのやり取りを見て、ユキトはようやく肩の力を抜いた。
終わった。
少なくとも、ここは。
遠くで、ネムリアはまだ竜形態のまま爆睡している。
ヴォルカもその近くで眠っている。
王子は岩陰で転がっている。
全部ひどい絵面だった。
フローラが小さく息を吐く。
「ずいぶん騒がしい救出でしたね」
「静かに終わるわけないだろ、こんなの」
ユキトは苦笑した。
母竜が一度だけこちらを見る。
その視線はまだ鋭い。
だが、さっきまでの敵意一色ではない。
助けた。
それだけは、たしかに伝わっていた。
やがて母竜は、雷竜の少女を庇うように翼を寄せる。
そして二人は、ゆっくりとその場を離れた。
竜形態になって飛び去るには、まだ無理がある。
だから山の向こうへ、歩いて消える。
それを見送ってから、ユキトはようやく地面に座り込んだ。
「……疲れた」
「でしょうね」
フローラも珍しく、少しだけ肩を落としていた。
しばらくして。
ネムリアの睡眠が解けるより先に、ユキトが小さく息を吐く。
ようやく終わった。
そんな空気が、二人の間に落ちる。
だが。
「ところで、ユキト」
「ん?」
フローラが静かに言った。
「先ほどの件ですが」
「先ほど?」
一瞬だけ、ユキトは本気で分からない顔をした。
だが次の瞬間、思い出す。
ネムリア。
口移し。
あの場の空気。
勢いとはいえ、誤魔化しの利かない一件。
「あー……」
ユキトが視線を逸らす。
フローラはその反応を見て、にこりと微笑んだ。
優しい笑みだった。
優しいだけに、逃げ道がなかった。
「忘れていませんので」
「……はい」
「非常時だったことは理解しています。必要だったのでしょう」
「お、おう」
「ですが」
そこでフローラは少しだけ身をかがめ、座り込んだままのユキトを正面から見た。
「あなたはもう少し、女の扱いに心血を注いだ方がいいですね」
「心血って」
「今後も“仕方なかった”で済ませるおつもりですか?」
「いや、済ませる気は……」
「なら結構です」
言葉は穏やかだった。
だが、穏やかなだけで終わらせるつもりもないらしい。
フローラは続ける。
「私たちは、あなたのそういう不器用さも分かった上で傍にいます」
「……」
「ですが、分かっていることと、何も気にしないことは別です」
ユキトは頭を掻いた。
反論しようとして、できない。
実際その通りだったからだ。
ネムリアのことも。
フローラのことも。
ヴォルカのことも。
自分はいつも、ぎりぎりになってから向き合っている。
「……善処します」
「ええ。善処では困ります」
即答だった。
ユキトが思わず顔を上げると、フローラはくすりと笑う。
「ちゃんと、覚えていてください」
「はいはい……」
「返事が軽いですね」
「重くしたらそれはそれで怖いだろ」
「怖がるくらいでちょうどいいのです」
ぴしゃりと言われ、ユキトは完全に黙った。
数秒。
沈黙。
それからユキトは、遠くで眠っている二人へ視線を向ける。
ネムリアは相変わらず静かに眠っていて、
ヴォルカもさすがに消耗の色を隠しきれていない。
ユキトは立ち上がった。
「……戻るか」
「そうですね」
フローラも立ち上がり、衣の裾を払う。
二人は並んで、眠っている二人の元へと歩き出した。
戦いは終わった。
だが、面倒なことが終わったわけではない。
むしろユキトは、別の意味でこれからの方が大変そうだと、少しだけ思った。
もっとも――
それを口に出す勇気は、さすがになかった。
岩陰のさらに奥。
眠りに落ちた兵たちとも、地に転がった王子とも、契約を終えた四人とも距離を取った場所で、ローブの男は一人、静かにその一部始終を見ていた。
いつものように、口元には薄い笑みがある。
だが今のそれは、ただの癖ではなかった。
焦げた土の匂い。
砕けた岩肌。
雷の焼け残り。
乱戦のあとにしては、妙に静かすぎる山。
男はその静けさを、しばらく黙って眺めていた。
「……これは、うまいな」
小さく漏れた声は、誰に向けたものでもない。
兵士たちは死んでいない。
そこら中に折り重なるように倒れているが、死体ではなかった。
呼吸がある。
呻きもない。
ただ落ちている。
まとめて眠らされたのだと、見れば分かる。
数を殺されるのも痛い。
だが、殺されずに無力化されるのは、時にそれ以上に厄介だ。
死ねば終わる話が、終わらない。
責任も、処理も、言い訳も、全部あとに残る。
しかも今回は、その“あと”を片付ける側に王族までいる。
ローブの男はゆっくりと視線を滑らせ、地に伏したアルベルトを見た。
しばらく黙って見てから、鼻で笑う。
「……もう駄目だろうね、あれは」
生きてはいる。
だが、それだけだ。
肉体が壊れたわけではない。
骨が砕けたわけでも、手足が飛んだわけでもない。
それでも、見れば分かる。
立てなくなる人間の顔だ。
痛みを与えられ、治され、また与えられる。
逃げ場がないと理解させられ、どうにもならない現実だけを繰り返し叩き込まれる。
それを真正面から受けた人間が、今日より前と同じ顔で立てるはずがない。
その上で、契約。
何を奪われたのか。
どこまで縛られたのか。
そこまでは聞こえなくても、結果は見れば足りる。
あれはもう、好きに喋れない。
少なくとも今日ここで起きたことの核心を、王子自身が外でべらべらと撒き散らすことはできないはずだった。
兵は眠っている。
王子は喋れない。
見ていた人間もほとんどいない。
そこまで揃えば、笑うしかない。
「独占、か」
ローブの男は目を細めた。
今回の一件を、最初から最後まで“商品”として抱えているのは、たぶん自分だけだ。
ただの揉め事ではない。
王族の失態。
対竜装備を揃えた上での失敗。
若い竜の捕獲未遂。
母竜の襲来。
そして、その全部を、戦闘力1の男と竜三体がひっくり返した。
にもかかわらず、見た目はそこまで派手じゃない。
死体の山ではない。
山が半分吹き飛んだわけでもない。
王子も生きている。
兵も死んでいない。
だからこそ高い。
外から見える情報ほど安い。
中身だけが重い情報ほど、高く売れる。
「今すぐじゃないな」
唇の端がわずかに上がる。
こういう話は、少し寝かせた方がいい。
事態が進んで、当事者が焦り始めて、何を見落としたか気付き始めた頃に持ち込む。
その時、人は“情報”ではなく“見えていなかったもの”に金を払う。
そこまで考えてから、男はもう一度だけアルベルトを見た。
今度は笑いに少しだけ棘が混じる。
「せっかく教えてやったのにね」
逃げ勘が異常に高い。
危険を嗅ぎ取る鼻が妙にいい。
あの男はただの成り上がりじゃない。
そこまでは売った。
ちゃんと伝えた。
金を取れる精度で。
なのに、逃がした。
いや、違う。
逃がしたという言い方はまだ優しい。
最初から見ていたものが薄かった。
戦闘力1。
大会上がり。
竜を侍らせた男。
運のいい成り上がり。
たぶん、その程度で止まっていた。
その奥にある嫌な部分――
自分が痛い目を見る前提で動けるところ。
傷つくことも汚れることも勘定に入れているところ。
みっともなくても、後で面倒になるくらいなら今やると割り切るところ。
ああいうものを、何も見ていなかった。
「ほんと、馬鹿だな」
軽く言っているようで、少しだけ本気で呆れていた。
価値のある情報を売ったのに、買った側がそれを生かせない。
情報屋として、それは少し腹が立つ。
無駄にされた、とまでは言わない。
だが鼻で笑いたくはなる。
対竜の備えらしきものはあった。
兵も集めた。
包囲の形も作った。
母竜が来る可能性まで、一応は考えていたのかもしれない。
だが、道具を並べることと、それを扱い切ることは別だ。
「道具だけで勝てるなら、誰も苦労しないよ」
アルベルトは終わった。
少なくとも、今日までと同じ駒ではいられない。
だから、もう視線を置く価値は薄い。
ローブの男はゆっくりと顔を上げ、岩陰の向こうに立つユキトを見た。
「……あんたの方が、ずっと高い」
戦闘力だけなら、最下位だ。
この場にいる誰よりも弱い。
小物っぽい。
面倒を嫌う。
保身もする。
逃げる時は本気で逃げる。
危ない橋なんて、できれば渡りたくない――そんな顔をしている。
その全部が、たぶん本当だ。
だが同時に。
「引いたら終わるって分かった時だけ、腹を括る」
そこが気味が悪かった。
しかも、その覚悟が綺麗じゃない。
英雄みたいに眩しくない。
騎士みたいに潔くもない。
格好よく命を張るわけでもない。
嫌だ。
痛いのは嫌いだ。
汚れたくもない。
できれば逃げたい。
それでも、今ここで逃げた方が後でもっと面倒になる。
もっと酷いことになる。
だから、仕方なく踏み込む。
今日見たのは、そういう腹の括り方だった。
王子を折る場面もそうだ。
綺麗ではない。
むしろかなり醜い。
フローラに治させ、また痛めつける。
心を折るために必要だと判断したから、止めなかった。
だが、楽しんではいなかった。
そこが妙だった。
快楽で残酷になれるわけでもない。
かといって、手を止めるほど甘くもない。
綺麗じゃないと知っている。
自分でもたぶん嫌っている。
それでも必要なら止めない。
「いちばん面倒な手合いだ」
独り言のようにそう言って、男は少しだけ笑った。
善人なら途中で止まる。
悪党ならどこかで酔う。
だがあれは、そのどちらでもない。
弱いまま。
臆病なまま。
器も小さいまま。
それでも踏み込む。
今ここで断定はしない。
まだ早い。
だが、舐めるには危ない。
持ち上げるにはもっと材料がいる。
そして何より――まだ底が見えない。
それだけで十分、値がついた。
そこで視線が滑る。
眠る兵たちの向こう。
巨大な竜の影。
ネムリア。
「あれは、ほんとにひどいな」
呆れたように、けれど少し楽しそうに笑う。
戦場を止めたのは、あれだ。
兵を殺さない。
壊しもしない。
ただ、まとめて落とす。
数が数だ。
しかもあの場だけに収まる力には、とても見えなかった。
山の地形も、距離も、兵の散り方も、全部まとめて見れば分かる。
あれは局地戦用じゃない。
「山一つ以上、飲みこめても驚かない」
ユキトのように傷つけたくない側からすれば、これ以上なく都合がいい。
軍勢を殺さず無力化する。
戦場の理屈を根本から壊す。
なのに。
本人も寝る。
それも竜形態のまま、堂々と爆睡しているのだからどうしようもない。
強すぎる。
反則級だ。
だが安定して振り回せる札ではない。
便利すぎて、不便。
最強の切り札なのに、使った瞬間に本人が落ちる。
「最低だな。最高だけど」
くく、と喉で笑う。
壊れている。
だからこそ読みにくい。
常時使える力ではない。
だが刺さる場面では、それ一枚で戦場の意味が消し飛ぶ。
次に、白へ目を向けた。
フローラ。
ここで男の表情が、ほんの少しだけ渋くなる。
「……惜しい」
白い竜形態は見られなかった。
切れなかったのか。
切らなかったのか。
そこまでは分からない。
だが少なくとも、本番の情報は出ていない。
それが、かなり惜しかった。
壊す力は分かりやすい。
殺す力も売りやすい。
強い、危険、脅威――そのあたりの言葉で、いくらでも値はつく。
だが、本当に値が跳ねるのは別だ。
生かす力。
治す。
保つ。
浄める。
死なせない。
終わるはずだったものを、終わらせない。
そういう力は、希少で、使い道が広くて、欲しがる連中が多い。
王侯貴族。
教会。
軍。
病を抱えた家。
長く生きたい者。
大切なものを失いたくない者。
殺す力に金を出す人間は多い。
だが、生かす力にはもっと深い金が集まる。
「白い方は、そっちだろうね」
神聖寄り。
生命寄り。
少なくとも破壊より維持の匂いが強い。
だから危険なのではない。
だから高い。
「あれがどこまで“生かせる”のか」
そこが見えれば、かなり高くなった。
下手をすれば今日見たものの中で、いちばん値がついたかもしれない。
瀕死を戻すのか。
呪いを消すのか。
毒を抜くのか。
精神まで支えられるのか。
もっと別の、踏み込んだことまでできるのか。
そこが見えないまま終わった。
「いちばん高いところを隠されたな」
本気で惜しんでいる声音だった。
そして最後に、黒。
ヴォルカ。
「あれもまた、単純じゃない」
母竜ヘレナとの空中戦。
一見すれば派手だった。
だが、よく見ればあれは殴り合いではなかった。
格が違うのは分かる。
危険さも見える。
あの場で最も“上”だったのは、たぶんあの黒だ。
だがそれで終わらない。
短期決着に見えなかった。
さっさと潰しにいったようには見えなかった。
むしろ――止めていた。
「倒すより、抑えてたのか」
若い竜を巻き込みたくなかったのか。
眠った兵を焼きたくなかったのか。
山ごと壊す気がなかったのか。
おそらく、その全部だ。
自分から進んで雷撃を受けていた。
怒りの向きをずらし、位置を変え、被害が散るのを防いでいたように見えた。
本気を出せば、もっと早かった可能性はある。
ただ、その“もっと早い”は、周りも無事で済まない。
「雑に振れない強さ、か」
それはそれで厄介だった。
強いだけなら読みやすい。
だが、自分の強さを好きに振るえないとなると、一気に話が変わる。
守りたいもの。
壊したくない範囲。
暴れた先の被害。
全部が判断に混ざるからだ。
そこに、戦闘力1の男がいる。
白がいる。
眠る緑がいる。
若い竜もいる。
兵までいる。
だから、黒はただの暴力にならなかった。
男はそこで、四人全体を見た。
戦闘力1。
山を眠らせる緑。
“生かす価値”を隠した白。
本気を出すほど周囲ごと壊しかねない黒。
「不格好だな」
ぽつりと落ちる。
継ぎはぎで。
危うくて。
未完成で。
普通なら、噛み合わないはずの連中だ。
なのに今回は、噛み合った。
ぎりぎりで。
不細工な形で。
たぶん本人たちにとっても、決して理想ではないやり方で。
それでも結果としては、兵を殺さず、若い竜も死なず、母竜も殺さず、王子だけを折った。
普通はこうならない。
普通はどこかが壊れる。
普通はもっと単純な力押しになる。
それをやらなかった。
「前より確実に形になってる」
そこがいちばん厄介だった。
今ならまだいい。
迷う。
傷つく。
自分の小ささも出る。
だがこういう手合いは、経験を積むほど面倒になる。
弱いまま、戦い方だけ覚える。
臆病なまま、踏み込むべき時だけ踏み込めるようになる。
欠陥だらけの仲間と、それでも噛み合う術を覚える。
しかも、竜が三体。
「もう舐めないよ」
だが、過大評価もしない。
今ここで底を決めるには早い。
まだ底が知れない。
それで十分だった。
「売るなら王国だな」
結論は、ほとんど迷いなく落ちる。
王子の失態。
王家の面目。
対竜運用の失敗。
竜三体の情報。
ユキトという男の読みづらさ。
そして、この件をできれば外に漏らしたくない事情。
全部まとめて、いちばん高く買うのは王国だ。
ただし今すぐではない。
少し寝かせる。
焦りが増した頃に持ち込む。
その時、人は金払いが良くなる。
「決まりだ」
男は最後にもう一度だけ、その場を振り返った。
眠る兵。
折れた王子。
立つ四人。
静かな山。
焦げた匂い。
風に流れる熱の残り。
面白い商品だった。
そして、そのまま踵を返す。
今回の件は寝かせる。
その間に、次の匂いを追えばいい。
ちょうど別口で、妙な噂も入っていた。
アルフィー。
あの街で、何かが起きているらしい。
最初に聞いた時、男は少しだけ眉を上げた。
それから、ゆっくり笑った。
生きているのに、死んでいる。
心臓が動いていないのに、立っている。
死人のはずなのに、目に理性が残っている。
言葉も通じる。
記憶もある。
昔と同じ顔で笑うのに、もう生者ではない。
そんな噂だった。
普通の人間なら、気味悪がるのだろう。
まともな商人なら、近寄りたがらない。
運の悪い街だと肩をすくめて、別の道を選ぶ。
だがローブの男は違う。
「……最高だ」
薄く、愉快そうに笑う。
人の不幸なんて、自分には関係ない。
街がひとつ腐ろうが、泣く人間が何人いようが、知ったことではない。
大事なのは、それが金になるか。
面白いか。
そして、自分がまだ見たことのない種類の面倒かどうか。
生きているのに死んでいる。
話が通じるのに終わっている。
理性が残っているのに、もう戻れない。
そんなもの、最高に決まっていた。
ただの死人ならつまらない。
ただの怪物でも安い。
だが“人のまま終わっている”となれば、話は別だ。
恐怖も。
混乱も。
知りたい真相も。
これから生まれる責任も。
全部まとめて値がつく。
「いいねえ」
声が少しだけ弾む。
しかも場所がいい。
王国の直轄領だ。
ただの田舎町の怪異で終わる話じゃない。
王国が動く。
兵が動く。
役人が動く。
金も人も噂も、嫌でも集まる。
話が重くなる。
重い話ほど、高くなる。
「まずは見に行くか」
売り先を決めるのは、そのあとでいい。
王国相手に使える材料になるかもしれない。
別の誰かに流した方が面白く転がるかもしれない。
あるいは、自分の手元で握っていた方が高くなるかもしれない。
どちらにせよ、放っておく理由はない。
男は岩陰の闇へ足を向ける。
背後では、山風が静かに吹いていた。
焦げた匂いも、土の匂いも、遠ざかればやがて薄れるだろう。
だが、今日見たものは薄れない。
戦闘力1の男。
竜三体。
折れた王子。
眠る兵。
そして、まだ底の見えない未完成な集団。
その上で次は、死人みたいに歩く街だ。
「忙しくなるな」
愉快そうにそう呟いて、ローブの男は笑う。
笑い声は小さい。
だが、妙に長く耳に残る。
そしてそのまま、岩陰の闇へ溶けるように消えていった。




