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20.忙しい男その名はユキト

ネムリアは小さく頷いた。


「……じゃあ、はじめる」


その声を合図に、空気が変わる。


さっきまでただ冷たかった山の空気が、急に水の底みたいに重くなった。

音が遠のく。

風の流れまで鈍くなった気がした。


ネムリアの体から、淡い緑がかった靄のような魔力が静かに広がっていく。


激しい気配ではない。

むしろ逆だ。


柔らかい。

穏やか。

だからこそ、気づいた時にはもう遅い類の力。


「下がって」


フローラが短く言う。


ユキトたちは睡眠範囲の外へ、さらに数歩だけ距離を取った。


ネムリアはその場に立ったまま、ゆっくりと目を閉じる。


その姿が、少しずつ変わっていく。


髪が風もないのに揺れ、背中に淡い光の線が走る。

骨格が伸びる。

肩が開く。

そこから生まれた翼は、他の竜たちのような威圧感とは少し違っていた。


静謐だった。


凶暴さではなく、侵しがたい眠りそのものが形を持ったような竜。


緑の竜形態となったネムリアは、半分眠ったような瞳のまま、山を見下ろした。


次の瞬間。


音もなく、波が広がった。


目に見えない眠気の奔流。


山肌をなでるように。

草を伏せるように。

包囲網の兵を、兵器を、その場にいたすべてを静かに飲み込んでいく。


「っ……」


最初に崩れたのは、見張りの兵だった。

槍を杖にしていた体がふらつき、そのまま膝から落ちる。


次にバリスタの横で待機していた兵が、目を擦る間もなくその場に倒れる。

命令を飛ばしていた隊長格の男も、口を開いたまま言葉を失い、糸が切れたように沈んだ。


一人。

十人。

百人。


あっという間だった。


山を囲んでいた兵たちが、順に、そして一斉に、まるで最初からそこに眠るつもりだったみたいに倒れていく。


「……すごい」


ヴォルカが息を呑む。


大型ボーラーの近くにいた兵も、バリスタの引き金に手をかけていた兵も、みなその場で沈黙した。


軍勢が、止まった。


山を包んでいた人間の意志が、一瞬で途切れた。


その静寂は、むしろ不気味だった。


ユキトが言う。


「効いたな」


フローラの声も低い。


「はい」


「完全に落ちました」


その時にはもう、ネムリア自身も限界に来ていた。


竜形態のまま、ふら、と一度だけ大きく揺れる。

そしてそのまま、巨体をごろんと横たえた。


「……ねる」


寝言みたいな声を最後に、完全に沈黙。


竜形態のまま爆睡である。


「ほんとに寝たな」


「自分でも巻き込むと言っていましたから」


フローラが淡々と言う。


だが、その視線の端には、まだ別の熱が残っていた。


ヴォルカもだ。


ネムリアのキス。

唾液による加護。

人前で、しかも何のためらいもなくやったこと。


さっきまで無理やり作戦に気持ちを戻していたが、消えたわけではない。


むしろ、一度止まったせいで、余計に意識してしまう。


山を囲んでいた軍勢が眠りに落ち、場の主導権がこちらへ傾いた――そんな大事な瞬間にも関わらず、二人の間には別種の緊張が漂い始めていた。


ヴォルカが先に口を開く。


「ネムリアさん、あの話ぜんぜん聞いてませんでしたね……」


「ええ」


フローラは穏やかな声で答えた。


「見事なくらいに」


「……その、あれは」


ヴォルカは言葉に詰まる。


「必要だからした、んでしょうけど」


「必要なら何をしてもいいわけではありません」


フローラの声は静かだ。


静かだからこそ、少し怖い。


「少なくとも、事前の合意くらいは尊重してほしいものです」


ヴォルカは思わず頷きかけて、でも途中で止まった。


「で、でも」


「ネムリアに悪気は……」


「ええ、ないでしょうね」


フローラはにっこり笑った。


「それが一番厄介です」


ヴォルカは反射的に一歩引いた。


「こ、怖いですフローラさん」


「怖がられるようなことは言っていませんよ」


「顔がちょっと怖いです……」


ユキトは、その空気の悪化を全身で感じ取っていた。


まずい。


非常にまずい。


兵は寝た。

作戦はここからだ。

なのに、自分の両脇で別の火種が燃え始めている。


こういう時の勘だけは妙にいい。


「えーと」


とりあえず何か言わなければと思った、その瞬間だった。


ふと、山の向こうに違和感を覚えた。


「……あれ」


「何ですか?」


ヴォルカがまだ少しピリついたまま振り返る。


ユキトは遠くを指さした。


「山の向こう」


「何か来てる」


二人もそちらを見る。


最初は何も見えない。


だが次の瞬間、空の端で青白い光が爆ぜた。


遅れて届く、重たい雷鳴。


そして影。


大きい。


あまりにも大きい。


山の向こうからせり上がるように現れたそれは、若い雷竜とは比べものにならない重圧をまとっていた。


翼。

角。

厚い鱗。

そして、怒りそのものみたいな咆哮。


「……っ!」


ヴォルカの顔色が変わる。


「母竜……!」


「母親か!?」


ユキトが目を見開く。


フローラも即座に状況を読む。


「恐らく」


「若い雷竜を追って来たのでしょう」


だが、その母竜は、まっすぐ山頂だけを見ているわけではなかった。


眠りに落ちた兵。

兵器。

包囲網。


全部まとめて焼き払うつもりで来ている。


ヴォルカが一歩前に出た。


さっきまでのピリつきは、完全に消えていた。


あるのは、焦りと決意だけ。


「まずいです」


「寝ている人間を攻撃するつもりです」


「止めないと」


ユキトは息を飲む。


母竜がこのまま突っ込めば、兵も、兵器も、山頂の若い雷竜ですら巻き込まれるかもしれない。


ヴォルカが振り返った。


真っ直ぐにユキトを見る。


「ユキトさん」


その声は、少しだけ震えていた。


でも逃げてはいない。


「私を信じてくれますよね?」


ユキトは、その意味を理解した。


ヴォルカが行く。

止める。

だが、あの母竜を相手にして無傷で済むはずがない。


電撃を受ける。

傷を負う。

理性が落ちる。

周囲一帯が火の海になるかもしれない。


それでも、行くと言っている。


一瞬だけ、ほんの一瞬だけ迷った。


だが、ここで止める選択肢はない。


ユキトははっきりと言った。


「ああ」


「行ってこい!」


「何かあっても俺がフォローしてやる!」


命がけの承認だった。


ヴォルカの目が、ぱっと明るくなる。


「はい!」


その笑顔は、さっきまでの不安を忘れさせるくらいまっすぐだった。


次の瞬間、ヴォルカが地を蹴る。


人の形が崩れ、黒い熱が一気に膨らむ。


黒竜。


巨体が空へ躍り出て、一直線に母竜へ向かった。


雷と炎がぶつかる轟音が、山を震わせる。


ユキトはその背を見送り、すぐに視線を切り替えた。


「フローラ」


「はい」


「俺たちは若い雷竜の方だ」


「分かっています」


フローラは一歩、ユキトの後ろへ下がった。

護衛位置だ。


だが、その声には、まだ完全には冷めていないものが混じっていた。


「……あとでネムリアの件は話しましょう」


「……はい」


「ですが今は」


フローラは山頂を見据える。


「優先順位があります」


その言葉と同時だった。


ぱち、ぱち、と乾いた拍手が響いた。


「見事だ」


嫌な声だった。


岩陰から、アルベルトが姿を現す。


王族の衣装は土一つついていない。

何かしらの装備の効果だろう。

睡眠の影響を受けていない。


「人の前では見苦しい愛を語り、今度は私の竜まで奪うか」


アルベルトは薄く笑った。


「忙しい男だな、ユキト」


ユキトは顔をしかめる。


「お前、まだいたのか」


「当然だ」


アルベルトは肩をすくめる。


「価値あるものが手に入る場を、そう簡単に離れるわけがない」


視線が、山頂の若い雷竜へ向く。


その視線が、熱を帯びていた。


「若い」


「弱い」


「傷ついている」


何でもない口調で言う。


「実に扱いやすい」


そこで一拍置く。


「昨日の三人ほどではないが、代わりとしては十分だろう」


その一言で、ユキトの中の何かが切れた。


「……フローラ」


「はい」


フローラは即座に応じた。


「護衛と回復に徹します」


「戦うんですね」


アルベルトが、少しだけ面白そうに片眉を上げる。


「戦闘力1の分際で、まだ私に逆らうつもりか」


ユキトは盾を構えた。


「逆らうんじゃない」


低く言う。


「ぶん殴る」


そこで、戦いが始まった。

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