18.面倒回避能力
翌朝。
高級宿の朝は、安宿とは空気が違った。
静かで。
香りがよくて。
外の喧騒も、厚い窓越しだと少し遠い。
昨夜の豪遊の余韻は、まだ部屋の中に残っていた。
食べきれなかった菓子。
柔らかな寝台。
湯気の名残。
そして、妙に落ち着かない空気。
ユキトは寝台の端に座って、ぼんやりと天井を見ていた。
優勝した。
告白した。
三人に受け入れられた。
頭では分かっている。
だが、実感はまだ追いつかない。
ヴォルカは窓辺で外を見ていた。
フローラはもう身支度を整えている。
ネムリアは当然のようにまだ半分寝ていた。
「……ねむい」
「知ってる」
ユキトが返した、その時だった。
扉が叩かれる。
コン、コン。
部屋の空気が、一瞬で変わる。
フローラが静かに振り返った。
「こんな時間に?」
ヴォルカも窓から離れる。
もう一度、ノック。
今度は扉の向こうから、宿の従業員らしい声がした。
「お客様」
「ご面会を求める方がお見えです」
ユキトの眉が寄る。
「誰?」
「王家の方、と名乗っておられます」
一気に空気が冷えた。
ヴォルカの顔色が変わる。
「……!」
フローラの目が細くなる。
ネムリアですら、そこでようやく片目を開けた。
「……おうぞく」
ユキトは数秒黙った。
嫌な予感しかしない。
「断れる?」
扉の向こうで、少しだけ間があった。
「すでに応接室へご案内しております」
「勝手だな……」
「恐れ入ります」
高級宿らしいやり方だった。
王家の人間を門前払いにはしない。
そして、すでに通した後なら断りづらい。
面倒だ。
しかも、かなり露骨に。
ユキトは息を吐いた。
「分かった。行く」
そう言いかけて、ふと止まる。
近距離で会う。
応接室で、真正面から。
王族相手なら、距離は近い。
視線も避けづらい。
その瞬間、嫌な方向の現実が頭に浮かんだ。
「……やばい」
ヴォルカが振り向く。
「え?」
ユキトの視線が、ヴォルカとフローラの頭へ向く。
普段なら誤魔化せる。
帽子。
髪型。
深く被ったフード。
旅の中では、それでどうにかやってきた。
視線を逸らし、俯き、近くでじろじろ見られないようにして、なんとか隠してきた。
だが今日は違う。
宿の中だ。
気が緩んでいた。
いつもみたいな隠し方が甘い。
応接室で会談すれば、近い距離で見られる。
角を隠せない。
「近くで見られたら、角がまずい」
ヴォルカが息を呑む。
フローラの目もわずかに見開いた。
ネムリアが、まだ眠そうな声で言った。
「……かくせるよ」
三人が一斉にそちらを見る。
「短い時間なら」
「幻影で」
ユキトが眉をひそめた。
「そんな重要なことなんで黙ってた?」
ネムリアは瞬きしてから、小さく答えた。
「……ねむかった」
数秒、沈黙。
ユキトは額を押さえた。
「後で説教だからな」
「……ん」
ネムリアはのそりと起き上がる。
小さく手を上げる。
魔力の流れが、かすかに揺れた。
派手な光はない。
ただ、見え方が少しずれる。
角の輪郭が、自然に髪の影へ沈んでいく。
そこにある違和感だけが、するりと視線から外れていく。
ユキトはヴォルカとフローラの正面へ回った。
一歩寄る。
角度を変える。
横からも見る。
「……見えないな」
フローラが小さく息を吐く。
「短時間とはいえ、十分ですね」
ネムリアはもう欠伸をしていた。
「……みじかいじかんだけ」
「それでいい」
ユキトは頷く。
「会談は短く切り上げる」
フローラが言う。
「当然です」
ヴォルカも、少し硬い声で続く。
「私も行きます」
ネムリアは寝台の上からゆっくり降りた。
「……いくの」
「お前も来るか?」
「……たぶん」
応接室へ向かう廊下で、ユキトはもう察していた。
これは、ただの挨拶じゃない。
相手は王族。
大会優勝の労いではないだろう、それなら昨日時点でしているはずだ。
この宿に自分の方から面会を求めてくる時点で、かなり一方的な話をしに来ているだろう。
それと同時に、もう一つ分かることがある。
向こうはたぶん、自分に失礼をさせたい。
礼を崩させて、口実を作りたい。
怒らせて、無礼を働かせたい。
王族相手に態度を誤れば、それだけで向こうは有利になる。
人間不信のユキトなりの尖った考えだった。
面倒だ。
応接室の扉が開く。
中には、若い男がいた。
上等な外套。
仕立ての良い服。
磨き上げられた靴。
そして、そこに座っているだけで、自分がこの場で一番上だと疑わない目。
その少し後ろに、護衛が二人。
男はユキトを見るなり、ゆっくりと顎を上げた。
「来たか」
その一言だけで、もう嫌いだった。
ユキトは数歩進んで止まる。
「……お待たせしました」
声は淡々としている。
礼儀は崩さない。
だが、愛想もない。
男は口元だけで笑った。
「私はアルベルト」
「この国の第三王子だ」
わざわざ名乗るあたりに、性格が出ていた。
「この国で知らぬ者はいないと思っていたが」
そこでほんの少しだけ口元を歪める。
「まあ、お前のような田舎者には仕方あるまい」
ユキトは表情を変えない。
「それで、ご用件は」
アルベルトはその返しを少しだけ不満そうに受け流し、まずヴォルカたちへ視線を向けた。
その視線の動かし方が、もう嫌だった。
見ているというより、値踏みしている。
「大会ではずいぶんと見苦しい真似をしたそうだな」
ユキトは何も言わない。
アルベルトは続ける。
「人前で女三人に同時に愛を囁くとは」
「品がない」
「しかもあれで選ばれた気になっているのだから、なお悪い」
ヴォルカの肩がぴくりと揺れる。
フローラの気配が静かに冷える。
ネムリアはぼんやりした顔でアルベルトを見ていた。
ユキトは低く言う。
「ご用件を」
アルベルトの目が細くなった。
煽っても崩れない。
それが少しだけ面白くないらしい。
「用件は簡単だ」
「お前の連れている三人についてだ」
そこまで言ってから、わざとらしく首を傾げた。
「珍しいな」
「まるで竜でも侍らせているようだ」
ユキトは表情を変えなかった。
「何のことです」
短く返す。
だが、その横で。
ヴォルカが一瞬だけ息を止める。
フローラの視線が鋭くなる。
ネムリアが少し遅れて小さく首を傾げた。
アルベルトの目だけが、わずかに笑った。
確信した。
本人は崩れない。
だが周りは揺れた。
ローブの男の情報は本当だ。
「なるほど」
アルベルトは静かに頷く。
「やはりそうか」
ユキトの胸の奥で、苛立ちが一段深くなる。
引っかかった。
俺が隠しても、三人の反応で見抜きやがった。
だがここで崩れるわけにはいかない。
アルベルトは、もう隠す気もなかった。
「なら話は早い」
「その三人をこちらへ寄越せ」
ヴォルカが目を見開く。
「え……?」
フローラが静かに言う。
「断る前提で、理由だけ伺いましょうか」
「王家で保護する」
アルベルトは当然のように言った。
「珍しい存在は、相応しい場所で管理されるべきだ」
「お前のような戦闘力1の成り上がりに抱えていていいものではない」
そして、その次だった。
アルベルトの視線が、露骨ではない程度に、だが確実に、ヴォルカたちの体をなぞった。
胸元。
腰。
顔立ち。
下品な視線ではない。
むしろ、上品ぶっていた。
高価な絵画でも見るみたいな目だった。
「見目も申し分ない」
アルベルトは何気ない口調のまま言う。
「珍しさだけでなく、観賞にも耐える」
「王家に置けば、見栄えもするだろう」
そこで、ほんのわずかに笑う。
「それに、退屈もしない」
ヴォルカの顔が強張る。
フローラの瞳は冷え切っていた。
ネムリアですら、はっきりと言った。
「……やだ」
ユキトはそこで、一歩前に出た。
大きくはない。
でも、完全に三人の前に立つ位置だった。
「……その言い方は、おやめください」
声は低い。
怒鳴っていない。
だが、抑えた苛立ちがはっきり滲んでいた。
アルベルトが片眉を上げる。
「怒っているのか?」
ユキトは短く息を吐いた。
向こうはそれを待っている。
礼を失わせたい。
その匂いがする。
だからこそ、崩れるわけにはいかない。
「彼女たちは物ではありません」
「譲る、管理する、使う――そういう話をなさる時点でおかしい」
アルベルトは薄く笑った。
「おかしい?」
「身の程を知れ。平民の分際で、しかも弱者が、何を守れるつもりでいる」
「優勝したからといって勘違いしているようだな」
「お前に守れるものなど、たかが知れている」
劣等感の芯を、正確に踏みにきた。
奥歯がきしむ。
それでもユキトは表情を崩さなかった。
「お断りします」
今度は、はっきり言った。
「彼女たちはあなたの所有物にはなりません」
「私のものでもありません」
「彼女たちは彼女たち自身の意思で、ここにいます」
その言葉に、ヴォルカの目が揺れる。
フローラも、わずかに息を止めた。
ネムリアはユキトの袖を少しだけ掴んだ。
アルベルトはしばらく黙っていたが、やがて鼻で笑った。
「聞き分けが悪いな」
「だが、今はまだ若さゆえの勘違いということにしておいてやる」
椅子から立ち上がる。
仕草一つまで癇に障るほど整っていた。
「考えが変わったら来い」
「変わりません」
ユキトが即答する。
アルベルトは振り返らなかった。
「今はそう言うだろう」
そのまま護衛を連れて去っていく。
扉が閉まる。
そこでようやく、部屋の空気が少し戻った。
最初に口を開いたのはヴォルカだった。
「……こわい」
小さな声だった。
本音だった。
フローラも静かに言う。
「諦める相手には見えませんでしたね」
「見えなかったな」
ユキトは短く答えた。
その顔は、さっきまでよりもむしろ落ち着いていた。
怒ってはいる。
だが、怒っているからこそ冷えている。
ヴォルカが不安そうに聞く。
「ど、どうしましょう……」
ユキトはすぐには答えなかった。
窓。
扉。
廊下の先。
視線だけで、一度ぐるりと周囲を確認する。
それから低く言った。
「逃げる」
ヴォルカが目を丸くする。
「え?」
「今からだ」
ユキトはきっぱりと言った。
「もう遅いかもしれない」
その一言で、部屋の空気がさらに張る。
ヴォルカが息を呑む。
「そ、そんなにですか……?」
「王族が直で来たんだぞ」
ユキトは短く返す。
「その場の思いつきで動いてる相手じゃない」
「もう宿の周りに目があると思った方がいい」
フローラがわずかに目を細めた。
「……では、今すぐ動いても間に合う保証はない、と」
「ない」
ユキトは即答した。
「でも、ここで迷ってる時間はもっと無駄だ」
そこで少しだけ顔をしかめる。
「それに」
「ローブの男」
ヴォルカの肩がびくりと揺れる。
「あ……」
「あいつか、似たような奴が売ったんだろうな」
ユキトは吐き捨てるように言う。
「一般から流れるような情報じゃない」
「でも価値はある」
「なら、売るやつはいる」
「で、そういう話を買うのはだいたいタチの悪い奴だ」
ネムリアがぼんやりと首を傾げる。
「……あの、しつこいひと」
「そう」
「前に待ち伏せされた」
「一回やられてるなら、次は読む」
それはユキトの面倒回避能力だった。
怖いものを怖いと認める。
危険なものを危険だと認める。
そして、関わる前に逃げる。
情けなく見えても、生き残るために必要な感覚だ。
ヴォルカはまだ不安そうだった。
「でも、そんなに急に動いたら怪しまれませんか?」
「怪しまれてもいい」
ユキトは即答した。
「捕まるよりマシだ」
「今ここで、まだ大丈夫かもしれないって楽観する方がまずい」
フローラが静かに頷く。
「賛成です」
「荷物をまとめましょう」
ネムリアがのそりと立ち上がる。
「……ねむい」
「寝ながらでもいいから動け」
「……うごく」
そこからは速かった。
必要なものだけをまとめる。
余計なものは捨てる。
豪遊の余韻も、上等な部屋も、今は全部切る。
ユキトは最後にもう一度だけ部屋を見回した。
柔らかい寝台。
立派な机。
広い窓。
昨日の夜は、少しだけ幸せだった。
本当は、この宿には一週間ほど泊まるつもりだった。
優勝のあとくらい、少し贅沢をしてもいいと思っていた。
告白だって済んだ。
三人とちゃんと向き合う時間も欲しかった。
金だって、そのために使った。
だから予約も取った。
この部屋も、料理も、風呂も、全部そのつもりで選んだ。
でも、それを惜しむほど自分は甘くない。
ユキトは荷物をまとめながら言った。
「お前ら三人は先に裏口へ行け」
ヴォルカが振り向く。
「え?」
「俺は一人でフロント寄る」
フローラがすぐに意図を読んだ。
「宿ですね」
「そう」
ユキトは頷く。
「今ここで四人まとめて動く方が目立つ」
「それに、まだ宿には“しばらく滞在する客”だと思わせておきたい」
ヴォルカが目を瞬かせる。
「騙すんですか……?」
「騙す」
きっぱり言った。
「昼に消えると読まれるより、まだ泊まると思わせた方がいい」
「だから俺が行く」
「お前らは裏口で待て」
ネムリアがぼんやり言う。
「……まつ」
「絶対目立つなよ」
三人が頷く。
そこで四人は分かれた。
ユキトは一人でフロントへ向かった。
歩幅はいつも通り。
早すぎず、遅すぎず。
逃げる人間には見えない速度で歩く。
支配人の前に立つ。
「すみません」
支配人が一礼する。
「ご用件を」
ユキトは財布を出した。
「もう少し延ばすかも」
支配人が目を上げる。
「と申しますと」
「一週間分、先に払っときます」
支配人が一瞬だけ言葉を失った。
「……一週間分を、今この場で」
「はい」
ユキトは平然と言う。
「昨日の優勝で金は入ったし」
「せっかくなんで、少し落ち着くかもしれない」
それは、いかにもありそうな話だった。
優勝した。
告白も済んだ。
高級宿に泊まっている。
そのまま数日余韻に浸る。
むしろ自然だ。
支配人もそう判断したらしい。
「承知いたしました」
ユキトは金貨を並べた。
一枚ずつ。
きっちり数えて置く。
自分の金で。
自分の手で。
一週間分を先払いする。
少し前までなら、こんな使い方はしなかっただろう。
だが昨夜は、本気でそういう時間を買うつもりだった。
三人と、少しだけ落ち着いた時間を過ごすつもりだった。
その金を、今は逆に使う。
支配人が金額を確認する。
「確かにお預かりいたします」
「それと」
ユキトは何でもない風を装って言った。
「今から少し街を見てきます」
「戻りが遅くなるかもしれないんで、昼食はいらないです」
「夕方までには戻ると思いますけど」
支配人は自然に頷いた。
「かしこまりました」
これで宿側の認識は残る。
まだ滞在する。
昼には戻らないかもしれない。
だが夕方には戻るつもりらしい。
少なくとも、今すぐ逃げる客には見えない。
ユキトはそれ以上説明しなかった。
聞かれない限り言わない。
聞かれても、必要以上は話さない。
そのまま金を置き、軽く手を上げる。
「じゃあ、また後で」
戻る気があるような言い方だった。
支配人も、それ以上は追及しない。
「はい。ごゆっくりお過ごしくださいませ」
ごく自然なやり取りだった。
少なくとも、宿の側から見れば。
焦らない。
走らない。
自然に歩く。
角を曲がった瞬間、空気が変わる。
そこからは速かった。
従業員用通路へ入る。
整えられた裏の廊下を抜ける。
厨房の熱気と、洗い物の音を横目に通り過ぎる。
裏口の手前で一度止まる。
音を聞く。
気配を探る。
それから扉を開けた。
外の細い路地に、三人がいた。
ヴォルカ。
フローラ。
ネムリア。
三人とも目立たない位置で待っている。
ヴォルカが息をつめたまま、ユキトを見る。
「……大丈夫でしたか」
「今のところは」
ユキトは短く答えた。
「宿にはまだ泊まるつもりだと思わせた」
フローラが静かに頷く。
「時間を稼いだのですね」
「少しだけな」
「行くぞ」
四人は裏口からそのまま細い路地へ滑り込んだ。
宿を出ても、すぐには大通りへ向かわない。
一本裏へ入る。
さらに曲がる。
人目の少ない路地を抜ける。
角の手前で止まり、先を見る。
音を聞く。
動いてから、また止まる。
ヴォルカが小声で言った。
「……そんなにですか」
「そんなに」
ユキトは短く答える。
「今の相手は、面倒の種類が違う」
「王族に、情報売りまでついてる」
「一回逃げ損ねたら、そのまま面倒が増える」
それは経験からくる言葉だった。
ただの直感じゃない。
以前、ローブの男に待ち伏せされた。
だから今回は、先に読む。
街の門が見えてきた頃には、まだ日は高かった。
門の前には普段通りの人の出入りがあった。
門番はユキトたちの顔を見て少し驚いたが、
それだけだった。
優勝者が町を出る。
珍しくはあっても、不自然というほどではない。
「もう出るのか?」
「急用」
「そうか」
それだけで通れた。
馬車もない。
大荷物もない。
いかにも旅慣れた逃げ方ではないが、その軽さが逆に目立たなかった。
こうして、ユキトたちはグランデルを抜け、この国の外へ向かった。
一方その頃。
アルベルトは屋敷の一室で、窓の外を見ていた。
昼の光が、石畳に落ちている。
高級宿を取った。
しかも一週間。
その情報は、すでに掴んでいた。
優勝したばかりの成り上がりが、昨夜の熱狂の余韻を捨ててすぐ動くとは考えにくい。
三人の女を受け入れられ、気分よく高級宿に泊まっている。
なら、少なくとも今日一日は浮かれる。
そう読むのは自然だった。
もちろん、ローブの男の忠告も聞き流していたわけではない。
――もし接触するなら、甘く見ない方がいい。
――中途半端に圧をかければ、すぐ逃げる。
――雑に囲えば、もっと厄介な形で消える。
だからこそ、アルベルトも最初から兵を動かすつもりではいた。
ただし、それは夕刻以降で十分だと判断していた。
昼に消えるはずがない。
少なくとも、普通なら。
そこへ、護衛の一人が入ってくる。
「殿下」
アルベルトは振り返らない。
「何だ」
「宿の様子ですが、現時点ではまだ戻っていないようです」
アルベルトはそれを聞いても、特に表情を変えなかった。
「街へ出たのだろう」
「はい。従業員には、夕方までには戻るような口ぶりだったと」
「なら問題ない」
むしろ自然だ。
一週間滞在予定の客が、昼のうちに少し出歩く。
それだけの話に見える。
アルベルトはそれ以上気にしなかった。
逃げるにしても夜。
動くならその時でいい。
そう判断していた。
だが。
夕方になっても、戻らなかった。
日が傾き始めた頃、先ほどの護衛が再び現れる。
今度は歩調が少しだけ早い。
「殿下」
アルベルトが視線を向ける。
「……戻っていないか」
「はい。部屋にも姿はなく、荷もありません」
「既に街を出た可能性が高いかと」
短い沈黙が落ちた。
アルベルトの目が、そこで初めて冷えた。
一週間滞在するはずの客が、
一週間分の宿代まで払い、
宿には戻るつもりだと思わせ、
その上で、昼のうちに消えている。
昼の不在だけなら、まだ珍しくもない。
高級宿に長く泊まるつもりの客が、街へ出ること自体は自然だ。
だから夕方まで待った判断は、間違いではない。
普通なら、それで足りた。
だが、あれは違った。
「……なんて奴だ」
低い声だった。
怒鳴りはしない。
だが、不機嫌と呆れが濃く滲んでいた。
臆病なくせに、損切りだけは異様に早い。
王家に圧をかけられた瞬間、予定も金も全部切って逃げる。
普通の成り上がりなら、
高級宿への未練か、優勝の余韻か、
せめて半日くらいは迷う。
だがあれは、迷わない。
弱いくせに危険だけは正確に嗅ぎ取る。
そして嗅ぎ取った瞬間、体裁も何も捨てて消える。
勇敢ではない。
だが、ああいう手合いが一番面倒だった。
護衛が問いかける。
「今から捕まえに向かいますか」
アルベルトは数秒、黙った。
今からなら、まだ完全に手遅れではない。
だが遅い。
夜に囲えば済んだはずの相手を、
読まれて半日先に逃げられた。
国境も近い。
今から兵を差し向けても、手間に対して旨味が薄い。
「……面倒だな」
小さく呟く。
惜しくはあった。
昨日見た三人は、確かに質が良かった。
珍しさも、価値も、見栄えもあった。
だが同時に、
そこまで嫌らしく逃げる相手を今から追い直すのは面倒だった。
逃げた獲物を追うために、王家の手間を増やすほどでもない。
そして何より、
アルベルトの執着は、一つの相手に長く残る種類ではなかった。
価値ある竜が手に入るなら、それでいい。
対象が入れ替わること自体には、大した抵抗がない。
そこで、ふと別の報告を思い出す。
北の山。
若い雷竜。
追跡中。
アルベルトの不機嫌は、そこで別の方向へ切り替わった。
逃がしたのは不快だ。
だが、逃げた獲物をいつまでも追う趣味はない。
価値があるなら、次を取ればいい。
そういう男だった。
アルベルトは、ゆっくりと立ち上がった。
「……まあいい」
護衛が黙って頭を下げる。
「北の山の件だ」
「若い雷竜はまだ近いな?」
「はい。あと一歩まで追い込んだと」
「ならそれでいい」
言い方が、あまりにもあっさりしていた。
昨日見た三人が惜しい。
だが、別の竜で代わりが利くならそれで構わない。
そういう割り切りだった。
「御触れを出せ」
「危険竜の討伐、あるいは捕獲」
「名目は住民保護でいい」
護衛が一礼する。
アルベルトは、もうユキトたちのことをほとんど考えていなかった。
ただ一つだけ、わずかに引っかかったのは、あの逃げ方だ。
王家の圧を受けた瞬間に、一週間分の金を払い、宿には戻るように見せかけ、その日の昼に消える。
あれは勇敢でも何でもない。
ただ、弱い人間が弱いなりに、嫌なくらい早く危険を嗅ぎ取っただけだ。
だが、その嫌らしさに執着するほど、アルベルトは一つの獲物に熱を残す男でもなかった。
逃げたなら逃げたでいい。
次を獲ればいい。
そういう男だった。
翌日。
国境を越えた先の、小さな村の食堂で。
ようやく四人は一息ついていた。
粗い木の椅子。
素朴なスープ。
焼いただけのパン。
高級宿とは比べものにならない。
けれど今は、その地味さがむしろありがたかった。
「助かった……」
ユキトがしみじみ言う。
「一週間泊まる予定の宿を翌朝のうちに金だけ払って即逃げしたの、どうなんだろうな」
「ユキトさんらしいです」
ヴォルカが言う。
「褒めてる?」
「半分くらいは」
その時だった。
食堂の隅で、旅人や鉱夫らしい男たちが、朝酒まじりに好き勝手な話をしていた。
「東の方、しばらく通らねえ方がいいらしいぞ」
「またかよ。今度は何だ」
「街が一つ閉じたとか何とか」
「戦でもあったのか?」
「いや、もっと気味の悪い話だ。急に人が倒れるだの、心臓が止まってるはずなのに、そのまま普通に歩いてただの」
「……は?」
「死んだのに店開けてたとか、家で飯食ってただとか、話がぐちゃぐちゃでな。どこまで本当か分からん」
「朝からやめろよ、そういうの」
「俺だって嫌だよ。けど荷馬車の連中まで道変えてるらしいから、全くの嘘でもなさそうだ」
「東はそんな調子で、北は北で兵が山を荒らしてる。最近どこもかしこも碌な話がねえな」
「北って、王家の狩りか?」
「ああ。珍しい獲物だとさ。今度は生け捕りたいらしい」
ユキトはスープを口に運びながら、嫌そうに眉をひそめた。
「なんだそれ。朝飯時にする話じゃないだろ」
「ですね……」
ヴォルカも小さく頷く。
少しだけ顔をしかめている。
フローラはため息まじりに言った。
「遠くの土地ほど尾ひれはつくものです。半分は誇張でしょう」
ネムリアは眠そうなまま、ぱんをちぎる。
「……きもちわるい」
「それな」
ユキトは短く返して、話を流すつもりだった。
だが。
「北のは、本当らしいぞ」
食堂の隅で、別の男が言った。
「昨日、峠越えてきた荷運びが見たってよ。兵がずいぶん上の方まで入ってるらしい」
「何追ってんだ」
「さあな。若い竜種だって話もある」
そこで、ヴォルカの手が止まった。
「竜種?」
旅人の一人が聞き返す。
「ああ。雷を吐くとか吐かねえとか、そんな話だ」
「雷竜か?」
「そうらしいってだけだ。けど王家が生け捕り狙いで動くなら、まあ珍しい獲物なんだろ」
食堂の空気はすぐに別の雑談へ流れていった。
雪が早いだの、北道は足場が悪いだの、鉱山の景気がどうだの。
どこにでもある、旅の途中の朝の会話だった。
けれど、ヴォルカだけは黙ったままだった。
その小さな変化に、ユキトは気づく。
「……ヴォルカ」
呼ばれて、ヴォルカははっとしたように顔を上げた。
「え、あ……」
うまく言葉が出ない。
けれど、その顔を見れば十分だった。
そして――
危険。
面倒。
王家が絡む。
放っておく理由なんて、いくらでもある。
それが、いつもの自分だった。
でも。
ヴォルカが小さく言う。
「あんな人に契約されたら……」
言葉が詰まる。
それでも、絞り出した。
「きっと、ひどいことになると思います」
その一言で、十分だった。
ユキトはゆっくり息を吐く。
「……行くか」
ヴォルカが顔を上げる。
「え?」
「止めに行く」
今度ははっきり言った。
フローラが静かに頷く。
「そう言うと思っていました」
ネムリアも眠そうな顔のまま言う。
「……じゃあ、いく」
ユキトは立ち上がった。
今までなら、見なかった。
でも今回は違う。
そう自分に言い聞かせるまでもなく、足はもう前に出ていた。




