黎明の刻
「――え……」
眼前には、剣先が突き付けられていた。
あとほんの拳ひとつの距離に、それはあった。今にもイリスの眼球に届きそうなその剣先からは、ポタポタと真っ赤な鮮血が滴り落ちている。
驚いて上を見上げれば、そこには苦悶の表情を浮かべるエルヴィンがいた。その左手には、まだ短剣が握られ高らかに振り上げられた状態のままだった。
だがそれも、そこまでだったようだ。すでに手に力が入らなくなったエルヴィンの左手から短剣がするりと滑り落ちる。カランカランと硬質な音を立てて、それはテラスの床を数度跳ねた。
「!」
その音で、イリスははっと我に返った。
死を覚悟していただけに、あまりにも信じ難い光景を目の前にして理解が追い付かなかったのだ。
イリスは状況を確かめるように見上げていた視線を戻す。
眼前にある剣先は、エルヴィンの胴体を貫いた。剣先から滴り落ちる鮮血は、エルヴィンのものだったのだ。
「伏せろっ!」
「っ!」
再び庭園方向からあがった号令に驚く間もなく、エルヴィン目掛けて無数の矢が飛んでくる。
すでに瀕死の状態だったエルヴィンにそれを防ぐ術もなく、飛んできた矢はそのままエルヴィンの肩や上半身に突き刺さった。
「……っ、がはっ」
口からも鮮血を吐いて、エルヴィンの身体が傾ぐ。イリスは動かない身体を無理矢理引き摺って横に避けると、そこで信じられない光景を目にした。
「……リュカ!!」
エルヴィンを背中から剣で一突きにしていたのは、瀕死の状態のリュカだった。
フラッデルに上半身を横たえ、イリスの剣を握り込んだリュカがそのままフラッデルでエルヴィンに突っ込んでいたのだ。
「……ザマ……ミ、ロ……」
「リュカっ!」
前方の床に倒れ込んだエルヴィンと共に、リュカの身体が傾きフラッデルから滑り落ちる。イリスは慌てて身体を引き摺りながらリュカの傍に寄った。
「っ!」
治療が施され包帯を巻かれていたにも関わらず、リュカの首の傷からは止めどなく血が流れ出ていた。
無理に動いたことで、傷口が開いたのだろう。リュカの頭を支えようとしたイリスの手はすぐさま真っ赤に染まった。
「なんて無茶を!!」
それまで動くことも出来なかった医療班の青年達が、慌ててリュカの下に駆け付ける。二人掛かりでリュカの身体を慎重に仰向けにすると、再び患部を圧迫して止血を始めた。
だがその焦った様子から、リュカの状態が良くないことが分かる。
「イリス!」
「怪我はっ?」
茫然と座り込んだままのイリスのところに、レオンとロイが駆けつける。
ロイは先にエルヴィンの下に向かい、もう絶命しているのを確認していた。
「イリスも早く治療を!」
真っ赤に染まったイリスの上衣を目にしてレオンが医療班を呼ぼうとするが、イリスはレオンの袖を引いてそれを止めさせた。
「……肋骨は折れているかもしれないけれど、私は大丈夫。これは全部、……リュカの血だから」
イリスの言葉に、二人が沈痛な面持ちでリュカを見遣る。この場から動かせない程の怪我だったからこそこの場で治療をしていたというのに、イリスの危機を察して、リュカは咄嗟に傍にあった剣とフラッデルで攻撃に出たのだ。
リュカの傍に剣とフラッデルがあったのは、本当に偶然だったのだろう。
この場所が、イリス達が最初に降り立った場所だったからこそレオンとロイの乗り捨てたフラッデルが置き去りになっており、先程エルヴィンがリュカを人質に取っていたのもこの場所だったため、イリスが放棄した剣がそこにあったのだ。
「でも、使い方なんて……一度しか教えてなかったのに……」
イリスの目から、一粒の涙が零れ落ちた。
それは、出会って直ぐの頃の話だ。
リュカがヴェントの町に連れを置いてきたというので探しに行くことになった際、誰のフラッデルにリュカを乗せるかで揉めたことがあったのだ。
結局はイリスが乗せて行くことで落ち着いたのだが、その時にフラッデルの操作方法を教えたことがあった。
「……」
懐かしい思い出がまるで走馬灯のように頭の中を駆け巡り、イリスの心を乱していく。このままリュカの目が覚めなかったらと思うと恐ろしかった。
「……ですから!まだ安全の確認がっ!」
「そんなことを言っている場合ではないでしょう!!」
不意に、この場に不釣り合いな女性の声が聞こえてきてイリスは顔をあげた。
聞き間違うはずのない声に、イリスは目を見開く。
「……」
その声の人物は、今回の作戦ではその立場上、後方支援にまわってもらう予定だったはずだ。
だが紛れもなく、階段を登って角を曲がりこちらに向かって駆けてくるのは、緩くウエーブの掛かった目にも鮮やかな真っ赤な髪をした壮年の女性だった。
「マルグリット、さん……」
後ろに控える騎士達が止めるのも聞かずにガラス扉を開けたその人物は、ざっと周囲を見渡してリュカの姿に僅かに目を顰めた後、隣に座るイリスを見て厳しい表情を見せた。
「何故、そんなところで蹲っているの!」
「!」
突然の叱責に頭が混乱する。だがマルグリットは後ろで慌てる騎士達に構うことなくテラスを進みイリスの隣まで来ると、その腕を掴んだ。
「まだ周囲では戦っている者達もいるのよ!彼等のために、勝鬨を上げなさい!まだ戦いは終わっていないのよ!!」
「!」
(……そうだ。エルヴィンを倒したからと言って、戦いが終わったわけじゃない)
どんなに数の上では連合国軍の有利と言っても、全部を制圧し終えているわけではない。エルヴィンを討ちとったとしても、それを知らずにまだ戦いの最中の者達もいる。
これ以上、無駄な争いは終わらせなければならなかった。
「……手を貸すわ。掴まりなさい」
立ち上がろうとして身体に力が入らない様子を察したマルグリットが、イリスの脇の下に手を入れて支えてくれる。それに体重を預け、イリスはようやく立ち上がった。
深く息を吸い、夜の空気を吸い込む。
階下の庭園からは、先程よりは少ないがまだ剣戟の音が聴こえてきている。そんな戦いの最中にある者達にも届くように、イリスは今できうる限り精一杯の声を振り絞った。
「エルヴィン皇子を討ちとった!ドルシグ兵は速やかに無駄な抵抗を止め投降せよ!……我々の勝利だ!!」
「「「おぉ!!」」」
イリスの声に呼応するように、階下の庭園のあちらこちらから声が上がる。
それはあっという間に大きなうねりとなり、大歓声となって王都中に響き渡った。
その様子をイリスを支えながら見守っていたマルグリットは、歓声が落ち着いたところでそっとイリスの身体を再びテラスの床に座らせた。
「……よくやったわ」
その一言に、イリスの瞳からは涙が零れ落ちる。
「……貴方は、……こんな前線に来るべき方ではないのに」
漸く絞り出した言葉がそれだったことに一瞬目を丸くしたマルグリットだったが、次の瞬間、ふっと鼻で嗤うと自信たっぷりに答えた。
「そこに患者がいるとわかっているのに、出向かない医者なんていないでしょう?」
涙の止まらないイリスに苦笑しその頭にポンと手を乗せたマルグリットは、今度は安心させる様に優しく微笑んだ。
「後は、任せなさい」
イリスはただ無言で、何度も首を縦に振った。
◇◇◇ ◇◇◇
医療班の診断の結果イリスはやはり肋骨が折れていたのだが、何とか人の手を借りれば動くことはできた。そのため王城の客室を利用した急ごしらえの治療室での治療と休養を進められたのだが、イリスはそれを丁重に断った。
この戦いで怪我をしたり苦しんでいる者が他にもいるのに、自分だけのうのうと休んでいることは出来なかったのだ。
それに、イリスはどうしてもテラスから離れたくなかった。
「でも、イリスちゃんも相当な重症者なことに変わりないんですからね!」
ぶつくさと文句を言いながらも、マルグリットが顔や腕の切創を盥の水で洗い流しながら手当てしてくれる。剣で切られたのかと聴かれたのでガラスに突っ込んだ際の怪我だと言ったら、「最初に言いなさい!」と物凄く怒られた。
肋骨は自然に骨が癒合するのを待つしかないので、とりあえずは太めの布で胸部を固定されている。痛みはあるものの、圧迫されていると幾分呼吸も動くのも楽になった。
動けるようにはなったが、マルグリットだけでなくレオンにもロイにも絶対安静を言い渡されたイリスは、仕方がなく事後処理を他の者達に任せリュカの傍で手術の様子を見守っていた。
やはりリュカは首の傷が深く、この場から動かすことが出来なかったのだそうだ。
なんとか縫合し終わった矢先に、この場にイリスとエルヴィンが現れたのだという。そしてリュカがイリスを助けるために動いたので再び傷口が開いてしまい、再度の縫合手術が行われていた。
脅威が去ったテラスには先程とは異なりしっかりと輸血の用意も整えられ、万全の体制でリュカの手術に全力を尽くしてくれている。
けれど、リュカの容体は芳しくないようだった。
(私のせいで……)
自責の念がぐるぐると脳内を巡っている。
だがまさかあの状態で、誰がリュカが動くことなど予想できただろうか。
エルヴィンでさえ予想外の攻撃だったからこそ、まともに致命傷を食らってしまったのだ。だがその代償は大きく、今リュカは生死の境を彷徨っている。
意識もなく、身動き一つせず横たわる姿は、まるで精巧なリュカの人形のようにすら思えた。
何も言わずじっとリュカの様子を見守るイリスに気付いて、マルグリットが短く息を吐き出すと近くにやって来た。
「……大丈夫よ。私達を誰だと思っているの?医療大国と名高いオートレア王国の医師団よ?私達を信じなさい」
マルグリットがイリスの肩を抱き寄せ、そっとイリスの手を自身の手で優しく包み込んだ。
触れられて、イリスの手に暖かさが戻る。どうやら祈るような形で組んだ両手は指先に血が巡らない程に強く握り込んでいたようで、真っ白になり冷え切っていた。
慌てて組んだ手を解けば、漸く血が指先に巡り始める。だがその指先は小刻みに震えていた。
「大丈夫、大丈夫だから。自分を責めるのは止めなさい」
マルグリットが優しくイリスを抱きしめる。イリスの顔が触れた先のマルグリットの衣服が濡れていくのを感じて、イリスは漸く自分がずっと泣いていたことに気付いた。
「……でも……」
言葉を紡ぐが、その先が続かない。
自分を責める言葉しか浮かんでこないのだが、それを口にすれば心配させてしまうことが分かっているだけに、言葉にすることが出来なかった。
そんなイリスをマルグリットは強く抱きしめると、その背中を優しく撫でた。
「いいから、大丈夫だから。今は何も心配しなくていいのよ」
(……本当は、そんなはずない)
イリスはこの国の王女だ。戦いが終わった今、やるべきこともやらなくてはならないことも山積みだ。
けれど涙が止まらない。自分のせいでリュカが死んでしまったらと思うと怖くて動くことも出来なかった。
そんな葛藤を続けるイリスの背中を、マルグリットはただ優しく撫で続けてくれていた。
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。東の空は白み始め、間もなく朝日が昇ろうとしていた。
イリスは紺色が薄くなった空から視線を移し、テラスの床を見つめる。そこは、エルヴィンが最期に倒れた場所だった。
エルヴィンの亡骸は、他の亡くなったドルシグ兵達と一緒に庭園の一か所に集められている。
事後処理に奔走しているロイの話によると、連合国軍の中にもドルシグ兵との戦いで死傷した者がいるようだった。国同士の戦いがあったのだ。被害なしなんてことは有りえないだろう。
けれどそうだと分かっていても、その事実にやりきれない想いが募る。
だが、今回様々な協力があったお陰で敵味方共に死傷者の数が少なかったのもまた事実だった。
「……」
そんなことを考えながらぼんやりとリュカの手術の様子を眺めていると、医療班の数名と何やら話をしていたマルグリットが不意にイリスを振り返った。
「!」
思わず、座り込んでいたイリスも痛みを押して立ち上がる。
マルグリットの真剣な表情にイリスが息を呑む。
だが次の瞬間、険しい顔から一転マルグリットはその相好を崩した。
「……手術は成功。命に別状はないそうよ」
「っ!!」
その言葉に、張りつめていた緊張が解ける。
イリスが思わずマルグリットに駆け寄ろうとしたその時、東の空から陽光が放射線状に放たれ、今日の陽が山際から顔を出した。
「……夜が、明ける」
振り返って眩しさに目を眇めたイリスだったが、それでも目を逸らさずにこの場に降り注ぐ暖かい陽光を見つめた。
その光景はまさに、ウィレンツィア王国そのものを表しているようだと思ったからだ。
何の前触れもなく、ウィレンツィア王国は突然暗闇に突き落とされた。そしてそこから、八年という長きに渡り闇夜は続く。
だがそんな闇夜の中でも人々は希望を見失わなかった。そうして漸く、長い長い夜が終わったのだ。
「……黎明の刻だ」
暗闇に支配されていた時は終わり、ウィレンツィア王国は今まさに、夜明けを迎えたのだ。
これにて第十一章も完結です。
この決着を書くために突き進んで参りましたが、漸く辿り着くことが出来ました。
次から最終章になります。あと三、四話で物語も終わりになる予定です。
ここまでお読みくださって本当にありがとうございました。
よろしければぜひ最後までお付き合いください。よろしくお願いします。




