目覚め
第十章に入ります。よろしくお願いします。
◇◇◇ ◇◇◇
「……」
意識がゆっくりと浮上する。それに合わせて、閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
ずっと目を閉じていたからか、視界がぼやけている。まだはっきりと周囲の景色が輪郭を結んでいないが、辺りが暗いことだけは分かった。
先程まで炎のせいで昼間のように明るかっただけに、僅かに混乱する。
「っ!イリス!目が覚めたのかっ!」
誰かが自分の顔を覗き込んで叫んでいるが、まだ視界が悪くて誰だか分からなかった。
(……イリス?)
呼び掛けられた名前にも声の主にも心当たりがなくて、少しだけ戸惑う。
しかし覗き込まれたことで気付いたこともあった。どうやら自分の身体は横になっているようなのだ。
意識をそちらに向ければ、身体にフカフカとした布団の感触がある。どうやらベッドに横たわっているようだった。
(私、掴まったの?)
逃げ切れなかったのかと思い手足を動かそうと試みる。
しかし予想に反して、手足は拘束など一切されていないようで自由に動かすことが出来た。と思ったのだが、左手だけは何かの圧があって持ち上げることが出来なかった。
だが左手を持ち上げようとしたその動きを察して、誰かの手が力強く自分の手を握った。どうやら左手が動かなかったのは、誰かの手が自分の左手を握っていたからのようだった。
「イリス、大丈夫かっ?!」
先程の人物とは別の、余裕のない不安が入り混じった声が響く。声のした距離からして、この声の主が自分の左手を握っている人物のようだった。
本来なら何者かも分からない人達に囲まれて警戒すべき場面なのだろうが、気付くと咄嗟に大丈夫だと呟いていた。
だがそれは言葉にならなかったようで、自分の耳には何の声も届かなかった。視界同様、声もまた出しにくいようだ。
口を開いたのに声が出なかったからか、左手を握っている人物が更に強く手を握ってくる。
力強くも優しく握られたその掌から、その人の体温がじんわりと伝わってきていた。どうやら心配されているようだ。
(……温かい)
何故だか分からないが、声を掛けてきた人物達は危険な人達ではない気がした。
だが安心している場合ではない。自分にはやるべきことがあるのだ。何としても逃げ延びなければならない。
(早く起きないと)
身体を起こそうとベッドに手を付こうとして、不意にその違和感に気付いた。
(手が……大きい)
明らかにベッドについた手の感覚が違くて右手を天井に向けて掲げてみれば、そこには自分の手の大きさとは明らかに違う、一回り以上大きな手があった。
訳が分からず、手の平と手の甲が見えるように交互に手を返してみるが、視界に映る手は自分が動かそうと思った通りに動いており、この手は紛れもなく自分のもののようだと受け入れる他なかった。
(……どういう、こと?)
しかし理解が追い付かず、頭が混乱する。
何度も手を握ったり開いたりして自分の意思の通りに動くかを確認するが、やはり思った通りに手は動くので、理解は出来ずとも自分の手なのだと思い知らされた。
「イリス!手が痛むの、……痛ってぇ!」
左手を握っていた人物が心配そうに声を掛けてきたのだが、ゴツッという鈍い音がしてその言葉は途中で止まってしまった。
「何すんだよっ!」
「イリスの枕元で騒ぐな、馬鹿かっ!」
「……はいはい、レオンも煩いからもう少し声を控えようね」
抗議の言葉は最初に声を掛けてきた人物によって否定されてしまった。
しかし室内にはもう一人別の人物もいたようで、後方から歩み寄りながら声を掛けてきた人物が二人の間を取り成していた。
(イリス、レオン……)
聴こえてきた人物名を心の中で復唱する。どこか聴き馴染みのある名前に、胸が酷くざわついた。
「……」
いつの間にか左手は自由になっており、掲げていた右手同様、左手もゆっくりと天井に翳してみた。
(……ああ……)
月明かりが差し込む室内は薄っすらと明るい。寝巻のような窮屈さのない簡素なシャツを着ていたようで、腕を上げたことでシャツの袖が腕を滑り降りた。
降り注ぐ月光に照らし出された白い腕は、スラリと細くしなやかでありながらも、よく見ると筋肉が程よくついている。くるりと手を返して手の平を見れば、そこには見慣れた剣だこがいくつもあった。
それは紛れもなく、小さな王女の手ではなかった。
(私は……)
天井に翳していた手で両眼を覆う。
そんなイリスの動きに気付いて、騒いでいた三人は動きを止めた。
「イリス……」
リュカが遠慮がちに声を掛けながらイリスに声を掛ける。だがその後に言葉は続かなかった。
両眼を覆ったイリスの手が、小刻みに震えていたからだ。
そして間を置かず、目元を覆う手の隙間からは涙が一筋零れ落ちた。
「ふっ……う……っ」
耐えるように引き結ばれたイリスの唇から、呑み込めなかった微かな嗚咽が漏れる。
「……」
何と声を掛けたらいいのか分からず、三人は押し黙った。
(……こんな時ぐらい、大声をあげで泣けばいいのに)
堪えるようにして涙を流すイリスが、リュカには不憫でならなかった。
今この場には、旅を共にしてきたレオンとロイ、そしてリュカしかいない。イリスには自分達にくらい、甘えて欲しかった。
イリスの苦しみを分かち合うことは出来ないかもしれないが、せめて自分達を頼っては欲しかったのだ。
けれど同時に、リュカだけでなくレオンもロイも気付いていた。
もう、イリスはサンスタシア帝国の騎士であるイリスではないのだ。イリスは過酷な運命に翻弄されながらも生き残った、ウィレンツィア王国の王女、アリスティアなのだと。
だからこそ、イリスはこんな時でも涙を見せまいと耐えているのだろう。その姿が不憫で、三人は何も声を掛けることができなかった。
「……」
そんなイリスの様子を窺いながら、リュカはそっと手を伸ばすとイリスの頭に触れた。
少しでも嫌がるような素振りがあれば勿論止めるつもりだったのだが、イリスからはそういう仕草は見られなかったので、リュカはそのままイリスの頭をゆっくりと優しく撫でた。
レオンとロイもベッドサイドに膝を付くと、そっとイリスの肩などに触れその身体を労わるようにゆっくりと撫でた。
イリスは変わらず、声を殺して泣き続けている。けれど、差し伸べた手は拒否することなく受け入れてくれていた。
三人はそのまま、黙ってイリスに寄り添い続けた。
今はそれしかできないけれど。
少しでもその苦しみが和らぐように、と願って。
◇◇◇ ◇◇◇
「気分はどう?落ち着いた?」
「はい。……ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
イリスが落ち着いたのを見計らってロイがマルグリットを呼びに行くと、すぐさまイリスの元にマルグリットが駆けつけてくれた。
一国の王妃をこんな明け方前に呼び出していいものかと三人共迷ったようだが、一応報告のためにとマルグリットの泊っている部屋の前までロイが行ったところ、何か異変があったら深夜でも声を掛けるようにとマルグリットが近衛騎士に言い含めていたようで、部屋を守っていた近衛騎士は直ぐに取り次いでくれたのだという。
「迷惑だなんて思っていないから大丈夫よ。私も心配で眠れない夜を過ごしていたから、寧ろ安心できてよかったわ」
聴診器を耳から外しながら、マルグリットが優しく微笑んだ。
簡単な診察を終え、イリスは開けていたシャツのボタンを留め直し捲っていた袖を元に戻した。
イリスの診察している間、男性陣は部屋の外に出て行ってもらっている。そのため今この部屋の中はイリスとマルグリットだけだった。
「それで、……知りたいことは思い出せたの?」
「……はい」
問いかけに、少しだけ苦しそうにイリスが微笑んだ。
患者が抱えているものや異変を見逃すと重篤な事態に発展しまうこともあるため、医師として患者の事を知ることは大事だ。
だがイリスのその表情を見て、つい医師としてその質問をしてしまったことをマルグリットは少し後悔した。
自らが封印するほどの強烈な過去を無理矢理思い出したのだ。心身には本人が思う以上の負担が掛かっている。
封印したくなるほどの過去が何だったのか、イリスが眠りについた後マルグリットも教えてもらった。それがどれほど凄惨な現場だったかなど想像に難くない。
まして、イリスは十の歳にそれを直接目の当たりにしたのだ。
しかもイリスはこれから、祖国を取り戻す為にその過去と対峙しようとするのだろう。
医師としては止めるべきだと分かっている。絶対に行かせるべきではない。それこそ元凶であるエルヴィンと対峙することは、心身に相当な負担がかかるだろう。
けれど国を背負う立場の者としては、マルグリットにはイリスの気持ちも分かった。
国民が苦しんでいるのならば、マルグリットも何があっても助けに向かうからだ。
「体調的には問題は見受けられないけれど……」
だからあえて、マルグリットはこの質問を投げかけてみることにした。
決めるのはマルグリットではなく、イリス本人なのだから――。
「……これから、どうするつもり?」
穏やかな表情から一転、マルグリットの真摯な視線に射貫かれてイリスは一瞬たじろいだ。
しかし一国の王妃として問うているのだということに気付いて、イリスも居住まいを正すとマルグリットを真っ直ぐに見つめ返し、はっきりと答えた。
「私のやるべきことを成す為に、ウィレンツィア王国へ向かいたいと思います」
その言葉は、するりとイリスの口から零れ落ちた。
(もう、迷いはない)
わざわざこのオートレア王国まで、自身の失くした記憶を、ひいては自分を取り戻すためにやって来たのだ。
自らが封印していた過去を思い出すことで、過去に打ちのめされたり、悲嘆にくれるために記憶を取り戻したわけではない。
(私は自分の意思で、ウィレンツィア王国を取り戻す)
誰かに言われたから、誰かに頼まれたからやるのではない。
確固たる自分の意思で、立ち上がるのだ。
今はまだ、ウィレンツィア王国民のためだなど崇高な想いからの決意ではないだろう。
記憶を取り戻したばかりの今は、記憶がまだ生々しく、家族を殺されたという私怨の方が圧倒的に強い。
それでも、今までのように担ぎ出されて流されるようにウィレンツィア王国奪還に加担するのとは全く心持ちが違った。
「……」
翡翠色の双眸には、もう一切の不安は見受けられない。
イリスの決意を感じて、マルグリットは短く「そう」とだけ呟くと、静かに目を伏せた。




