運命の日 5
ティアは自身を抱きしめるウィルニーナの腕を優しく撫でた。
『!』
先程までの抵抗がなくなりティアが落ち着いてきたことを感じ取っていたウィルニーナだったが、それでも悩んだのだろう。
その手には迷いが感じられたが、ウィルニーナはゆっくりとティアの口を塞いでいた手と身体を押さえていた腕を退けた。
『……』
ウィルニーナを振り返り、もう大丈夫だというように頷いて見せる。
すると何故か、ウィルニーナは余計に唇を噛み締め涙を零した。
(……心配、させてしまったわよね)
ウィルニーナの肩にそっと手を添える。それに気付いたウィルニーナは、余計に耐えられないとばかりに顔を下に向け声を殺して涙を流し続けた。
俯いたまま腕で必死に涙を拭うウィルニーナに気付かれないようにしながら、ティアはそっと後方を見遣った。
ベッドの隙間からは、相変わらず血だまりが見えていた。
今この瞬間、ティドはまだ生きているかもしれない。けれど、今ここを飛び出すわけにはいかなかった。
せっかくティドに繋いでもらった命だ。今ティアが飛び出して、誰かにその姿を見られたらティドが命を懸けてまで隠し通してくれたことが全くの無駄になってしまう。
(ごめん……)
ティアは唇をきつく引き結ぶと、ベッドの隙間から隠し通路に視線を戻した。
もしティアとティドの立場が逆だったとしたら、きっと自分はこうして欲しいだろうと思ったからだ。
敵の刃にかかりながらもまだ息があったとしても、この状況で医師に診てもらうことは難しく、助かる見込みはない。
ならば手負いの自分のことはいいから、なんとしても片割れには逃げ延びて生きて欲しいと願うだろう。
『……』
だがそうと頭では分かっていても、心は別だ。
本当は今すぐにでもこのベッドの下から飛び出して、ティドを助けたかった。
だが心のままに動くことが出来ないことを、ティアは十分すぎる程に理解していた。
先程の兵士達の話からすると、おそらくあの兵士達は今頃ティアを必死に探しているはずだ。そしてこの部屋には別の兵士達がやってきて、ティドの身体を何処かに運び出すのだろう。
ならば、最早一刻の猶予もない。時間が経つ程ティアの捜索範囲は広がり益々身動きが取れなくなってしまうし、この部屋にもいつ別の兵士達がやって来るとも知れなかった。
『……ッ』
唇を強く噛み締めすぎて、口内に僅かに血の味が滲む。
『っ、はぁ……』
ティアはまるで現実を追い出すかのように瞳を閉じると、一つ小さく息を吐いた。
そして隠し通路の方を向いて、ゆっくりと瞼を開く。
もう、後ろは振り返らなかった。
『……』
ティアは四つ這いで隠し通路まで進むと、穴の中に足から自身の身体を滑り込ませた。
その様子を目にし一瞬驚いた顔をしたウィルニーナだったが、直ぐに這いつくばって進むと、同じようにティアの後に続いて足から隠し通路の中に入った。
穴の中に入ると、そこは文字通り通路になっていた。中は真っ暗なので道の先は何も見えないが、今はベッドの下の隙間から僅かに外の明かりが入ってきているので、入り口付近の様子は少しだけ見て取ることが出来た。
『……』
隠し通路に身体を滑り込ませたウィルニーナは、中の様子に驚きつつも油断なく周囲を警戒している。
隠し通路は入り口こそ狭かったが、中は道幅は狭いものの大人が立って歩けるくらいの高さがあるので、ウィルニーナは頭をぶつけることなく立ったまま道の先に目を凝らしていた。
『ウィルニーナ、隠し通路の入り口を閉じて頂戴』
『!分かりました』
周囲を警戒していたウィルニーナに後ろからティアが小声で声を掛けると、ウィルニーナは直ぐに頷いて先程入ってきた入り口の外に手を伸ばした。
隠し通路の入り口の直ぐ脇に外した壁の一部を置いていたので、それを手に取るとウィルニーナは元あったようにそれをはめて壁を元の状態に戻した。
それに合わせて、隠し通路には一切の光が入らなくなり真っ暗な空間となる。一瞬にしてお互いの顔も見えなくなった。
『大丈夫、暫くすると少しだけ目がこの暗がりに慣れるわ』
ティアがウィルニーナの服を摘まんで引っ張りながら小声で告げる。壁を隔てたとはいえ、話声や物音などで追跡される可能性もあるので、出来る限り慎重に行動しなければならない。
暫くすると、徐々に石壁で出来た通路が何となく見えてきた。
この暗さではお互いの表情までは判別出来ないが、何とか進むことができる程度にはこの暗がりに目が慣れてきていた。
『行きましょう』
壁に手を付き歩き出したティアだったが、その歩みは直ぐに止まった。
数歩歩いたところで、ウィルニーナの足音が聴こえてこないことに気付いたのだ。
『ウィルニーナ?』
不思議に思って後ろを振り返ると、ウィルニーナは歩いておらず先程の入り口の所に佇んだままだった。
ティアとの間は数歩しか離れていないが、この暗さでは姿が闇に溶けてしまっており、その表情を窺い知ることは全く出来なかった。
『ウィルニーナ』
ティアが再び小声で声を掛けると、ウィルニーナが徐にその場に膝を付いたのが動きで何となく分かった。
『この度の事、ティア様を無事にお送りしたあかつきにはどのような処罰でも――』
『ウィルニーナ』
ウィルニーナの悲痛な声を遮り、ティアの小声だが有無を言わせない圧を含んだ声がその場に響いた。
その声に、ウィルニーナが息を呑む。
ティアはウィルニーナが黙ったのを確認すると、一つ短く息を吐いた。
『……それは私も同罪だわ』
『そんなことはっ!』
『いいえ、何もできなかった。それは同じよ』
ティアは歩み戻ると、ウィルニーナに手を伸ばした。
跪いていたウィルニーナの肩の辺りに手が触れる。するとティアは、肩口の服を掴んでそのまま上に引っ張った。
その動きで、ティアが自分を立たせようとしている事を察したウィルニーナは、ティアに負担をかけまいと抵抗することなく素早く立ち上がる。
ウィルニーナが立ち上がったことを感じ取ったティアは、再び手を伸ばして手探りでウィルニーナの手を掴むと、それを両手でぎゅっと握りしめた。
『私達は生かされたのよ。……だから、どんなに辛くとも、生き、延、びな、ければ』
ティドを犠牲にしてでも逃げると決めた以上、どんなに辛く苦しくとも、この状況から逃げ遂せなければならない。
叱責してでもウィルニーナを奮い立たせるつもりで声を掛けたティアだったが、その声は自分が思った以上に震えていて、最後の方は上手く言葉にならなかった。
『……ッ』
不安が一気に押し寄せてきて、ティアの心をあっという間に呑み込んでいく。
今の心情を表したかのようなこの真っ暗な闇の中で、ティアは一瞬にして息も出来なくなっていた。
ティドを助けたいという思いを振り切ってまで逃げると決めたのに、押し寄せる不安がどこまでもティアを追いかけて来て、逃げた先の未来など想像することも出来なかった。
『!』
だがそんな中で、繋いでいた手を強く握り返されてティアは知らず俯けていた顔を上げた。
この近さでも、ウィルニーナの表情を窺い知ることは出来ない。それでも、繋いだ手の温もりだけが、今この状況の中でも自分は独りではないということを教えてくれていた。
『今この場で弱音を吐くなど、……申し訳ありませんでした。ティア様は、必ず命に代えてもお守り致します』
それは先程までの懺悔とは違って、一切の迷いのない力強い声色だった。
『……そうね、二人で、生き延びましょうね』
不安と恐怖を煽るこの暗闇の中で、独りではないということは何よりも心強い。
ティアは繋いだ手はそのままに、ウィルニーナの手を引いて再び歩き始める。
今度はウィルニーナも足を止めることなく、ティアに続いてしっかりと歩き始めた。
(確か、こっちの方向だったはず)
二人は手を繋いだまま隠し通路を慎重に進んだ。
王城内の主要な部屋がこの隠し通路に繋がるように造られているので、途中で通路が分岐する箇所がいくつかあった。
だがこの暗がりで何も見えずとも、隠し通路内に僅かに風の流れがあるので、外の方角がどちらか迷うことはなかった。
『ウィルニーナ、おそらくもうすぐ階段よ。一度止まって』
『分かりました』
外が近いのか、風の流れがはっきりと分かるようになり暗闇に僅かに明るさが混じるようになってきたのを感じて、ティアは慎重に歩を進めた。
すると間もなく階段に辿り着く。二人は繋いだ手を離し、壁に手を付いてゆっくりと階段を降りた。
『……ありがとう、ウィルニーナ』
途中、ティアは呟くようにウィルニーナに声を掛けた。
まだ敵から逃げ切れたわけではない。寧ろ王城内から逃げ出せてもおらず、ここからが本番だろう。
しかし自分一人だったら、ここまで来ることなどできなかった。おそらく先程の部屋から動くことも出来なかっただろう。
兵士達は今必死になってティアのことを探しているはずだ。隠し通路を抜けて王城内から出れば、いつどんな危険がこの身に降りかかるとも知れない。
この先がどうなるか分からない今、ティアはあの時ベッドの下で必死に自分を押さえてくれたウィルニーナに感謝を述べた。
今しか、言う機会がないと思ったのだ。
しかしウィルニーナは不敬にも、そんなティアの言葉に返答を返すことが出来なかった。
ウィルニーナは声を押し殺し、零れ落ちそうになる涙を必死に袖口で拭い続けた。




