新米侍女
扉の外の廊下をこちらに向かって歩いてくる複数の足音を耳にして、歴史民俗学の授業を受けていたティドは隣に静かに佇んでいる教師に悟られぬよう開いていた本から柱に視線を移し、そこに掛かっている時計の針を視界の端で盗み見た。
(もうそんな時間か)
ティドとティアは二人で同じ授業を受けることもあるが、午前中はそれぞれ別々の授業を受けることが多い。
今日もティアは令嬢としての基礎やマナーなどの授業で別行動だったのだが、廊下を歩く足音の中に一つだけ軽やかな足音があることに気付いて、ティドは口元を緩めた。
ティドとティアの実父母である現ウィレンツィア王国国王と王妃、そして祖父である先代国王に兄弟はなくいずれも一粒種で、辛うじて祖母には姉がいたが他国に嫁いだためウィレンツィア王国内にティドとティアにとっての従妹や再従姉妹という存在はいない。
そのため基本的にはこの城内で、ティドとティア以外の成人前の子供に遭遇することはないに等しい。
故に大人とは違う軽い足音がするということは、ティアが授業を終えてこちらに向かって来ているので間違いないだろう。
『さて、そろそろ時間ですかな』
『はい、ありがとうございました』
教師がゆったりと教本を閉じる。落ち着いた声が室内に響き、ティドはそれに合わせて立ち上がると丁寧に一礼をした。
他の座学は若い教師もいるが、歴史民俗学の教師は現国王の教鞭も取った老齢の好々爺だ。教え方も非常に分かりやすく、また本には載っていない知識も自身の体験から教えてくれる生きた教本そのものだ。
ティドはこの老教師をとても好ましく思っていた。
それでも王子と言う立場で軽々しく臣下や己に仕える者に頭など下げるべきではない。
最初の頃は老教師もそれを何度となく諫めたのだが、『知識を与える者と、教えを乞う者。教師と生徒としては当たり前のことでしょう』とティドに言いくるめられたのだ。
侍女であれ侍従であれ、何かをしてもらえば当然のように感謝を述べ、礼節に則って礼を取る。それを日常的に誰にでも行うのがこの王子と王女だった。
だがそうした姿勢は、何も王子と王女に限ったことではなかった。どちらかと言えば、ウィレンツィア王国とはそういう風土の国であった。
ウィレンツィア王国は千年前の世界大戦以降、『世界の力』を守るという立場上、他国との過度な干渉を避け中立な立場でいなければならなかった。
そして自国を大きくすることも今以上に発展させることもできない制約もあり、結果として自ずと鎖国的な国となったのだ。
それ故、ウィレンツィア王国は実に牧歌的で家庭的な雰囲気に溢れている。
領土の端から端まで目が行き届く程の国土、顔が見えるくらいの人口数。それらは王族と国民の垣根を低くしていた。
しかし王族と国民の距離がどんなに近くなったとしても、主従関係はしっかりとある。寧ろ、この国に住む者は王族を敬い他国と比べても高い忠誠心を持っていた。
なにせ国民全員を家族のように思い一人一人が幸福であるようにと心を砕いてくれる王族なのだ。王族を、ひいては国を皆で支えようというのがウィレンツィア王国民の総意だった。
控えめに扉を叩く音がして入室の許可を出せば、予想通り近衛騎士を引き連れたティアが入室してきた。
『こんにちはロレンツ先生。もう授業は終わりまして?』
『ご機嫌麗しゅう姫様。ちょうど今終わったところですぞ』
礼をとったティアに老教師も丁寧に頭を下げる。そこまでは優雅な所作だったのだが、姿勢を戻すなりティアはギリギリ怒られない速度でティドに駆け寄ると徐にその手を取った。
『どうしたの?!』
『マリーが来ているんですって!早く行きましょう!』
驚いたティドを余所に、ティアはその腕を引いて元来た道を強引に歩き始める。語られた内容と片割れの嬉しそうな様子に、ティドは大方を察した。
『……赤ちゃんを連れてきているの?』
『おそらくね。メリザったらどうして教えてくれなかったのかしら?私も別の侍女に今し方マリーが来ているって聴いたのよ』
『ふーん……』
マリーとは二か月前に産前の為に王女付きを離れた侍女だ。そしてつい先日無事に出産した旨を自分達も聞き及んでいる。
そのマリーが城を訪ねて来ているということは赤ちゃんを連れて遊びに来たのだろうが、マリーが一報も入れずに突然訪ねてくるとは思えず、またメリザがその予定を把握していないとは考え難かった。
メリザは侍女長と並ぶ古参の侍女で、双子が産まれた時からの側仕えだ。
双子には専属の侍従や侍女が付いているが、常にメリザを教育係として他は若手が双子にあてがわれることが多かった。
マリーのように途中で妊娠出産や婚姻の為に入れ替わる者もいたが、メリザだけは変わらずにこの九年間仕えてくれている。
そのため双子の予定から服のサイズまで全てを把握しているのがメリザなのだ。
それ故マリーの来訪をメリザは知っていたと思われるが、ティアが喜びそうな予定であるのに敢えて伝えなかった意図が分からずティドは首を捻った。
『何か別件で、メリザはお父様に呼び出されているらしくて忙しいみたいよ?』
僅かに首を捻ったティドを見て、頭の中を読んだかのようにティアが疑問に対しての答えを返す。
こういうところが双子だなと思わずにはいられず、ティドは笑みを溢した。
『ふふっ、そう。ならメリザはマリーのことを教える時間はなかったかもしれないね』
納得した様子を見せたティドに安心すると、ティアは掴んだ手にさらに力を込めて引きながら目的の場所に向かって廊下を突き進む。
赤子に会うのが余程愉しみなのだろう。待ち切れないとばかりに急ぎ足の片割れに目を細めるが、ティドは内心疑問が渦巻いていた。
(メリザに何かあったんだろうか……)
いくら牧歌的な雰囲気を持つ国であり、産んだ赤子のお披露目に侍女が城を訪ねてくるような家庭的な雰囲気を持つ国でも、一介の侍女が国王直々に呼ばれる要件などそう多くはない。
眉間に皺を寄せ考えを巡らせていたティドだったが、その思考はティアの明るい声によって遮られた。
『あ!いたわ。……マリー!!』
廊下にある開け放たれた窓から身を乗り出し、中庭のに建つガゼボに向かってティアが声を掛けながら大きく手を振る。
思考を遮断されたティドが顔を上げ視線を窓の外に向けると、ガゼボの中に何人かのお仕着せを着た侍女達がたむろしており、その中心に特徴的なオレンジ色の髪をしたマリーが赤子を抱いているのが見て取れた。
ティアはティドを引っ張っていた手を離すと、近くにあるテラスの窓をくぐりガゼボに向かって駆けて行く。
決して淑女らしい振る舞いではないが、王城内の言わば身内に見せる姿はこうした実に子供らしいものだ。
小走りに駆けていく片割れの無邪気な後ろ姿を眺めながら、ティドは目を細めた。
『……失礼いたします、王子殿下』
ガゼボに間もなく到着するティアを窓越しに眺めていたティドは、不意に掛けられた声に廊下を振り返った。
『メリザ。急用で父上に呼び出されていたと聞いていたが。……そちらの方々は?』
優しい微笑みをたたえ佇むメリザの後ろには、三十代前半くらいの屈強な体躯をした王国騎士団の制服を纏った騎士と、二十代前半と思しきお仕着せを着た侍女が立っていた。
(この女性、初めて見るな……)
剣技の授業もあるティドは騎士団の練習場で訓練することもあるため、年若い訓練生も含め大方の騎士を把握している。そのため騎士の方は見知った顔だったが、侍女の方は全く見覚えが無かった。
今までメリザ以外の侍女は何度か入れ替わることがあったのだが、大体は王城内で経験を積んだ者が後任になることがほとんどで、見たこともない者をメリザが連れてくることなど初めてだった。
(このタイミングでメリザが連れてきたとなると、新しいティア付きの侍女だろうけれど……)
不信感のようなものを抱きながら、ティドは見極めるかのように侍女を見つめた。
『こちらは、本日付で新しく王子殿下と王女殿下付きになることが決まりました。近衛騎士のヴォルターと侍女のウィルニーナでございます』
二人の紹介を終えたメリザが廊下の端に身を引き、ヴォルターとウィルニーナにその場を譲る。
すかさずヴォルターが一歩前に出ると騎士の礼を取った。
『訓練場で何度かお会いしておりますが、改めまして。ヴォルターと申します。王子殿下に誠心誠意お仕えしお守りしていきたい所存であります』
ヴォルターの挨拶に、何故か後ろにいるウィルニーナが視線を彷徨わせ手を所在なく動かしているのが見えた。どうやらこうした場が不慣れで、緊張しているようだ。
しかし無情にも、ウィルニーナの番はやってくる。挨拶を終えて一歩下がり元の位置に戻ったヴォルターが隣に並び立つと、ウィルニーナは大げさなくらいにビクリと肩を跳ねさせた。
『は、初めて、じゃなくて、お、お初にお目に掛かりますっ。あ、あの……ウィルニーナと申します!よろしくお願いしますっ!』
マナー云々をすっ飛ばし勢いよく頭を下げたウィルニーナに、ティドは唖然として目を見開く。
一拍置いて状況を呑み込むと、先程抱いていた不信感が何処へ吹き飛んでおり思わず笑いが零れた。
『ふふっ、そんなにかしこまらなくてもいいよ。ヴォルターにウィルニーナだね。これから君達には沢山世話になることだろう。こちらこそよろしく』
『御意』
『えっ!ぎょ、え……はいっ!』
再び礼を取ったヴォルターを見て、慌ててウィルニーナも頭を下げる。なんと答えるべきか悩んだ末に勢いよく返事をしたウィルニーナが可笑しくて、ティドは更に声を上げて笑った。
『ははっ。……さぁ、じゃあ皆でもう一人の元へと行こうか。もう一回自己紹介が待っているけれど、大丈夫かい?』
揶揄い半分でウィルニーナを振り返ると、真正面から視線がかち合う。『へぁ!』と妙な悲鳴を上げたウィルニーナに、ティドは口元を手で押さえて笑いを堪えることになった。
『ごめんごめん、さっきも言ったけれど、そんなにかしこまらなくていいよ。お姫様もその方がお好みだろうから』
愉しそうに歩き始めたティドの後ろを、先ずは廊下の端に避けていたメリザが追従していく。
更にその後ろを、一定の間隔を開けてヴォルターとウィルニーナが続いた。
『そんなに緊張せずとも大丈夫だ』
不意に隣を歩くヴォルターの声が頭の上から降ってきて、ウィルニーナは驚いて隣を見上げた。小柄なウィルニーナと見上げる程の背丈のヴォルターでは、頭二つ分ほど違う。
『王子殿下も王女殿下もどちらも本当に立派でお優しいお人柄だ。俺達がお教え諫めねばならないような場面は無いと言っていい。寧ろこちらが学ばされることばかりだろう』
先程まで騎士らしく凛とした表情を見せていたヴォルターが、不意にニィッ、と白い歯を見せて笑んだのでウィルニーナは目をまん丸にして驚いた。
それを見たヴォルターが、尚も愉しそうに続ける。
『私達は学びの場を与えられたんだ。お互い精進しよう』
『!』
その言葉に、ウィルニーナは肩に入っていた余計な力がスッと抜けていくような気がした。
確かに侍女として足りないところばかりのウィルニーナでは王女殿下にお仕えするのは役不足だろう。けれどそれを承知で、この配置の決定はなされたのだ。
(この人の言う通りだ。きっと、私は教えられる事ばかりだろう。それをしっかり学び取りながら、誠心誠意王女殿下を御守りしよう)
決意も新たに握った拳にぐっ力を込めると、ウィルニーナは足早に前を行くヴォルターを追いかけた。




