記憶の扉
病室から国王陛下が退出した後、今度は病院の医師達がやって来てイリスは色々と診察を受けることになった。
倒れて昏睡していたことに変わりはなく、念のためにと診てもらうことをマルグリットが強く勧めたためだ。
結果としてこれといった症状もなく気を失っただけだろうと医師から正式に診断されて初めて、マルグリットは安堵したようだった。
「王宮できちんと医術を学ばせてもらったとは言え、私は薬草に詳しいだけの薬師だから」
「……」
マルグリットはそう言って笑ったが、イリスが倒れた時の対処も処置も迅速だったとこっそりリュカから聴いていた。
だから決して、マルグリットの診断が当てにならないなどということはないだろう。だが一国の王妃に対して、そんなことはないと否定するのも励ますのも何だか違う気がして、イリスは返答に困って口籠った。
「ところでイリスちゃん……ウィレンツィア王国の王女様だったのね?」
医師が退出したのを確認すると、自身が使っていた医療器具を鞄にしまいながらマルグリットが徐に話題を変えた。どうやらずっとそのことが気になっていたようで、イリスを見るマルグリットの瞳は興味津々といった感じだった。
そんな様子に苦笑しながら、イリスは血圧を測るために捲り上げていたシャツの袖を直すと肩を竦め自嘲気味に笑って見せた。
「王女様なんて止めてください。言ったように、今はまだ『かもしれない』というだけです。それに、仮にそうだったとしても、こんななりですし。『王女様』なんて呼ばれる柄じゃないですよ」
診察を受けるということで他の面々には退出してもらっていたので、医師が退出した今病室内に居るのはイリスとマルグリットだけだ。
いつもならこういう発言をすると直ぐにレオンとロイから否定の言葉が返ってくるのだが、今はそんな二人の言葉もないのでイリスは自身が思っていることを素直に吐き出した。
「もし私が王女だったとしても……『王女様』を期待していたウィレンツィア王国の人々は、こんな私を見たら失望するんじゃないかなって思います」
それはずっと、心の何処かに引っ掛かっていた小さな棘のようなものだった。
旅に出たばかりの頃からずっと気になっていたことであり、そのことをリュカに打ち明けたこともあるし、ヴォルターともそんな話になったことがある。
その度に、そのままの自分でいいのだと励まされているのだが、頭ではそれも一理あると理解はしていても、なかなか心では納得できずにいたことだった。
「そうねぇ……」
鞄に荷物を終い終わったマルグリットが、ベッドの端に腰を降ろすとイリスを振り返った。
上半身を起こしてベッドに腰掛けていたイリスと目が合うと、マルグリットは首を傾げ口角をあげてに悪戯っぽく笑った。
「じゃあイリスちゃんには、私が理想の王妃に見える?」
突然思ってもみない方向の話を振られ一瞬理解が追いつかなかったが、何を問われたのかを理解するとイリスは淀みなく答えた。
「勿論です」
「ええー?何故?」
どうやら違う答えを予想していたようで、イリスの返答が不服だと言わんばかりにマルグリットが口を曲げ不満の声を上げる。
だがイリスは確信をもって、はっきりと告げた。
「国民のために各地を回って医療行為を行うなど、普通できることではありません。心から尊敬しています」
「……そうねぇ、医師としては立派な志だけれど……でも、王妃の仕事ではないわね」
マルグリットが何を言わんとしているのかを、イリスは何となく察することが出来た。しかし納得は出来ず、語気を強める。
「ですが、国民のためを思った行為です」
「なら、国民のためを思って剣を振るうのも立派な王女様ではなくて?」
「……」
人の命を救う医術と人の命を奪う剣術では対極にあると言っていい。だが、マルグリットが何を言いたいのかは理解できた。
だがやはり、それで納得できるかと言われればそれは別の話だった。
眉間に皺を寄せ顔を顰めたイリスを見て、マルグリットはふぅ、と一つ息を吐くと優しく微笑んだ。
「ねぇ。……イリスちゃんは、どんな王女様になりたい?」
「どんな……」
考えたこともない問いかけに、返答に詰まる。
イリスは自分がウィレンツィア王国の王女かもしれないと知ってから、王女とは人々にとってどういう存在であり、どうあるべきかということばかりが気になっていた。望まれているであろう理想の王女像があるからこそ、今の自分との乖離が気掛かりだったのだ。
そんなイリスの心内を正確に読み取ったマルグリットは、安心させるかのようにゆったりと言葉を紡いだ。
「大事なのは……『どうあるべきか』という理想ではなく、『どうありたいか』という目標なんじゃないかしら?」
マルグリットがそっとイリスの手に自身の手を重ねる。
先程添えられた国王陛下の手と同じく幾つもの皺が刻まれたマルグリットの手は、国王陛下の手と同じく、温かく優しく、そっとイリスを包み込んでいた。
「ね、さっきの話と一緒よ。私だって全く王妃らしい王妃じゃないと思うわ。公務にも参加せず診察に出てばかりだし」
そこで一旦言葉を区切ると、マルグリットは優しげだった表情を消し、真剣な眼差しでイリスを見つめた。
「でも、国民の為に自分に出来ることをしたいと思ってる。その気持ちは誰にも負けないつもりよ?」
「!」
マルグリットの確固たる意志を秘めた瞳に気圧される。
自身で決断したのならば、信念を持ち揺らぐことなく貫き通すことが大事なのだと、その瞳は雄弁に語っていた。
「……」
何か言葉を返さなければと思うのだが、何と返せばいいのか分からずイリスは固まってしまう。
そんなイリスを見て、マルグリットは真剣な表情を緩めると先程とはうって変わって悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「本当は王妃なんだから、公務もしないと駄目なんだけれどね。私に出来るのは公務じゃないのよ」
「……ふふっ」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ったマルグリットに、一瞬呆気にとられる。だが次の瞬間、イリスは思わず笑い声を溢していた。
イリスがやっと笑ったのを見て、マルグリットも優しげに目を細める。
「結局のところ、王妃だろうが薬師だろうが騎士だろうが、自分に出来ることをするしかないのよ」
マルグリットの言葉がじんわりとイリスの胸の中に染み渡っていく。重ねられた手から伝わる温もりと共に、凝り固まったイリスの心を優しく解きほぐしていくようだった。
イリスはマルグリットを真っ直ぐに見つめる。その瞳にもう迷いが無いことを見て取り、マルグリットも満足気ににこりと微笑んだ。
「……王妃陛下、入室の許可を頂けますでしょうか」
「構わないわ。入って頂戴」
不意に、廊下側から扉を軽く叩く音と共に、扉の前に立っている近衛騎士から声が掛けられた。
マルグリットの表情が、それまでイリスに向けられていた柔らかなものからスッと凛々しいものへと一変する。それは正に、上に立つ者らしく凛として威厳のある佇まいだった。
「イリス!本当に大丈夫か?!」
マルグリットが扉の方に向って許可を出すと、近衛騎士によって扉が開けられるのを待ち切れないとばかりに、近衛騎士を押し退けてリュカが駆け入ってきた。
その後ろから、呆れ顔のレオンとロイが続いている。
「さっきと変わらず元気いっぱい。大丈夫だよ」
よくよく考えると、イリスは昏睡状態から目覚めたばかりであるし、先程国王陛下との会話では泣き崩れてしまっている。普段のイリスからは考えられない状態であり、心配だったのだろう。
それでも、そんなに慌てなくてもと思わなくもなくリュカの大袈裟な様子に苦笑が漏れるが、イリスはこれ以上皆に心配をかけまいと努めて明るく答えた。
最後に入室してきたロイが扉を閉めたのを確認すると、マルグリットはゆっくりと入室してきた面々を見回した。
「イリスちゃんを含め、貴方達に確認したいことがあるのだけれど……」
「……」
この部屋にいる誰もが、マルグリットが次に何を言おうとしているかおおよそ見当が付いており、室内には何とも言えない重苦しい空気が流れた。
「……皆、覚悟はあるかしら?」
その言葉に、皆に緊張が走る。マルグリットは一つ大きく息を吐いた後、イリスを振り返った。
そして視線を合わせたイリスの瞳に確固たる意志があるのを見て取ると、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は精神や心療の専門ではないけれど、おそらく今回イリスちゃんが倒れた原因は、自身で心の奥深くに閉じ込めた記憶の扉が開きかけたためよ」
(やっぱり、そう……だよね)
納得して軽く目を伏せたイリスの視界の先で、何故かリュカが肩をビクリと跳ねさせていた。
自分よりも動揺しているその姿を目の当たりにして、逆にイリスは少しだけ落ち着いてその言葉を受け止めることが出来ていた。
「おそらく、八年前にイリスちゃんが記憶を失くしたのは自身の心を守るためよ。あまりにも辛く苦しい記憶を封印することで、心が壊れるのを防いだのね」
「……」
自分でも驚くぐらい冷静にマルグリットの話を聞く事が出来ている事に、イリスは少し驚く。
そんな気がしていたとは言え、マルグリットの言葉通りなら自ら記憶を封印する程の何かがあったことになる。
その何かが何であるかを、記憶がないはずのイリスは、すでに理解しているような気がしていた。




