ニザルベリナリア
甲板から階下に降りたイリスとリュカが先程船員が言っていた部屋の扉を開けると、ちょうどレオンとロイが患者をベッドに横たえているところだった。
イリスはベッドに駆け寄ると、患者の傍にぴったりと張り付くようにしてその症状を診ていた魔女の隣に持ってきた彼女の鞄を置いた。
「ありがとう」
気配でそれを察した魔女が、小さく感謝の言葉を述べる。だがその間も、患者から目を離すことは一切なかった。
役目を終えたところでイリスが部屋をあとにしようと踵を返すと、扉の処で所在なさげに突っ立っているリュカが目に留まった。
何とか気持ちを奮い立たせてここまで付いて来ていたが、扉を潜ったところで足が止まってしまったのだろう。その場に立ち尽くしたまま微動だにしていなかった。
(患者に近寄るのは、勇気がいるよね)
ノクトがもし本当にニザルべリアに罹患しているのであれば、自分達にも間違いなく数時間後には死が訪れるのだ。怖いと思うのは当然だった。
しかしニザルベリアは同じ空間に居るだけで空気感染してしまうので、距離をとっていたとしてもそれは意味を成さないのだが、それはそれだ。できるだけ感染者から離れていたいと思うのは人間の生存本能なのかもしれない。
だがそこでリュカは、自分がウイルスで死ぬかもしれないから他人も道連れにしてやろうなどと考えるような人物ではないため、一つ息を吐き出すと船室の扉を後ろ手でゆっくりと閉めた。
この死のウイルスを船内にこれ以上広げない為だ。
そんなリュカの行動に、イリスの顔にも少しだけ笑みが戻る。仲間として誇らしかった。
「……」
一つ息を吐き出したイリスは、この船の医務室だという今いる部屋をぐるりと見回した。
この船室は船員が医務室と言っていた通り、窓際に一台のベッドが備え付けてあり、壁際には小さいながらも医療棚が設置してあった。
航海中の荒波でも倒れることがないようにと、それらの家具は釘や板を使って床や壁にしっかりと打ち付けられ固定されているようだった。
だがこの医務室にあるのは、その二つだけだ。あまりにも簡易的な医務室と言わざるを得ない。
船員も言っていたように、この船はサンスタシア帝国やドルシグ帝国といった遠くの国へ航海する船ではなく、二日もあれば辿り着く隣国のオートレア王国との定期船であるため、病人を長く看病する程の設備を整えていないようだった。
「……最初に言っておくけれど、この患者は貴方達が考えているような『死のウイルス』に感染しているわけではないわよ」
不意に発せられた声に驚いて、室内を見回していたイリスは声がした方向を勢いよく振り返った。
見ると、魔女がベッドに横たえたノクトの元から立ち上がり、耳に掛けていた聴診器を外しながらこちらを振り返ったところだった。
魔女が発した言葉の内容に、ベッドの後方に控えていたレオンがすぐさま異を唱えた。
「だがっ!」
言葉を発したレオンの方を見遣った魔女は、スッと片腕を伸ばし掌をレオンに向けてその言葉の続きを遮った。
行動を制されたことよりも、その流れるような美しい所作に一同は息を呑む。
結果として皆が口を閉ざしたのを見て、魔女はゆっくりと話し始めた。
「……この患者が感染しているのは、『ニザルベリナリア』。このウイルスに感染している蚊が媒介となって発症する、感染症よ」
「!!」
魔女の言葉に、一同は驚きを隠せなかった。
詳しい医学の知識がないので何とも言えないのだが、魔女の話しぶりだとニザルベリアとニザルベリナリアは似て非なるものだと言っているように聞こえたからだ。
(ニザルベリアとニザルベリナリアは違うウイルスなのかもしれないけれど、名前が似ているように何らかの関連性があるのかもしれない)
イリスのその疑問を、続く魔女の言葉が解決してくれた。
「千年前の世界大戦で使われた『死のウイルス』は、このニザルべリナリアウイルスを改良して造られたウイルス兵器なのよ。この患者が感染したものとは、全くの別物よ」
「けれど、症状はかなりひどい様に見受けられますが……」
やはり別物のウイルスだったようだが、そうは言ってもベッドにぐったりと横たわるノクトの息はたどたどしく、呼吸が困難な状態が続いている。
その様子を見たロイが堪らず声を上げれば、魔女は目を瞑り一つ大きく息を吐き出したあと、ゆっくりとその重い瞼を上げた。
「ウイルス兵器の元になるような感染症よ?ニザルベリナリアに感染している蚊に刺されると脳症や多臓器不全などが引き起こされることもあるから、元々致死率が高い病気なのよ」
「じゃあ!」
「でもっ!そのウイルスが見つかってから千年、人類は何もせずに手を拱いていたわけじゃない。今では赤子が生まれて直ぐにニザルべリナリアとニザルベリアに対する予防接種を受けることが義務付けられている。それでもまれに罹患する患者もいるけれど、それに対抗するワクチンも存在しているわ。……現在では罹患しても、治る病気よ」
「……」
致死率が高いという言葉に思わず反応してしまったリュカだったが、魔女に諭され口を噤んだ。
(話を聞く限り、必要以上にこの状況を怖がらなくてもいいはずなのに……)
魔女は甲板で患者を診た時から、感染しないから患者を何処かの部屋に運ぶようにと言っていた。ウイルスに感染している蚊に刺されることで罹患するのであれば、おそらくニザルベリナリアは人から人への感染はしないのだろう。
しかも稀に感染する者もいるとは言え、赤子の時に予防接種を受けることが義務付けられているということは、イリス達はウイルスに罹患しても軽症で済む可能性の方が高いということになる。しかも、現在では罹患しても治る病気だと魔女は断言していた。
これだけの安心材料が揃っているというのに、何故かイリスは自身の胸の奥にある大きな不安を払拭しきれていなかった。
「……ワクチンは存在しているが、直ぐに投薬できる状況にはない、ということか?」
相変わらず表情が硬い魔女の様子から何かを察したレオンが問えば、魔女は静かに頷いた。
「概ねその通りよ。結論から言えば、今現在ワクチンの在庫は無いけれど、材料さえあればワクチンを作ることはできる。医療大国と名高いオートレア王国と言えど、以前の罹患者が数百年前の病気の薬なんか作り置いていないのよ」
魔女はそう言うが、作られてから日数が経つと効能が消えてしまうものもあるため薬にも消費期限がある。使うか使わないか分からない薬など常備していなくても当たり前だ。
まして、直近の罹患者ですら数百年前ともなれば尚更だろう。
「ワクチンの材料は、オートレア王国内にあるのですか?」
ロイが問えば、魔女は眉間に皺を寄せ苦し気な表情を見せた。
「昔からある病だけに、そのワクチンは薬草が主で作られるものなの。私の鞄に入っている薬草の他に、もう一種類薬草があれば作ることが出来るわ。私は薬草を主とした治療の方が専門だから、物さえあれば私が作って投薬することが可能よ」
「それなら!」
「けれど!その必要な薬草が難しい場所に自生しているのよ。採取しに行こうと思っても、二日は掛かってしまう……」
口を挟んだリュカの言葉に被せるように告げられた魔女の言葉は、後半になるにつれて徐々に尻すぼみになっていった。おそらくノクトの今の症状からいって、薬草の採取に二日も掛けている猶予はないのだろう。
「薬草は何処に自生しているんですか?」
それまで黙って話を聴いていたイリスは、自身の身体の前で止めているベルトの留め金に手を掛けて背中のフラッデルを外すと片手に抱えた。
そんなイリスの姿を目にして、魔女は妙案だとばかりに顔を綻ばせた。
「そうね!フラッデルなら……でも……」
一瞬、光明が見えたとばかりに喜んだ魔女だったが、その表情から直ぐに明るさが消えて言葉を言い淀んだ。
「何か問題でも?」
レオンが問えば、魔女は深い溜息を吐いた。そんな魔女に、イリスが大丈夫だと言うようにフラッデルを抱えていない方の手で拳を作ると自身の胸を軽く叩いて見せた。
「どんな危険な場所でも任せて下さい」
その言葉に、困ったように笑いながらもロイが後押しをしてくれた。
「ここにいるイリスは、間違いなくこのラプェフェブラ大陸で一番のフラッデルの使い手でしょう。イリスを敢えて危険な目に遭わせたくはないですが、どんな場所でも恐らくは問題ないと断言できますよ」
ロイの言葉にレオンが顔を顰めるのが分かったが、イリスは敢えて無視を決め込んでその視線から逃れた。
魔女は迷っていたがロイの言葉で決断したようで、大きく頷くと真っ直ぐにイリスを見つめた。
向けられた視線に応えるようにイリスも視線を逸らさず真っ直ぐに見つめ返す。宝石のように綺麗な魔女の瞳の奥で、確固たる意志を持った炎か煌めいていた。
「分かりました。では貴方にお任せしましょう」
「勿論です」
「……ただし!」
突然声量を上げてイリスを制した魔女に、イリスは驚いて目を見開く。魔女はそんなイリスにお構いなしに、船室の扉の前に立つリュカの方へと歩き出した。
突然のことにリュカが驚いて固まっていたが、どうやら用があったのはリュカではなく部屋の入り口の扉だったようで、真っ直ぐ扉に向かって歩いてくる魔女に気付くとリュカは慌てて脇へ飛び退いた。
そうして扉の前まで来た魔女はそこでピタリと立ち止まると、ゆっくりと後方を振り返った。
「危険な道程に貴方だけを向かわせることはしません。私も同行しますから」
「えっ?」
驚いている一同を余所に、魔女は後ろ手に扉を開けるとイリス達に向かって微笑んだ。
「忙しくなるわよ」
こんな状況であるにも関わらず水を得た魚のように生き生きと動き始めた魔女は、船室をそのまま出て行ってしまった。
「……え?」
その場に取り残されたイリス達は、暫し理解が追い付かずただその場に呆然と立ち尽くすしかなかった。




