死のウイルス
魔女の言葉を聞き、流石のレオンとロイも患者を抱き上げようとしていた手が止まった。
――ニザルベリア。それは千年前の世界大戦を語る際に、欠かすことのできない伝説のウイルス兵器の名前だ。
このラプェフェブラ大陸で千年前に起こった世界大戦。それは大陸にいくつもあった国々の中でも比較的大きな力を持った国が、自国の領土を拡大しようと他国に侵攻したのが始まりだった。
突然攻め入られた国は、同盟国を頼り武力を持ってそれに対抗した。対して攻め入った国も、自国の同盟国に援助を要請し更なる武力でそれを制圧しようする。
そうして周辺諸国を巻き込んでの戦争へと発展していき、いつしかその戦争は大陸全土を巻き込んでの泥沼と化したのだ。
最終的に、世界大戦は人類の約九割が命を落とすという未曽有の結末を迎えて漸く終結する。
しかし余程のことがなければ、人類の約九割もが死滅するなどということにはならない。
何故それが成ったのかといえば、それはある国が開発した一つのウイルス兵器のせいだった。
そのウイルス兵器は感染すると、呼吸器官系に異常をきたし呼吸困難を引き起こす。そして僅か数時間後には人を死に至らしめるという脅威のウイルスだった。
感染から発病までに数時間、呼吸困難を起こしてから死に至るまでも数時間という異常な速度のために、感染が分かった時にはすでに対処のしようもなく、あっという間に命を奪う。しかも空気感染するため予防のしようもない。まさに悪魔のようなウイルスだったのだ。
そんな死のウイルスは瞬く間に敵国軍の間に広まり、ウイルスを開発した国を勝利に導いた。
だがそれだけでは終わらなかった。勝利に気を良くしたウイルスの開発国は、次々に近隣諸国に宣戦布告し始めたのだ。最初こそ近隣諸国も抵抗の姿勢を見せたが、ウイルスの開発国は容赦なく死のウイルスを相手国に蔓延させて勝利を収めていった。
その脅威をまざまざと見せつけられた諸国はウイルスの開発国に降伏するしかなくなり、ウイルスの開発国は諸国を次々と属国にして瞬く間に世界の覇権を握るに至った。
しかし、誤算はここからだった。
そもそもウイルスとは蔓延する間に少しずつ環境によって変異していくものであり、どんどん変異株が出現していく。それがある時、爆発的な感染力とより重症化しやすいものへと進化を遂げてしまったのだ。
勿論ウイルスを開発した国では、それを兵器として使用するにあたり自分達の安全確保のためにワクチンも同時に開発していた。解毒薬のない毒を扱う馬鹿はいない。
しかしそのワクチンでも効くことがない変異を、ウイルスが遂げてしまったのだ。
もともと感染力が高く感染から発病までの時間が短いこのウイルスの感染速度のせいで、あっという間にウイルスは人類を凌駕してしまう。
各国共この変異株に対抗すべくワクチンの開発に取り組むが、その圧倒的感染力の前に人類の対応は完全に後手に回った。
結果、遂に変異株に対抗するワクチンの開発に成功し、人類が死のウイルスを押さえ込む術を手に入れた時にはすでに、人類の約九割が死滅してしまっているという想像を絶する事態となっていたのだ。
生き残った僅かな人々は、この事態を重く受け止めた。
全くもって時すでに遅いのだが、人類はやっと自身が経験して初めて、戦争という人が人を殺し合う事の愚かさを痛感したのだ。
そうして人類の愚かさを身をもって体験した生き残った人々は、同じ過ちを二度と繰り返さないことを誓った。
生き残った人々が居たのは、ラプェフェブラ大陸のほぼ中央、南側を堅牢なストレアル山脈に守られ、北側には樹海が広がる難攻不落の地域だったために、最後まで戦場とならなかった場所だった。人々はそこに、新たな国「ウィレンツィア王国」を興す。
そしてウィレンツィア王国に、二度と戦争を起こさないという戒めと誓いを込めて、『世界の力』を封印した。更に、今後二度と人類が同じ過ちを犯さない為にいくつかの取り決めを行った。それが『世界平和条約』である。
そうして平和を誓い、長い年月をかけて少しずつ人類の数が増えてくると、人々は大陸中央のウィレンツィア王国から見て東西南北の四箇所に、国を興すことを決めた。その国々がそれぞれ、戦争で荒廃してしまった領土の土地を元に戻すことに尽力したのである。
一部形骸化してしまっている部分もあるとはいえ、平和という大義を机上の空論ではなく真に実現していくために、史実は千年経った今でもしっかりと語り継がれている。
故に、その殺人兵器の名前は子供でも知るところであった。
「大丈夫、触れても人から人へは感染しないからとにかく何処か部屋に運んで頂戴!」
そのウイルスの名前に一瞬戸惑って動きが止まっていたレオンとロイに向かって、魔女の怒声が飛ぶ。
その声に我に返ったレオンとロイは、伸ばしかけていた手をノクトの身体の下に差し入れると、呼吸を合わせてノクトを横たわった状態のまま抱き上げた。
「誰か!患者を寝かせられる部屋に案内してくれ!」
ノクトの上半身を持ち上げていたレオンが声を張り上げる。すると帆を張るために少し離れた処で作業をしていた船員が、気付いてこちらを振り返った。
「階段下に!廊下の右側に殆ど使われていない医務室がある!」
レオンが頷いてロイに合図を送ると、二人はノクトの身体を揺らさないように留意しながらゆっくりと歩き始めた。魔女はそれと並走するように歩きながら、着衣のボタンを緩めたり脈を図ったりと手を休めることなく診療を続けている。
そのため元々ノクトが倒れていた甲板の処には、魔女の持っていた鞄がポツンと取り残されていた。
「!」
その鞄に気付いたイリスが直ぐに拾い上げて後を追おうとすると、その腕を急に後ろから誰かに掴まれた。
イリスが驚いて振り返ると、そこには何かを耐えるように眉間に力を入れながら俯いているリュカがいた。
「……」
何も言わないが、リュカの言いたいことはイリスには痛い程分かっていた。
リュカとしては、ウィレンツィア王国の王女かもしれないイリスが死のウイルスに感染することを恐れているのだ。死んだと思っていた王女が生きていたという希望を見出したばかりなのに、ドルシグ帝国と対峙する前に再びその希望を失うのではということを恐れているのだろう。
イリスとしてはリュカの想いも分からなくはなかったが、しかしサンスタシア帝国で騎士として過ごしてきた記憶しかない今のイリスでは、病に倒れている人がいるのにその救助に尽力しないという選択肢はなかった。
「……」
腕に僅かな振動を感じて視線を向けると、イリスの腕を掴むリュカの手が震えていた。
(……そうだよね。死のウイルスなんて言われたら、誰でも怖いよね)
感染すれば数時間で人の命を奪う脅威のウイルスなのだ。常に騎士として戦いや人命救助などで人の生き死にに向き合っているイリスですら、ニザルベリアと聞いて動揺が走った。まして、人の死が身近ではないリュカならば恐れをなすのは当然だろう。
だがこの状況で戦っているのはリュカ一人ではない。ニザルべリアは空気感染するのだ。ならば、もうこの船の中に居る人は全員感染しているだろう。
だがそれでも、魔女を始めレオンとロイは患者のために力を尽くしている。船員達はニザルべリアであるという事実を知らないが、皆ノクトが助かるようにと魔女の指示に従おうと懸命だ。
「大丈夫。怖いのは、皆一緒だよ」
イリスは掴まれていない方の手で、イリスの腕を掴むリュカの手を包み込んだ。
驚いて顔を上げたリュカと目が合う。大丈夫だという想いを込めてイリスが微笑めば、リュカもぎこちないながらも笑みを返してくれた。
「……そう、だよな。……さっき医者も感染しないって言ってたしな」
少しだけ光明を見出したリュカだったが、その表情は一瞬でまた陰った。
「でももし感染するようなら……もうすでに手遅れだな」
絞り出すように呟かれたその言葉に、イリスはできるだけ冗談めかして答えた。
「そうね、そうなったら私達皆感染者ね」
わざとらしく肩を竦めたイリスを見て、少しだけリュカの表情も緩む。
呑み込まれるような不安の渦中にいたイリス自身も、リュカに声を掛けながらその実、自分自身に言い聞かせていた言葉の数々で少しだけ落ち着くことが出来たような気がした。




