オートレアの魔女
午後の柔らかい陽の光に照らされた広場は、その暖色系の色合いが醸し出す雰囲気のせいだけではなく温かな空気に包まれていた。
そこには一つのベンチを囲むように大勢の人々が集まっており、各々が石畳の上に敷物を敷いてその上に腰を降ろしたり、その辺の商店で空になった木箱を拝借してきて簡易的な椅子にして座ったりし、談笑していた。
その場に流れる空気はとても穏やかだ。人々の顔は皆笑顔だった。
「魔女先生、ありがとうございます。ほんに楽になりましたぞ」
花壇の縁石の上に直接腰を降ろしていた初老の男性が、ベンチに座った魔女を見上げて声を掛けた。
魔女は老人を振り返ると、にこやかに微笑んだ。
「いいえ。……でも、今日渡した薬草を煎じて飲んでみても咳き込みが続くようなら、ちゃんと病院を受診してくださいね」
背中の中ほどまである髪は緩く波打っており、真っ赤と言うよりは落ち着いた深緋の色合いをしている。それが通り抜けていく風にたなびくと、まるで夕日に染まる海面のようだった。
簡素な丈の長いワンピース姿の魔女は、屈託のない笑顔のせいで若く見えるが首筋や手の甲などの皺は深い。世間では、三十代にも見えなくはないという意見もあれば、五十代後半だろうという意見もあった。
オートレア王国民に慕われている魔女だが、誰もその素性を知らなかった。魔女の年齢も、その住処も知らないのだ。
ある時王都にひょっこりと現れた魔女は、知らない間に青空診療所を開催していた。その経緯を詳しく知る者さえ誰一人としていない。
勝手に医師として開業したのならば王立病院と揉めそうなものだが、何故か魔女へのお咎めは一切ない。どちらかと言うと国も魔女の行動を容認しているようだった。
魔女の得意分野が薬草を使った治療であるというのも、表立って王立病院と対立しない理由らしいという噂もあるが、真偽のほどは定かではなかった。
国の考えが下々の者にまで伝わってくることはないので、真相は不明のままだ。だが人々にとっては、それはどうでもいい事でもあった。
魔女はこうして毎日どこかの町に赴いては、青空診療所を開いてくれる。無論、この医療大国であればどの町に行っても病院は存在しているのだが、病院に行く程でもない怪我や僅かな不調というものは生活していれば往々にしてあるものである。そうした人々に寄り添ってくれるのが魔女だった。
魔女はどんな些細な症状でも真摯に向き合ってくれる。症状の治療だけではなく、その人の心に寄り添い、話を聴き、心をも救ってくれるのだ。寧ろ雑談の方が怪我の治療よりも時間が掛かることすらしばしばである。
ある時は、妻を亡くした老齢の男性の話を聴いているうちに日が暮れてしまったことがあった。
その男性は最愛の妻を失ったことで心に深い傷を負っていた。「どんな方だったんですか」と魔女に促されるままに妻の好ましい所や妻への想いを男性は切々と語った。聴いていて面白くもない話だという自覚が男性にはあったが、魔女は話を遮ることなくただ黙って静かに話に耳を傾けたのだ。
そうして魔女に話をしているうちに、男性はいつのまにか自分でも気付かなかった胸の内が口をついて出ており、話し終わる頃には自分の想いを整理することが出来ていたのだ。
彼女と同じ『治療』は、一日に何十人、何百人と患者を捌かなければならない病院に出来ることではないだろう。
日々行われるそうした治療が噂を呼び、今や魔女は何処の町でも慕われている。
無論、薬草を主とした治療も本物で、人によっては病気の初期症状であれば、病院で処方された薬よりも魔女の薬草の方が身体にとって負担が少なく効くこともあった。
そんな魔女は、出自や住居など一切の個人情報の不明、年齢不詳、見た目の美しさ、薬草を主とした治療と様々な要因が重なって、いつしか誰からともなく「魔女」と呼ばれるようになった。
魔女などと呼ばれているが、その実、皆誰しもが魔女に対して親愛と尊敬の念を抱いている。寧ろ「様」と敬称を付けて呼びたいくらいなのだが、それは大仰な呼び方を嫌う魔女に却下されたために、人々は親しみを込めて「先生」を付けて呼んでいた。
「私も、この前処方していただいた薬草がよく効いたみたいで、あれからすごく呼吸が楽になりました」
「あまり常用は良くないので、症状が緩和されたのならば一旦薬草を止めてみて、様子を診ましょう」
「二週間後にここに来るのでその時また症状を診せて下さい」と魔女は続ける。話しかけた女性も素直に頷いてその指示に従った。
治療に集中していた魔女がふと顔を上げて空を仰ぐと、陽がだいぶ傾き東の空から段々と青の色合いが濃くなってきていた。治療に来てそのまま居座っていた人々や雑談を楽しみに来ただけの人々など十数人がまだこの場に留まっていたが、そろそろこの場もお開きの頃合いだろう。
魔女がベンチからゆっくりと立ち上がる。それを合図に、周囲に居た人々も立ち上がり始めた。
「!」
その時、青色が濃くなり始めた上空で風を切る音が聴こえた。
不思議に思って空を見上げるも、その音の出所を捉えることが出来ずに魔女は視線を彷徨わせる。
しかし突如その音は音量を増し、その場に竜巻のような突風が巻き起こった。
「何っ!?」
腕を顔の前に掲げて吹き寄せる突風から身を護る。だが風が巻き起こったのは一瞬だった。
風が落ち着いたのを見計らって恐る恐る翳した腕を避けて目を眇めると、魔女の目の前にはいつ現れたのか一人の少年が立っていた。
見ると、その足元にはフラッデルがある。なるほど、今の風はフラッデルのせいで巻き起こったのかと理解するものの、どうやったらあんな竜巻のような風が起こるのか、どうやったら突然目の前に瞬間移動のように上空から降りてくることが出来るのかが魔女には分からなかった。
「あのっ!貴方が『魔女先生』でいらっしゃいますか!」
魔女は自分へと掛けられた言葉に驚いて目を見開く。
自分を探しに来た人物だったことにも驚いたのだが、それよりも少年だと思った目の前の人物の声音が、女性であることを物語っていたからだった。
「……」
魔女は目の前に突然現れたイリスに強烈に関心を抱いた。
魔女が知る限り女性でフラッデルに乗っている人物はいない。しかもまだ年若いときている。だがそれよりも、そもそも何故個人でフラッデルを所有しているのかという疑問が魔女の脳裏を駆け巡った。
フラッデルは国に数機あるかないかの貴重な機械である。目の前のイリスがオートレア王国のフラッデル部隊の騎士でないことが分かっているだけに、魔女にはイリスがフラッデルを個人所有をしていることが信じられなかった。
だがイリスのことを悠長に観察している余裕は無かった。なぜなら、異変を感じたオートレア王国の騎士達が何処からともなく現れて、イリスを取り囲み剣を構えていたからだ。
「……下がって大丈夫よ。私に用がある人みたいだから」
魔女が手を翳し騎士達に引くように伝える。すると周囲の騎士達は一瞬戸惑ったものの、再び物陰や路地裏へと身を潜めた。
その状況に、周囲にいた人々は理解が追い付かず口を開けたまま呆然としている。
(ふぅ……この場所には暫く来られないかもしれないわね)
見知らぬ人物がフラッデルを使い突然上空から舞い降りただけでも衝撃なのに、王国騎士団の面々が魔女の危険を察知して現れたかと思ったら、魔女の号令でまた身を潜めたのだ。周囲の人々に対して上手い言い訳ができる自信がなくて、魔女は短く溜息を吐いた。
案の定目の前のイリスも、状況が呑み込めず困惑の表情を浮かべている。その様子に魔女は苦笑したあと、一瞬で表情を一変させ真剣な顔つきになった。
「それで?患者はどこ?」
「っ!!み、港です。今入港したばかりの商船内で突然倒れて!」
「分かった。膝が悪くて走れないけれど、出来る限り急ぐわ」
自分を訪ねて急いでやって来た人物の用事など、病を抱えている人の治療に他ならない。
言い当てられて驚いた顔をしたイリスに構うことなく場所を問えば、港だという。ここから遠くはないが、一分一秒を争う事態でも膝を悪くしている魔女は急いで向かうことが出来ない。
とりあえずベンチの上に置いていた自身の鞄を手に抱えると、魔女はイリスの元へ歩み寄った。
だがイリスは港へと向かうような素振りは見せず、足元のフラッデルを外して持ちあげるとそれを手で起動させ腰の辺りに浮かせた。
イリスの行動の意味が分からず魔女が首を傾げていると、イリスは空中に浮いているフラッデルを魔女の方に差し出した。
「問題ありません。この上に座っていただけますか?」
示されたのはフラッデルの上だ。その言葉に魔女は顔を顰めた。
魔女はフラッデルに乗った経験が無いわけではなかった。けれどそれはとても若い時に、一度だけ乗せてもらったことがあるだけだ。
その時ですら、高所であることやその速度に恐怖を覚えた魔女は、とても今の自分ではフラッデルに乗れると思えなかったのだ。
だが躊躇う魔女を余所に、イリスはフラッデルを留めておくために胸に斜め掛けにしていたベルトを外すと、器用にベルト端を片方の手首に巻き付けて留め、反対のベルトの端をフラッデルの前部に巻き付けて固定した。
「大丈夫です。これ以上高度は上げませんし速度も出しません。この上に座っていただければ、私がお運びしますので」
心内を読んだようなイリスの言葉に魔女は目を見開く。そんなに顔に出ていただろうかと自身の頬を掌で押さえた。
しかしそんな事を考えている場合ではないと、魔女は首を振って思考を切り替えた。港では患者が医師の到着を待っているのだ。魔女は大きく息を吸い込むと、頬を押さえていた掌で軽く頬を叩いた。
肌を打つ軽い音が辺りに響く。魔女は覚悟を決めた。
「ここに座ればいいのね」
魔女の突然の行動に驚いたイリスだったが、直ぐに真剣な表情で頷いた。
それを確認して魔女は慎重にフラッデルの上に横向きに腰を下ろす。腰の高さに浮いていたフラッデルが魔女の体重で少し下に沈んだが、すぐにまた元の位置に戻った。
「身体は前方を向いて、フラッデルのどこかを手で握っていていただけますか?」
魔女は言われるがまま上半身が前を向くように直し、太腿の上に置いた鞄を片手で抱えるともう一方の手でフラッデルの端を掴んだ。
それを確認し、イリスはベルトを巻き付けた方の手でフラッデル前方のペダルに手を掛け、フラッデルの後方ペダルにもう片方の手を置いた。
ちょうどイリスの手と手の間に魔女が座っている形になり、魔女は驚いて自身の胸の辺にあるイリスの顔をまじまじと見つめた。
今から何をしようとしているのか大方の予想はついたが、フラッデルにこんな使い方が出来るなど思ってもみたことがなく、驚きを隠せなかった。
視線を感じたのか、イリスが顔を上げて魔女を見上げる。不意をつかれ、ついじっくりイリスを見てしまっていた魔女は羞恥から咄嗟に目を逸らした。
それを不安からの行動だと捉えたイリスが、魔女を安心させるように優しく微笑む。
「絶対に危険な目には遭わせないとお約束します」
そんなつもりではなかったため、イリスの真摯な言葉に魔女は恥ずかしくなり、話を逸らすべく先を急かした。
「……大丈夫よ。貴方の事を信用していないわけじゃないわ。それより早く患者の処へ」
「分かりました。では、出発しましょう」
イリスが後方ペダルに置いた手を軽く押し込むと、フラッデルがゆっくりと前進を開始した。
「行きますよ」
「!」
走り出したフラッデルに合わせて、イリスが並走する。
魔女が乗ったフラッデルは、走るイリスに合わせて物凄いスピードで路地を駆け抜けていく。
そんな状況に魔女はただただ驚くことしかできず、されるがまま港へ向けての狭い路地を突き進んだ。




