異変
天候にも恵まれ、イリス達を乗せたオートレア王国までの定期船の航海は至って順調だった。
二国間を隔てるマニラナ大河は対岸が目視できない程広大な河川であるが、そこを抜けるともうオートレア王国の国土となる陸地が眼前に広がるようになってきた。
この船はエダルシア王国とオートレア王国の二国間を結ぶ貿易の定期船であるため外洋に出ることはない。
陸地に添って航行するため波もそれほど高くなく、イリス達一行にとっては初めての船旅だったが船酔いに悩まされることなく一日目が過ぎていた。
唯一の難点としては、貿易船であるこの船は甲板も船内も所狭しと荷物が積んであるので十分に身体を動かせるような空間は無く、剣の訓練をするどころかまともに身体を動かすことも出来なかった。
そこで暇を持て余したイリス達は船員の手伝いを申し出てみたのだが、陸地と船上では勝手が違い過ぎて足手纏いになるだけだった。
結局、何もすることが無く一日目が過ぎていた。
自分の無力さを感じながら、日がな一日をぼんやりと海を眺めて過ごす。今までこんなに暇を持て余すことが無かったイリスは、この長閑な時間が逆に苦痛に感じられる程だった。
ちなみにレオンとロイもイリスと同じような感じだったのだが、リュカだけはこの有り余る時間に大いに羽を伸ばしていた。
具体的に言うと寝ているだけなのだが、よくそんなに眠れるなと思う程一日の大半をとにかく寝て過ごしていた。
(よっぽど疲れていたのかな)
そんな風に解釈してみるものの、その眠りっぷりは若干引くくらいで、いつ見ても寝ているのだ。そんなに寝ていてよく眠れるなと思うくらいである。
「イリス、リュカスは?」
そんなことを考えていたイリスに、突然後方から声が掛けられた。
船の縁に腕を乗せて過ぎていく海面をただなんとなく眺めていたイリスが振り返ると、そこにはこちらに向かって連れ立って歩いてくるレオンとロイがいた。
「……そこ」
イリスは後方を振り返り視線で指し示す。そこには、積み荷に凭れるようにして気持ち良さそうに眠るリュカがいた。
眠るなら船内に用意してもらった寝床で寝るよう声掛けたのだが、「寝床は夜に寝るところだから、今は寝床じゃないところで寝る」との謎の理論を力説され、結果リュカは甲板でのうたた寝を貪っていた。どうせ寝るなら何処でいつ寝ても一緒だと思うのだが、どうやらリュカの中では違うらしかった。
気持ち良さそうに眠るリュカを視界に捉えると、短く溜息を吐いた後レオンはイリスに向き直った。
「もうすぐサマナの港町に着くそうだ」
サマナはオートレア王国王都に一番近い港町であり、オートレア王国最大の港町だ。貿易のための商船などが寄港するのも殆どがこの港であるとの話だった。
見れば、遠くの陸地に見えていた町並みが、肉眼でその形がはっきり分かるほど近付いている。
イリス達一行はこのサマナの港で船を降り、そこからオートレア王国の王都を目指す予定だった。
「思ったよりも早かったね?」
まだ中天を過ぎたばかりの眩しい午後の日差しをイリスは仰ぎ見る。本来であればこの船は、今日の夕刻頃にサマナの港町に着く予定だったのだ。
「この風のおかげだろうね」
イリスの隣に並び立ったロイが視線を上に向けた。
ロイの視線を追って船の中央に取り付けられた立派な帆に視線を向ければ、追い風をはらんで気持ちよさそうに膨らんではためいている。この風のお陰で、航海は予定より順調なようだ。
「今日はそこで一泊?」
「そうだな。初めての土地で夜間の移動は控える」
「勿体無いがな」とレオンが最後に小さく溜息混じりに愚痴を溢した。
まだ陽が高いうちに港に着けるのであれば、そこから少しでも移動してオートレア王国の王都に近付きたいところではあるが、不慣れな土地で夜間に道に迷うことは避けたい。オートレア王国が治安的に安全だという噂は聞いているが、地方の実際の状況も不明だ。
体力的には有り余るほどではあるが、致し方無いだろう。
「そうだね。じゃあそろそろリュカを起こさないとね」
大袈裟に肩を竦めてみせてからイリスがリュカを見遣ったその時、後方で何かが倒れる大きな音と共に甲板に居合わせた船員達の悲鳴が上がった。
「うわぁぁ」
「ノクトさんっ!」
長閑だった船上が途端に騒然となる。騒ぎの方向はどうやら船の中央らしく一気に人だかりができており、ここからでは状況が確認出来なかった。
「大丈夫か!何があった!」
「意識がないぞっ!!」
「息もしていない!!」
悲鳴と怒号の合間にいくつか聞き取れる単語があったが、その言葉から逼迫した状況であることが窺えた。
「どうしたんですかっ!」
途端イリスは人だかりの方へと駆け出し、人垣を手で掻き分けながら騒動の中心を目指して進む。
人垣が割れた先に、仰向けに人が倒れていた。よく見れば、倒れていたのは昨日イリスに話しかけてきたノクトと言う名の青年だった。
「どうしたんですかっ?」
仰向けに倒れぐったりとしているノクトの横に膝を付くと、イリスはノクトの顔に耳を近付け呼吸を確認する。だが呼び掛けに応答はなく、耳を近付けても呼吸音は確認出来なかった。
イリスは直ぐ様ノクトの胸の中央に重ねた両手を置くと、胸を一定のリズムで押し始めた。
「状況はっ?」
「この船に医師は乗船していないのか?」
後方から聞こえてきたレオンとロイの声に安堵を覚えながらも、イリスはノクトの胸を押す手を緩めず絶え間ないリズムを刻む。しかし、まだノクトの心臓が動き出す気配は見えなかった。
「あんたらは……」
「俺達はサンスタシアの騎士だ。人命救助に心得もあるが、この船に医師は乗船していないのか?」
「っ、助かる!ああそうだ。二日ほどの航海だから医師は常駐させていないんだ」
船員の言葉に短く舌打ちしたレオンは、イリスと対面になるように横たわるノクトの向かいにしゃがみ込んだ。
「変わる。…三、二、一!」
号令に合わせてイリスがノクトの胸から手を離すと、タイミング良くレオンの手がそこに当てられ心臓マッサージが続けられる。
イリスは額に浮かんだ汗を袖で拭うとあがった息を整えようと深く息を吸い込んだ。
労うようにイリスの肩に手を置いたロイは、周囲に向って問いかけた。
「何が起こったんですか?」
「分からない。それまで接岸に向けて動いていたノクトさんが突然倒れたんだ」
「直前に何か変わった様子は?」
「無かったと思う。……ちょっと苦しそうに胸を押さえたと思ったら、急に倒れたんだ」
ふむ、と考える素振りを見せたロイだったが、これだけの情報では流石に医者でもない限り病名の特定は無理だった。
であれば今出来ることは一つ。医師に引き継ぐまで心臓マッサージを続け、拍動を戻すのに全力を尽くすだけだ。
「変わるよ。…三、二、一!」
膝を付いたロイは直ぐ様レオンと心臓マッサージを変わる。心臓マッサージというのは意外と力仕事なのだ。何人かで交代することが大事だった。
「あとどのぐらいで着く?」
「もう直ぐだ。十五分もあれば港につけられる」
「十五分もか……」
呼吸が止まっている時間が長ければ長い程、後遺症などのリスクが高まってしまう。できるだけ早く呼吸を回復させ、医師に診てもらうことが必要だった。
「っ、……ごほっ、っ」
「ノクトさんっ!分かりますかっ!!」
その時、急に咳き込むようにノクトの呼吸が戻った。ロイは直ぐ様心臓マッサージを止めるとノクトの顔を覗き込み表情と呼吸を確認する。
呼び掛けたイリスに微かに反応を示したものの、ノクトは再び意識を失いその目を固く閉じた。
「僅かだが呼吸が回復している。だが余談を許さない状況だ。一刻も早く医師に診てもらわないと」
ロイの言葉に周囲は息を呑む。だがここに医師はいない。
「……せめて船が港についたら直ぐに診てもらえるように、私が医師を探しておいて待機しておくのはどう?」
「それなら俺が行こう。イリスとロイは待機しててくれ」
背中のフラッデルに手を掛けたイリスを見て、その思考を読んだレオンが自分が行くとイリスのフラッデルに手を伸ばした。
確かにレオンとロイのどちらでもフラッデルを乗りこなすことが出来る。イリスでなければならない理由は無い。それにレオンとロイはこのような場面でイリスが先陣を切ることや単独で行動することを厭う傾向がある。
これは行かせて貰えないなとイリスは半ば諦め、フラッデルを持つ手を離しかけた。
しかし、意外にもその意見に異を唱える者がいた。
「いや、ここはイリスに任せよう。俺達はここでの対応に全力を尽くした方がいい」
驚いて振り返ると、未だノクトの横に膝を付き症状を確認していたロイが真剣な眼差しでレオンを見ていた。
その視線でロイの思考を察したようで、レオンも頷く。
「……そうだな。イリス、頼めるか?」
「勿論」
イリスは胸の前のベルトに手を掛けるとそれを外し、フラッデルを甲板の上に置いて足を乗せた。
「危ないので避けて下さいっ!」
フラッデルを起動させ、状況が呑み込めず呆気に取られている周囲の船員達に指示を出す。
そして飛び上がる直前、最後にもう一度イリスは未だ甲板に仰向けに横たわるノクトを振り返った。
そこにはか細い呼吸ながらも、懸命に生きようとしているノクトがいる。そしてその傍には、イリスを安心させる様に微笑むレオンとロイがいた。
「大丈夫だ。医師に診せるまで何とかしておく」
「……分かった。行ってくる」
フラッデルの後方のペダルを踏み込み、イリスは一気に加速して甲板から上空に飛び上がった。
突風のように一瞬で吹き抜けていったイリスに呆気に取られる周囲の人々の声を無視し、イリスは前だけ見据えて陸地を目指す。
「……」
なぜレオンとロイがイリスに人命救助ではなく医師探しを頼んだのか、答えは簡単だ。二人はノクトに万が一の事があった時に、イリスがその責任を感じないようにと現場から遠ざけさせたのだろう。
二人のイリスに対する過保護さに苦笑しながらも、そうならないようにするためにも今はできることに全力を尽くす必要がある。
せっかく僅かでも呼吸が回復したのだ。一刻も早く医師に診せて、ノクトには無事に助かって欲しい。
眼前に迫った町並みを目指し、イリスは尚もアクセルを目一杯踏み込んだ。




