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黎明のウィレンツィア  作者: カワシマ キオ
第八章 オートレアの魔女
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港町ディルリーノの夜

「わぁ!匂いが全く違うのね!」


 風に乗って運ばれてくる海の匂いを胸いっぱいに吸い込んだイリスは、その港町特有の空気に感嘆の溜息を漏らした。 


 エダルシア王都を出てた後は特に大きな障害もなく、二日後の夕刻には定期船が運航している港町のディルリーノに到着した。

 町は海に面して造られているようで、横に長く広がる形で発展している。街道から町の入り口に立つと左右に大通りが走り、その道沿いには様々な行商の市が立ち並んでいた。

 町並みが海岸の景色を遮っているのでまだ海を視界に捉えることは出来なかったが、潮風の匂いがその存在を如実に感じさせていた。


「予定通りであれば、サンスタシア帝国への商船の運航は明日、オートレアへの定期船の運航は明後日だ。俺とロイで港の方に行ってミュラー商会の船に話を付けてくる。リュカス、悪いがエイミアと一緒に今晩の宿を取って来てくれるか?」


 レオンがリュカに宿を探すように告げたことに驚いて、イリスとリュカは目を見合わせた。こんなことは初めてだったのだ。


 リュカの一日は早朝訓練から始まり、日中は徒歩での移動で体力を消耗し、疲労困憊の状態で夕刻を迎えるのが常だ。

 そのため夕刻に町に辿り着いたり野営の準備をすることになっても、やらなければならない用事はレオンが動き、宿や夕食の調達が必要ならばイリスやロイが動いていた。力尽きて動けないリュカに何かを頼むことなど今までなかったので、レオンのこの采配には驚きを隠せなかった。


「ああ、……まぁ、いいけど?」


 今日は早朝訓練があったとは言え平坦な道程であったし、いつもより移動距離も少なかった。体力的にはまだ余裕があるので、リュカは不思議そうな顔をしながらも断る理由もないので了承の意を返していた。

 しかし後ろを歩いていたエイミアは何かを察したようで、さっとリュカの隣に回り込むとその腕に自身の手を絡めた。


「了解!皆で過ごす最後の夜だからね。美味しい食堂もみつけといてあげる!」


 エイミアは自身の後ろに居たヴォルターを振り返ると、にこりと微笑んだ。


「じゃあ、一旦解散!一時間後にこの場所に集合ってことで。イリスはヴォルターさんと適当に時間を潰しておいてね」


 パンッと手を叩いてロイが皆へ指示を出すと、その音を合図にそれぞれが足早に目的の場所へと向かって歩き出し始めた。だがリュカだけは未だ状況がよく呑み込めていないようで、半ばエイミアに引き摺られるようにして去って行っていた。


「……」


 取り残されたイリスはその後ろ姿を呆然と見送った後、共に残された隣に立つヴォルターを見上げた。


「みんな、行っちゃいましたね。……この後どうしましょうか?」


 一時間も時間が空いてしまいイリスは困って腕を組むと首を捻った。

 ヴォルターとなら町の外に出れば軽く手合わせも出来そうだが、空には一番星が瞬き始め紺色が濃くなってきている。あまり暗くなってからの訓練はお互い怪我をする危険性もあり、避けた方がいいだろう。


「イリス様は、海を見るのを楽しみにされていたようですが?」

「そうですね、見たことがないんです。明日見るのが今から楽しみです」


 ストレアル山脈を越えて山頂付近からエダルシア王国側を見た時に、遥か遠くに朝焼けに煌めく水平線を見たことを思い出してイリスは頬を緩めた。

 そんなイリスを眺めながらヴォルターは少し逡巡するような表情を浮かべた後、控えめに切り出した。


「イリス様さえよかったら、今からでも見に行きませんか?」

「今からですか?」

「そう、今からです。特に用事もないですし、一時間も時間がありますから……どうでしょうか?」


 イリスの表情を窺うようにヴォルターが訊ねる。その瞳は、イリスに断られるのではないかという不安に揺れていた。

 二回りも歳が上であるにも関わらず、散歩の誘い一つでこんなにも不安な様子を見せるヴォルターに、イリスは思わず笑い声が零れた。


「ふふふ。そんなに心配そうに訊ねなくても。……そうですね。暇だし、行きましょうか、海」


 イリスの返答を聴いて、安堵の表情と共に顔を綻ばせたヴォルターに、イリスもつられて笑顔になる。

 思えば、イリスの意にそぐわないことは決してしないヴォルターだ。自身の意見をイリスに進言することや、その意見がイリスの意に添わないかもしれないことに対して不安があったのだろう。


(大事に……されているよなぁ)


 こんなにも大事に想われていることが、申し訳ないような、くすぐったいような気持ちでイリスは恥ずかしくなりヴォルターから顔を逸らした。


「急がないと真っ暗になっちゃいますね!早く行きましょう!」


 恥ずかしさをひた隠すようにイリスは前を向いて歩き出す。後ろからヴォルターが足取りも軽く付いて来るのを感じながら、左右に広がる大通りを横切り、南に向かって歩き始めた。



 海に沿って東西に長く伸びた町並みを横断し、南に伸びる小径を進む。歩を進めるごとに、正面から吹いてくる風が潮の匂いを運んできていた。


「!……綺麗……」


 入り組んだ住宅街を抜けると、急に視界が開け海岸沿いに出た。


 この大陸最大の貿易港だけあって、港には幾重にも船が折り重なるようにして停泊している。まだ荷の積み下ろし作業が終わっていないようで、そこかしこの船は宵闇の中にランプを灯しながら作業の真っ最中だった。

 等間隔で甲板を照らすランプの灯りはまるで船を彩る装飾品のようだ。紺碧の星空の下、漆黒に染まる船の造形をオレンジ色の焔の揺らめきが仄かに浮かび上がらせていた。

 それだけでもとても美しい光景であるのに、その灯りが海面に反射してゆらゆらとたゆたう様は、この世の景色ではないかのように幻想的だった。


「……ディルリーノは貿易港ですから、砂浜が無く海岸に降りられないのは残念です。……ですが、美しい光景ですね」

「ええ、本当に……」


 船の灯りにばかり目を奪われていたが、視線を船からその遥か先に移す。

 そこには闇を写し取ったような海面が何処までも何処までも、見渡す限り広がっていた。そしてその海面には、今昇ったばかりの月が揺らめいている。


「本当に、……とても綺麗」


 感嘆の溜息を溢したイリスに目を細めた後、横に並び立ったヴォルターは静かに切り出した。

 

「イリス様は、……運命を……ご自身が置かれた立場を、厭ったことはないですか」


 その言葉に驚いて、イリスは咄嗟に隣を見上げた。そこには真剣な表情でイリスを見つめるヴォルターがいた。

 会話の内容的に、聞かれてもいい内容なのかを迷いイリスはそっと周囲を見回す。だがこの時間帯に港に来ている者はおらず、船で作業をしている船員達は遠く船の上で仕事に邁進しておりこちらの存在に気付いてもいない。

 ヴォルターも周囲に人の気配がない事は確認済みのようで、小声ながらもはっきりとした声で言葉を続けた。

 

「本当であれば、このように綺麗なものだけを見ていていただきたかった。……その手に剣を握らせるなど、そんな苦労など、イリス様に負わせたくはありませんでした」


 その言葉を、イリスは目を逸らさずに真摯に受け止めた。そして一拍置いてから短く息を吐き出すと、見上げていたヴォルターから視線を外して月明かりを反射して煌めく海面を見つめた。


「そうですね。記憶がない今の状態であっても、ドルシグの乱なんて起こらなければ良かったのに、とは思います」


 隣でヴォルターがぐっと身体を強張らせたのが分かった。しかしイリスは構わず、真っ直ぐに前を見据えたまま続ける。


「けれど、騎士になりたいと剣を取ったのは自分の意思です。確かにここまでになるのに苦労はありました。でも……後悔はしていません」

「ですがっ!」


 前を見据えていたイリスにヴォルターが一歩詰め寄る。そんなはずはないとでも言うような必死な形相に、イリスはヴォルターを見上げ視線を合わせると、優しく微笑んだ。


「私は……蝶よ花よと育てられ、苦労も知らない子供でしたか?」

「!」


 その言葉に、ヴォルターは目を見開き言葉を失った。

 イリスに八年前以前の記憶はない。けれど記憶がなくとも、王族という責任ある立場に置かれた自分がどんな子供だったかなど、想像に難くなかった。

 それが『世界の力』を封印する役目を負ったウィレンツィア王国の王族ならば尚更だ。決して、安穏な日々の中で綺麗な物だけを見て過ごしていた訳ではないだろう。


 やはりイリスの考え通りだったようで、ヴォルターは苦々しく表情を歪めた。


「……イリス様は、年相応とは掛け離れた聡い御方でした。国のために勉学に励み、まだ公務に出られる歳ではありませんでしたが、国民の為に出来ることを考えて行動されておいででした」


 ヴォルターのあまりの褒めように苦笑が漏れる。大仰に言い過ぎだと否定したい気持ちでいっぱいだったが、そこはぐっと堪えた。


「ではこんな状況にならなくとも、いずれ様々な苦労を負ったのでは?」

「ですが!自ら剣を持ちその身を危険に晒すなど!」


 勢い良く否定したものの、一拍置いてヴォルターは俯いて視線を逸した。


「……いえ、それはイリス様を守りきることが出来なかった自分の不甲斐なさ故です……申し訳ありません」


 イリスはどこまでも愚直なかつての自身の近衛騎士を見つめる。きっといつまでもあの日の後悔が消えることはないのだろう。

 イリスはそっとヴォルターの手を取る。それに驚いて顔を上げたヴォルターと目が合った。


「さっきも言いましたが、剣を取ったのは自分の意思です。誰のせいでもありません」


 イリスの言葉に尚も抗議しようとするヴォルターを視線で制して、イリスは続けた。


「ドルシグの乱なんてなければ……世界が平和なままだったら、とは思います。ですがきっと、全てのことには意味があるのだと、そう思うんです」


 それはサンスタシアでエルヴィン皇子に追われていたリュカを助けた時から、ずっと感じていたことだった。

 

「死んだと思われていた私が生きていた。しかも、八年間もドルシグ帝国に見つかることのなかった私を見付けてくれたのは、革命軍の一員であるリュカとカインでした。……ね?運命ってあると思いませんか?」


 まるで止まっていた歯車が突然動き出したかのように、あの時全てが動き始めたのだ。

  

 イリスの言葉にヴォルターも思うところがあったようで、ぐっと押し黙る。

 しかしそうは言ったものの、運命だなどとそんな大仰で曖昧なものより、イリスには大切で護りたいものがあった。


「全てのことには意味があり、きっとそのために私は力を手に入れた。……私はこの力で、人々の生活を護りたいんです。皆が日常の中の何気ない幸せに気付けるような生活を、平和を、この手で護りたいのです」


 握っていた手を離し、視線をヴォルターから再び海面に向ける。そこには相変わらずランプの灯りに照らし出された美しい光景があった。


「だから今の私を後悔したことは、一度もないです」 


 こんな何気ない日常の一場面を綺麗だと思える平和な時を、いつまでも護り続けたい。

 そのために、そんな日常を脅かす者と戦う必要があるのならば、戦おうとイリスは思った。


「イリス様には叶いませんね……」


 海岸を見つめ微笑むイリスを見て、ヴォルターも目を細める。

 ヴォルターは一拍置いて表情を引き締めると、恭しく騎士の礼を取った。

 

「私の護衛はここまでです。来たるべき日に向けて、万全の体制を整えておくことをお約束します」


 エダルシア王国の王都へ向かう途中で出会ったヴォルターとエイミアは、エダルシア王国での用事を終えてウィレンツィア王国へ戻るところだった。

 だがヴォルターはイリスに出会った後、エダルシア王国のガルーラ国王にもう一度謁見して依頼したいことが出来たと言って、二人はイリス達に同行しエダルシア王都までやって来たのだ。

 本来そこでの用事を終えたらヴォルター達は次にサンスタシア帝国に向かう予定だったのだが、謁見したガルーラ国王が、『サンスタシア帝国に行くのであれば、共にディルリーノに向かってそこからサンスタシア行きの商船に乗船すればよいじゃろ』と言って、ヴォルターとエイミアに乗船許可をくれたのだ。

 しかも『サンスタシアの若造には儂から連絡を入れておくから気にするな』と渡航先のサンスタシア帝国側の許可も取ってくれることになり、ヴォルターとエイミアもこのディルリーノの町まで一緒に来ていたのだ。

 

 オートレア王国への船は予定通り明後日の出航だが、サンスタシア帝国行きは明日出航なので、明日にはそれぞれ別の道を進むことになる。

 一先ず今晩が、共に過ごす最後の夜だった。


「……万全の体制は嬉しいですが、無理はしないで下さいね」

「イリス様も。どうかお気を付けて」


 膝を付いていたヴォルターを立たせ、顔を見合わせ共に笑い合う。

 また一つヴォルターを知ることができたと思った途端に別れとなることをイリスは少しだけ寂しく思ったが、必ず再会することができるだろう。


 待ち合わせの時間まではまだ少し時間がある。

 イリスとヴォルターは言葉を交わすことなく、ただ黙ってこの幻想的な光景を目に焼き付けた。






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