第二節 : 信用の価値
第二節 : 信用の価値
「なんで・・・どうしてこうなった・・・」
赤竜亭に届けられた巨大な図面を見て頭を抱えていたのはエナンであった。
おやっさんが取り次いでエナンの所まで持ってきてくれたその図面は巷で噂の『ホテル・ミュリッタ』の基本設計図。そしてそこに描かれていたのは正に宮殿としか言いようのない優雅かつ壮大な建築物の姿であった。
エナンは宿屋の設計を丸投げしていた。
そもそもエナンの名前は表には出ておらず、宿屋建設の手配はおやっさんの名前で進められていた。エナンはその資金として館の資産からミスリル大金貨百枚を出資したのであった。
その時おやっさんが微妙な顔をした事をエナンは全く気が付いていなかった。はっきり言って全く見当外れの金額だったのである。
この世界の金銭感覚で言うと、貴族ではない平民でもなれるような役人の場合、エリート階級でも月給で金貨五枚か六枚程度が相場である。もちろん夏冬ボーナスなどという制度は無いし所得税も社会保険料も無いので年収にすると手取りで金貨六十枚から七十枚といったところである。ちなみに住民税、というか人頭税というものは存在するが、このカエルラでは市街区に住んでいない限り徴収されることは無い。
一応週休二日制の概念はあるので、月に二十日程度働いて金貨五枚、つまり銀貨で五百枚なら一日あたりだと銀貨二十五枚程度という事になるわけだが、一般的な庶民の労働者だとこれが銀貨三枚程度まで下がってくる。貧乏暇なしで休みなく毎日働いていてもその収入は月に金貨一枚にも満たないのだ。
つまりミスリル大金貨一枚は普通の金貨二千枚分と考えると、貧しい庶民の約170年分の賃金に相当する訳である。エリート役人の給料と比べても25年分以上である。
冒険者が泊まるような安宿を建てるだけならミスリル大金貨一枚でもお釣りが返ってくるはずだった。そこを百枚も出したエナンの勘違いにおやっさんは気が付いてはいたものの、思うところがあったため敢えて指摘する事はしなかったのである。
そしてそれはもちろんこの出資話の黒幕であるミュリッタや、実際にお金を出したアルテ本人も分かっている事であった。
彼らが本当に対価を支払おうとしていたのは『法の回復』であった。
辺境のような人のまばらな地域では、基本的に法律による束縛は存在しない。
法があっても取り締まる人手もなければ予算もないからである。
法とは国民を律すると同時に国民を守る為のものでもあるが、そもそも辺境においては国は国民を守る事すら出来ないのだ。人々の安全は自衛によって成り立っており、そこに国の支援は存在しない。だから国としてもそんな彼らに納税の義務や法の順守を求めるのは理不尽だという事を理解している。
そういう状況から国としての法はあっても、それを強制する力は存在しない。守るも守らないも個人の自由となるのである。
もちろん度を過ぎた悪行を行えばそれは中央まで知れ渡り、結果討伐というような形で法が執行される事になるわけだがそんなケースは稀である。基本的にそういう悪人に対しては地域の住民が団結して対処する事になり、荒事ともなれば冒険者や傭兵を雇って潰しに行く事が一般的である。
もちろん中途半端に手を出せば恐ろしい報復を受ける事になる危険性がある。その危険性を考えると泣き寝入りしてしまう事も多かった。だから法の守られない地域に住む人々は皆、無法者たちに日々怯えながら暮らしていた。
赤竜亭の周辺もカエルラには近くともすでにそんな無法地帯の中である。だがそこに貴族や大商人も泊まるような宿泊施設が出来ればカエルラの行政府としても周辺地域の警らを強化し治安を維持しなければいけなくなる。それは廻って、市街にも入れない貧しく弱い者達が少しだけ安心できる場所が生まれる事につながるはずであった。
だからおやっさんはエナンの勘違い、というかミュリッタに吹き込まれたその大金の出資を敢えて止めようとはしなかったのである。
そして、最初のその話に食いついたのが事もあろうにタヌキ執政官閣下であった。
もとよりおやっさんとは旧知の仲。建築や美術の専門家でもあった元宮廷彫刻家よりこの手の話に適任な人物など見つかるわけもなく、赤竜亭・・・というよりミュリッタの元に今後の再開発の方針などを打ち合わせる為に足を運んだ執政官閣下におやっさんがこの話を持ち掛けると、諸手を挙げた大歓迎と相成ったというわけである。
久しぶりに自分の本職の仕事が出来ると大いに張り切った挙句、行政府の仕事すらそっちのけで設計作業に没頭した結果わずか半月あまりで基本設計から壮大な透視図まで、膨大な量の資料を作り上げて赤竜亭に送り付けて来た次第であった。
噂では執政官閣下の弟子達が数名過労で倒れたとか倒れなかったとか。執政官閣下としては棚からぼた餅ならぬ大金が降ってきたと大喜びで、早速再開発の目玉になる大規模プロジェクトが予算付きで確定したと三徹明けのゾンビのような姿で小躍りしていたという話である。
そして、その図面の隅っこには小さく『周辺街区の美観整備のため、別途費用が必要となります』と書かれていた事にエナンはまだ気づいていない。
「こんな豪勢なホテルに冒険者が泊まれると思っているんですかね・・・どうすればいいんだ。」エナンの困り果てた顔を見ておやっさんは助言した。
「値段さえ手が届くなら冒険者だって豪勢な宿の方が嬉しいにきまってるだろう。泊まれる値段まで価格を下げればいいんだよ、オーナーはお前だろうが。」
「赤字経営まっしぐらですね・・・それ。」
「あのな、全ての部屋を安くしろって言っている訳じゃねぇ。高い部屋でしっかり利益を出して安い部屋の赤字を相殺すればいいだけだろう。そっちのほうが単なる安宿を提供するよりよっぽど安定するぞ。大体こんな市街の外のホテルなんぞ安くなければ泊まる理由がねぇ。同じグレードの市街区内の宿より一段低い価格に設定しなきゃそもそも客なんて来ないぞ。」
「いや、他の宿と競争するつもりなんてなかったんですけどね。赤竜亭で寝泊まりしている人達がベッドで休めるようにしてあげたかっただけなんですけど。」
それは分かっている。エナンがおやっさんに対する恩返しとしてこの宿を作る事を思いついた事は。その気遣いはおやっさんにとっても嬉しく、そして有難い事でもあった。だがおやっさんはそれが単なる夢物語でしかないという現実の厳しさも身をもって知っていた。
法に守られぬ世界だからこそ、ここでの商売というのは信用が全てなのである。赤竜亭とてその信用を勝ち得たからこそ今ここにある。
それは店だけでなく『客』の信用もなければいけないという事であった。どこの誰とも知れぬ流れ者を泊める宿などこんな場所では成り立つわけが無い事をおやっさんは十分すぎる位に分かっていた。盗賊、暴漢、詐欺師などなど、そんな連中を相手にしてまっとうな宿屋が成り立つはずもない。たちまち殺されて売り上げを奪われるか、無法者のたまり場になって奴隷のようにこき使われるか、どの道まともな結末にはなりはしないのだ。
赤竜亭のように実力でそんな輩を制裁する裁定者のような存在でもいない限り、まっとうな商売などここでは望む事はできないのである。エナンは赤竜亭の冒険者達が相手であれば大丈夫だと考えているようだが、それは単なる銀翼や赤竜亭というルールにただ乗りしただけでしかない。
もし赤竜亭の事を知らない流れの悪党にでも目を付けられれば一夜にして惨劇の舞台になってしまうかもしれない。そうなってはいくら後悔しても遅いのだ。実際、カエルラの城門前あたりには宿屋がないわけではないがそこには常にごつい用心棒の姿あった。それでも盗みや暴力沙汰は日常茶飯事なので客は自分で身を守るのが当たり前であった。
だがこの計画ほどの規模があれば当然ホテル自身の警備も整えられ、さらには周辺地域での官憲の配備や巡回も行われるようになる。悪党が闊歩するような場所ではなくなるのだ。
するとこの地には悪行を嫌う善良な人々が集まり生活を始める。そうしてまともな人々の社会が築かれていくのだ。もちろんおやっさんと赤竜亭の冒険者達もそのためには協力を惜しむ事はないだろう。そうして積み上げられていった営みの結果、この場所そのものが信用されるようになっていくのだ。
そして、それはこの地に暮らす全ての人々にとってかけがえのない恩恵となるのである。
エナンはもうひよっこではない。強大な力を手にした知られざる実力者だ。
おそらくはミュリッタの嬢ちゃんがエナンの裏で糸を引いているのは予想がつくが、始まりの一石を投じるだけの責務と実力がすでにエナンには備わっている・・・はず。ちょっと頼りないんだけどな。
おやっさんはまともな国に住めるという有難さを身をもって知っている。そしてそれはそこに住む全ての人々が自らの手で築いていくものだという事も。
居場所が欲しいなら自分で作れ。それがおやっさんの信念であった。
「エナン、こういう言い方はずるいかもしれんがこれが実現すれば市外に住む沢山の人達がまっとうな仕事につけるようになる。カエルラの冒険者達もホテルの警備や沿道の巡回なんかのまっとうな仕事が増える。治安が回復しここらへん一帯が今よりもずっと暮らしやすくなるだろう。お前にはそれが出来るんだ、いつまでも自分の小さな世界に引きこもるな、もっと大きなものを見て生きろ。」
ミュリッタが望んでいるのであろうエナンの成長、その背中を押すようにおやっさんはエナンを諭す。そんなおやっさんの言葉はエナンには、かつてエナンを救い育ててくれた親方の言葉のように聞こえたのだった。
「わかりました! 一旦持ち帰ってみんなとも相談してみます。」その言葉に何かふっきれたようにエナンは笑うと図面をまとめて席を立った。
「シチュー、ごちそうさまでした!」
そう言って一礼するとエナンは傍らの客間の隅に作られた小さな転送魔方陣に消えた。
アルテの手料理を食べられるようになった今でも毎日のように赤竜亭にシチューを食べに来ているエナンだった。




