第五十六節 : 大賢者ミュリッタ
第五十六節 : 大賢者ミュリッタ
再びミュリッタの守護の魔法が戦いへと赴く者達を包み込んだ。エナンから始まったこの戦い、エナンの為にも誰一人として犠牲は出せない。それはミュリッタにとって決して譲ることの出来ない勝利条件だった。
全身全霊を込めて練り上げた対邪神戦用守護魔法を発動すると同時に、広範囲に魔力を拡散し索敵を開始する。
「見つけた・・・伯爵!!フォルセリア!! 邪神を捕捉、南南東4キロメートル。レタリス川の水中よ!!」拡声されたミュリッタの声が全軍に情報を伝達すると、伯爵とフォルセリアは間髪をおかず同じ指示を麾下の部隊に出す。
「全軍前進!! カエルラから出来るだけ距離を取って迎え撃つぞ!」
「先行するわ、彼らの指揮は任せるから前に出すぎないようにだけ気を付けて。」
ミュリッタはそう言い残すと浮遊の魔法で空に飛び去った。
すると進行方向の空中に照明を兼ねた対死霊用光魔術の光球がいくつも炸裂する。そこが想定される会敵地点だというメッセージである。
その光を目印にフォルセリア達は地上から予想地点へと進軍する。
一方、ミュリッタは戦場を有利にするために光球をばら撒きながら更に前進を続けていた。
邪神がレタリス川から現れるのは実のところ想定内であった。
『死を呼ぶ川』と恐れられたレタリス川は言うなれば自然界に存在する死と恐怖の象徴である。死と恐怖の象徴たる邪神が復活する為の憑代にされないほうが不自然な位なのだ。むしろ邪神はレタリス川という存在に同化して力を蓄えてきたのではないかとミュリッタは考察していた。
それは邪神のほぼ真実に迫る予測だった。
かつて大天使ノアルに象徴たる力の源泉である冥界の門を奪われた邪神が、魂の大半を吹き飛ばされて尚その存在を保てた理由、それはその冥界の門の真上に存在していたレタリス川の象徴の力に同化・・・というより寄生する事が出来た為だった。
その経緯をミュリッタは知らない。だが、早々に邪神をレタリス川から引き離さなければ厄介な事になるであろうことは予測していた。
多くの人々から死と恐怖の象徴とされているレタリス川の存在力はむしろ邪神そのものよりも強大な力を秘めている可能性が否定出来なかったからである。もし顕現した邪神がその存在としての力を取り込むような事になれば、冥界のみならずこの現世にも根を下ろした『現世に実体を持った神』へと変貌する事になりかねなかった。
その想定される最悪の事態だけは何としても防がねばならない。
時間は邪神に味方する。今のミュリッタには更に前へ進む以外の選択肢は無かった。
だが・・・
ルゥの残した神託には邪神を葬る事は記されていたが、ミュリッタが生き延びる事出来るなどという事は一言も記されてはいなかった。
どうせならアルテュストネが言ったように邪神を倒す役目を担ったのが彼女の方であれば良かったのに。それならその先の幸せな日々まで神託は保証していたのだから。
だってあの神託は『アルテが幸せになる為にはどうしたら良いか』を問うた物だったのだから。
そこにはミュリッタが幸せになるなどとは一言も書いていない。いや、そもそもミュリッタが死んだところでどうでも良いのである。それがアルテの不幸につながらなければ。自分が生きていたほうがアルテにとって幸せか、そう考えただけで自信が無くなってしまうミュリッタであった。
たった一人で邪神に挑もうとしている今、考えないようにしていた不安が目を覚まし急激にミュリッタの中で膨れ上がっていく。
気が付いた時にはエナンのペンダントに語り掛けていた。
「エナン・・・大丈夫?」
魔力の波動で伝わってきたミュリッタの声は泣きそうだった。
驚いたエナンはペンダントを握りしめ、必死に語りかけた。
「ミュリッタ・・・ちゃん? どうしたの? そっちこそ大丈夫なの?!」
その声を聞いてミュリッタは、はぁ・・・と大きく息をした。
「うん・・・エナン、ガルドーを倒したんだね。格好良かったよ。」
「見えてたんだ。うん、なんか倒せちゃったみたい。」
「エナンなら当然だよ。だって本当はエナンは私なんかよりずっと強いんだから。」
「え? そんなことあるわけないって。運が良かっただけだよ、多分。」
「ふふふ、運で勝っちゃったの? すごいね。」
他愛のない会話が続く。
違う、そうじゃない。言わなければいけない事があるのに。
でもそんな他愛のない会話がミュリッタの心を癒してくれた。エナンの声が聞けた、それだけで一つ心残りが消えていった。
この穏やかな時間に埋もれてしまいたい。そんな未練を振りはらって言葉を絞り出した。
「あのね・・・邪神が復活しちゃったの。」
「さっきすごい嫌な感じがしたのはそれだったんだね。ミュリッタちゃんは大丈夫なの?」
「うん、大丈夫・・・これから倒しにいくね。」
「えっ!! 駄目だよ、絶対危ないって!!」
「大丈夫だって。神託にだってちゃんと倒せるって書いてあったんだから。」
「そんな・・・でも!」
「・・・エナン?」
「・・・何?」
「エナン、愛してるよ。絶対幸せになってね。」
弱弱しく、儚げな愛の告白。エナンはその言葉の響きにミュリッタの死相を感じ取ったのだった。
思わずペンダントに向かって絶叫していた。
「だめだ!! 諦めたら駄目だ!!」
頭に血が上り世界が緋色に染まる。
「足掻け! あがくんだろ?! そう教えて助けてくれたのはミュリッタちゃんじゃないか!!」
死地に赴こうとしているミュリッタの姿がアルテのお爺さん、魔導皇帝ルゥの姿に重なって見えた。
「魔導皇帝ルゥだって言ってた! 自ら命を諦めるような真似はしない、精一杯足掻いてみせるって!!だから・・・だからっ!!!」
ミュリッタにもその声は届いていた。
本当はもう言葉を交わすつもりはなかった。これ以上話したら決意が揺らいでしまいそうだったから。
でもエナンの絶叫がミュリッタの心を揺さぶった。
そして気が付いた、自分は既に邪神の力に取り込まれかけていたのだという事に。
よくもやってくれたな・・・ミュリッタは再び闘志が燃え上がってくるのを感じていた。
「うん・・・エナン、ありがとう! 目が覚めたわ。」
「本当? もう、大丈夫?」
「ごめんね、私邪神の力に取り込まれかけてた。やられたわ・・・でももう大丈夫だから!!」
生気を取り戻したいつものミュリッタの声が響いた。
「じゃあね! 行ってくる!!」
ミュリッタとの会話は終わった。
だがエナンは居ても立ってもいられない様子で歩きまわりながら、ぶつぶつと何かを呟いていた。
『ミュリッタちゃんを助けないと・・・何か出来ることを探さないと・・・』
その呟きを聞いたアルテは持てる力を総動員してその願いを実現する手段を模索していた。
さっきの会話はエナンのみならずアルテやラブダにまでしっかり聞こえていた。
そしてアルテもエナン同様、人の身で邪神に挑もうとするミュリッタの姿に魔導皇帝ルゥの面影を重ねてしまったのだ。もはや他人事で終われるはずもなかった。
まずアルテはエナンによって補充された館の膨大な魔力を使ってミュリッタのように周辺地域を索敵した。そして邪神が顕現した位置を特定するとその周辺の状況を確認していく。
邪神が顕現したのはレタリス川の川底だった。川といってもレタリス川の水深は深い。少し川幅の広くなるカエルラ付近でもその水深は50メートル近くあった。
その川底に巨大な肉塊のような不気味な姿があった。無数の邪霊を触手のように全身から生やしたスライムのような形を定めぬ化物。その身にまとう冥界の瘴気からは無数の死霊達が現世に這い出そうとしていた。
ガルドーが余計な事をしたせいで開かれた新たな冥府魔道。ガルドーが滅びた事で邪神はそれすらも我が物とするに至っていたのである。
状況はすでに深刻であった。そしてそれに輪をかけて問題だったのが邪神の出現位置だ。
出現地点への館からの距離は約3キロメートル。邪神はこの館からレタリス川までのほぼ最短距離の地点に顕現していたのである。
邪神に何かしらの力を発動されればすでに射程内になっている可能性すらある距離であった。
それを確認したアルテは急いでエナンに現状を伝える。
「レタリス川までの最短距離の場所・・・取水口を開けようとしていた辺りなんですね。」
「あっ!・・・・・」
「えっ!?・・・・・」
「それ! 使えますよ! エナン様!!」
「何・・・何を?」
「ちょっと待ってて下さい。すぐ持ってきます!!」
突然何かを思いついたようなアルテが館の中へ駈け込んでいくのを呆然と見送るエナン。だが間を置かず再び先ほど感じた悪寒を覚えるような不快な波動がエナン達を襲った。
それはミュリッタが邪神と会敵した事を示す開戦の狼煙であった。
「このっ!! さっさとそこから出てきなさい! このイソギンチャク野郎!!」
触手と化した無数の邪霊をあしらいながらミュリッタは光球を水中に叩き込んでいた。
既に辺りは邪神から滲み出た冥界の暗黒の霧によって光は失われ、目視ではレタリス川の水面すらおぼろげにしか見えていない。その水中にいる邪神の姿など当然見える訳はないのだが、ミュリッタは魔力を展開することでその存在ははっきりと知覚していた。
正直吐き気がするほど気持ちが悪い。魔力を通じて邪神に触れる事が不快でたまらない。邪神も同様にミュリッタの事を認識し、水中から触手を伸ばして襲い掛かる。
相手が水中ではなかなか有効な攻撃が出来ないミュリッタは這い出てくる死霊の排除と暗黒の霧の中和のために大量の光球を水中に叩き込みながら次の手を模索していた。
邪神本体は川底に根が生えたように張り付いて全く動こうとしない。再び道が開けた冥界から大量の負のエネルギーを放出し、徐々に周囲を侵食し始めていた。
『まずい・・・このままだと本当にレタリス川を取り込みかねない。』
光球でいくら暗黒の霧を中和しても浸食はとまらない。ミュリッタはなんとか邪神をその場所から引き離そうと必死に状況を打開する方法を考えていた。
『この水深と急流では直接魔法を当てようにも大幅に威力を削がれてしまう。ならば間接的に当てればいいだけのこと!』
ミュリッタは急上昇して一旦邪神との距離を取る。200メートル程上昇すると川岸の断崖絶壁の上に立った。
「自分の力で成せぬのであれば、神羅万象全ての力を利用しろ・・・だってね!!」
ミュリッタの足元の岩壁が白く輝きだす。対死霊の力を岩に込めながらミュリッタは叫ぶ。
「そこから動きたくないなら、潰れなさい!!」
その言葉と共にミュリッタの足元の岩が割れた。一辺30メートル程の亀裂が岩壁の上に走ると、ミュリッタの立っていた場所を中心とした三角形の領域が崖から切り離された。
それは高さ50メートルはあろうかという巨大な三角錐の形をした槍の穂先となって真下に居座る邪神目がけて落下を始める。
「岩ごと落ちるって結構スリルがあるわよね! エナン!!」
ミュリッタは好戦的な笑いを浮かべながら岩の上に立ったままその軌道を制御する。
200メートルもの落差を使って加速する岩塊を、凄まじい魔力で水流も考慮した邪神への最高の落下軌道に乗せる。
「さあ! どうするか見せてみなさい!!」
ミュリッタは最後にそう叫ぶと岩から離れて空中へと舞い上がっていった。
その直後、岩塊は轟音を立ててレタリス川に落下すると、その水流すら物ともせずに水中の邪神の真上に突き刺さったのだった。
邪神が巨大な咆哮をあげた。
それは音ではなく強大な殺意を持った波動として拡がっていく。エナンが感じた波動はこれであった。
そして、それはミュリッタにとっては確実に邪神に対してダメージを与えた事を確信させるものであった。
『よし! 効いた!!』
ミュリッタはガッツポーズをするとすぐに次の行動を開始する。これならいける。岩ならまだいくらでもあるのだから・・・と考えた時だった。邪神の様相が一変する。
ミュリッタの叩き込んだ巨岩の槍は間違いなく邪神の体を貫いていた。膨大な質量が200メートルも上から落下する事によって生まれた巨大なエネルギーは邪神の存在すら揺るがす一撃となり、現世に顕現した邪神の肉体に看過出来ないほどの大ダメージを与えていた。
ヌメヌメとしたぶよぶよの肉塊のようなその巨体を貫き、川底にまで突き刺さった巨岩がゆっくりと傾き倒れていく。そしてその巨岩の下敷きになった邪神の肉体は踏みつぶされた風船のように歪に膨れ上がると、ついに限界を超え、破裂した。
凄まじい爆発が一瞬、レタリス川の急流さえ吹き飛ばし川底を露わにする。それと同時に邪神の体内に貯めこまれていた大量の闇が飛び散り、一瞬で周囲は暗黒に染まる。
・・・そして悪夢が現れた。
破裂した邪神の肉体。それは言うなれば邪神の胃袋であった。
それは生死を問わず数多の魂を喰らい続けて膨れ上がった邪神の餌袋であり、そしてそれは真なる復活のための肉体を生み出す為の胎盤でもあった。
そしてその中にそれは居た。胎児の如くその袋の中で餌を喰らい続け、昔日の力を取り戻さんと実体を結びつつあった冥王の射影。現世における死と恐怖の象徴。
まだ完全な復活にはほど遠かったが、かつての『深きもの』の形を取り始めた巨大な鉤爪を持った巨人の上半身のような漆黒の闇が、破裂した肉塊の中から頭をもたげていた。
その闇の巨人が自分の上にのしかかる巨岩に向かってその鉤爪を一閃すると、岩は一瞬で粉々になって吹き飛んだのだった。
そして邪神の餌食となる運命から逃れはじけ飛んだ胃袋の中身の残りは、現世に解き放たれた大量の邪霊となって四方へと散り、一斉に新しい魂を喰らうために人の気配がある方向、カエルラの方へと飛び去っていく。破裂と共に大量にまき散らされた冥界の霧に阻まれ、もはやミュリッタの光魔法ではそれを止められない。
ミュリッタは自分にも襲い掛かってくる大量の邪霊と真の姿を現した邪神を前に守りに回る事になってしまったのだった。
幸いまだ邪神は喰い足りないのか、ミュリッタを無視して触手を伸ばすと逃げ出した邪霊達を片端から捕食していた。
今の邪神は無数の触手の生えた肉塊の上に巨人の上半身が生えているような恰好になっていた。さながらタコ巨人といったところである。
そして邪神はこれでもまだ川底から動こうとはしなかった。
爆風で露わになった川底を再びレタリス川の流れが覆い隠していく。だがミュリッタは防御の結界を張り光魔法で邪霊と闇を払うので手一杯でそれをただ見ている事しか出来なかった。
「直接魔法を叩き込む千載一遇のチャンスだったのに・・・」
無念さを滲ませてミュリッタは呻いた。
常識外れの彼女の魔力にも消耗の影が見え始めていた。いつまでも邪神と消耗戦を続ける訳にはいかないのだ。それはミュリッタだって分かっている。
まだミュリッタにも奥の手は残されていた。だがそれを使える条件が整わない。
レタリス川から邪神を切り離し、力の源を絶たなければどれだけ攻撃しても邪神を消滅させる事は出来ない。魔力で魂を消し去る事は不可能なのだ。ならばどうやって邪神を葬るのか。
ミュリッタは邪神と戦うと決めるより遥か昔からその答えを探し続けていた。
魔力は魂に干渉出来ない。それは例え邪神の魂であろうと同じである。
死霊はその魂に宿る思念から絞り出す魔力によって現世に干渉する。
神々はその象徴たる力の根源から神力を生み出し世界に干渉する。
つまり神とはその存在の宿す象徴と表裏一体の存在であるとミュリッタは結論した。つまり神々の思念とは象徴たる力の根源と同質のものであり、故にその象徴たる力の根源より力を生み出せるのだと。
神の思念とは象徴。いや、『その象徴を渇望する願望』であると。
つまり『死と恐怖の象徴たる邪神』とは、誰よりも激しく『死と恐怖』を求め続けた魂のなれの果てであるという事である。それは他人の絶望を望み求め続けたガルドーが絶望の象徴たる邪神へと変貌したのと同じ理屈であった。
ならば、邪神からその象徴を完全に奪えば良いのだ。
その魂が渇望するものの全てを失った時、その魂に訪れるもの。それは『絶望』である。そう、絶望した魂は弱い。いかな強大な魂であろうと容易く食われてしまうように。
その渇望が神へと昇華するほどに純粋であるが故に、それを失った時、その魂は自我を保つ事も出来ず自壊するしかないのである。
たとえ自壊せずとも、ミュリッタのような凡人の魂にさえ容易く突き崩されてしまうだろう。
それはかつてルゥがあの地底の宮殿で100年をかけて編み出した秘術と同じ結論であった。
そう、たとえ人の身であろうとも神を倒す方法が無い訳ではないのだ。それを実行出来る状況さえ整えられれば・・・とミュリッタが心の中で歯軋りをした時だった。
遮断していたはずのエナンのペンダントを通じて、突然頭の中に声が響いてきた。
「ミュリッタさん! もう少しだけ持ちこたえて下さい、援護します!!」
それはエナンではなくあのおっぱい魔人、アルテュストネの声であった。




