幕間・アレクシスの覚悟
リリアの部屋を出た後、アレクシスは廊下の窓辺で立ち止まり、窓枠に手をかけた。
(彼女の記憶が……欠けている)
心臓が締め付けられる思いだった。《シャトレー亭》での思い出だけではない。白銀狐のコートを贈ったことも、覚えていない。
「《シャトレー亭》ってどこにあるんですか?」
あの無邪気な問いかけが、胸の奥に刺さったままだ。あの目を見た瞬間に、分かってしまった。ふたりで過ごしたあの温かな時間が、虚空へと溶けていくようだった。
「……ふぅ」
窓の外を見上げると、木々が風に揺れている。雨雲が遠くから近づいてきているようだった。
セラフィムの一件以来、王国は大きく揺れていた。神殿の崩壊と《老化症》の真実が明るみに出たことで、国民の混乱はまだ続いている。アレクシスは宰相として王宮に戻り、レオンハルトとともに事後処理に追われる日々だ。王権監査機関の設立、神殿との新たな協力体制の構築――やるべきことは山積みだった。
(だが……)
忙しさの隙間に、その重さが静かに戻ってくる。
リリアが【時間逆行】の限界を超えた時、記憶を失っていく。その事実に気づいた時、口の中に苦いものが込み上げてきた。
(――二度と、あんなリスクは冒させない)
アレクシスは東翼の政務室へと向かった。
机の上には膨大な文書が積み上がっている。国庫改革案、神殿の新憲章草案、外交再編計画。セラフィムが支配していた時代の遺産整理は、途方もない作業だった。
椅子に腰かけ、ペンを取る。しかし視線は文書の上を滑るだけで、思考は別のところへと向かっていた。
書類の束の中に、リリエール子爵領の管理計画書があった。リリアの領地だ。彼女が望むなら、春になれば領民に会いに行けるだろう。その未来を思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
明日、リリアに伝えなければならないことがある。
「黒色の領域への【時間逆行】は、二度としないでほしい」
どう言えば伝わるだろうか。彼女の優しさを傷つけるような言葉を探しながら、ペンが止まった。それでも彼女を永遠に失う恐怖には、比べものにならない。
「リリア……君の力は、神の領域に触れすぎている」
ペン先がゆっくりと紙の上を滑る。王国宰相としての義務と、一人の男としての願いが絡み合う。どちらも、譲ることのできない道だった。
窓の外から明るい陽の光が差し込んでいた。王国の秩序はまだ揺らいでいる。アレクシスはその舵取りを担う立場にある。しかし同時に、リリアという存在が、彼の内なる羅針盤となっていた。
(これから先、何が待ち受けていようとも)
アレクシスはペンを置き、顔を上げた。
「彼女を守り抜く。それが私の選択だ」
リリアの能力を悪用しようと狙う者、奇跡として利用しようとする勢力は、これからも必ず現れるだろう。彼女には記憶を失っていることを伝えるつもりはない。伝えれば、彼女は自分を責めるだろう。それだけは避けたかった。
戻れない過去はあっても、未来は自分たちの手で創ることができる。そう信じて、アレクシスは再び執務へと向かった。
遠く、王宮の鐘楼から朝の調べが聞こえてきた。
新たな時代の序曲のように響くその音色を耳にしながら、アレクシスは誓った。
(どんな代償を払っても――彼女の未来を護る)
その決意だけは、揺らぐことがなかった。




