第20話 奇跡の代償
暖かな陽だまりの感触と薬草の香りで、リリアは目を覚ました。
白い天井。柔らかな寝具。枕元に、アレクシスがいる。
「リリア」
彼の声がわずかに震えていた。
「アレク様……良かった。ご無事だったんですね」
リリアは微笑んだ。全身が鉛のように重いが、確かに生きている。
「あんな無茶をするなんて……君は三日間眠り続けていたんだぞ」
「まあ、三日も?」
驚いて目を見開くと、アレクシスが水を注いで差し出してくれた。数口飲むと、少しだけ体に力が戻ってくる気がした。
「今は何日の何時ですか?」
「三日目の午前十時過ぎだ」
アレクシスがベッドサイドの時計を見やすい位置に持ち上げてくれる。
(あれから三日も……)
「アレク様、お体は大丈夫なんですか?」
「問題ない。君のおかげで完全に治癒している。むしろ以前より健康かもしれないくらいだ」
その声には力強さがあった。
「本当に良かったです」
リリアは深く息をついた。
その時、ドアがノックされた。入ってきたのは王太子レオンハルトだ。穏やかな微笑みを浮かべ、リリアに深く一礼する。
「ようやく目が覚めたんだね、リリア。叔父上から知らせを聞いて飛んで来たよ。……どうしても謝りたくて」
「謝る……私にですか?」
「ああ。本当に申し訳なかった。私はセラフィムの甘言に乗せられてしまった。王位を継承するためにはリリアが聖女になるしかないと吹き込まれて……誘拐という行為に手を貸してしまったんだ。卑劣な手段と知りながら、弁明の余地はない。あなたを危険な目に遭わせてしまった」
「レオンハルト様……」
以前とは違う、誠実な物腰だった。リリアはそっと頷いた。
「少し眠っているあいだに色々と動きがあったんだが……叔父上から説明は?」
リリアが首を振ると、レオンハルトはアレクシスに目配せしてから続けた。
「それなら私から話そう。大司教セラフィムは、《老化症》を神の試練と偽り民を欺いた罪、聖女や信徒の生命力を違法に搾取した罪、国王陛下と叔父上への謀反、そして王太子である私を唆して国家転覆を企てた罪により、王宮地下最深層の独房へ幽閉されることになった。神官位と称号はすべて剥奪の上、魔力も封印されてね」
「そうですか……」
とても許されることではない。相応の処罰だろう。
「悪事に関わっていた枢機卿や上級神官は世俗裁判にかけられる。財産没収の上で追放か、強制労役になるだろう。神殿から証拠も続々と出てきているから、逃げられない。ただ下級神官のほとんどは不正を知らなかったため、釈放されている」
「それなら良かった。全員を罰する必要はありませんから」
「魔導炉は封印される。《老化症》を生み出したあの機構はもう不要だ。今後は王権監査が導入されて、神殿は国家機関の一部となる。聖女制度も見直されることになった」
「聖女……そういえば、セレスティナ様はどうなりましたか?」
神殿が崩れる時に彼女を確認できなかった。もし亡くなっていたら――と思うと、心が暗くなった。
「衰弱していたが、大きな怪我はない。今は王宮で療養しているよ。本来であれば《老化症》の実行犯として罰を逃れられないところだが……彼女は孤児でセラフィムに買われ、【神威支配】によって長年洗脳されていた。自力で逃れることのできない状況でもがき続け、洗面所に聖女の証である金板をわざと残した。そういった事情が考慮されて、神殿内部の告発者になることを条件に無罪放免となった。王宮の監視下には入るがね」
「無罪放免になって、本当に良かったです……」
リリアはほっと肩の力を抜いた。
「彼女の本当の名前も捜したいと思っている。セレスティナは名乗り名らしいから。幼少期に奴隷商人からセラフィムに買われ、【生命共鳴】というスキルを持っていたために聖女として育てられたそうだ。触れた者の生命状態を感知できる能力で、病や呪い、衰弱を見抜けるらしい。その力を神殿に利用されてきた」
リリアは顔をしかめた。
(そんなことが……)
それなら、公爵邸でリリアに触れた時、彼女は何かを感じ取っていたのかもしれない。だからこそ、あの怯えた目の意味が今になって分かる気がした。
「今後は王宮から食事と医療が提供される。彼女の能力を別のことにも活かせるよう、きちんと仕事も与えるつもりだ」
それなら、セレスティナはこれから新しい人生を始められるだろう。
「そして最後に、私自身のことだけれど……」
レオンハルトが重々しく咳払いをした。
「セラフィムに騙されていたこと、そして神殿関係者への告発証言者になったことで、王位継承権は保持されることになった。しかし私に王としての素質はない。だから叔父上に王位を譲ろうと思っている」
「何を言っている! レオンハルト」
それまで黙って聞いていたアレクシスが顔色を変えた。
レオンハルトは覚悟を決めた男の顔で笑う。
「叔父上の方が王にふさわしいと皆が言う。私が焦ってしまったのも、それが理由だったんだ。そんな私に王になる資格はない」
「最初から完璧な人間などいない。間違いに気づいて、正して、成長していけばいい。私はお前の努力を見てきた。政務に励み、怠慢にならず、地道に積み上げてきた。それだけで十分な資質だと思っている。自分を責めてすべてを投げ捨てるのは違う。今までの努力を無駄にしてほしくない」
アレクシスの言葉に、レオンハルトは目を潤ませた。
「叔父上……」
「それに今回の件でよく分かった。レオンハルトの方が王の器だ」
「どういうことですか?」
リリアが尋ねると、アレクシスは穏やかに続けた。
「神殿崩壊で多くの混乱が生じたが、死者は一人も出ていない。レオンハルトが迅速に動いてくれたおかげだ。神殿の不正を暴き、処罰を早々に決め、国を混乱から救ったのはお前だ。私は裏方のサポートをしたに過ぎない」
「あれは叔父上が指示してくれたから……」
「いや。今回の騒動をまとめ上げたのはお前の力だ」
レオンハルトは少し照れた様子で俯いた。
リリアはそのやり取りを眺めながら、ふとアレクシスのことを思った。あの薄暗い寝室で、白髪の老人として横たわっていた人が、今は宰相として次の王を支えようとしている。人はこれほど変わることができる。いや――変わったのではなく、本来の姿に戻ったのかもしれない。
「これからも宰相として、次の王になるお前を支えたいと思っている。頼んだぞ、レオンハルト」
「……は、はい!」
レオンハルトの目が輝いた。その表情はすっかり晴れやかだった。
「今回の騒動を経て、改めて自分が何を成すべきかが分かりました。民の幸せを第一に考え、国の未来を憂う王に。そのための土台を積み上げていきます」
「素晴らしい目標だ」
アレクシスが微笑むと、レオンハルトは照れくさそうに頬を染めた。
「それでは失礼します」
部屋を出ようとした扉の向こうで「きゃっ」と声がした。
覗いてみると、廊下に立っていたセレスティナが驚いて尻もちをついている。
「大丈夫かい?」
レオンハルトが助け起こすと、セレスティナは青白い頬を赤らめ、俯いて「ありがとうございます」と小声で言った。
「あの……リリア様が目を覚ましたと聞いて……少しお話がしたくて。迷惑でなければ……」
アレクシスがリリアを見た。リリアが頷くと、レオンハルトが言う。
「では私は外に出ているよ。叔父上、一緒に王宮内の見回りに行きませんか? 今回の騒動で兵士たちも疲弊しているので」
「ああ、行こう」
ふたりは退出した。
◆
静かな室内で、セレスティナはソファに腰を下ろし、躊躇いがちに口を開いた。
「……ずっと謝りたいと思っていたんです」
「謝られる理由など……あなたはあの大司教に操られていたのでしょう?」
セレスティナはかぶりを振った。
「【神威支配】によって精神を縛られ、思考の自由さえ奪われていました。人形のようになって、罪を犯しても良心の呵責が薄れていく……そんな日々が続きました。けれどあなたの前では自我が戻ってくるのを感じていました。あの日、あなたに触れた時に……何かスキルを使いましたか? 体の痛みがなくなったので」
「あっ」
リリアは公爵邸で彼女と触れた時の違和感を思い出した。
「……もしかすると、無意識にスキルが発動していたのかもしれません。あの頃はまだ力が不安定で、うまく制御できていなくて……」
セレスティナは微笑んで首を振った。
「いいえ。おかげで体の痛みが和らいだんです。魔導炉に生命力を流し続けていたせいで、私はずっと体の調子が悪かった。あなたが意図せずしてくれたことでも、私は救われました。……そしてあの男の所業を白日のもとにさらしてくださった皆様に、心から感謝しています」
「あなたが救われて良かった」
リリアは微笑んだ。それから、少し躊躇ってから尋ねた。
「これから……どうしたいですか? 何かやってみたいことや、行ってみたい場所はありますか?」
セレスティナは驚いたように目を見開いた。そんなことを聞かれたことがなかったのかもしれない。しばらく黙ってから、静かに言った。
「……まだ、分かりません。考えたことがなかったので」
「それなら、ゆっくり考えればいい」
リリアはそっと彼女の手を握った。「急がなくていい」と、かつて誰かに言ってもらいたかった言葉を、今度は自分が言えた気がした。
◆
しばらくして、アレクシスが戻ってくると、入れ替わりにセレスティナが席を外した。
アレクシスはリリアをベッドに座らせ、布団をかけた。
「三日間意識不明だったんだ。今日は無理せず休みなさい」
「はい……」
「元気になったら公爵領に戻ろう。そしてまた《シャトレー亭》でケーキを食べないか?」
リリアの表情が明るくなった。
「わあ、良いですね。……《シャトレー亭》って、どこにあるんですか?」
アレクシスの表情が、一瞬だけ大きく歪んだ。すぐに取り繕うように笑みを作ったが、その目だけは笑っていなかった。
「……一緒にデートした場所だよ」
「えっ? そんな思い出の場所なら絶対に忘れないはずなのに……」
リリアは首を傾けた。なぜ思い出せないのか、自分でも不思議だった。
「……きっと混乱しているだけだよ。それと、君の白銀狐のコートは洗ってクローゼットにかけてあるよ」
「まあ、そんな素敵なものを私にくださったのですか?」
アレクシスは少し表情を固くして、黙り込んだ。
「……いや、ゆっくり休んでくれ」
ゆっくりと部屋を出て行く彼の後ろ姿を、リリアはしばらく見つめていた。
(……何だろう。大事なことを忘れているような気がする)
その違和感に首を傾けながらも、急に訪れた睡魔には抗えなかった。リリアはゆっくりと目を閉じた。
何かが、少し、変わってしまったのかもしれない。




