第19話 限界の向こう側
「ようこそ。聖域へ」
大司教セラフィムが恭しく言った。
そこはもはや「地下」という言葉では足りない空間だった。
天井は高く、地上の大聖堂と同等――いや、それ以上に広がっている。半円状に湾曲した天蓋には無数の魔法陣が刻まれており、白金色に淡く発光する神聖文字がゆっくりと回転していた。その光は柔らかく、祈りの場を思わせる。しかし、どこか冷たい。
床は円形で、中心へ向かって幾重にも同心円を描くように段差が設けられており、まるで古代の闘技場か、祭壇を囲む観覧席のようだ。
円の中央には穴の開いた巨大な祭壇があり、その中には光り輝く《魔導炉》の下半分が鎮座していた。無数の金属製フレームと魔力導管が絡みつくように取り巻き、光球の内部では淡い光が脈打つように明滅している。まるで、生きている心臓のようだった。
白大理石で覆われた壁のそこかしこには亀裂が走り、隙間から黒紫色の魔力残滓が滲み出している。
リリアは喉の奥に焼けつくような痛みを感じた。空気が淀んでいる。息を吸うたびに肺が錆びるような感触がした。神聖と冒涜が無理やり同居させられた空間だった。
上段の回廊には枢機卿たちが立ち並び、下界を見下ろすように配置されている。その背後には巨大なステンドグラス。描かれているのは、時を司る女神だ。しかしその表情に慈愛はなく、感情が削ぎ落とされた無機質な目が、こちらを見下ろしていた。
魔導炉から伸びる管の先には、いくつもの《祈祷座》が並んでいた。白い石で造られた椅子に、白衣を纏った女性たちが座っている。瞳は虚ろで、足元から淡い光の筋が魔導炉へと流れ込んでいた。
リリアは慄いた。
「生命が……吸われている……?」
「その通り。これは《生命力抽出装置》だ。《老化症》の正体だよ。聖女を通じてこの魔導炉に生命力を溜め込む」
大司教セラフィムがにやりと笑った。
「なぜ……そんな真似を!」
リリアは震える声で言った。
「この世を統べる力を得るために必要なものは何か、分かるかね? 『時間』だよ。人の寿命と記憶を弄べる力こそ、真の支配に必要なのだ。この魔導炉こそが時の女神と交信する鍵。我々は神の奇跡のため民衆から生命力を奪い、時の女神の完全な依代を完成させ、女神を降臨させる……!」
セラフィムの瞳が狂気じみた光を帯びた。その目には、怒りではなく確信があった。
「神が地上に降り立つ時、人々は等しく救われる。腐敗した王家に代わって、この世界の秩序が再構築されるのだ。死んだ者でさえも――救えるはずだから」
最後の言葉だけ、わずかに声が揺れた。
「そんな……!」
「人々の命を糧にして神を降臨させようだなんて! こんなもの奇跡でも理想郷でもない。人の犠牲の上に成り立った、ただの残虐だわ!」
セレスティナが咳き込んだ。その紫の瞳が絶望に染まっている。
「やめてください……リリア様を巻き込まないで!」
セラフィムが嘲るように指を鳴らした。
「お前の役目は終わった。真の聖女が来たのだから」
言葉と同時に、魔導炉から伸びる金属の管が蠢き始めた。鋭利な先端がリリアへと向かってくる。
「やめてっ!」
反射的に叫んだ瞬間――壁に亀裂が走り、粉塵とともに閃光が爆ぜた。白銀の剣光が闇を裂く。飛び込んできたのはアレクシスだった。黄金の鎧に身を包み、疾風のごとく舞い降りると同時に長剣を振り下ろし、リリアを絡め取ろうとしていた管を切断する。
「リリア!」
声が安堵と焦りに震えていた。すぐさまリリアを背後に庇う。
「無事だったか。よかった……」
「アレク様……!」
胸に温かなものが込み上げた。しかし安堵も束の間、別の足音が響いた。レオンハルト王太子だ。
「セラフィム……ここで何をしている?」
レオンハルトは困惑の表情で周囲を見渡し、衰弱した女性たちの姿に目を疑っていた。
「これは……なんなのだ?」
「ご覧の通りですぞ、王太子殿下。国家と王家の繁栄の礎。先祖より受け継いだ秘儀にございます」
「騙されないで! 王太子殿下! セラフィムはこの装置を使って人々から生命力を奪い、《老化症》にしていたんです!」
レオンハルトの顔が蒼白になった。
「まさか……父上や叔父上が患っていた《老化症》の原因が……」
「その通りでございますとも。貴方の母君も妹君も、この装置のおかげで『若さ』を保ってきたではありませんか」
その瞬間、レオンハルトの目に鮮烈な記憶が蘇った。十歳の頃、突然倒れた末弟。医師が「不可解な衰弱」と診断したが、ずっと何かが引っかかっていた。今この瞬間、合点がいった。
「弟を殺したのも、お前たちなのか……! 私はずっとお前に騙されていたのか。お前の言う通りにすることが神の意志だと信じて……リリア様を連れてくるようにそそのかされて……!」
王太子は両手で顔を覆った。
「甘言で動かされた私が、王宮の聖門を繋いでしまったのか……!」
「今さら気付いても遅いのですよ」
セラフィムが指を鳴らした。空中に複数の魔法陣が展開され、枢機卿たちが杖を掲げる。
「真実を知った者たちには、消えてもらいます!」
雷撃が迸った。アレクシスがリリアの手を引いて跳躍する。背後の枢機卿が悲鳴を上げて倒れた――アレクシスの投擲ナイフが胸を貫いていた。
「囲め!」
十数人の黒衣の男たちが三方から襲いかかる。アレクシスは長剣を抜き、嵐のような連続斬撃を浴びせた。火花が散り、しかし人数不利は覆せず、左腕に深手を負う。
「アレクシス様!」
リリアの叫びに応じる余裕もない。背後に巨漢の枢機卿が迫った刹那――王太子の剣がその一撃を受け止めた。
「殿下!?」
レオンハルトの眼差しはもはや惑うものではなく、真の守護者として輝いていた。
「私の過ちを、今ここで清算する。セラフィム、覚悟せよ!」
不利を悟ったセラフィムが逃走を試み、壁面の制御盤に掌を翳した瞬間――
「逃がすか!」
レオンハルトが放った斬撃が制御盤ごと大司教を弾き飛ばした。白大理石の柱に激突し、セラフィムは動かなくなる。
しかし制御盤は機能を維持していた。魔導炉から凄まじい衝撃波が発生し、全体が脈動を始める。
光球が低く唸り、その響きが四方に広がった。時を刻む音のように、一定のリズムで。そして光が急速に収縮し始めた。
その直後、壁が崩れ始めた。天井から瓦礫が雨のように降り注ぐ。リリアが聖女たちを庇おうと駆け出した瞬間、足元が抜けた。
「床が……っ!」
「危ない!」
アレクシスがリリアを抱きかかえた。しかしその背中に崩れた石材が叩きつけられる。肉を抉る音と悲鳴が混ざり合った。
「アレクシス様!?」
深手を負いながらも、アレクシスは走った。血が滲む背中を見ながら、リリアは叫ぶことも泣くこともできなかった。この人はまだ動ける、動こうとしている――その事実が、かえって恐ろしかった。騎士たちが合流し、聖女たちを運ぶのを任せながら、アレクシスは地上へと駆け上がった。
地上に出ると、アレクシスは力尽きたように地面に崩れ落ちた。顔色は蒼白で、息も浅い。
「アレク様! しっかりして!」
傷口が深い。指の隙間から血が溢れ、止まらない。失われていく体温を感じて、リリアの目から涙がこぼれた。
「君が無事ならそれで良い……」
絞り出すような声が漏れた。
「冗談じゃありません! あなたを置いていけるわけがないでしょう!」
「リリア……君を失いたくない……」
「私こそ、あなたを失いたくない。あなたがいない人生なんて考えられないんです!」
その時、脳裏に【時間逆行】が浮かんだ。
(アレク様の時間を戻せば、傷が癒えるかもしれない……!)
「【時間逆行】――!!」
意識を収束させ、叫んだ。体内を熱が奔る。目の前に浮かぶ巨大な文字盤は黒色――これまで踏み込んだことのない領域だ。
秒針が逆向きに動き始めた。時間が巻き戻る。アレクシスの身体が光に包まれた。
「……傷が癒えている!」
駆けつけた騎士たちが驚きの声を上げた。確かに皮膚が再生されていく。しかし時間が巻き戻るにつれ、リリアの額に脂汗が浮き、視界が砂嵐へと変わっていった。
「これ以上はやめろ、リリア……! 君が持ちこたえられない!」
アレクシスの叫びが遠く聞こえる。
「嫌です。あなたを失うくらいなら、私がどうなろうとかまわない!」
まだ治癒は終わっていない。
アレクシスの輪郭が光の中に溶けていく。時間がさらに巻き戻り、傷跡が消え、活力に満ちた姿へと変わっていく。
(良かった……アレク様を救えた)
そう安堵した瞬間、リリアの意識は深い闇の中に沈んだ。
空には、夜明けの光がひそかに広がり始めていた。




